一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

一般財団法人【知と文明のフォーラム】設立記念会見(聞)記

2011-11-26 10:47:03 | 活動内容

一般財団法人「知と文明のフォーラム」設立記念会見(聞)記       
                               
                                                                 片桐  祐


去る十月一日、日本出版クラブ会館にて、この「知と文明のフォーラム」が一般財団法人として出発する記念会が催された。午後一時のシンポジウム開始から設立記念パーティー終了の八時まで長時間にわたる催しであったが、会場には支援、賛同してくださる方々の熱気が一貫してあふれていた。撮影係としてその場に身をおいた者として、何枚かの映像をとおして、その熱気の一端をお伝えできればと思う。




 さて午後一時、総合司会をつとめる宇野淑子さんの発声とともに第一部が始まった。シンポジウムのテーマは「知と文明の転換のために」である。壇上には、坂本義和、大内秀明、岡部憲明、西村朗、北沢方邦、と錚々たる顔ぶれが並んだ。国際政治学の坂本先生は「21世紀の地球政治的課題」、経済学者の大内先生は「東日本大震災と文明の大転換 - 宮沢賢治とW・モリスに学ぶ」、建築家の岡部先生は「パブリックスペースと人間性」、とのテーマでそれぞれ興味深く、刺激的な発言をされた。写真は四番目のパネリストである作曲家の西村先生がマイクを握っているショットである。「ベートーヴェンについて思うこと」と題されたテーマで、平均律発見後の西洋音楽の和音は神に届かないのではないか、という発言が妙に印象に残った。それ以上に印象的だったのは一番若くて、髪の黒々とした西村先生の発言に白髪の長老たち(岡部先生には失礼かもしれない)が熱心に耳を傾けている光景である。このあと構造人類学者の北沢先生から全体の補足というかむしろ締めくくりとして、科学認識論によるパラダイム・シフト、すなわち物理学における二元論からの転換と生物学におけるダーウィン進化論の転換、の提示がなされた。



 世上では、シンポジウムというと、とりわけ学術的なものは、たいがいパネラーの誰かがまるで裁判官のごとく目をつぶって他のパネラーの論を無視している光景が一般的だと思う。いったい何度そんな姿を見せつけられたことか! それに対してこの写真のパネラーたちはどうだ。岡部先生は筆記具片手にむむっと聞き耳を立て、大内先生は身を乗り出して注視におよび、坂本先生は少年のように頬杖をついて耳をかたむけ、北沢先生はふむふむと納得顔で聞いている。一幅の絵ではないだろうか。


 これはカメラマンだけの独白ではない。次なる一枚をごらん願おう。最前列(ただし第二列だが)にたった一人陣取り、発表者の言説すべてを傾聴していたこの気迫あふるるご老人、今あらためて手元の画像を見れば、どうやら耳に補聴器を装備なさってのご出席のようだが、とにかくご自分で得心のゆく発言には逐一大きくうなず頷き、したがってパネラーの発言部分で説得力をもつ部分がこの御大を見ていると手に取るようにわかるというお方であった。あとで知ったところでは、元比較文明学会会長の伊東俊太郎先生だという。どおりで。それにしても、右手を前列の椅子の背に乗せて身を乗り出さんばかりの聞きっぷりは、まるっきりパネラーのようで、最近は見る影もないかつてのアカデミズムを支えた大家はさすがだと、素直に感心した。



 レクチャー・コンサートの第二部は、作曲家の新実徳英先生、ピアニストのパーク・ヨンヒさん、音楽社会学者でもある北沢先生、この三方の鼎談から始まった。北沢先生の講義を神妙に聞くパークさん、それを腕組みして泰然と耳に入れる新実先生。先のシンポジウムと打って変わって、淡々とした姿が心に残るシーンであった。とはいえ、新実先生の「アリランから未来へ」 と西村先生の「アリラン幻想曲」の音を表現する在日のパークさんは、彼女ならではのアリランへの想いを、独自のエネルギーを込めてピアノに託していた。


