一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その3

2007-02-23 23:41:19 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その3

美こそが愛するに足りるもの――ヴィスコンティの『ベニスに死す』

 アルコールが入ると聴きたくなる音楽がある。マーラーの交響曲もそのうちのひとつで、先週も、職場近くの居酒屋で飲んだ帰り、iPodから聴いたのは第4交響曲だった。鈴の音とともに始まる第1楽章の素朴な出だしを聴くたびに、私の心は、何十年も昔の中学時代に帰っていくような気がする。小遣いを貯めてやっと手に入れたバーンスタイン指揮の第4番交響曲のLPは、私の宝物のひとつだった。期末試験の終わった夜などの、音楽好きの仲間と一緒に聴く、あの幸福な時間を懐かしく思い出すのである。

  ところで、飲むとなぜマーラーが聴きたくなるのか。その秘密は、マーラーの音楽の持つ過剰さにあるのではなかろうか。人間の感情や思想のみならず、動物、植物、鉱物、さらには惑星、恒星と、その表現する世界はまさに宇宙そのものである。神や天国も登場する。飲んで異常に鋭敏になった感覚は、マーラーの拡大・拡散した宇宙をそのまま受け入れるのであろう。

 さて昨年は、ルキーノ・ヴィスコンティの生誕100年を記念する年だった。NHKのBSでもヴィスコンティの映画が何本か放映された。『ベニスに死す』はそのうちの1本で、私は三十数年ぶりでこの映画を観ることになった。そして、この映画が実は、音楽映画であることを発見したのだった。つまりヴィスコンティは、マーラーの第5交響曲の第4楽章アダージェットを映像化するために、トーマス・マンの原作を用いたに違いないと確信したのである。主人公が、原作の作家から作曲家に変更されていることも、私の独断を後押ししている。

 ハープと弦楽器のみで奏でられる第5交響曲のアダージェットは、数あるマーラーの緩徐楽章のなかでも、もっとも美しいもののひとつである。マーラー特有の誇大さもなく、人間のひたむきな感情を素直に聴き取ることができる。恋する対象が女性であれ少年であれ、その焦がれるような激しさと不安、憧れ、甘美に満ちた恋の感情が、余すところなく表現されている。エロスと美が、これほど渾然一体となった音楽も珍しい。この楽章から、ヴィスコンティは、ヴェネツィアのリドの砂浜に戯れる美少年の姿をひたすらに追う老作曲家像を作り上げたのに違いないのだ。

  美のみが愛するに足りるものであり……美こそはわれわれが感覚的に受け容れ、感覚的に堪えることのできるたったひとつの、精神的なものの形式なのだ――ソクラテスが美青年パイドロスに語った言葉を、トーマス・マンは『ベニスに死す』で引用している。ヴィスコンティは、この小説の他の要素は切り捨て、全編をマーラーの音楽で満たすことによって、美の本質をみごとに映像化したのである。

1971年イタリア・フランス映
監督:ルキーノ・ヴィスコンティ
出演:ダーク・ボガード/シルヴァーナ・マンガーノ/ビヨルン・アンデルセン


2007年2月23日 j-mosa


教育シンポジウム開催のお知らせ

2007-02-17 22:53:48 | 活動内容

知と文明のフォーラム★日本女子大学人間社会学部教育学科・文化学科★共催

■■■シンポジウム■■■■
北欧型教育と日本の教育

――デンマーク・オランダ・フィンランドと日本を比較して――

子どもに、ほんとうに考える力と生きる力を身につけてほしい。
賞罰や競争で子どもを追い立てない教育がほしい。
このような教育のありかたは、今の日本では不可能なのでしょうか。
ひとりひとりを尊重した教育実践を重要視する北欧型教育について学び、
日本型の教育と比較することによって、
よりよい教育のための展望をさぐります。
 

 オランダ在住で子ども二人を育てたリヒテルズ直子、デンマークに子ども三人と滞在した伊藤美好、フィンランド教育などを研究する古山明男、日本の教育行政学を専門とする佐藤全が、身近な生活から制度まで、北欧と日本の教育を縦横に語ります。

日時・・・・・2007年3月3日(土) 14:00-16:30
●場所・・・・・日本女子大学目白キャンパス 香雪館202号室 
        (JR目白駅から徒歩15分、バス5分)
●参加費・・・無料

発言者紹介

リヒテルズ直子
(りひてるずなおこ)
1955年下関市生まれ。九州大学(教育学修士・社会学博士課程単位取得中退)出身。1996年よりオランダ在住。翻訳・通訳業の傍ら、オランダの教育や社会情勢についての自主研究を続ける。著書に『オランダの教育多様性が一人ひとりの子供を育てる』『オランダの個別教育はなぜ成功したのかイエナプラン教育に学ぶ』(共に平凡社)、共著に『学力を変える総合学習』(明石書店)など。

伊藤 美好(いとうみよし)
1956年名古屋市生まれ。京都大学文学部史学科卒業。専攻は西南アジア史学。北欧留学情報センターでデンマーク語とスウェーデン語を学ぶ。東京都在住。著書に『パンケーキの国で子どもたちと見たデンマーク』(平凡社)、共著に『笑う不登校』(教育資料出版会)、『戦争のつくりかた』(マガジンハウス)、『11の約束えほん教育基本法』(ほるぷ出版)など。

