一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【103】

2011-05-30 17:56:23 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【103】
Kitazawa, Masakuni  

 樹々の緑が一段と濃さを増し、皐月つまり旧五月の到来を告げる色とりどりのサツキも咲きはじめた。例年より10日以上も早い梅雨入り宣言だが、今日は台風2号の変じた温帯低気圧も去り、久しぶりに青い空がひろがる。

グベクリ・テペの遺跡の物語るもの 

 クラウス・シュミットを中心とするドイツ考古学研究所が、1994年から手掛けたシリア国境に近いトルコ南部のグベクリ・テペ遺跡の発掘が進み、その全貌が明らかにされはじめた。

 それは、従来の考古学や人類学の定説をくつがえすような大発見といえる。『ナショナル・ジオグラフィック』誌6月号に掲載されたCharles C. Mannの記事にもとづきながら、その意味について考えたい。

 敗戦直後のわが国でも、人間や文明について一時期はげしい論争が交わされたことがある。それはマルクスとウェーバーを援用するこの二人の代理戦争ともいうべきもので、戦後の労働運動や左翼運動のたかまりもあって、結局マルクス主義が勝利したかのようにみえた。マルクスの立場は史的唯物論ともいわれるが、人類にはそれぞれ「下部構造」とよばれる生産様式の発展段階があり、その発展にしたがって知や文明といった「上部構造」が造られていく、とするものである。

 考古学の分野でこの史的唯物論をいわば完成させたのは、イギリスのゴードン・チャイルドである。彼はいまから約一万年から八千年前に起こったとされる農耕の開始とそれによる定住を「新石器革命」と命名し、この下部構造の「革命」によってはじめて宗教などの新しい上部構造が生まれたのだとした。これは今日にいたるまで、考古学や人類学の定説となり、私も無意識に継承してきた。

 他方マックス・ウェーバーは、資本の自己消費で蓄積ができず、発展しなかった古代資本主義と、利潤の回収とその投資という資本の蓄積と回転によって強大な発展を遂げた近代資本主義との差異に着目した。そして著名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』で明らかにしたように、近代資本主義は、神の召命(コーリング=職業)に応じて勤勉と節倹に努め、得られた利潤は公共のものとして投資し、事業を拡大し、最良の製品を社会に多く還元すべきであるという、プロテスタント事業者たちの倫理から生まれたとした。事実近代資本主義は、イギリスや北ドイツなどプロテスタント地域で最初に台頭している。

 すなわちマルクスとウェーバーとの対立は、人間にとって経済が先か知が先か、の問題に還元できるだろう。

 この論争を踏まえてグベクリ・テペの遺跡に戻ってみよう。すると不思議なことが浮かびあがる。すなわちこの遺跡は、さまざまな彫刻をほどこした巨大な石灰岩の柱を対称的に配置し、石積みの円形の壁数層で囲んだ寺院と思われるもので、こうした寺院が隣り合っていくつも発掘されている。一つの円形寺院の規模は、イギリスのストーン・ヘンジなどよりはるかに大きい。しかも考古学的測定によると、この壮大な遺跡はストーン・ヘンジよりも七千年も先立ち、いまから約一万一千六百年前に建てられたものとされる。いいかえれば「新石器革命」より千年以上も前の建築物なのだ。

 したがってこれら「寺院」の周辺には住居跡などいっさい痕跡はないし、これらを建てる労働に従事した、あるいは祭儀で集まったと思われる人々が残した食物の残滓は、狩猟でえられる動物の骨や野生の穀物の種などであり、のちの栽培種などはみられない。つまり狩猟採集生活のひとびとがこの壮大な遺跡群を建立したのだ。なんのために?

 いうまでもなく、通常は分散してバンドとよばれる小集団で生活する狩猟採集民たちが、暦の特定の日、つまり冬至や夏至、あるいは春分や秋分などの日にここに集い、儀礼をおこない、賑やかに祭りを繰りひろげ、交流を図ったに違いない。事実巨大な柱付近からは、祭祀の捧げものと思われる羽飾りなどが発見されている。

 史的唯物論あるいはマルクス主義歴史観のみごとな敗北である。「新石器革命」で生産様式が変わるはるか以前に、「上部構造」または宗教が存在し、壮大な建築物が造られていたのだ。知は経済に先立つ!

