北沢方邦の伊豆高原日記【73】
Kitazawa, Masakuni
寒さはきびしいが、早咲きの白梅は満開で、朝の陽光を受けたたたずまいも、夕闇に仄白く妖しく浮かぶさまも、そこはかとなく心をときめかせる。庭の水仙もほとんど満開で、強い香りを放っている。冬景色のなかに春のきざしを告げる使者たちである。
近代個人主義を問う
先日(1月21日)NHKの「クローズアップ現代」を見て、さまざまな疑問が湧いてきた。それは、派遣切りなどでホームレスとなった30代の若者を追跡したドキュメントで、彼らの多くが現在の自分たちの置かれている状況を「自己責任」ととらえ、社会の支援を求めていないことを問題にしていた。彼らの相談や支援に当っているヴォランティーアの牧師さんの話は説得力があり、他方同じ30代の作家というひとの意見はまったくいただけなかった。だがいずれにせよ、そこには戦後教育(学校・家庭を含め)の問題、ひいては近代社会に内在する深刻な問題があり、それを解明することは、同時に近代文明の転換の方向性を明らかにすることであるのに気づくにいたった。
つまり、先日このフォーラムの「生殖倫理」セミナーでも問題となったが、「自己決定権」「自己責任」「自己主張」など、近代個人主義の諸概念に対する疑問である。
きわめて単純に考えても、仕事をしたいのに職がない、という状況が「自己責任」ではなく、社会や政治の責任であることは明らかだが、そうした錯覚を抱く意識を育てた教育や社会はなんであったのか?
たびたび繰り返してきたが、1970年代後半から世界を支配してきた新保守主義・新自由主義体制とイデオロギーは、「公共の福祉」を主柱にしてきた戦後リベラリズム・ケインズ主義を廃棄し、競争による市場原理や個人の自己責任(いわゆるセルフヘルプ)を経済や社会の主柱としてきた。それによって数十年にわたり醸成されてきた社会の雰囲気や教育体制が、こうした錯覚を抱く若者たちをはぐくんできたのだ。
だが徹底した金融自由化や金融工学によって世界を制覇しようとした経済グローバリズムが資本主義の究極の形態であり、近代文明のラディカルな表現であったように、この「自己責任」「自己決定権」「自己主張」のイデオロギーや教育は、近代文明を支える近代個人主義のラディカルなあらわれにほかならない。
わが国の憲法も、「幸福追求の権利」などを明記し、一見こうしたイデオロギーを補強しているようにみえる。だが、この憲法第十三条も「公共の福祉」を前提としていることを忘れてはならない。公共性と個人主義は両立するのか?
ラコタ族の個人主義
私の知っているホピの社会はあまり個人主義的ではなく、昔のわが国と同じく共同体意識、つまりここでいう公共性の意識の方が強いが、かつての戦士諸部族、とりわけラコタ族などの強烈な個人主義が思い起こされる。
かつて戦士諸部族は、なかば儀礼ではあったが、部族間戦争を定期的に行っていた。母系制ではあったが、男たちの美徳は勇気であり、笑われることが最大の屈辱であった。戦闘でも、敵の武将を殺すのではなく、その肩を槍や弓で打つこと(フランス語でクーと呼ばれた)が最大の武勲であり、一回のクーごとにいわば勲章として鷲の羽根が授与され、戦闘帽(ウォーボンネット)を飾り、戦闘首長ともなれば背に垂れるほどとなった。
だがこうした社会でも、「今朝夢見が悪かったから、戦争には行かない」といっても非難されることはなく、また戦闘が嫌いなものも、女装して儀礼に尽くすベルダーシュ(これもフランス語)を選ぶこともできた。個人の主張や権利はすべて尊重される。部族にとってきわめて重要なメディスンマン(祭司兼医師)になるのも自己申告制であり、荒野に篭って断食し、自己の守護霊と出会えたものがメディスンマンになることを許されるが、この自己申告には証人も証拠もない。ただメディスンマンの責任の重大さのみが、虚偽を防止する保証である。
だがこの徹底した個人主義(individualism)も、近代個人主義とは決定的な点で異なっている。つまりそこには徹底した集団主義(collectivism)――きわめて誤解を招く用語だが、国連の集団的人権(collective human rights)概念に倣ってあえて使う――があり、両者は不可分だということである。
彼らは部族の宇宙論・世界観を共有し、母系社会の現世の絆(母性原理)と宗教結社の来世の絆(父性原理)に強固に結ばれ、相互に絶対的な信頼関係がある。狩りをした野牛も平等に分配され、儀礼や祭祀に共同で参加し、子供たちは共通の財産としてわけへだてなく育てられる。ここでは個人的アイデンティティと集団的アイデンティティとは不可分である。
いまやラコタの社会も、過酷な歴史と近代化の荒波によって翻弄され、こうした強固な構造は大きく崩壊したが、それでもまだ個人と集団の不可分性などは無意識に残存しているといってよい。
救いはどこにある?
この意味での集団主義が完全に解体してしまった近代社会では、どこに救いがあるのか、あるいは逆にいえば、個人主義はどのように再構築されるべきなのか?
近代社会にも偽の集団主義が多くある。それがナショナリズムやそれと不可分のナチズムやスターリン主義であり、集団的アイデンティティを失った近代人がとかく陥る陥穽だが、いまここではそれを問うまい。
近代社会に真の集団主義を築くとすれば、それはみずからの個人的な選択として、志を同じくするものたちと結びつくことである。かつての社会のように、それは地域共同体とは一体ではないし、地域共同体そのものが近代では失われているが、こうした諸集団の活動は、地域の共同体的意識の再構築にも大きな役割を果たすことになろう。
いま世界的にNGOやNPOあるいは志をもった各種法人など無数の集団が活動しているが、これらは次ぎの時代の先駆として、ここでいう個人主義と不可分の真の集団主義構築に寄与することになるだろう。われわれのフォーラムもそのささやかな一角を担っているというか、あるいは担うようにしたいと思っている。