一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

お知らせ:青木やよひ追悼 レクチャー&リサイタル

2010-01-26 16:53:56 | コンサート情報

遅くなりましたが、コンサートのお知らせです。
青木やよひ追悼 レクチャー&リサイタル
『ベートーヴェンの生涯』を聴く
<悲愴>から <ディアベリ変奏曲>まで
   

演 奏
高橋アキ
お話  北沢方邦 / 西村朗 / 高橋アキ 

ベートーヴェンのピアノ曲の中でも特に難曲と言われる「ディアベリの主題による変奏曲」、聴力喪失というハンディを乗り超え、新たな境地に達したと言われる「悲愴」。この2曲を演奏するのは、現代音楽の名手高橋アキ。さらに作曲家西村朗、音楽社会学者北沢方邦を加えた異色の顔合わせ3人が、新たな視点からベートーヴェンの魅力と人物像に迫ります。

2010年6月13日(日)
13:30開演 (13:00開場)  
津田ホール(JR千駄ヶ谷駅)
一般4000円 学生3500円                                             
主催:知と文明のフォーラム 
協力: 株式会社平凡社  フォニックス・プロモート    
お問い合わせ ご予約 :知と文明のフォーラムchitobunmei@gmail.com        
090-5322-3920 (担当杉山 移動中等で電話に出られない場合がございます。こちらから折り返させていただきますので、メッセージとご連絡先の録音をお願いいたします。)  

    
なお、チケット購入サイト「カンフェッティ」でもチケットが購入できます。
カンフェッティ割引有。もれなくカンフェッティのポイントが付きます。
受け取りはセブン・イレブンで。
http://confetti-web.com/ticket/ticket.asp?G=ch00un38&S=100613
までアクセスしてください。


北沢方邦の伊豆高原日記【73】

2010-01-23 23:31:59 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【73】
Kitazawa, Masakuni  

 寒さはきびしいが、早咲きの白梅は満開で、朝の陽光を受けたたたずまいも、夕闇に仄白く妖しく浮かぶさまも、そこはかとなく心をときめかせる。庭の水仙もほとんど満開で、強い香りを放っている。冬景色のなかに春のきざしを告げる使者たちである。

近代個人主義を問う 

 先日(1月21日)NHKの「クローズアップ現代」を見て、さまざまな疑問が湧いてきた。それは、派遣切りなどでホームレスとなった30代の若者を追跡したドキュメントで、彼らの多くが現在の自分たちの置かれている状況を「自己責任」ととらえ、社会の支援を求めていないことを問題にしていた。彼らの相談や支援に当っているヴォランティーアの牧師さんの話は説得力があり、他方同じ30代の作家というひとの意見はまったくいただけなかった。だがいずれにせよ、そこには戦後教育(学校・家庭を含め)の問題、ひいては近代社会に内在する深刻な問題があり、それを解明することは、同時に近代文明の転換の方向性を明らかにすることであるのに気づくにいたった。 

 つまり、先日このフォーラムの「生殖倫理」セミナーでも問題となったが、「自己決定権」「自己責任」「自己主張」など、近代個人主義の諸概念に対する疑問である。 

 きわめて単純に考えても、仕事をしたいのに職がない、という状況が「自己責任」ではなく、社会や政治の責任であることは明らかだが、そうした錯覚を抱く意識を育てた教育や社会はなんであったのか? 

 たびたび繰り返してきたが、1970年代後半から世界を支配してきた新保守主義・新自由主義体制とイデオロギーは、「公共の福祉」を主柱にしてきた戦後リベラリズム・ケインズ主義を廃棄し、競争による市場原理や個人の自己責任(いわゆるセルフヘルプ)を経済や社会の主柱としてきた。それによって数十年にわたり醸成されてきた社会の雰囲気や教育体制が、こうした錯覚を抱く若者たちをはぐくんできたのだ。 

 だが徹底した金融自由化や金融工学によって世界を制覇しようとした経済グローバリズムが資本主義の究極の形態であり、近代文明のラディカルな表現であったように、この「自己責任」「自己決定権」「自己主張」のイデオロギーや教育は、近代文明を支える近代個人主義のラディカルなあらわれにほかならない。 

 わが国の憲法も、「幸福追求の権利」などを明記し、一見こうしたイデオロギーを補強しているようにみえる。だが、この憲法第十三条も「公共の福祉」を前提としていることを忘れてはならない。公共性と個人主義は両立するのか?

