一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記144

2013-05-29 23:31:17 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【144】 
Kitazawa, Masakuni 

 今年は季節の移り変わりが早い。5月も末だというのにもう梅雨入りである。ヤマボウシやウツギ(卯の花)の花々が、濃い緑の葉叢を背景に白く満開なのに、はやばやと淡紅色のサツキが咲きだし、アジサイの花もいまにも開きそうだ。ホトトギスがこれぞわが季節とばかり、かまびすしく鳴く。

 

食の「文明化」とは?

 先日ヴィラ・マーヤで、立教大学教授で人類学者の阿部珠理さんを招いて「ともいき(共生)の思想──ラコタ族の生き方と現代文明」と題するセミナーを行った。保有地の劣悪な環境や貧困のなかで生きるラコタのひとびとが、にもかかわらずそのもっとも深いところでなおも伝統的な生き方や文化を継承し、あるいは積極的に復興しようと努力している姿が、生き生きと浮かびあがるすばらしいレクチャーであった。またそれに刺激された参加者の熱意で、ヴィラ・マーヤが輝いた2日間であった。

 だがこれについては参加者の何人かが、このブログにリポートや感想を書いていただくことになっているので、本題はそれに譲って、それと関連する食や健康あるいは長寿の問題を取りあげよう。

 というのは阿部さんのお話とパワーポイントで映しだされた保有地のスーパーマケットの食料品の棚や、部族のひとびとに多い肥満体を眺めているとき、ふと「ピンク・スライムpink slime」という単語が頭の片隅で閃いたからである。

 それはジャーナリストのマイケル・モスが造語し、牛肉の安全性に関する「ニューヨーク・タイムズ」紙の論説で2009年のピューリッツァー賞を受賞し、一躍有名になったことばである。つまり従来はペット・フードや肥料にしかできなかった牛肉の使い物にならない部分を大量に集め、遠心分離機で脂肪を飛ばし、アンモニア・ガスなど化学薬品で殺菌や加工をし、ピンクの泥状(スライム)にしたもので、牛肉の加工食品の増量剤に使用する。「ピンクのヘドロ」とでも訳すべき代物である。

 大手のハンバーガー・チェーンやスーパーの店頭に並ぶ加工品の多くで、この増量剤が使われてきた。ただこの「ピンク・スライム」論説が全米で大きな反響をよび、消費者諸団体からきびしい批判の声があがったため、マクドナルドや若干の大手スーパーは今後それを増量剤として使用しないことを約束した。

 だが保有地のスーパーに並んでいるような安い加工牛肉には、いまだに使われている。それが健康にきわめて有害であることはいうまでもない。こうした食品やジャンク・フードを多食せざるをえない貧困層ほど、大人だけではなく子供にいたるまで病的な肥満が多くなるのは当然である。

 貧乏人は生活習慣病になって早く死ね!といわんばかりのこの食の合理化あるいは文明化は、いうまでもなく近代文明に固有の経済合理性の徹底的追求から生じたものである。

 

食と遺伝子と長寿

 かつて男性・女性ともに長寿県第1位であった沖縄県が、近年その順位を著しく下げている。70歳代以上は依然として長寿であるのに、40代から60代の年齢層が短命になっていて、そのもっとも大きな原因は食生活のアメリカ化であるとみられている。70歳代以上は伝統食を好んでいるが、若い世代の食が欧米化し、糖尿病、高血圧など生活習慣病が拡がり、癌も増えているというのだ。彼らは伝統料理にもアメリカ風の食材を使う。たとえば有名なゴーヤ・チャンプルーに、地元の豚肉ではなく缶詰のランチョン・ミート(豚のピンク・スライムが使われている可能性がある)を使うといったように。

 近年老人学(ジェロントロジー)が進展し、長寿についての研究も盛んとなったが、新ダーウィン主義全盛時代には、長寿遺伝子説がもっとも有力であった。つまりたしかに長寿の家系があるように、長寿遺伝子が人の寿命を決定するというのである。

 それが全面否定されたわけではないが、その後ダイエットつまり食生活習慣に大きな比重があるという説が有力となり、「粗食長命説」が唱えられたりした。だが、かつて粗食で有名だった禅宗のお坊さんたちにも、ひじょうに長命なひとと短命なひとが混在し、また近年の統計によっても、伝統食としての粗食の地域が必ずしも長命の地域とはいえないことが明らかとなってきた。事実、菜食主義と百歳以上の長命者とは一致しない。

 上記で述べたように、たしかに食は健康や長寿と大きなかかわりがある。残留農薬や食品添加物に汚染されていない食品、つまり経済合理性の桎梏から解放された食品を食べることは、まず基本である。一般の市販食品よりは高価だが、健康と長寿の保険金を支払っていると思えばよい。

 だがそれによって摂取された身体のエネルギーを、どのように消費するかが問題である。とりわけ高齢者は、身体や脳を日常的に十分に使う、つまり酷使するほどでないと諸機能を生き生きと保つことはできない(アンデスやイタリア・カラブリアの長寿村では、百歳以上の老人も自分のための農作業[市場のためではなく]にいそしんでいる)。一日引きこもってテレビを見ているといった生活では、寝たきりや認知症にならないほうが不思議といえる。

 さらに重要なのは精神の持ち方である。ストレスやそれによってもたらされる心理的苦痛は、長寿の最大の敵であるといってよい。ストレスをいかに速やかに解消するか、瞑想やヨーガをはじめ、多くの方法があるし、それを持続することで自分の精神のあり方が変わっていくことが実感できる。

 要するに健康と長寿は、その地域の気候風土に合ったダイエット、身体や脳を動かすという意味での日常的運動、そしてそれらと不可分の精神の安定性の保持、この三つの条件に尽きるといっても過言ではない。

