一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

東アジアを超える「東アジア共同体」の構想を③

2010-02-25 21:29:17 | 「東アジア」共同体構想



     本稿は、2009年9月にソウルで開かれた国際シンポジウム『二一世紀の東アジアを構想する』
     での基調講演に加筆したもので、すでに月刊誌『世界』2010年1月号に掲載されています。
     ここでは、4回にわけて掲載します。本稿の
コピーや転載を禁じます(知と文明のフォーラム)。
    
   見出し一覧 
    導入 ●二一
世紀の挑戦・・・・・・・(その1)
     ●東北アジア共同体の条件 ●非核共同体 ●不戦共同体・・・・・・(その2)
    ●安全保障のイニシアティヴ ●体制改革のイニシアティヴ・・・・・・・・その3
    ●国家の境界を超える「共同体」
    ●東アジアのアイデンティティ ●東アジアを超える「東アジア」

 
  安全保障のイニシアティヴ

 しかし現実には、この半世紀、北朝鮮は圧倒的に軍事的優位に立つ米国が、その同盟国である韓国と日本に軍事基地を設けて敵対する体制によって、「封じ込め」られてきており、この非対称的な劣勢から少しでも脱却して、対北朝鮮攻撃の公算を減らす道として、核武装をするに至った。その目的は、米国や日韓の脅威に対して、北朝鮮の「国家の安全保障」と「体制の安全保障」とを、より確実にすることにあると考えられる。その点では、圧倒的な人口をかかえるアラブ諸国によって「地中海に蹴おとされる」恐怖から抜けきれない、イスラエルの「孤塁死守」のメンタリティに似ている。

 したがって北朝鮮の側での戦争への恐怖を和らげ、朝鮮半島での戦争の危険を最小限にまで減らすためには、非対称的な優位に立つ米国と韓日とが、先ず緊張緩和のイニシアティヴをとることが不可欠である。およそ非対称的な対立関係では、弱者は屈従するか、狡猾で不法な手段に訴えるか以外の選択肢はないのであって、関係改善のイニシアティヴは先ず強者がとるのが当然である。具体的には、現在米国は、「先ず北朝鮮が非核化を実行せよ。そうすれば、休戦協定の平和協定への格上げや経済支援などを積み重ねて、究極的には米朝関係正常化に進む」と公式に主張しているようだが、それは優先順位が逆であって、先ず米国が米朝正常化や平和協定締結を確実に行うことによって、北朝鮮の非核化を容易にし、朝鮮半島での相互の軍縮を進めるという道をとるべきである。また戦争を想定して年中行事のように行っている、米韓合同軍事演習は、早急に縮小していくべきである。

 そして日韓両国は、米国がこのような政策をとるようにはたらきかけるだけでなく、北朝鮮との武力衝突の可能性を少しでも減らすために、日韓共同して緊張緩和と平和共存の努力を真剣に行うかどうか、それが「東北アジア共同体」を創る意思があるかどうかを示す、第二の試金石である。

  体制改革のイニシアティヴ

 しかし、それは北朝鮮の現在の体制の安全保障を目的とするものではない。なぜなら、政治体制の安全保障は、エドマンド・バーク以来の「保守するために改革する」という知恵、つまり体制を維持するためにこそ改革を積み重ねるという、政権指導者の自己改革の英知なしには困難だからである。それは、基本的に内発的に行われなければならないことである。

 しかし日本や韓国が、北朝鮮のそうした改革を促進し助成するために、また日韓自身の改革のためになすべきこともある。それは、二○世紀に経済発展の指導原理とされた自由市場経済主義と国家社会主義とのいずれもが破綻したところから出発した二一世紀に、いかなるオールタナティヴを創出していくかという課題について、まず日本と韓国が協力しつつ新たな構想を打ち出していくことである。その詳細について、ここで述べることはできないが、基本的なことは次の二点であると言えよう。

 第一に、日韓のそれぞれが、社会経済的な格差を最小限にした社会を創ることである。それは「共産主義」のような機械的平等を指向するのではなく、ロールズ(John Rawls)の「格差原理(difference principle)」に倣って言えば、社会的・経済的不平等の完全除去は不可能だとしても、そこに生じる最底辺の人々の生活水準を、できるだけ引き上げることである。現に、日韓両国のどちらも、また世界の多くの国が、失業やワーキング・プアの問題をかかえ、医療、老人介護、教育費などの分野での弱者保護の切実な課題に当面している。もちろんこれらは、それぞれの国家が取り組むべき課題であるし、社会によって事情や条件が同じではないが、しかし現在では、一国単位では対処できない問題が増えているだけに、日韓が協力体制をつくって格差なき社会の構想を打ち出すことは、「東北アジア共同体」の創造と結束に不可欠である。