ラコタ族の個人主義 

 私の知っているホピの社会はあまり個人主義的ではなく、昔のわが国と同じく共同体意識、つまりここでいう公共性の意識の方が強いが、かつての戦士諸部族、とりわけラコタ族などの強烈な個人主義が思い起こされる。 

 かつて戦士諸部族は、なかば儀礼ではあったが、部族間戦争を定期的に行っていた。母系制ではあったが、男たちの美徳は勇気であり、笑われることが最大の屈辱であった。戦闘でも、敵の武将を殺すのではなく、その肩を槍や弓で打つこと(フランス語でクーと呼ばれた)が最大の武勲であり、一回のクーごとにいわば勲章として鷲の羽根が授与され、戦闘帽(ウォーボンネット)を飾り、戦闘首長ともなれば背に垂れるほどとなった。 

 だがこうした社会でも、「今朝夢見が悪かったから、戦争には行かない」といっても非難されることはなく、また戦闘が嫌いなものも、女装して儀礼に尽くすベルダーシュ(これもフランス語)を選ぶこともできた。個人の主張や権利はすべて尊重される。部族にとってきわめて重要なメディスンマン(祭司兼医師)になるのも自己申告制であり、荒野に篭って断食し、自己の守護霊と出会えたものがメディスンマンになることを許されるが、この自己申告には証人も証拠もない。ただメディスンマンの責任の重大さのみが、虚偽を防止する保証である。 

 だがこの徹底した個人主義(individualism)も、近代個人主義とは決定的な点で異なっている。つまりそこには徹底した集団主義(collectivism)――きわめて誤解を招く用語だが、国連の集団的人権(collective human rights)概念に倣ってあえて使う――があり、両者は不可分だということである。 

 彼らは部族の宇宙論・世界観を共有し、母系社会の現世の絆(母性原理)と宗教結社の来世の絆(父性原理)に強固に結ばれ、相互に絶対的な信頼関係がある。狩りをした野牛も平等に分配され、儀礼や祭祀に共同で参加し、子供たちは共通の財産としてわけへだてなく育てられる。ここでは個人的アイデンティティと集団的アイデンティティとは不可分である。 

 いまやラコタの社会も、過酷な歴史と近代化の荒波によって翻弄され、こうした強固な構造は大きく崩壊したが、それでもまだ個人と集団の不可分性などは無意識に残存しているといってよい。

救いはどこにある? 

 この意味での集団主義が完全に解体してしまった近代社会では、どこに救いがあるのか、あるいは逆にいえば、個人主義はどのように再構築されるべきなのか? 

 近代社会にも偽の集団主義が多くある。それがナショナリズムやそれと不可分のナチズムやスターリン主義であり、集団的アイデンティティを失った近代人がとかく陥る陥穽だが、いまここではそれを問うまい。 

 近代社会に真の集団主義を築くとすれば、それはみずからの個人的な選択として、志を同じくするものたちと結びつくことである。かつての社会のように、それは地域共同体とは一体ではないし、地域共同体そのものが近代では失われているが、こうした諸集団の活動は、地域の共同体的意識の再構築にも大きな役割を果たすことになろう。 

 いま世界的にNGOやNPOあるいは志をもった各種法人など無数の集団が活動しているが、これらは次ぎの時代の先駆として、ここでいう個人主義と不可分の真の集団主義構築に寄与することになるだろう。われわれのフォーラムもそのささやかな一角を担っているというか、あるいは担うようにしたいと思っている。


おいしい本が読みたい【13】

2010-01-14 16:11:36 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第十三話 

                              故人に捧げたい物語  

     「フランスのある田舎では昔、誰かが亡くなったとき、
                 司祭が蜜蜂にそれをささやき、
               村に野に告げるよう言ったという」  

 去る11月に物故した思想家レヴィ=ストロースを追悼して、港千尋はこんな風習を想起した。司祭だからカトリックのはずだが、どこかケルト文化の残響が感じられる。草深い村落の生活には、いにしえの風俗がかすかに息づいていることもあるだろう。  