 遺伝子はいわばあとからついてくる、といえよう。なぜなら最新の遺伝子学であるエピジェネティックス(後発生遺伝学)によれば、遺伝子やその配列(ゲノム)は、後天的な環境やその主体の生活の在り方によって、変化を起こすことが明らかとなってきたからである。たとえ長寿の遺伝子がなくても、生き方を変えることによって遺伝子の変化をもたらすことは可能なのだ。

 エピジェネティックスはこの意味で、近代文明を超えるためのひとつの福音である。


北沢方邦の伊豆高原日記143

2013-05-08 23:09:29 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【143】
Kitazawa, Masakuni 

 今年は早くも新緑を背景に柑橘類の白い花々が咲きはじめ、あたりに甘い芳香をただよわせ、道端では名も知れぬ野草の小さな花々が、紫や緋色、あるいは黄色や白と可憐に目を楽しませている。しかし連休がつづくこの季節、例年、日除け傘をもちだして芝生の露台でお茶などを楽しむのだが、今年は気温が低く、日射しは強いにもかかわらず早々と室内に退散することとなる。北海道は平地でも雪が降ったという。

女性的思考の強靭さ

 いつぞやこのフォーラムの「ジェンダー問題セミナー」で脳の性差について話したが、女性のほうが脳梁(corpus callosum)の容積が大きく、したがって左脳と右脳とのコミュニケーションにすぐれている。男はつねに左脳優先で考え、したがって観念的であるのに対して、女の思考はつねに感性や身体性に根差し、したがってものごとをバランスよく全体的にとらえる。

 このことを思い出したのは、世界銀行の要職を歴任し、副総裁となって世銀改革に取り組み、いまは退任された西水美恵子さんの著書『あなたの中のリーダーへ』(2012年英治出版)を頂き、読了したからである。

 今年の2月10日付の毎日新聞のコラム「時代の風」に西水さんが、「日本から学ぶ10のこと」と題して、東日本大震災時の被災者たちをはじめとする日本人の行動様式が世界から絶賛を浴び、そこに平静、威厳、能力、品格、秩序、犠牲(心)、優しさ、訓練、報道(節度ある)、良心の10の徳が現れていたとする1通のメールが世界をかけめぐったことを書かれた。さらにそれに対する彼女自身のことばに感動し、手紙と拙著(日本人性の原点としての『古事記の宇宙論』)をお送りした。

 もちろんご返事などは期待していなかったのだが、この4月の末、いまは本拠としておられるイギリス領ヴァージン諸島から、お手紙とアマゾン経由でのこのご著書を頂くこととなったのだ(毎日新聞気付の私の本と手紙は船便で1ヶ月半がかりで送られたらしい)。

 この本の内容そのものがまたすばらしく、お礼の手紙を書くまえにこのブログで紹介することに思い至った。

 これはある業界紙の連載コラムをまとめたものであり、したがって内容に若干の重複はあるが、世界銀行の要職にあって業務をこなし、その多くは年上である部下たちと対等な絆をつくり、世界の貧困を撲滅するために現場に飛び出し、世銀の組織改革だけではなく、意識や心の改革にとりくんだ感動的な記録であり、告白であるといえる。

 まず「はじめに」からして感動的だ。パキスタンの貧困な農村の現場にはじめて足を踏み入れたとき「鬼が暴れだした」。水道も電気もなにもないこんな貧しい村で、こんな無学な人たちと暮らすのは厭だという、無意識の差別という鬼だ。「貧困解消を使命とする世界銀行で働いているくせに、貧しい人を見下していた自分を見た」。私にも深刻な経験がある。この日記20で書いたが、絶対に人種差別主義者ではありえないと信じていた自分のなかに、無意識の人種差別主義者の「鬼」が住んでいるのを自覚したときの驚愕である。左脳では拒否していたのに、右脳に「鬼」は住みつづけていたのだ。

 この原点から彼女は出発する。まずは上下の差別のないチームづくりである。対等であるだけではなく、成員の全員が公の業務だけではなく、生活や趣味趣向にいたる全体的なもの、私の用語でいう身体性を含めてトータルな人間としての絆をつくり、貧困の現場を体験し、そこから貧困解消のアイデアやヴィジョンを練り、政策に移し、実行しようというのである。

 そこから世界の未来像も見えてくる。数度にわたるブータン訪問と4世および5世の雷龍(ワンチュク)王の謁見と対話、マハートマ・ガーンディやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアたちの非暴力思想への共感、世界の文化の多様性やそれぞれの真の伝統のすばらしさ(わが国では、退任後彼女が赴任した庄内地方がモデルとなる)、そこからえられるのは、人間の幸福度は資源やエネルギーの消費量には絶対に比例しない、経済成長はたんなる結果にすぎず、それを目的とするとき人類は滅亡にさえおもむきかねない、などなど、私がこの日記でたびたび主張してきた世界の脱近代の未来像と共振するヴィジョンが現れてくる。

 またチームづくりや組織論の根底にあるのは、かつての一部の近代的フェミニズムとはまったく異なる真のフェミニズム、いわば自然体のフェミニズムである。それがたんに思想としてあるのではなく、たとえば世銀に共働きの男女のために保育所を設ける(男性職員の利用率が大きくなる)など、実践や実現としてあらわれ、また影響をもちはじめることがすばらしい。青木やよひが生きていたら私以上に共感したにちがいない。

冒頭で述べたように、こうした女性固有の強靭な思考力を生かす組織や社会こそ、新しい未来を生みだす力となるにちがいない。

 とにかく本書は、あらゆるひとびとに一読をすすめたい。