 また、実際これまでの歴史において、どの国も、通商・通信などを通じて他の国の経験や制度を、直接・間接に参考にし、導入し、相互に影響し合ってきた(例えばアメリカ・モデルや日本モデルの失敗から、現在では北欧モデルなどが注目されている)のであるから、日韓が協力して格差・不平等を最小限にした社会を創り出す過程は、中・長期的に北朝鮮の政府や国民にも影響を与えるに違いない。

 第二は、こうした弱者救済を、それぞれの国内においてだけでなく、北朝鮮への「人道支援」という形で、韓日共同で行うことである。この点で、日本のこれまでの行動は「共同体」創造に最もふさわしくないものであった。○二年の日朝ピョンヤン宣言で、日朝正常化後に実施する「経済協力」の具体的内容について「誠実な協議」を開始すると約束しながら、全く行っていない。また、○七年に六者協議で韓米中露四国が重油支援に合意したにも関わらず、日本だけは拉致問題未解決を理由に拒否した。もちろん、これは純粋な人道支援ではなく、北朝鮮の核開発を防ぐための代替エネルギー支援であるが、重油が北朝鮮の軍事的のみならず民生用の生産に必要なエネルギー資源であることはいうまでもない。

 さらに、より純粋な人道支援について言えば、日本の「拉致家族団体」が、北朝鮮へのコメ支援は軍用にまわされるだけだという理由で、中止を政府に要求したとき、私が「自分の子どもが拉致されたのを非人道的だと怒るのであれば、飢えている北朝鮮の子どもに、日本の余剰米を送るのさえ拒否するのは非人道的ではないか」という批判を新聞に書いたところ、激しい非難の「公開書簡」を送ってきた。そこで私は、「仮に送った米が軍にまわされるとしても、北朝鮮に米を送らなければ、軍以外の子どもや民間人へまわされる米が、一層減るだけではないか」と述べたのに対して、反論はなかった。

 この事例は、日本に「普遍的なヒューマニティ」の観念が極めて乏しいことを示している。この重要な点については更に後述したいが、確かに環境問題により、日本人の間に「地球的」関心が増えてきた結果、「エコ・カー、エコ・バッグ、エコ・ポイント・・・」など、「エコ」という言葉が、プラスのシンボルとして流行していることは好ましい風潮と言えよう。他方、北朝鮮でも、豪雨・土砂崩壊、旱魃などの環境変動や、資源の枯渇やエネルギー資源不足などが、深刻な問題として認識されていることは明らかである、したがって、東北アジアの環境保全の分野でも日韓両国の協力および北朝鮮との協力は欠かせないはずである。

 しかし、日本の場合、エコロジカルな関心は、地球温暖化規制に対する各国の自国中心の反応と同じく、環境破壊が自分にもたらす利害の如何を重視する姿勢が顕著であることは否めない。もちろん環境破壊は、こうした近視眼的な受け取り方だけをされているわけではない。例えば。中国で発生する酸性雨や砂漠化を抑制するために、日本の官民の援助がなされてきている。しかし、それも、日本人自身に悪影響を及ぼすからであって、北朝鮮の洪水や旱魃には全く関心を示さない。ここには「東アジア共同体」としての連帯意識は存在していない。  

                      (その4へ続く)


おいしい本が読みたい【14】

2010-02-21 21:23:57 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第十四話
 
                       肖像画は語る  


 新書版の見開き2ページで一人、百人で二百ページ、これで一冊。何の話かと言えば、出久根達郎の『百貌百言』(文春新書)のことだ。あとがきに「人の特徴は、逸話と言葉に、端的に表われる。人の面白さも、またこの二つにあろう。すなわち風貌と言辞である」と記されている。で、このタイトルか。 

 それはそれとして、2ページの額縁に個性豊かな百人を過不足なく封じ込めてゆくのは、並大抵の業ではない。しかも、一筆書きの妙がある。達意の文章家たる出久根の面目躍如といったところで、一読を勧めたい。 