 これは現代のわれわれにとっても教訓である。つまり新しい知を打ち建てれば、経済あるいは生産様式を変えることができるかもしれない。ヒロシマ・ナガサキあるいはフクシマ後の世界を変えるためには、まず知の革命が必要なのだ。


打楽器魂 2011 

2011-05-24 09:31:12 | コンサート情報

上野信一&フォニックス・レフレクション
打楽器魂  2011
―ネボーシャ・ジヴコヴィッチ作品展―

 疾走するパーカッショニスト/作曲家 ジヴコヴィッチ 来日!

このたび、パーカッション・グループ上野信一&フォニックス・レフレクションが、
ネボーシャ・ジヴコヴィッチを迎えて、コンサートを開催するはこびとなりました。

打楽器奏者・作曲家として世界的に活躍するネボーシャ・J. ジヴコヴィッチが
2010年、3曲の自作初演を託した
日本で最も信頼するソリスト・パーカッションの集団〈上野&フォニックス〉と共演です。
今回はその曲もふくめ、情熱的な名曲ぞろいのジヴコヴィッチ・レパートリーを、
本人の加わったスリリングな演奏で堪能できます。  

ドイツ在住のジヴコヴィッチからは
「来日を取りやめた演奏家もいるが、自分はこんな時こそ絶対来日する」
と3月30日にメールをいただいています。
(当日は震災支援用募金箱を設置します)

出演:ネボーシャ・ジヴコヴィッチ
      
上野信一 フォニックス・レフレクション(パーカッション)

日時:2011年6月1日(水) 19:00開演

場所:国立オリンピック記念青少年総合センター 小ホール    
     
      (小田急線 参宮橋駅 徒歩7分 地下鉄千代田線代々木公園駅 徒歩10分)        
      交通アクセス・地図は
 
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html

一般4000円 大学生3000円 高校生2500円 中学生以下2000円

プログラム
リズムの神々への祈り■To The Gods of Rhythm
ストラー■Ctpax Strah
狂王の城■The Castle of the Mad King   
セックス・イン・ザ・キッチン■SEX IN THE KITCHEN
★percussion duo
マグマ■MAGMA★marimba solo
ラメント・エ・ダンツァ・バルバラ■LAMENTO E DANZA BAREBARA
タク・ナーラ■TAKNARA
★percussion quartet         
    

※ユーチューブで予告編がご覧になれます           
http://www.youtube.com/user/darumadaiko

※上野信一のブログも合わせてご覧ください。         
http://shinitiueno.cocolog-nifty.com/blog/ 

※お問合せ、チケット購入は
sna41919@nifty.com


北沢方邦の伊豆高原日記【102】

2011-05-21 17:57:16 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【102】
Kitazawa, Masakuni
 

 伊豆高原中に匂っていた柑橘類の花々の甘い香りも失せ、さまざまな樹々の花々が白く咲き誇っている。卯月つまり旧四月の名の由来である卯の花(ウツギの花)も盛りで、緑の木の間に淡い黄色がこぼれんばかりである。卯の花とくれば、もちろん空にはホトトギスのけたたましい声が、ウグイスを圧倒するばかりにひびく。

原発の「思い出」 

 自動車の定期点検を待つあいだ、ディーラーの明るい展示室で、ふだん広告以外に読むことのないいくつかの週刊誌に目を通した。そのなかで東電の内幕を書いた記事があり、そこに登場したかつての副社長の名に、鮮明な記憶がよみがえった。 

 1990年代の終わりだったと思うが、当時民主党の代表に復活した菅直人氏を招いて、新潟・魚沼のある温泉施設で勉強会を行ったことがある。それは東電が柏崎原発の代償として、地元の各地にいくつか造ったいわゆるハコモノのひとつ(いうまでもなく政府は巨額の原発立地交付金を地元に別に払っている)で、仄かな照明に照らされた雪景色を見ながらの露天風呂はまた格別であった。 

 夕食をはさみながらエネルギー問題の討議を行ったが、私がドイツにならって2020年代までに原発を撤収すべきであり、そうしたスケデュールを設けることで自然エネルギーのみならず、あらたなエネルギー開発や省エネルギー技術が促進される。太陽光・風力・地熱・高温岩体・小型水力発電・波浪・バイオマスなど、むしろわが国は自然エネルギーの資源大国であり、省エネルギー技術でも世界のトップに立ち、技術輸出ができるはずである、もし2020年代にいたっても代替エネルギーが十分でなかったなら、そのとき原発を暫定的に延長すればよい、と1時間あまり述べ立てた。 