古山明男(ふるやまあきお)
1949年千葉市生まれ。京都大学理学部卒業。動物雑誌などの編集者を経て、私塾・フリースクールを開設し、不登校の子どもたちの支援や教育相談に携わる。一方、古山教育研究所を主宰し、国内外の教育史や教育制度を研究する。イギリス、アメリカ、オランダ、フィンランドなどの教育行政を視察する。著書に『変えよう!日本の学校システム教育に競争はいらない』(平凡社)など。

佐藤 全(さとうあきら)
1940年宮城県生まれ。東北大学大学院教育学研究科修士課程終了後、県立高校教員、私立大学専任講師、東北大学助手、香川大学助手・講師・助教授、国立教育研究所主任研究員・室長・部長を経て、現在日本女子大学人間社会学部教育学科教授。教育学博士(東北大学、1983年)。最近の著作に『教育経営研究の理論と軌跡』(玉川大学出版部、共編著)、『教員の人事考課読本』(教育開発研究所、編著)、「政策過程から見た教員評価制度の特質と課題」(『教育社会研究』第72集、分担執筆)など。

後援:平凡社 お問い合わせ先:知と文明のフォーラム 東京事務局042-371-8165


伊豆高原日記【21】

2007-02-13 21:05:01 | 伊豆高原日記
北沢方邦の伊豆高原日記【21】
Kitazawa,Masakuni

 暖冬の影響だろう。早咲き遅咲きの梅がいっせいに満開となり、水仙の白い花の芳香が庭に満ち、椿の花はすでに落ち、地上に真紅の斑点を散らしている。

 年々タイワンリスの被害が増大している。わが家には、ユズ、キンカン、夏ミカン、タチバナ、レモン、グレープフルーツなど柑橘類の樹々があり、かつては季節に応じてゆたかな実りを楽しんでいたのだが、いまは、果実が色づくやいなや、知らぬ間にやってきて食い荒らす。一夜で全滅である。ホンドリスは秋にせっせとドングリなど木の実を巣穴にためこみ、冬眠するのだが、タイワンリスは冬眠をしないので、冬の餌に困り、果実だけではなく、樹皮を食いちぎり、枯らせてしまう。ヴィラ・マーヤの樅の木も被害にあい、いまや茶色に枯れた葉むらをさびしげにさらしている。

母なるものとしてのフープ・ダンス

 「アリゾナ・ハイウェイズ」という雑誌を購読している。アリゾナ州運輸局が発行する州のPR誌であり、ふだんはグランド・キャニオンなど州の観光スポットを、美しいフォリオの色彩写真や記事で紹介している。ときおり地元のアメリカ・インディアンの文化や歴史が、考古学者や人類学者などの正確な解説づきで特集されるので、定期購読がやめられない。

 2007年の2月号が待ちに待ったその特集であった。プエブロ・インディアンの遺跡とその歴史、アリゾナの山岳地帯の各地に残された岩絵(ペトログリフ)芸術とその意味、祭りとしてのナバホ族の伝統的な競馬、毎年州都フェーニクスのハード博物館(The Heard Museum)の中庭で開催されるフープ・ダンス競技会などが、じつに生き生きとした鮮明な色彩写真で紹介されている(いつもながらアメリカの写真家のレベルの高さに圧倒される)。

 そのフープ・ダンスだが、わが国でも昔フラ・フープという名で流行した輪(フープ)を使った踊りである。その起源は、アメリカ・インディアンにひろく伝わるこの儀礼舞踏にある。

 子供のクラスから成人のクラスまで、業を競うのだが、ヤナギの枝で作った輪(近年はプラスティック製も登場するが)もひとつではなく、数個から50個までを身にまとい、地に落さず自在なみぶりで踊る。桶型太鼓の腹にひびくリズム、聖なる歌をうたう男たちの力強い合唱を背景に、華麗な民族衣裳をまとった男たちが、神業のような踊りを繰りひろげる。技術も評価されるが、肝心なのは輪が象徴する霊力をどれほど深く表現し、ひとびとに伝達できるか、である。

 今年優勝したのは、カナダ・クリー族の青年ダラス・アルカン(Dallas Arcand)であるが、おどろくべきことに、ナバホの長老ジョーンズ・ベナリー(Jones Benally)の踊りが、その深遠さと優雅さで観衆を圧倒したという。彼は「風と同じ年さ」といって語らないが、かつて20世紀初頭にアメリカ中を渡り歩いた「バッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショウ」に子供として参加していたのであるから、百歳を超えていることは間違いない。

 彼らにとって輪のもつ意味とは、母なる地球とその回転(それが50個もの輪をまとう所以である)のなかに、胎児として存在することであり、母なるものが生みだす生命の躍動に身をゆだねることである。ラグナ・プエブロ出身の作家ポーラ・ガン・アレンによれば、アメリカ・インディアンは古代から地球が球体であり、時間は循環することを知っていたという(P.G.Allen. The Sacred Hoop. 1986. P.59)。