 これとは対照的に、木村俊介の『変人 埴谷雄高の肖像』(文春文庫)は埴谷雄高ひとりを描くために、27人にインタヴューした作品である。出久根の肖像画が一筆の色でひとりを染め上げたとするなら、こちらはひたすら黒子に徹して自分色を排し、他人の意見という借りてきた出来合いの色彩で、厄介な肖像画を仕上げたことになる。なるほど、こういうブリコラージュもある。 

 面白いのは、いかに変人とはいえ、埴谷にたいする印象がこうも違うかというところ。並み居る作家連中がそれぞれ自分の読み取りたい埴谷像を、あるいはこう言ってよければ、自分の身の丈に合わせた埴谷像を描いている。そこが筆者というか合成家の木村がそもそも目指したところらしい。「無理やりたった一つの、「真実」の埴谷雄高像を抽出するのはやめようと思った」とあとがきにある。 

 そのたった一つの「真実」ならぬ「誤ったベートーヴェン像」を「一掃したい思いに駆られ」て心血を注いだのが、青木やよひの遺作『ベートーヴェンの生涯』(平凡社新書)である。これはまた、一個の天才の生涯をまさしく生涯をかけて描ききった労作だ。「生涯をかけて」を「生涯を賭けて」と言い換えてもいい。なぜなら、半世紀をこえる研究期間の長さだけでなく、病魔に襲われた肉体の限界をこえて、原稿用紙の文字に、残されたエネルギーのすべてをそそぎ込んだからである。鬼気迫るとはこういう執筆執念をいうのだろう。 

 上記二作とはまったく趣を異にする、正面切った闘い、みごとな一騎打ちではないだろうか。その証拠に、遺された肖像画は、青木やよひでなければ書きえないような、「きわめて人間的で徹底した自由人であったベートーヴェンの相貌」を、不思議と静けさが漂う筆致で描いている。 

 「青木ベートーヴェンの誕生」だけなら手放しで喜べたのだが…                               

                                むさしまる 


楽しい映画と美しいオペラ―その26

2010-02-18 09:06:37 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その26

   「不安」の根源を衝く現代オペラ
        プーランク『カルメル会修道女の対話』

 
 「カルメル会修道会」といわれても私たち日本人には馴染みのない名前である。カトリックの修道会では「イエズス会」がもっとも日本で知られているだろう。日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルが所属していた会派であるし、現在でも世界で最大の男子修道会である。東京の上智大学や広島のエリザベト音楽大学を経営しているのも、イエズス会である。

 イエズス会の創設が16世紀であるのに比べて、カルメル会が正式な修道会として認可されたのは13世紀であるという。さらにその伝説上の開祖は旧約の預言者エリアと弟子のエリシャで、パレスチナのカルメル山が発祥の地であるとのこと。観想を旨とするのが特色で、その傾向がいっそう強まったのは16世紀のアヴィラのテレサと十字架のヨハネの改革以降であるらしい。彼ら改革派を跣足(せんそく)カルメル会、旧来の集団を履足(りそく)カルメル会と呼ぶ。日本には1933年に女子跣足カルメル会が、52年に男子跣足カルメル会が渡来し、現在でも布教活動を行っているとのことだ。ちなみに作家の高橋たか子に決定的な影響を与えたのは、このテレサとヨハネである。  

 さてこのオペラは、フランス革命時に実際に起きた、コンピエーニュ(パリから北東80キロの閑静な街)の女子カルメル会に関わる事件をもとにしている。「反革命的な陰謀を企てた」として死刑に処せられた、16人の修道女の受難物語である。物語の多くが史実に拠っていながら、主人公の貴族の娘、ブランシュは架空の人物である。このブランシュを創造したことによって、このオペラはより普遍性を獲得した。それは、人間の抱える根源的な「不安」が、主要テーマとなったからである。  

 そもそもブランシュは、母親が恐慌に陥っている最中に生れた。王太子とマリー・アントワネットの婚姻を祝う花火が暴発し、パニック状態の群集が侯爵夫妻の馬車に暴行を加えたのだ。数時間後館に帰り着いた夫人は、女児を産み落として亡くなる。こうして誕生したブランシュは、病的なまでに怯えやすい少女として育つことになった。生れ持った繊細な資質に加えて、時代は革命前夜、パリには不穏な空気がみなぎっていた。ブランシュは身を蝕む不安に耐えかね、修道院入りを決意する。

