北沢方邦の伊豆高原日記【93】
Kitazawa, Masakuni
美しい冬の日々がつづく。陽射しを浴びた裸の樹々の彼方、海も島影も青く、大島の断崖に砕け散る白い波頭も、肉眼でみることができる。乾燥しきっているので、庭の苔莚もすっかり黄色くなっている。
ホピ通信
ホピの今井哲昭さんから、炒った赤トウモロコシや焼きたてのピキ(青トウモロコシの薄焼きパン)などとともに便りをいただく。同封してあった「ナバホ・ホピ・オブザーヴァー」紙のトップに気になる記事がでていた。「ホピ憲法改正草案」をめぐる激しい論争がはじまっているというのだ。
BIA(合衆国インディアン事業局)の提案でホピ憲法修正草案No.24Aが提案され、部族議会の投票にかけられることになったという。それは、近年進歩派に属していたシパウロヴィ村でさえも伝統派に転向してきたように、伝統派の影響力が強固になり、部族議会政府の権力がますます制約されてきたことに対する進歩派の抵抗といえよう。
その内容は現憲法第3章3に規定されている「各村は、各村がいかにあるべきかについて決定権をもつ」を削除し、政府に決定権をもたせるという中央集権案といえる。伝統派の村々や知識人、あるいはさまざまな文化グル-プが集会をもち、反対運動をはじめているという。私としては彼らの勝利を祈るしかない。
ただこの問題に関しての亀裂はないと思うが、伝統派内部にも問題がないわけではない。
昨年の暮れ、マヤの超長期暦(Long Count)5,200年の終了を扱ったBS-TBSの「マヤ暦の真実」という番組をみた。2012年の12月21日にその日がやってきて、地球の終末を迎えるという俗説が、真実かどうかを検証するもので、とくに最後のマヤの長老ドン・アレハンドロの言明が感動的であった。つまりグレゴリオ暦のこの日はロング・カウントの終了日と正確に一致はしないし、ロング・カウントは一つの時代の終了を告げるものであって、それはわれわれに新たな時代を切り開く決意を迫る日付だという。地球温暖化など環境危機に直面しているわれわれは、それを克服して新しい時代を築かなくてはならないという。
この番組のなかで、マヤやアステカと文化的縁戚関係にあるといえるホピの予言が引用されていたが、聴いてあきれてしまった。すなわちマヤのロング・カウントと同じく、ホピはすでに3つの世界を経過し、いま第4の世界にいるが、やがてそれも終末を迎え、第5の世界にいたる。その終末は天空に青い星が出現することによって告げられる、という。ここまではほんとうのホピの預言である。だがホピは第4の世界では空を飛ぶ乗り物が現れ、地上を鉄の蛇が走り、などなど現代文明を正確に予言していたというのだ。
いうまでもなくこれは予言の「改作」あるいは「加工」である。ホピ伝統派の真の長老たちが声明できびしく糾弾した、日本にも何人もやってきた偽長老たちのようなひとびとが、ホピの神話や予言をより権威あるものにし、いわば神格化し、外国人たちを感服させるためにそうした「加工」をしたにちがいない。世界のなかでホピ・ブームがもっとも遅れてやってきたわが国では、そうした「加工」は容易に受け入れられてしまう。検証もなくこうした加工予言を垂れ流すメディアも、きびしく批判されるべきである。
それにしてもこうしたいい加減な伝統派がいることに、われわれ日本人は注意しなくてはならない。
ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」
楽友会フロイデの小林陽一さんのご厚意で、刊行されたばかりのベートーヴェン『ディアベッリ変奏曲』の手稿(周知のように、青木やよひもそのひとりであった世界の多くのひとたちや団体からの寄付でベートーヴェン・ハウス・ボンが昨年購入した)のファクシミリ、およびベートーヴェンの手書きの贈呈の辞(ロブコヴィッツ侯爵の司書で年金担当者のフォン・ダム宛て)が書き込まれたその初版のファクシミリをいただいた。ベルンハルト・アッペル、ウィリアム・キンダーマン、ミヒャエル・ラーデンブルガー諸氏による詳細な分析と解説がつけられている。
手稿のファクシミリは、ベートーヴェンの手稿にしては比較的読みやすいし、抹消や挿入も少ない。それだけに一気呵成に書かれたその勢いが伝わってくる(変奏曲31番の最後が青木の追悼コンサートのプログラムに使われているが、ベートーヴェンの筆跡にしてはじつに美しいことを覚えておいでと思う)。
解説も数々のスケッチ・ブックが引用され、この音の宇宙全体がどのように生成していったかが如実にわかるようになっていて、わくわくしてくる。キンダーマン氏が分析の最後に献呈者アントーニア・ブレンターノに触れ、「ベートーヴェンの《不滅の恋人》であったと考えられるひと」としているのも、ソロモン=青木説が世界的に認知されていることの反映であるだろう。全体を詳細に読むのを楽しみにしている。
心から心へ
「心から心へ(vom Hertz zu Hertz!)」は、いうまでもなくベートーヴェンが『ミサ・ソレムニス』の冒頭に書きこんだことばであるが、作品はともかく、演奏を通じてこの言葉を実感するようなコンサートはめったにお目にかかれない。
1月16日に表参道のカワイ・コンサートサロンで、「うたのいのち うたのゆめ」と題して行われた新実みなこソプラノ・リサイタルは、ひさびさにこのことばを実感させてくれた。
「この道」「待ちぼうけ」などの古典的な日本歌曲(夫君の新実徳英の編曲で、吉村七重・田村法子の筝の伴奏)や、中田喜直や武満徹の戦後の代表的歌曲、そして新実徳英の「5つのメルヒェン」「白いうた・青いうた」などが歌われた。
おそらくこれらの歌を、より「美しく」ベル・カントでうたってくれる声楽家は数多いと思う。だが日本の歌曲をイタリア流のベル・カントでうたうことに強い違和感を覚えてきた私を、彼女はまずみごとに裏切ってくれた。よく透る発声であるが、きわめて自然に明晰に日本語を伝えてくれるのだ。そのうえそこには鳴り響く「心」がある。単純な感情移入ではなく、そのことばと旋律に含まれる「絵」をみごとに浮かび上がらせる。これはえがたい才能である。
戦後のもっともすぐれた反戦歌曲ともいうべき「死んだ男の残したものは」(谷川俊太郎詩・武満徹作曲)は、いままで聴いてきた数々の記憶のなかでもベストであり、心の底のなにかが震えるのを感じた。
還暦記念のデビューだというが、今後もぜひ続けてほしいと思うのは私だけではないだろう。