 同席者の一人が「今日は北沢先生冴えていますなあ」とほめてくれたが、肝心の菅氏はあまり納得したようにはみえなかった。勉強会が終わったあと、オブザーヴァーとして同席していた東電の副社長(私は当然反論があるものとばかり思っていた)が、私に、同じ話を東電の幹部たちに話していただけないか、と思いがけない提案をしてくれた。もちろん喜んで、と名刺を交換し、名をみたら山本勝とあった。 

 伊豆に帰って一度連絡があり、7月ごろにお願いしますということであったが、その後連絡はなく、どうしたのかと思っていると、ある日新聞の訃報欄に急死の知らせが載っていて、驚くことになった。 

 当の週刊誌の記事によれば、彼は有力な次期社長候補であり、きわめて先見の明のある有能なひとであったという。もし彼が社長であったなら、福島原発もこのような事態に陥らなかったかもしれないし、大事故後の処理ももっと早く適切に行われていたかもしれない。私にとってはただ一度の出会いであったが、心に残る「原発の思い出」となった。

リスト・フェレンツの生誕200年祭 

 大震災のおかげもあるかもしれないが、今年はフランツ・リスト(父親がハンガリー人であり、彼自身もハンガリー人と考えていたから正式にはリスト・フェレンツである)の生誕200年祭というのに、目立った催しはない。その原因のひとつは、多くの日本人にとってリストは音楽的にもあまりにもスケールが大きく、人格や行動も破天荒であり、理解しがたい点にあると思う。 

 つまりモーツアルトやショパンも、多くの日本人の理解を超えた奥深さや偉大さがあるにもかかわらず、彼らは「天使の美」や「音の詩人」などといったセンティメンタリズムによる矮小化の枠に収められ、その生誕祭は熱狂的に祝われ、絶大な人気を博すことになった。だが、ベルリオーズもそうであったが、リストは、そのようなセンティメンタリズムをまったく受けつけない叙事詩的で記念碑的な芸術、つまり絵画上でドラクロアが行ったようなロマン主義の劇的で英雄的な側面を追求したひとといえる。 

 その意味でリストは音楽の革命家であったが、同時に政治や思想上の革命家でもあったのだ。 

 リストやベルリオーズの青春時代は、ユートピア社会主義の全盛期であり、とりわけこの二人はサンシモン主義者の同志として活動し、また異国にあってもつねに「危険人物」としてメッテルニヒの秘密警察の尾行に会っていた(その記録がいまでもウィーン警視庁の古文書館に残されている)。とりわけリストはハンガリー独立運動にもかかわり、巨額の資金の提供者でもあったため、一時期逮捕の危険にさらされていた。

 1830年の七月革命、さらには1848年の二月革命でどのような活動をしたか不明(二人とも革命の挫折後の反動期に口を閉ざして生きていたがため)であるが、決起した労働者のために、革命の指導者のひとりであったラムネーの詩によって書いたリストの「労働者の合唱」(1848年と推定されている)という革命歌が残されている(なんとナチス台頭の前夜、ウェーベルンがこの曲をオーケストラと合唱のために編曲し、労働者たちの祭典で指揮している)。

 社会革命や独立革命の挫折後の暗黒の反動期に、たしかにリストはカトリックの信仰を深め、多くの宗教作品を書いているが、それも彼の革命家としての信条を裏切るものではない。なぜなら、サンシモン主義そのものがすでにカトリック社会主義であったし、有名な「小鳥に説教するアシジのフランチェスコ」にみられるように、その信仰は、イスラーム神秘主義者ルーミーとともに太陽や自然をほめたたえるフランチェスコの原点に帰るものであったからである。

 いうまでもなく、リストは音楽においても革命家であった。ベルリオーズやワグナー同様、ベートーヴェンの後期の様式の圧倒的な影響を受け、その「ディアベッリ変奏曲」(彼はヨーロッパの各地でこの作品や後期のソナタを演奏し、その普及に絶大な影響を及ぼした)の万華鏡のような革命的な技法を、「変奏」ではなく「変換(トランスフォーメーション)」としてとらえ、伝統的な和声もその必要に応じて同じく変換し、自己のピアノ作品で徹底的に追求した。晩年の『巡礼の年』第3年の2曲の「ヴィラ・デステの糸杉」や「ヴィラ・デステの噴水」が存在しなかったならば、ドビュッシーやラヴェルは存在しえなかったといっても過言ではない(事実彼らは晩年のリストの様式に直接影響を受けている)。