 このオペラの原作は、ドイツの女流作家ゲルトルート・フォン・ル・フォール(1876-1971)の『断頭台の最後の女』である。それが発表された1931年はすでにヒトラーの権力が確立されつつあった。「来るべき運命をひしひしと予感させる暗雲が、すでにドイツの上にたれこめていた時代の、ふかい恐怖感から生まれで出たこのブランシュの姿形は、いわば〈終末にむかいゆくひとつの時代全体の死の不安の具現〉として、わたしの眼前にあらわれて来たのだった」と、ル・フォールは『手記と回想』に書いている。彼女は不安にとらわれた自身の心的状態をブランシュに投影したのだった。  

 オペラの台本は、ル・フォールの小説をもとに書かれたジョルジョ・ベルナノス(1888-1948)の戯曲に、作曲者フランシス・プーランク(1899-1963)自身が手を加えている。作曲は難航した。不安と恐怖をテーマとするこの作品は、ベルナノスを死の床に導いたようだが、プーランクをもパニック状態に追い込んだ。ひどい不眠症におちいり、一時は入院治療を余儀なくされたという。オペラの完成は1956年6月。2年10ヶ月の歳月を要した。翌57年1月26日、ミラノ・スカラ座においてイタリア語初演。フランス語による初演は、同年6月21日、パリ・オペラ座で行われた。  

 革命前夜という社会的な不安、ブランシュの心を蝕む内面的な不安、さらに修道院長クロワシーをとらえる死の不安。音楽は、騒乱、不安、死を暗示する響きに満たされている。なかでも、クロワシー院長臨終の場面は、第1幕最大の聴きどころである。彼女は激痛に耐えかね、神を冒涜する言葉さえ口にする。修道院長の威厳が次第に崩れ去るこの長丁場を、郡愛子は深いコントラルトの声を制御して見事に歌いきった。

 長年神に仕えてきた、尊敬すべき院長の錯乱。その姿を目の当たりにしてブランシュの心はさらに動揺する。そして時代は恐怖政治へと進行しつつあった。修道士・修道女の追放と修道院の売却が決定される(1792年9月)。第3幕第1場は略奪され荒涼とした礼拝堂。新しい院長は不在だが、マザー(上席修道女)・マリーの主導のもと殉教の誓いが立てられる。ブランシュもその誓いに加わるものの、恐怖にかられて修道院から逃走する。冷静な新院長と情熱的なマザー・マリーの対比もよく書けている。本宮寛子は静かな威厳を表現して貫禄十分にリドワール院長を演じ、牧野真由美も誇り高く強靭な心のマザー・マリーをよく歌った。

 それから約2年後の1794年6月、隠れ住んでいた修道女たちは告発・逮捕され、パリに移される。ただマザー・マリーは所用でパリに出かけており、逮捕を免れた。そしてこの悲劇を後世に書き残すことになる。ここまでは史実である。一方、修道院からパリに逃げ帰った物語上のブランシュは、占拠された父の家で使用人として働いている。兄は亡命し、侯爵である父は断頭台に送られた。なにものも信じられなくなっているブランシュは、買い物に出かけた路上で偶然カルメル会修道女たちの逮捕を知る。

 最後の第3幕第4場、革命広場の場面は素晴らしい。群集が見守るなか、15人の修道女がギロチンにかけられていく。声を合わせて歌われていた「サルヴェ・レジーナ(天の王妃よ)」が、一人またひとりと処刑されていくにつれ、小さくなり弱まっていく。不規則に挿入される不気味なギロチンの音。群集に紛れてその有様を見つめていたブランシュは、15人目の修道女が処刑される直前に断頭台に進み行き、16人目の殉教者として聖歌を歌い継ぐ。不条理な死を、神への信仰心が克服する感動的な場面である。

 簡素で品格のある舞台、歌手たちの抑制された演技――松本重孝の演出は印象深いものだった。そしてなによりも、プーランクの緊張感と透明感に満ちた音楽を、じつに細やかに美しく演奏してくれた指揮のアラン・ギンガルには、心から敬意を表したい。合唱を含めて、この舞台は、藤原歌劇団の水準の高さを認識させてくれた。

2010年2月7日 東京文化会館
ブランシュ:佐藤亜希子
クロワシー修道院長:郡愛子
リドワーヌ修道院長:本宮寛子
マザー・マリー:牧野真由美
コンスタンス修道女:大貫裕子
ド・ラ・フォルス侯爵:三浦克次
騎士フォルス:小山陽次郎
東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:アラン・ギンガル
演出:松本重孝