 次なる一枚は、夕刻の六時からの設立記念パーティーでのショット。言わずと知れた評論家の樋口恵子先生だ。堂にいった語り口がマイクを前にした映像から彷彿とする。なるほど、彼女の敬愛する青木やよひ先生の在りし日の姿を語って余すところがない、絶妙のスピーチであった。政治の現場をしのいできたご仁はさすが、と舌を巻いた。


 と、こんなぐあいに、一時から八時まで時のたつのを忘れるほど、熱気横溢する充実した設立記念会であった。フォーラムの会員として参加できてこれほど充足したことは、ともかく言っておきたい。

 ところで、ことはこれで納まらない。番外編がある。すなわち、場所を変えての打ち上げ会、市ヶ谷アルカディアでの極秘撮りだ。ここでもまだ論じてる様子の北沢、西村、岡部の諸先生。談笑する新実先生。向かいの席にそっと身をおく女性陣に目もくれずに語り合う姿は、なかなかに味わい深い。人間は、だからおもしろい、と断言させてくれる設立記念会だった。

    

 


イタリア紀行●その6

2011-11-19 18:43:06 | 紀行

イタリア紀行 ●その6 流行都市ミラノと迷宮都市ヴェネツィア

 

 イタリアの都市はそれぞれ独特の趣をもっている。私は短い期間に、それも北イタリアを巡った程度であるが、都市の景観の多様性には驚かされた。年々均一化の傾向が著しい日本の都市に比べると、なおー層感懐が深くなる。古都の代表である京都・奈良にしても、神社仏閣の伝統はよく守られているものの、それらを取り巻く街の景観となると、何とも淋しい限りである。駅前は他の都市と少しも変わるところはないし、京都など無粋なタワーが実に目障りである。街づくりは住民の自治意識と関わりがあるのか、そして日本人にはそれが低いということなのだろうか。

 

 ミラノ・チェントラーレ(ミラノ中央)駅は、駅そのものが芸術作品である。ホームはドーム状の巨大な鉄骨で覆われていて、電車を降り立つ観光客をまず圧倒する。駅舎も壮大で天井も高く、壁面にはギリシア神話などをモチーフとした彫刻の数々。ムッソリーニの構想のもとにつくられた駅舎のようだが、ファシズム的誇大発想が生み出した傑作建造物といえよう。

 

 ドゥオーモ駅はチェントラーレ駅から地下鉄で四つ目。地上に出ると、眼前には壮麗なドゥオーモ(大聖堂)が迫る。



白く輝くその偉容に、またも圧倒されることになる。1386年から建造が開始され、1813年、ナポレオンによってようやく完成をみたというこのドゥオーモは、頂上近くまで登ることで、その400年余の歳月を実感できる。天を突く135本の尖塔、壁面の至る所には、2245体もあるという彫像群。



下から見上げただけでは到底見ることができないこれら彫刻群の制作を、何百年にもわたって、一体どのように管理してきたのだろうか。考えるだけでも頭がクラクラしてくる。

 

 広々としたドゥオーモ前広場からは、特徴あるいくつもの街路が広がる。そのひとつが、19世紀末につくられたというヴィットリオ・エマヌエ一レ2世のガッレリア(商店街)である(写真↓左が入口)。



銀座四丁目に、天井の高いアーケードが設置されたというイメージだろうか。プラダやルイ・ヴィトンなどのブランド店が軒を並べる。落ち着いた雰囲気ながら、世界の流行の最先端にいるというゴージャスな気分を味わうことができる。



そこを抜けるとスカラ座広場。中央にレオナルド・ダ・ヴィンチの像が立つ。オペラ観劇の余韻は、広場とガッレリア、そして美しくライトアップされたドゥオーモによって、さらに深いものになる。



オペラ劇場も、街の景観に美事に組み入れられている。

 