 彼のハンガリー諸作品がなければ、スメタナやドヴォルジャークをはじめとする各国の国民楽派の台頭もありえなかったかもしれない。

 この巨人のあまりにも膨大な作品は渉猟するだけでも大変であるが、生誕200年祭のこの機会に、ぜひ埋もれた諸傑作を発見してほしいものである。


おいしい本が読みたい●第二十話

2011-05-15 07:26:42 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第二十話  

                                    

                     怒れる若者  

 

 若者相手の仕事をしていると、ときに望外の収穫を手にすることがある。そんな機会は年を追うごとに少なくなっていることは紛れもない。しかしやはり、たまさか訪れてくれる、ありがたいことに。

 半年ほど前に知り合ったその若者の様子にとりたてて人目を引くところはなかった。どこにでもいる若者のひとりにすぎない、とわたしには思えた。ところが、あるとき彼からメイルが届いた。そこには、自分は日本人ではない、というセリフが呪文のように、並んでいた。彼の出身地は奄美である。

 メイルをもらって咄嗟にわたしの脳裏に浮かんだのは、目取真俊の作品だった。初期短編集『平和通りと名付けられた街を歩いて』(影書房)に登場するあの老婆は、肉体も精神も老いに蝕まれながら、なお体の奥底に「本土」への怨をドス黒く抱え込み、沖縄復帰祝賀パレードの皇室車に、そのドス黒い糞をなすりつける。言語という表現手段をもたない市井の老婆が、不自由な身体を逆手に取って、みごとな攻撃を創出したのだ。

 近作『眼の奥の森』(影書房)は、十年前の『魂込め(まぶいぐみ)と同じように、米軍に翻弄される沖縄の物語だ。ただし、作者の名誉のためにいっておくと、物語ははるかに複雑な構造を与えられているから、けして旧作の焼き直しではない。

 ここでもまた、セイジという若者の米軍への、そしてその陰に日本本土への、怨が色濃い。たかだか魚用のヤス一本を武器に、絶望的な攻撃を米兵にしかけるセイジ。もとより結果は見えている。しかし、だからといって、なにもしないでいることはできるだろうか。

 「ちかりんどー、セイジ(聞こえるよ、セイジ)」という沖縄のことばが、それこそ呪文のように、耳に焼きつく物語だった。

  さて、冒頭の若者に話をもどそう。彼の呪文には、あまりお目にかかれない怒りが感じられて、わたしはここ数年味わったことがないくらいに心を動かされたのだった。どこかしら、「個の怒り」を超えた「類の怒り」のようなものを感じたのであった。それはたしかに、冷静に制御しなければ、ありきたりな情緒で終わってしまうおそれは付きまとう。けれども、もつべき正しい怒りが少なくなってしまった今日では、いっそ貴重であることは確かだ。あの、フランツ・ファノンの『地に呪われたる者』だって、怒りあってこその迫力ではないか。だからやはり、心から応援したい。

 若者よ、クールに怒れ!                               

                                 むさしまる


韓国語版『感性としての日本思想』出版

2011-05-06 19:10:58 | 書評・映画評

韓国語版『感性としての日本思想』 『日本思想の感性伝統』



 韓国の全南(チョンナム)大学の文化人類学専門の金容儀(キム・ヨンイ)教授(大阪大学文学部大学院卒業)が、私の『感性としての日本思想;一つの丸山真男批判』を読み、従来と全く違う日本思想論であり丸山真男批判であると感銘され、大学でのセミナーのテクストとして使用され、また手分けして訳し、出版にこぎつけられたものです。訳者は金教授のほかに3名です。

 出版社は、民俗学叢書などを手掛けている【民俗苑】という堅実なところのようです。訳書のタイトルも韓国向けに変えてあり、金教授による訳者解説や韓国向けの訳注などもつけられてあります。
 
 また今回の大震災に金教授からお見舞いをいただきました。私の韓国語版への序文の最後に、大震災に対しての韓国の支援へのお礼を付け加えたかったのですが、すでに印刷に入っていて、間に合いませんでした。(
北沢方邦)