ふたたび教育について

 教育再生会議や教育諸法の国会審議など、安倍内閣の「教育改革」なるものが、鳴り物入りで進行中である。その方向は、教育の国家管理の維持、学校間格差・地域格差などの容認、教育に効率性や経済的競争原理の導入などであるらしい。

 小泉「経済改革」がもたらした、国際競争力の養成という名目の多国籍大企業の徹底的優遇、それによる国民の所得格差の増大やワーキング・プーアの出現、零細企業の解体、地域格差の拡大、労働条件と労働環境の劣悪化、激烈な競争社会のもたらす倫理や人間感情の麻痺と犯罪の多発など社会状況の悪化で、それに対する批判がようやく高まりつつあるが、安倍「教育改革」は同じ原理を教育にとりいれようとするものである。後悔先に立たず、いまから批判の声をあげるべきであろう。

 そのさなかに、NHKBS1テレビ「未来への提言」(2月12日)で、フィンランドの元教育相オリ=ペッカ・ヘイノネン(Olli-Pekka Heynonen)氏へのインタヴューを中心にした「フィンランド教育改革」の実情が紹介された。その核心は、教育の国家管理からの解放、教育の機会均等の徹底、教育現場や自治体や市民などによる教育の裁量権の拡大などであり、安倍改革の正反対を行くものである。その結果、OECDの教育判断力(リテラシー)テストでは、近年フィンランドの子供たちはつねに世界のトップでありつづけた。

 ただ番組の時間の制約かもしれないが、実に生き生きとして創造的に立ち働く教師たちの労働条件や給与、さらにひろくフィンランド社会の労働条件など、教育をとりまく状況や環境が紹介されなかったのは残念である。なぜなら、グローバリズムの負の遺産に席巻されているわが国では、教師をとりまく労働条件や環境は劣悪であり、リポートで映しだされた、長椅子や安楽椅子が置かれ、飲み物をとりながら討議や談笑ができるひろびろとした教員室や、教師たちが研究できる時間のゆとりなど、夢のまた夢でしかないからである。毎年30パーセント近くの教員が辞めていく現状の徹底的分析とその対策が打ちたてられないかぎり、フィンランド教育改革のたんなる模倣は失敗に終わるほかはない。

 われわれ「知と文明のフォーラム」でも、3月3日、日本女子大学との共催で教育シンポジウムを行うが、こうした社会状況全体の改革が連動しないかぎり、北欧などのモデルに習う「反安倍教育改革」の提言も、絵に描いた餅で終わるしかないだろう。このことを肝に銘じたい。

● コメントについて
「伊豆高原日記」にコメントありがとうございます。多忙にまぎれ、いちいちご返事できませんが、悪しからずご了承ください。なお北野さん「スバルタン」とはなんでしょう。寡聞にして知りませんのでご教示ください。

おいしい本が読みたい④

2007-02-04 00:41:28 | おいしい本が読みたい
おいしい本が読みたい●第四話   ベートーヴェンの横顔が見える

 二世紀近く先を歩む人であれば、その後ろ姿は二百年の霧に包まれておぼろげになる。まして個性的なエピソードに事欠かぬベートーヴェンのような人は、なおのこと虚像の歪みも大きくなるだろう。わたしたちの大方は、いびつな「英雄」ベートーヴェンを仰ぎ見てきたにちがいない。

 青木やよひ著『〔決定版〕ベートーヴェン 〈不滅の恋人〉の探求』(平凡社)を読めば、そんな時間の霧や人々の曲解によるオーラのない、鮮明なベートーヴェン像が手に入る。なぜか。

 ひとつには、筆者みずからの足を運んで参照した一次資料が豊富なこと。大学などのアカデミックな制度のなかに籍をおく者ならいざしらず、いわば在野でこのような現地調査をやる気迫はすごい。そして、もうひとつは、透徹した推理と論理性に貫かれていること。おそらく読者は、文体からある種の論理的リズムを受け取り、そのリズムが波線となって音楽家の像を縁取るのを感じるだろう。

 ここに至ってわたしたちが手にするのは、もはや彼の後姿ではない。わたしたちの隣人と呼んでもいいような彼の横顔である。彼との距離が一挙に縮まったのだ。ただし、このことだけは銘記しておきたい。ベートーヴェンがわたしたちに近づいたのではなく、わたしたちのほうが彼に近づいたのだということを。凡百の伝記作家は、才気ある創造者が生活人としてもたねばならぬ世間的、通俗的側面を強調することで、世人の関心を買おうとする。そうやって天才をわたしたちのレベルに引きずり降ろしても、得るものは何もない。

 この本の著者はちがう。音楽家のあまりに人間的な闘いぶりを見つめているわたしたちのほうこそが、しらずしらずのうちに、自分のうちにもそのような闘いに向かう気構えが備わってくるように思えてしまうのだ。勇気がわく、といっていいかもしれない。このとき、わたしたちは少しばかりベートーヴェンに近づいているのだ。もちろん、著者の筆の力によって、である。                                       

むさしまる