 都市景観の美しさといえば、まずはヴェネツィアをあげねばならない。ヴィチェンツィアを別にすれば、ヴェネツィアは再訪したい街の最右翼である。たった3泊の滞在で、それもほんの一部分を歩いただけなのだが、この街の魅力は十分に味わえたように思う。

 

 イギリス人の友人Pさんのお蔭で、私たちは最良の形でヴェネツィアに入ることができた。終着駅、サンタ・ルチア駅前の広場には車は見当たらない。目の前はもう運河である。目的地のホテルまで行くには歩くか船に乗るしかない。ヴァポレットとよばれる水上バスはひんぱんに出ているのだが、Pさんは我々のために水上タクシーをチャーターしてくれた。イタリア語も達者なPさんは運賃を110ユーロに値切る。そしてホテルまでは、カナル・グランデ(大運河)をゆっくりと航行する、大廻りのコースをとってもらった。甲板に立ち、水上の古都ヴェネツィアを心ゆくまで堪能する。大運河はかなりの幅があり、バス、タクシーがひんぱんに行き来する。優雅なゴンドラも散見される。そして何百年もの時を経た古い館の数々。それらのたもとは水に洗われ、旅情を越えた感慨を覚える。




リアルト橋↑      サン・マルコ聖堂前広場↓

 

 ヴェネツィアの魅力のひとつはもちろん水である。狭い路地を歩いていると、すぐに水路に行き当たる。ゴンドラが優雅に浮かんでいたり、小さな舟が舫っていたりする。



異国情緒はいやがうえにも高まるのだが、水の効用はもっと深い。ヴェネツィアの古さ、そののしかかるような伝統を、柔らかく中和してくれるのだ。古い都市は往々にして息苦しい。しかしここでは、至る所に水があることによって、それが浄化されているような気がする。

 

 ヴェネツィアの路地は迷路そのものである。水路とならんでこの路地も、ヴェネツィアに独特の魅力を与えている。


私は、ヴェネツィアを第二の故郷としているI夫妻とともに、丸一日の路地裏散歩を楽しんだ。ヴェネツィア人の一日を体験しましょうと、朝、まずバーカロ(居酒屋)に案内された。なんと、アルコールで喉を潤すことから一日が始まるのだという。確かに地元の人らしい客で店は混んでいる。皆、立ち飲みである。私は白ワインを注文したが、グラッパ(ブドウの搾りかすからつくられる蒸留酒)などの強い酒を所望する人もいるらしい。

 

 I夫妻は、いかにも見知った土地という具合に狭い迷路を歩き始める。その先々に、15歳のモーツァルトが滞在した宿、ゲーテが1786年に泊まったホテル、ジョルジュ・サンドが住んだアパート、マルコ・ポーロの生まれた家、等々があるのだった。しかし時にI氏の博識についていけない。ビアンカ・カッペルロの生家といわれても、?である。トスカーナ大公の二番目の妃で、天正遣欧少年使節団の伊東マンショがはじめてダンスを踊った相手だという。いずれにしても、数日間の観光ではとても訪れることのできない場所を案内してもらったことになるが、どの建物も昔のまま残っているところがすごい。少年モーツァルトが、あの3階の窓からこの水路を眺めていたのか、と思うだけで心が熱くなった(写真↓左手前の家)。

 

 散策に疲れるとカフェで休息。どのカフェを選ぶかはその日の気分次第となる。コーヒーの種類は少ないが、それぞれのカフェは味で勝負をしているという。そして夕刻、再びバーカロに立ち寄り、食前酒を味わう。I夫人にならって、私はベッリーニなる飲み物を注文する。手渡された小さなグラスにはピンクの液体。かすかに甘い香りがする。フルーティーで上品な味がした。ただしアルコール度は高そうである。夕食はI夫妻が宿泊しているホテル階下のレストランにて。ヴェネツィア近海の魚料理をたっぷり味わった。

