一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【42】

2008-07-19 06:55:13 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【42】
Kitazawa, Masakuni

 梅雨明けとしか思えないような晴れた日がつづく。東京は連日真夏日のようだが、こちらも連日27・8度の気温に高い湿度で真夏を実感する。

 ヴィラ・マーヤの庭園にヤマユリが咲き乱れはじめ、特有のむせるような芳香があたりにただよう。近くで土木工事があり(お蔭で大島南端近くの海がわが家の2階書斎からかなり見晴るかせるようにはなった)、重機類の騒音がかなりだが、ウグイスたちは負けじと声を張り上げている。縄張り宣言の季節ももうじき終ることを知っているかのようだ。

グローバリズム没落の序曲

 いわゆる洞爺湖G8サミットが終った。一時期まったく空虚な儀式となっていたサミットも、BRICs諸国や、今回とくにアフリカ諸国を招き、緊急の課題である地球温暖化問題や食糧危機に対処する一定の方向を打ち出しただけでも、一応意義があったというべきだろう。

 だがこれらの危機をもたらしている根本問題には、ついに触れず仕舞であった、というよりも、認識さえ示せず、ましてその規制など考えも及ばなかったようだ。つまり経済グローバリズムであり、それがいまや破局に向かって歩みはじめたという現実である。

 多国籍大企業・大金融機関による激烈な資源やエネルギーの争奪戦争、巨大流動資金を原資とするM&A(吸収や合併)など資本の争奪合戦、また市場制覇のための相互の熾烈な戦いである経済グローバリズムは、すでにたびたび述べてきたように、国家による制御さえほとんど不可能であり、市場万能という新自由主義イデオロギーに支えられ、政治とは相対的に独立した体制とメカニズムで動いてきた。

 しかし一方では自縄自縛ともいうべき巨大流動資金の投機(イギリスの経済学者故スーザン・ストレンジはすでに80年代にそれを「カジノ〔賭博場〕資本主義」と名づけた)、他方では中国やインドなど新興国の急激な需要増などによる原油価格高騰、さらに食料をエタノール生産の原料とする誤った政策、原油価格の高騰による生産・輸送コストの増大、新興国の消費の急拡大などを原因とする食糧危機、また合衆国のサブプライム・ローン問題にはじまった証券会社・銀行・住宅金融機関などの連鎖的な破綻による金融不安、これら原油・食料価格高騰・世界的金融不安が引き鉄となったインフレーションと景気後退の同時進行(いわゆるスタグフレーションのはじまり)など、経済グローバリズム没落の序曲が遠くからひびきはじめてきた。

 だがサミット同様、というよりもサミットにも及ばないほど、与野党を問わずわが国の政治や政治家には危機意識はない。漁業や農家の燃料費に補助をだそうといった、ごく瑣末な目先の彌縫策にしか頭がいかないらしい。

 いまわれわれには、ポスト・グローバリズムの構想が求められているのだ。この要求に応えられるような政治勢力は、どこにも存在していないのだろうか。少なくともドイツでは緑の党が、社会民主党や、最近ではキリスト教民主同盟とも連立し、ドイツを環境先進国へと導く先導者の役割を果たしてきた。だがわが国には、国民のあいだでは環境意識が高まっているにもかかわらず、時代を先取りするような少数政党は皆無である。絶望的というほかはない。


〈身体性〉とは? 第4回(最終回)

2008-07-10 22:36:48 | 〈身体性〉とは?

 

 

第4回 (最終回)  ■青木やよひ

 

4.一つの生態系としての身体

われわれ現代人にとって、身体とはなんであろうか。これは自分自身への反省も含めてのことだが、現代人は身体を、精神とは切り離されたコントロール可能な道具として見ているのではないだろうか。たとえば、使いやすい電化製品や性能のよい車と同じように、身体もまた自我の意欲を遂行するための手段としてのみ意味があるのであって、身体それ自身の声に人びとはどれほど耳かたむけるゆとりを持っているのだろうか。

 つまりここにあるのは、身体を物質系・分子機械とみなし、それは独立した精神的実体としての自我の所有物であり、故障がおきればそれぞれの専門家たるエンジニアとしての医師に修理をまかせようという考え方である。これは、世界をばらばらの機械とみなしてきた近代の自然観と見事な相似形をなしている。人間と自然が、そして精神と身体が切り離されているという点では、同じ思想の産物である。

 しかも恐ろしいことには、この思想をおし進めたところにあるのが、身体を部品のとりかえのきく機械とみなす臓器移植であり、生命のプロセスさえも工学的に設計しようという遺伝子工学である。とくに体外授精が現実化した今日、卵や精子の売買、あるいは自分たちの受精卵で第三者に出産を依頼する代理出産が実現し、更には類人猿と人間との異種交配を試みようとした専門家まで現われている(*)。これを、科学技術時代の身体観として、われわれは許容すべきなのだろうか。
(*)日本の霊長類研究所のある研究員がこれを実行しようとしたことが、明るみに出た(昭和58年4月23日付、読売新聞)

 しかし不思議なことに、この数年来、欧米の知的領域で新しい現象がおこっている。さまざまな分野の先端的な学者たちが、きそって新しい人間観や世界観を語りはじめているのだ(*)。彼らの思想をごく大まかに要約すれば、「宇宙は巨大な機械である」というニュートン的世界観から、「世界は一つの生命体である」というプラトン的なそれへの大転換である。
(*)たとえば、S・クマール編の『風船社会の経済学』の中での学者たちの発言、あるいは『タオ自然学』のF・カプラ、『精神と自然』の中でのベイトソンの考え方などがそれである。