2010年2月10日 j-mosa


東アジアを超える「東アジア共同体」の構想を②

2010-02-14 07:42:31 | 「東アジア」共同体構想


    本稿は、2009年9月にソウルで開かれた国際シンポジウム『二一世紀の東アジアを構想する』
    での基調講演に加筆したもので、すでに月刊誌『世界』2010年1月号に掲載されています。
    ここでは、4回にわけて掲載します。本稿の
コピーや転載を禁じます(知と文明のフォーラム)。
    
   
   
見出し一覧 
    導入 ●二一
世紀の挑戦・・・・・・・(その1)
     ●東北アジア共同体の条件 ●非核共同体 ●不戦共同体・・・・・・(その2)
    ●安全保障のイニシアティヴ ●体制改革のイニシアティヴ ●国家の境界を超える「共同体」
    ●東アジアのアイデンティティ ●東アジアを超える「東アジア」

   東北アジア共同体の条件

 「東アジア共同体」という理念や政策提言は、これまでにも数多く述べられてきた。しかし、その大部分は、通例、日韓中を軸とした「東北アジア」の協力組織と、ASEANに代表される「東南アジア」の地域組織化とを連結して構想するものが多い。ところで、その中でとくに日韓中を柱とする「東北アジア」の協調に力点をおく考えは、それ自体としては、きわめて建設的な構想であるが、意識的に、あるいは事実上、北朝鮮の参入を後回しにすることによって、現実には、しばしば北朝鮮を包囲する体制を築く機能や目的をもつことになりがちである。

 そこで、私は、ここでは逆に北朝鮮問題を中心にすえて、一体これをどのように解決することを通じて二一世紀の東アジアを創るのか、という課題を考えてみたい。

 朝鮮半島の南北分断は、二○世紀の冷戦が二一世紀に続いている世界で唯一のケースだが、それは米ソの「冷たい戦争」と呼ばれ、ギャディス(John Gaddis)などが超大国中心の視点から「長い平和(long peace)」とさえ呼ぶ対立が、ここでは血みどろの戦闘と同胞殺戮によって深い傷痕をのこしただけに、それを癒すことは容易ではない。この困難を端的に示すのは、近年の北朝鮮の核武装である。これは、分断ドイツにも分断ヴェトナムにもなかった問題である。

ここで、われわれは問題を二つに分けて考える必要がある。

   非核共同体

 第一は、核兵器そのものの反人間性である。一九四五年八月に広島・長崎に投下された二発の原子爆弾が、日本帝国崩壊の重要な決め手の一つになり、朝鮮半島・中国を含むアジアの多くの人々が歓声を挙げたことは、十分理解できる。しかし、二発の爆弾で、即時に約二○万の人間を殺し、その後の放射能障害で、さらに数十万の人々を今日に至るまで苦痛と死に陥れているという現実は、単に日本帝国主義の終末だけでなく、世界人類の終末を予示する恐るべき「核時代」の始まりを意味するものであった。それを示すのは、広島・長崎での犠牲者の圧倒的多数は、もはや両市に多くの戦闘員が残されていなかった日本の軍隊ではなく、女性、子ども、老人などの非戦闘員だっただけでなく、植民地から連行されてきた朝鮮の労働者、つまり植民地支配の犠牲者も数多く殺されたということであり、さらに、少なくとも長崎には米英の俘虜がいることを承知で、原爆が投下されたという事実であった。これは、核兵器が、もはや一国の国民を超えて、ついには全人類を殺戮する力をもつに至ることの前兆だった。

 日本の湯川秀樹がこれを「絶対悪」と呼び、バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインが核戦争の絶対的防止を訴え、オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと宣言したのも、核兵器の悪魔的破壊力を考えれば、余りに当然である。したがって、われわれは、北朝鮮であれ、どの国であれ、核兵器の開発保有には絶対に反対の声を挙げなければならないし、その点で、少なくとも日韓の国民が一致協力すること、それが東北アジアに「共同体」を創ることができるかどうかの、第一の試金石である。