 ともかく、わたしはこの挿話を気に入った。誰がどんな形で亡くなろうとも、蜜蜂に伝えられたそのときから、人の死も自然の中のひとつの循環にすぎなくなるかのように思えるからだ。司祭がささやくからには蜜蜂もささやかねばならない。その「蜜蜂のささやき」が伝えてくれる訃報には、人の言葉には還元できないある慰撫する響きがこもっていてもいい。  

 フランスには別の伝承もある。南フランスのポー地方の言い伝えでは、雨上がりの空に虹がかかると、亡くなったばかりの人の霊がそこを渡ってゆくという。これまた、惜別の悲しみを穏やかに中和するような、いくぶん詩的なイマージュを誘う。虹の彼方にある世界への旅、という水平運動には、キリスト教的な上昇と異なる嗜好を読めるような気もする。  

 日本にもこうした伝承は数多あるに違いない。わたしも子供時分に祖母からそれらしき物語を聞いた気がするのだが、たとえば夜汽車の汽笛が聞こえたら魂が…とか、山裾の清水で足をふいて…とか、断片だけがちぎれて記憶に残っているだけで、全体の造形はもうできない。  

 そのかわり、身近な人が亡くなったときに必ず思い浮かべる物語がある。小川未明の『金の輪』である。  

 しばらく病床にあった男の子は小康をえて近所の遊び場にゆく。ふだん子供らで賑やかなそこは不思議に閑散としている。と、二輪車に乗り金の輪を手にした見知らぬ少年が、懐かしそうな笑顔をたたえてやってくる。次の日も同じことがくり返される。そしてその夜、男の子は高熱をだし身罷る。  

 早世の悲劇である。けれども、男の子の死の冷たさは、見も知らぬ少年の、輝く金色の輪と懐かしそうな笑みで、いくぶん和らいでくれる。ひょっとして、男の子の赴く世界に少年が待っているかもしれない。そうでなくとも、金の輪と笑みは、“寒くない”彼方の世界、を希望させる力に満ちているのではないか。

 去る11月、じつは、わたしの恩師のひとりである青木やよひ先生が逝った。わたしは、小川未明のこの物語を思い浮かべながら、伊豆急に揺られた。今はただ、“寒くない”世界をお祈りするばかりである。                               

むさしまる


北沢方邦の伊豆高原日記【72】

2010-01-09 12:56:40 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【72】
Kitazawa, Masakuni  

 大晦日から元日にかけては旧十一月十五日の満月であり、快晴で大気の澄みきった夜空に恐ろしいほどの月光が燦燦と降り注ぎ、海も銀盤のように輝き、大島の黒い影がくっきりと浮かび、寒さも忘れ呆然と見とれてしまった。きわめて稀な光景であった。というのも大晦日に満月などとは、日本の暦では絶対にありえなかったからである。晦日の古語はツゴモリ、大晦日はオホツゴモリで、後者は樋口一葉の有名な小説の題にもなっているが、三十日であれ二十九日であれその夜は月が闇に篭る、つまりツキゴモリが訛り、ツゴモリとなったのだ。この暦上の異変が2010年の吉を示すのか、凶を示すのか? 

 年末から新年にかけ、はるばると弔問客が幾組か訪れてくださり、青木やよひの書斎はふたたび花で埋まっている。ありがとうございました。

2010年代の世界は? 

 各国政府の応急手当、BRICs諸国とりわけ中国とインドの国内消費拡大、ほころびたとはいえ戦前とは比較にならない先進諸国のセイフティ・ネットなどで支えられ、1929年のような大恐慌に陥らずにすみ、世界はいま経済的に一応の安定状態にあるが、この状況が何時までつづくかまったく保証はない。 

 なぜなら今回の世界的大不況は、グローバリズムそのものの崩壊という構造的なものであり、かつてのその構造に沿った政策、あるいはそれを補正する政策程度では、根本的再生にはならないからである。もし機軸通貨ドルの暴落や中国バブルの崩壊、インド経済のつまずきなどが起これば、たちまち世界的経済恐慌が訪れるだろう。 

 いわゆる先進諸国やBRICsを含めたグローバリズムの負の遺産は、経済体系を所得格差の拡大、南北格差の拡大、金融の投機化などを固定化するメカニズムに造りあげてしまったことである。したがって基本的にはまず、この潜在的構造を解体し、それに代わる経済体系を造りあげていかなくてはならない。