 

 ところで、迷路探索に欠かせないのが地図である。それもホテルでもらう簡単なものではなく、路地の名前が詳細に記された地図を手に入れたほうがいい。それを片手に、路地裏の店々をウインドウ・ショッピングするも楽しいものだ。





私がそれでもっとも重宝したのが7月1日の深夜。I夫妻と別れた後、私は詳細地図を頼りに一人で迷路を歩きまわり、1時間近くかけてホテルにたどり着いた。このささやかな経験は、千年の都ヴェネツィアに対しての親しみを、なお一層増してくれたように思われる。
                       ●j-mosa

 

 


北沢方邦の伊豆高原日記【113】

2011-11-03 21:28:35 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【113】
Kitazawa, Masakuni  

 柿の葉が茜色となり、落葉しはじめ、ツワブキが黄色い花をつけ、芝生の隅にサフランが明るい紫の花を開き、秋色が深まった。柚子の実はまだ緑だが、色づきはじめたらタイワンリスとの睨みあいとなり、先手を打って収穫しなくてはならない。

タイの大洪水に思う 

 タイの国土の大きな部分が大洪水に見舞われている。日本企業の被害ばかりがメディアを賑わしているが、タイの被災者の方々には本当にお気の毒であり、東日本大震災お見舞いのお礼に、日本も積極的に貢献しなくては東南アジア蔑視、あるいは人種差別だといわれてもしかたがない。 

 しかし、50年来といわれる雨季の大量降雨がその引き金となったことはたしかだが、これはここ数十年の急激な「近代化」のひずみが引き起こした人災という側面が大きい。 

 かつてのタイは、ナイルの氾濫が肥沃な農地を造りだした古代エジプトと同じく、チャオプラヤ河の毎年の氾濫が、流域の広大な水田地帯に肥沃な土壌を運び、水稲の豊饒な収穫をもたらしてきた。それがタイ王国の豊かさの基盤であったのだ。 

 だがこの数十年の経済のグローバリゼーションは、労働力の安いタイに各国の企業の生産工場を集中させ、水田は埋め立てられ、広大な工業団地を現出させた。それと同時にわが国の高度成長期に似た農村人口の都市への大流入がはじまり、首都バンコクとその周辺に人口の過密化が起こり、都市は膨張した。 

 同時に国際的工業団地の進出によって縮小した農業の穴を埋めるため、上流地域では森林の伐採による農地の拡大がはかられることとなった。森林の保水機能が小さくなり、同じく遊水池でもあった水田のかなりの面積が失われる結果は、いうまでもなく雨季の河川の静かな氾濫と、乾季の排水という自然そのものがもつ水の循環機能が失わせることである。例年にない降水量はただちに工業団地や大都市を冠水させる「洪水」となり、生産や都市の機能を麻痺させる。これほど大規模なものではないとしても、今後も工業団地やバンコクは、洪水の被害につねに脅かされることとなるであろう。なぜならこれは、急激な近代化がもたらす構造的なものに根本原因があるからである。

 だがこれはひとごとではない。戦後の高度成長期、巨大ダムやコンクリート堤防などの設置に頼り、自然そのものがもつ治水機能を無視してきたわが国も、地球温暖化によって増大してきた降雨量によって、いつ大規模な洪水が起こってもおかしくないからである。

 平野部での傾斜が急な山梨県には、かつて武田信玄が築いたといわれる「信玄堤(しんげんづつみ)」が多くあるが、それは大量の降雨によって急激にくだってくる河川の水を迂回させ、遊水地に導入し、奔流する鉄砲水によって堤が破壊されることを防ぐ知恵であった。自然の力を認識し、それをうまく利用することによってみごとな治水を行ってきたこうした先人の知恵を、われわれはいまこそ学ばなくてはならない。

 文明は自然に逆らうかぎり、いつか没落の憂き目にあうこととなる。タイの大洪水はこのことを教えている。