   不戦共同体

 しかし、核保有国のすべてが、その核兵器は、攻撃のためではなく、戦争の「抑止」のためだと言って、正当化している。ここに、第二の問題がある。現に、オバマ大統領も、北朝鮮も、その核保有は「抑止」つまり戦争防止のためである、と主張する点では一致している。一方が戦争「抑止」のための核保有を正当化すれば、他方も戦争「抑止」のために核保有を正当化し、こうして「抑止」戦略は核兵器の拡散を「正当化」する。同様に、北朝鮮の核開発に対して、韓国と日本の政府は「戦争抑止のための核の傘(extended nuclear deterrent)」を強化しようとしている。だとすれば、反対し廃絶すべきものは、核兵器そのものであるよりは先ず「戦争」である。われわれが戦争を防止できれば、核兵器が使われる可能性はなくなり、それは兵器庫に保存されるだけで終るはずである。現に、英国は一六○発、フランスは三○○発の核弾頭を保有しているが、かつての敵国ドイツの国民でこれを脅威と受け取る人はいないだろう。また英国の核兵器が、冷戦時代のように「ソ連」つまりロシアに対する「戦争の抑止力」として正当化できるかどうかも、現在では不確かである。英国で二○○六年、核兵器積載のトライデント潜水艦の老朽化にたいして、新たに莫大な費用を投じて後続艦を作るべきか否かが議会で真剣な議論になったが、それは、ロジアその他との戦争の可能性が減少したからに他ならない。

 だとすれば、今われわれが全力をあげるべきことは、北朝鮮との戦争の可能性を極小化しゼロにすることであり、また、北朝鮮が、戦争の可能性はないと信じるような政治状況を国際的につくることである。まさにそれが「東北アジア共同体」建設の第一歩であり、先ず「不戦共同体
(security community)」の形成なくして「東北アジア共同体」などありえないはずである。

                           (その3へ続く)


北沢方邦の伊豆高原日記【74】

2010-02-05 23:20:57 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【74】
Kitazawa, Masakuni  

 もう一週間もまえだが、1月29日つまり旧十二月十四日の月が、大晦日に劣らずみごとであった。翌十五日はあいにく曇りで、その数日後はこちらでは雨、東京では雪となった。朝ブラインドを開けて大室山をみると薄っすらと雪化粧である。 

 なぜこんなことを書くかというと、旧十二月十四日こそ、赤穂義士の吉良邸討ち入りの記念日だからである。グレゴリオ暦の1月末から2月始に、江戸つまり東京の大雪の気象条件が揃うが、グレゴリオ暦の12月14日ではそんなことはありえない。そのうえ討ち入りがなぜ十四日かというと、月明かりがほしかったからである。討ち入り時刻が遅れたのも、雲が切れるのを待っていたにちがいない。もし雲が切れなかったら、討ち入りは翌日の満月に延期されただろう。 

 一面の雪景色が晧晧たる月に照らされ、室内で使用する龕灯(がんどう=強盗提灯ともいう携帯用照明具)以外にいっさい照明はいらなかったはずだ。キリスト教の都合にあわせたグレゴリオ暦しか使用しない近代の日本では、こうした常識すら失われている。伝統文化や行事の理解には、想像力が必要とされる。嘆かわしい。

古事記の読みなおし 

 5月2日に東京の墨田トリフォニー・ホールの大ホールで、『古事記』にちなむコンサートが催される。新実徳英さんの企画で、彼の作品も演奏されるが、私に対談形式でよいから『古事記』について20分ほど話してくれという依頼がだいぶ前にあった。コンサートも近いので話の要旨をほしいとのこと、以下のメモを送ることにした:

 1) 神話の読み方:神話は古代人や「未開」人の宇宙論であり、現代の精密な物理学的宇宙論とまったく無縁ではない。彼らは「科学的思考」と「神話的思考」を共有していた。科学的思考は自然史であり、天体の運行から気象、あるいは生物の分類や効用にいたるまでを包括している。他方神話的思考は、それら諸現象の背後にある諸法則を、神々やそれにかかわる劇といったメタファーとして認識する思考である。