 だがそのためには、グローバリズム崩壊後の世界をどう構築するのか、ヴィジョンを示さなくてはならない。さまざまなレベルで多くの声があげられているにもかかわらず、それらは一向に政治やメディアの場で取り上げられることはない。だが争点は簡単なのだ。 

 すなわち、近代性の経済的極限ともいうべき、大量生産・大量流通・大量消費、それに安易にして投機的な「大量金融」の時代を終わらせ、文化と経済の世界的な多様化をうながす生産・流通・消費の体系を創造すること、ひとことでいえば、各自が質の高いゆったりとした生活(スローライフ)を享受し、それが同時に生物多様性を保持するようなエコ・ソリューションとなる時代とその構造を創造することである。

 その具体策は「食」の問題をはじめすでにたびたび述べてきた。

鳩山内閣の採点簿 

 上記の期待にはほど遠いが、鳩山内閣は発足時には華々しい花火を打ち上げ、好調にみえた。二酸化炭素25パーセント削減の世界公約や「コンクリートから人へ」のスローガン、あるいは公開の「事業仕分け」パフォーマンス(今回は予算策定時期が切迫し、やむをえなかったが、本来は数ヶ月かけて行うべきものである)などである。国民に多くの期待を抱かせたのも無理はない。 

 だがその後は迷走つづきである。普天間問題は一例にすぎない。それも日本の安全保障を今後どう構築して行くかというヴィジョンがまったくないことの副産物にすぎない。安全保障だけではない。すべての領域での一貫した全体的な長期的展望にまったく欠けているがゆえに、すべての領域で迷走せざるをえないのだ。 

 そのうえ政府・民主党内の旧態依然たる権力関係である。鳩山首相が小沢傀儡師の繰り人形であるらしいことがしだいに明確になってきた。小沢氏は院政どころか、政府・民主党を自在に繰る独裁者の風貌を表わしつつある。個人的には私は、旧知の仙谷由人氏などに多いに期待しているのだが、反小沢として知られている彼も手足を縛られるだろう。 

 とにかくわが国の2010年はあまり明るくない。

現代インドの鋭角的断面 

 弔問を兼ねて来訪された武蔵野大学の佐々木瑞枝教授が、いっしょに見ましょうとDVDを持参された。有名な映画“Slumdog Millionaire”である(邦訳題名・監督名など失念、インターネットで検索してください)。 

 20,000,000ルピーという巨額の懸賞金のかかったクイズ番組に出演し、賞金を獲得した青年の物語である。いきなりその番組の最終段階のオンラインの映像からはじまり、その合間にフラッシュとして彼の過去と、第1回の賞金獲得がインチキであったという告発にもとづく警察の拷問を交えた取り調べの場面が短く交錯し、しばらくは物語をたどるのに苦労する。 

 だがムンバイ(ボンベイ)の世界最大といわれたスラム――かつてムガール時代には低カーストのひとびとの集落であり、なめし皮などの生産でそれなりのゆたかな生活を送っていたが、植民地化とともに農村からのいわば避難民が集中し、スラムと化していった(北沢注)――に育つ少年時代の、貧困とそれなりに嬉々とした思い出に、イスラーム教徒狩りで父母が殺され、その果てに児童に芸をさせ(盲目のものは稼ぎが大きいと、こどもの目をつぶしたり)、その稼ぎを収奪する暗黒街の男や、そこからの脱走、タージ・マハールでの外国人向けのインチキガイド生活、そこでえた金でやっとまともなIT企業のお茶組汲みに雇われるまでの半生が、クイズ番組のスリリングな映像にはさまれながらもみごとに浮かびあがってくる。 

 生き別れとなった兄との再開の場面も、かつて彼らが生活した広大なスラムを取り壊し、再開発中の高層ビルの建築現場である。イスラーム教徒狩りに手を取り合って逃げた見知らぬ少女が、彼の恋人たなっていくが、その愛の物語もこれまたみごとにひとつの筋となってつながり、運命に翻弄された二人の純愛がきらりと光ることになる。 

 とにかくこの映画は、かつて植民地固有の貧困に翻弄され、ITによってにわかに経済的興隆をとげたが、他方格差の拡大によるテロや犯罪にゆれる現代インドを、社会批評的に鋭角的に断ち割った秀作といえるだろう。