一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【44】

2008-08-19 23:39:51 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【44】
Kitazawa,Masakuni

  立秋が過ぎ、テッポウユリの季節となった。満月の露台に坐し、すだく虫の音に耳を傾けながら、青白く映えるその花を愛で、高貴な香りを楽しむのは、このうえない贅沢といえよう。残念ながら長くつづく日照りのせいらしく、今年は香りが薄い。樹々も早くも葉を落しはじめ、赤みをおびた芝生や苔のうえに、枯葉の影を散らしている。関東地方は連日局地的な豪雨にみまわれているというのに、こちらは梅雨明け以来ほとんど雨がない。

63年目の夏

 前回も若干批判したが、北京オリンピックのおかげで大新聞は連日スポーツ新聞に変質し、テレビもスポーツ・チャンネルと化し、グルジア紛争のような重要な国際ニュースも1面から追放され、定時のニュース番組さえ組めないというメディアの異常事態がつづいている。1昨年からの流行語を使えば、いま「メディアの品格」が問われているのだ。

 通常の紙面構成を堅持し、オリンピック関連記事はその期間中別刷として配布し、それをまとめればオリンピックの全容がわかるといったサービスを、なぜ新聞社は考えないのだろう。

 だがその間隙を縫って放映された、戦後63年目の夏をめぐるNHKの「戦争と平和」シリーズは、高く評価されるべきだろう。制作スタッフの健闘をたたえたい。

 いわゆる終戦記念日に総合TVで放映された「「レイテ決戦;生存者が語る地獄絵」は迫力があった。すなわち戦争の最高意思決定機関である大本営なるものが、現地からの報告をいっさい黙殺し、既存のレイテ島防衛軍がすでに壊滅状態に陥りつつある状況を無視し、また武器・弾薬・食料の補給もほとんど不可能であることもかえりみず、新しい師団を送り込み、圧倒的な米軍の兵力と火力のまえに地獄絵を繰りひろげた戦史を、日米両軍の生き残りの証言、そしてひどい被害を受けた現地住民たちの証言や、当時のフィルムを交え、激戦地跡の現在の風景(まだ崩れ落ちたコンクリートの建物などが残っている)のなかで映像をして語らせたものである。日本軍のみで約6万人、米軍と現地の犠牲者すべてを含め約8万人が犠牲となったこの小さな島の無謀な戦闘は、いつまでも語りつぐべきだろう。それにしても、そのかなりが餓死者と赤痢などの病死者であったという死者たちの遺骨の収集はどうなっているのだろうか、放映中も気になってしかたがなかった。

 8月17日の「日本軍とアヘン」は、日本の関東軍と中国派遣軍が現地で農民たちにひそかにアヘンを栽培させ、アヘン・ヘロイン・モルヒネを極秘に製造し(いうまでもなく国際条約違反である)、それを売った莫大な利益で戦費のかなりの部分を賄っていた、という驚くべき事実を扱っていた。たしかにすでに戦後の東京裁判で、連合国側の情報機関の資料や、それにかかわった日本の民間人の証言からその事実は明らかとなっていたが、最近発見された日本側の極秘文書が、さらに明確に陸軍の関与を開示した。何百万(一説では1千万人以上ともいわれている)という中国人、何十万という日本兵が犠牲となった中国侵略戦争は、このうえなく「汚い戦争」であったのだ。しかもその「作戦」を指揮し、極秘文書に名を連ねたのは、関東軍参謀長時代の東條英機(太平洋戦争開戦時の総理大臣)と同じく関東軍師団長であった板垣征四郎(同時期の陸軍大臣)である。A級戦犯として絞首刑となったこの二人は、いま靖国神社に祀られている。8月15日に靖国神社に参拝した閣僚や政治家たちは、この「汚い」事実を認識しているのであろうか。

 同じ日の教育TVでは、「シリーズBC級戦犯1;韓国・朝鮮人戦犯の悲劇」が放映された。炭鉱や軍需工場での強制労働のために「拉致された」何十万という韓国/朝鮮人・中国人の悲劇はかなり知られているが、捕虜監視員という軍属(軍人より下位にある)となり、戦後捕虜虐待の罪で絞首刑(百数十名が死刑執行された)や終身刑となった多くの韓国・朝鮮出身者の悲劇はあまり知られていない。

 映画「クワイ河の橋」で有名となったが、日本軍による泰緬(タイ・ビルマ間)鉄道建設のための捕虜(主として英軍とオーストラリア軍)の強制労働、とりわけ軽症患者まで動員し、死にいたらしめた罪からひとたび絞首刑判決を受けたが、死刑執行署名書に署名を拒否した元捕虜の英軍将校のお蔭で減刑されたイ・ハンネ(当時の日本名広村)氏(現存)の生涯を追いながら、BC級戦犯であった韓国・朝鮮人のその後を調査した力作である。

 感動的なのは、イさんが中心となって組織が作られ、日本人BC級戦犯と同じ補償を求める運動がはじめられただけではなく(日韓平和条約で個人の請求権は消滅したとして裁判で敗北し、政府にも拒否され、最近ようやく福田内閣によってある種の補償が認められるにいたった)、その過程で日本人戦犯との連帯も芽生え、それが反戦運動にまで発展したことである。

 ただその裏で、釈放後日本では生活できずみずから命を絶ったひと、あるいは韓国に帰ったが日本の協力者として白眼視され、朝鮮戦争の孤児をひきとる孤児院を創設したが、孤立無援のなかでこれもまたみずから命を絶ったイさんの親友など、胸の締め付けられるような悲劇も多く語られていた。経歴を隠して韓国にもどり、結婚したひとりは、高齢のためほとんど記憶を失っていたが、イさんの訪問にあのときの苦しみを思いだし、ひたすら彼の手をとって泣くのみであった。そのひとが庭に降りながら、無意識に、しかも高らかにうたっている歌が「君が代」であることに私は愕然とした。私たちは過去、韓国・朝鮮のひとびとに、なんということをしてしまったのだろう。



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