 2) 古事記の読みなおし:従来の日本の神話学や古代史学は、文献の解読を主とし、せいぜい考古学を参照する程度で、こうした視点がまったく欠けていた。学界でさえ「日本人は星に関心がなかった」などという無知蒙昧な議論が最近までまかり通っていた。農耕であれ狩猟採集であれ、あるいは遊牧であれ、天体の運行は暦の作製に不可欠であり、暦は生業や生活に不可欠である。すべての神話はまず、天地の創造やその分離(イザナキ、イザナミの離婚)からはじめるが、中心となるのは太陽や月や星々など天体である。太陽女神(アマテラス)、月男神(ツクヨミ)、水の大神(スサノヲ)の「三貴子」の誕生、さらにアマテラスとスサノヲの対立から生まれるスバル5男神(プレアデス)とカラスキ3女神(オリオン3星)という冬至の星の創造が、壮大な日本神話の劇の出発点である。

 3) 稲作文化と神話:冬至の星の創造がなぜ出発点かというと、冬至(旧11月・霜月)は太陽の死と再生であり、旧太陽暦の開始だからである。縄文末期からわが国は稲作を基本文化としてきた(経済と文化を混同する網野善彦説の誤り)が、栽培の難しいこの熱帯植物には細心の配慮と適正な陽光と水が必要であり、神々にそれを祈るニヒノアヘの儀礼と神楽が冬至にかかわり、最重要となる。アマテラスの岩屋戸篭りはこの儀礼の起源をあらわす。実際の農耕は春からで、夏至(旧5月・皐月)の頃の田植えがもうひとつの最重要な儀礼サナヘとなる。「天孫降臨」とは、アマテラスの天の稲穂を地上に降下させる神話であり、稲作がいかに神聖なものであるかを物語る。また夏至の星の西洋でいうサソリ座(中国では龍、インディオでは大蛇)つまりヲロチがこの時期を支配するが、それが雷神の象徴であり、その荒御魂が洪水を引き起こすヤマタノヲロチである。これを鎮めるのがまたサナヘの儀礼であり、夏神楽である。

 4) 気象の神々:洪水を引き起こす雷神(サルタヒコ、オホモノヌシなど多くの名をもつ)は、神風(台風)を含め、夏の気象の支配者であるが、冬の気象の支配者は風神つまりスサノヲの娘である3女神である。夏、東南の海上(この方角は太陽の冬至点)に昇るヲロチの星座に対して、冬の強風は北西から吹くが、南中するカラスキ(オリオン)3星の切っ先(彼女らはスサノヲの剣から生まれた)は北西を指す。彼女らを祭るヤシロはすべて北西角に配置される。この二つの気象の神の儀礼が、季節の交替を告げる桜狩りと紅葉狩りである。稲作にとって重要なのは、太陽の光熱とゆたかな水、そして適正な気象である。

 5) 結論:つまり日本神話は、日本の国土に固有の宇宙と自然の諸現象を精密に認識し、それを壮大な劇的メタファーとして展開したものである。 

 以上の詳細については拙著『古事記の宇宙論』(平凡社新書)や『日本神話のコスモロジー』(平凡社、残念ながら絶版、古書か図書館でどうぞ)、『歳時記のコスモロジー』(平凡社)を参照していただきたい。


東アジアを超える「東アジア共同体」の構想を①

2010-02-01 01:18:00 | 「東アジア」共同体構想


    
    
    本稿は、2009年9月にソウルで開かれた国際シンポジウム『二一世紀の東アジアを構想する』
    での基調講演に加筆したもので、すでに月刊誌『世界』2010年1月号に掲載されています。
    ここでは、4回にわけて掲載します。本稿の
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    導入 ●二一
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    ●東北アジア共同体の条件 ●非核共同体 ●不戦共同体
    ●安全保障のイニシアティヴ ●体制改革のイニシアティヴ ●国家の境界を超える「共同体」
    ●東アジアのアイデンティティ ●東アジアを超える「東アジア」


 われわれは今生きている時代を「二一世紀」と呼ぶが、それは少なくとも二つの意味をもっていると言えよう。第一は、もはや「二〇世紀」ではないということ、つまり、二つの世界大戦と世界的な冷戦の時代、換言すれば「世界戦争」の時代が終わり、「アメリカの世紀」「パクス・アメリカーナ」と呼ばれたアメリカの一極支配も終わりつつある、という意味での世紀の転換である。第二に、では「二一世紀」とはどういう時代なのか。すでに世界では、戦争が局地化し、世界は「戦争地域」と「平和地域」とに分離され、局限された戦争や内戦は「平和地域」の人々によって放置・忘却されがちであり、またそこからの難民は各地で差別・冷遇されている。ところがその半面で、本来は「極小戦争
(micro-war)」であるテロリズムが、核兵器などの大量殺戮兵器の拡散と結びつくという最悪事態の危険は、一見「平和地域」である社会を含めて世界各地に潜在している。こうした事態に対応して、もはや「一極支配」ではなく、マルティラテラル(multilateral)な国際関係の「多極化」体制が生れつつあるが、しかしそれが、国際協調を強化していくのか、逆に世界のアナーキー化
傾向の再現になるのか、二一世紀は不透明な新たな挑戦の世紀として始まっている。