 つまり、自然界を(かつてゲーテが主張したように)、すべてが相互依存のネットワークでなり立っている有機体とみなし、人間の状況をも、その身体的・感性的・社会的環境との関連でとらえようとしている。当然そこでは、身体を精神から切り離した道具と見立て、その部分的修理に熱中して生体のエコロジーを見失った現代医学は批判されるのである。つまり、現代のもっとも先端的な思想によって、脱近代・東洋的・古代的な世界観と、女性的でエコロジカルな身体観が提示されているのである。

 私はここに、フェミニズムとエコロジスムの思想的出会いを見ている。そしてもはやその方向にしか、人類が生きのびる道はないのではなかろうか。

 


楽しい映画と美しいオペラ―その12

2008-07-02 22:46:05 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その12

反戦と愛、それがメッセージ!――コンヴィチュニーの『アイーダ』

 ヴェルディはモーツァルトと並んで私の特別に好きなオペラ作曲家である。なかでも中期の作品、『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』は繰り返し聴く演目だ。『アイーダ』となると、有名な凱旋行進曲に象徴されるように、あまりにきらびやか過ぎて、ちょっと敬遠するところがあった。にもかかわらず、今年の春は立て続けに『アイーダ』を観ることになった。3月10日のゼッフィレッリのものと、4月17日のコンヴィチュニー作品である。

 フランコ・ゼッフィレッリはイタリアのヴェテラン演出家で、『ロミオとジュリエット』など何本もの映画作品もある。一方、ペーター・コンヴィチュニーは今をときめくドイツのオペラ演出家である。この『アイーダ』は、1994年にオーストリアのグラーツで初演されたもので、いわば彼の出世作である。あまりの斬新さゆえに、トマトを投げつけられたという話が伝わっている。

 さて私の観た2つの『アイーダ』は、演出の面でまったくの両極端にあるものといっていいだろう。それは第2幕の凱旋の場面を観ればよくわかる。ゼッフィレッリの方はそれこそ絢爛豪華、数えきれないくらいの老若男女が登場し、本物の馬が闊歩する。コンヴィチュニーはそれとはまったく正反対の手法をとった。壁に囲まれた狭い室内で、アイーダをはじめとする数人の人物しか登場しない。凱旋の行進は部屋の外で行われていて、観客にはその勇姿は見えない。

 だいたいコンヴィチュニーの『アイーダ』は、一貫して額縁つきの室内で物語が展開する。装置といっても赤いソファが1つあるばかり。従来のファンからは詐欺だとの謗りを受けてもおかしくはない。しかしそのお陰で私は、『アイーダ』という作品の、絢爛さとはまったく別の側面を再認識することとなった。

 『アイーダ』は、スエズ運河開通を記念してカイロに歌劇場を建設したエジプトの太守から依頼された作品である。壮麗な見せ場を要請されていたことも察せられるが、当時ヴェルディは円熟の58歳、このオペラには重層的な人間ドラマが十分に織り込まれた。そしてコンヴィチュニーは過剰な装飾をばっさりとそぎ落とし、そのドラマに強烈な光を当てたのである。しかも今まで誰も試みたことのない、ヴェルディの反戦の意思を浮き彫りにした。

 第2幕のラダメスはエチオピア軍を打ち負かした英雄などではなく、ちょうどヴェトナム戦争帰りのアメリカ軍兵士のように疲弊している。軍服は血と埃で汚れ、表情も虚ろである。戦場で戦争の悲惨さを体験してきたに違いない。一方室内では、エジプト国王、祭司長、アムネリスが乱痴気騒ぎに興じている。

 この第2幕は、コンヴィチュニーの主観的な歪曲なのだろうか。そうではなさそうである。『アイーダ』初演は1871年12月24日。普仏戦争が終結した翌年である。ヴェルディは、プロイセンのヴィルヘルム1世をエジプト国王に投影させたのだ、という見方もあるのだ。友人に宛てた手紙のなかで、神の名のもとにヨーロッパを破壊したと、ヴィルヘルム1世を非難している。エジプト国王=ヴィルヘルム1世は、少なくともコンヴィチュニーにとっては、勃興する帝国主義の象徴なのだ。

 額縁つきの狭い室内空間は2度だけ開け放たれる。第2幕の最後、エチオピアの捕虜たちが慈悲を求める場面では、後ろの壁が突然開き、副指揮者に率いられたサブ・オーケストラと合唱隊が演奏している姿が現れる。それまで私の意識もまた狭い密室空間のなかにあったのだが、ここでまず開放される思いがする。虚構と現実が入り混じる新しい空間は、実に新鮮であった。

 最後の場面は、第2幕どころでない開放感を観るものに与えてくれる。地下牢と化した室内空間のすべての扉が開き、背後には大都会の夜景が舞台一面に映し出される。点のように小さく車が走り、電車が通り、ビルの窓の明かりが瞬く。閉じ込められて窒息死を待つしかなかったラダメスとアイーダが、手を携えてその夜景のなかに姿を消す。政治のドラマは、永遠の愛を歌い上げることにより、静かに幕が下ろされるのであった。

2008年4月17日 
オーチャードホール
指揮:ウォルフガング・ポージッチ
演出:ペーター・コンヴィチュニー
出演:[アイーダ]キャサリン・ネーグルスタッド   
    [ラダメス]ヤン・ヴァチック   
        [アムネリス]イルディコ・セーニ
        [アモナスロ]ヤチェック・シュトラウホ   
       [エジプト王]コンスタンティン・スフィリス   
       [祭司長]ダニロ・リゴザ   
東京都交響楽団、
東京オペラシンガーズ、
栗友会合唱団

2008年6月30日 j-mosa