北沢方邦の伊豆高原日記【101】

2011-05-03 19:11:14 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【101】
Kitazawa, Masakuni  

 満開だったツツジの花々も散りはじめ、樹々も、もはや新緑とはいえないほど色濃くなってきた。ヴィラ・マーヤの庭に競い立つヤマユリの新芽も、かなり大きくなった。福島原発を避難してきた橋本宙八さんご自慢の二人の娘さんが入居し、賑やかとなった。二人ともきわめて知的で感性ゆたかなひとたちで、知り合ってよかったと思う。

ウサマ・ビン・ラディン氏 

 お嬢さんたちを送ってきた橋本夫妻と田中亮二さんと六人で、楽やで夕食を共にし、ヴィラ・マーヤに帰って自然酒をかたむけながら、夜更けまで議論で盛りあがった。そのときイスラームの話題となり、アル・カイダやいわゆるイスラーム原理主義についてどう思うかと聴かれ、日頃の持論を開陳した。つまり彼らは先進諸国、とりわけアメリカの覇権に対抗するため、イスラーム思想を近代イデオロギーと化し、イスラーム本来の深い思考体系をむしろ頽廃させたというものである。そのおりに私がふと、「しかしビン・ラディンさんは偉いよ、たったひとりでアメリカに対抗しようとしたのだから」と漏らしたが、まさにその時刻、現実のビン・ラディン氏はアメリカ軍特殊部隊に射殺されていたのだ。テレパシーともいうべき不思議なできごとであった。 

 9・11事件やビン・ラディン氏については、すでに多くの場所で書いてきた(自伝『風と航跡』終章、『感性としての日本思想』あとがきなど)が、それらと重複するがあえて要約的に記しておこう。 

 私はガーンディを尊敬しているし、個人として自衛手段以外の暴力を認めず、したがって無差別テロに反対するが、社会や国家のレベルで政治表現の公の手段をもたない集団が、その表現としてデモや対抗暴力といった手段を取ることは当然だし、追いつめられた極限状況でゲリラやテロに訴えることもありうることだと理解している。 

 預言者を気取るつもりは毛頭ないが、あの年の8月、神奈川ネットという地域政党に招かれ横浜で講演し、そのなかで、成立したばかりのジョージ・W・ブッシュ政権があまりにも新保守主義的で反動的な政策を実行しているが、それに対して近く必ず大規模なテロが起こるにちがいないと述べたことがある。

 それがあのようなかたちになるとは想像もできなかったが、黒煙をあげて炎上し、崩壊し、多くの犠牲者に無慈悲な死をあたえたあの世界貿易センターの双子の塔のオンライン映像を見た瞬間、ついに起こるべきことが起こったかと、私は背筋に戦慄をおぼえた。

 またいわゆる先進諸国内の差別されたひとびとを含み、世界の各地でこの映像に快哉を叫んだ多くの民衆がいたことも忘れてはならない。それはかつての政治的・軍事的帝国主義の時代は終わりを告げていたにもかかわらず、経済的覇権を求めるグローバリズムの飽くなき追求と、それによる収奪や抑圧にあえぐひとびとがいかに多かったかを示している。彼らにとってウサマ・ビン・ラディン氏は英雄であったのだ。

 世界史上ヒトラーやスターリンのように悪名高き英雄は数多い。だがビン・ラディン氏はそのような英雄ではない。自己の権力に酔い痴れ、他国を侵略してさえも自国の富や領土を拡張しようとし、意に染まない種族や民衆を大量殺戮し、あるいは餓死するがままにさせたヒトラーやスターリンとはまったく異なり、彼はイスラームの大義のために殉教し、大衆を救済しようと、少なくとも意図していた。いうまでもなくそのイスラームの大義は、彼のなかで近代イデオロギーへと変質した誤った観念にすぎなかったのだが。

 ヒトラーやスターリンは、近代が生みだした怪物である。観念とイデオロギーと、そのために必要とされる経済的・軍事的合理性、ウェーバー風にいえば目的合理性を徹底的に追求したリヴァイアサンにほかならない(ホルクハイマーが指摘したように、ナチスは「理性の過剰」によって生みだされた)。

 だがビン・ラディン氏は、その手段と方法がまったく間違っていたとしても、清貧と禁欲のなかで解脱や神との一致を追求した東洋の聖者たちの伝統を、いささか踏まえていないこともないように思われる。