 だとすれば、「二一世紀」という言葉を口にする時、一体われわれは、どのような世界を創っていくのかを、当面の問題に取り組む場合にも、「世紀」つまり今後約百年のパースペクティヴをもって考えなければならない、そういう時代にわれわれは生きているのである。それが、単なるレトリックでない「二一世紀」ということの意味であろう。

   二一世紀の挑戦 

 
このように二一世紀を考えるとき、一つだけ確実な要因がある。それは「グローバル化」という非可逆的なダイナミックスである。

 
「グローバル化」にはさまざまな定義があり、「反グローバリズム」の動きも、生活世界の多くの次元で強まっている。しかし、「反グローバリズム」や「ローカリズム」そのものが、グローバルな情報ネットワークや連帯を推進しているという意味では、それもグローバル化の一面だと言うことができよう。要するに、人間が、グローバルな関わりや影響の中で生きるという傾向を、好むと否とに拘らず、促進するか抵抗するかに拘らず、強めていくことは確かであろう。

 問題は、それを非人間的なグローバル化(dehumanized globalization)ではなく、人間性を高めるグローバル化(humanized globalization) とするためには、この挑戦に応えて、いかなる条件を満たしていかなければならないか、である。

 第一の条件は、平和のグローバル化である。「平和」というと、普通、静穏や安穏を連想しがちだ。しかし私が以前にも書いたように、実は「平和」とは、怖しい言葉である。イエス・キリストも、預言者ムハンマドも釈尊も、平和の重要さを強く説いているが、それは、それまでの歴史において、いかにおびただしい流血が繰りかえされ、いかに多くの人々の身と心に癒し難い傷をのこしてきたかを物語っている。「平和」の背後には、死屍累々の無数の墓標が立っているのだ。「平和」とは、この悲惨な歴史をもつ世界を、人間の尊厳を豊かにみたしていく世界(humane world) に創りかえていく闘いのプロセスにほかならない。

 第二の条件は、すべての人間が飢餓や貧困から解放され、格差のない公正な資源配分を達成することである。絶対的・相対的な貧困は、人間を惨めにする。だがパスカルの「人間は〔弱い〕葦である。しかし考える葦である」という言葉にならって言えば、「人間は動物である。しかし自分の惨めさを知る動物であり、それを克服しようとする動物である。」それは、根本において、公正と正義の実現の追求にほかならない。

 第三の条件は、二○世紀に問題意識が生まれながら、解決を二一世紀に持ち越した、自然環境とのエコロジカルな共生を達成することである。ここで注意すべき点は、このエコロジカルな共生という課題は、人間の自発的で自由な選択の所産ではないという事実である。とくに一八世紀の産業革命以後、人間が自由な存在になり、自由な人間社会が発展するためには、自然環境の支配が不可欠であり自明であるという思想がリベラリズムやマルクシズムの前提となってきた。環境との共生の必要は、自然が地球的に人間に抵抗し復讐することによって、初めて意識化されたのである。したがって、環境との共生を確実にするためには、単に「環境にやさしい技術」の開発を進めるというテクニカルな発想に依存するだけでなく、われわれが近代的価値として自明視してきた人間の「自由」、経済の「成長・発展」という観念を、根本から再考し、生活様式を変革することが不可避である。

 第四の条件は、他者を対等な人間存在として認めないような思想、宗教、習俗、偏見などを克服することである。それは人間を、基本的に平等な尊厳の主体として、互いに認め合うという行為であり、私はこれを普遍的な「ヒューマニティ」の思想と考える。それは、文化的な多様性を否認することでは全くなく、まさに根本において平等な尊厳の主体であるからこそ、人間の生き方の多様性を互いに尊重するのである。

 以上、私は二一世紀のグローバルな挑戦への対応について述べてきた。それが、この会議の主題である「二一世紀の東アジアの探求と創造」にとって、どのような意味をもつのかについて、以下に述べたい。

                         
(その2へ続く