一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

「新実徳英の世界」を聴いて

2009-05-30 11:27:21 | 活動内容


「新実徳英の世界」を聴いて

螺旋の生み出す生命のエネルギー――新実徳英の音楽

 
 いわゆるクラシック音楽フアンにとって、現代音楽というのは遠い存在である。かくいう私も、日頃聴く音楽はせいぜいベルク止まりで、まして日本の現代音楽を聴く機会はほとんどなかった。考えてみればこれはおかしな話で、私と同じ現代を生きている日本の作曲家が何を考え、何を表現しようとしているのか、当然興味を持ってしかるべきなのである。

 これは音楽を聴く姿勢に問題があるのだろう。何を音楽から得ようとするかということである。美しさや快さのみ求める態度からは、現代音楽への道筋は見えてこない。いや本当は、古典派音楽でもロマン派音楽でも、作曲された当時は時代との闘いであり、そこから数々の名作が生まれたに違いないのである。

 モーツァルトのオペラは、バロック・オペラとは決定的に違う。音楽そのものが構造的・立体的になり、それは例えば「フィガロの結婚」などにみられる複雑な人間関係を描く強力な手段を提供している。またその背景に、18世紀後半の市民階級の勃興という社会・経済的な事情があったということは間違いのないことだろう。

 ヴェルディのオペラは、19世紀の国民国家形成の時代を抜きには考えられないし、ワーグナーのオペラは、その時代の革命精神と無縁ではないだろう。また、第一次世界大戦での悲惨な体験がベルクの「ヴォツェック」を生んだともいえる(このあたりの、音楽と社会、あるいは時代精神との関わりについては、『北沢方邦 音楽入門』(平凡社)に詳しい)。

 私自身が音楽に求めるのは、美しさや快さだけではない。それらを含めた、時代を超えた、普遍的な価値――「人間の真実」とでも言えばいいのだろうか。しかし音楽を聴くにあたって、そんな観念的なことを考えているわけではまったくない。好ましい音楽か、そうではない音楽か、というだけであり、結果的にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヴェルディなどを聴く機会が増えたというに過ぎない。

 十二音音楽以降の現代の音楽は、時として面白いと感じるものの、感動とは異質のものであり、敬して遠ざけてきたというのが偽らざるところである。ところが、知と文明のフォーラムが主宰する、昨年の「西村朗の夕べ」といい、今年の「新実徳英の世界」といい、そこから受ける感動の質は、クラシックの巨匠たちの音楽から受けるものと異なるところはなかった。

 今回演奏された新実徳英の作品でとりわけ印象的だったのは、「ピアノトリオ――ルクス・ソレムニス」である。あの、心の底から沸きあがってきた感動は、いったい何に触発されたものだろう。明瞭なメロディーが聴かれるわけではなく、際立ったリズムが感じとれるわけでもない。しかし、闇のなかから立ち昇ってくるような、いわく言いがたい抒情。西欧の楽器で奏でていながら、西欧の音楽からは絶えて耳にしたことがないような響き。音が光のなかに密かに立ち現れ、静かに渦を巻き、それが少しずつ高みに昇っていく。高みで音は緊張感のなかに持続して、エネルギーそのものと化す。圧巻だった。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、3つの楽器の奏者の腕は確かで、彼らの奏でる音は、まるでこの世のものとは思えないような響きであった。

 新実は、音は作り出すものではなく、受け取るものだと言う。「音の闇」の住人である作曲家に、あるとき天啓のごとく、「あるものの全体」がやってくる。それをかたちにするために作曲をするのだと言う。私が聴いた音は、その、「あるものの全体」そのものだったのだろうか。不思議な体験であった。

 『新実徳英の世界――螺旋をめぐって…生命の原理』
2009年4月25日 セシオン杉並

魂の鳥 :フルートとピアノのために     
ソニトゥス ヴィターリスI :ヴァイオリンとピアノのための
ピアノトリオ――ルクス ソレムニス  
風のかたち :ヴィブラフォンのための 
アンラサージュ II  :3人の打楽器奏者のために
ヘテロリズミクス :6人の打楽器奏者のために

レクチャー=北沢方邦
対談=新実徳英、杉浦康平
演奏=長尾洋史(pf) 永井由比(fl) 寺岡有希子(vln) 上森祥平(vc) 
上野信一(perc) フォニックス・レフレクション(perc)

2009年5月26日 
j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記【59】

2009-05-26 22:14:37 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【59】
Kitazawa, Masakuni  

 朝、窓を開けると、柑橘類の白い花々が放つ甘美な香りにむせる日々も過ぎ、いまや樹々の緑の海の上高く、ホトトギスがけたたましく鳴いて飛ぶ季節となった。夜、フクロウの神秘な声が森に木魂し、二階のデッキにでてしばし聴き惚れる。冬の寒夜、晧々とした月明かりに鳴くことはあったが、この季節には珍しい。

北朝鮮の核実験 

 今朝(5月25日)、北朝鮮が5キロトンから20キロトン(ヒロシマ原爆は10キロトン)程度の地下核実験を行い、M5クラスの地震波が観測されたと報道された。前回に比べ、飛躍的な技術的進歩だという。

 飢えた人民を放置してなにが核実験だ、国際社会にたいする兆戦であり、暴挙であるなどと非難するのはたやすい。また北朝鮮が現存する地上最悪の国家のひとつであることも事実である。 

 だが、こうした事態を招いた最大の責任は、いうまでもなくブッシュ政権下の合衆国の政策にある。イスラエルの核兵器保有(これにはノウハウを提供したアメリカだけではなく、フランス、ノールウェイなどのヨーロッパ諸国もウラン濃縮機材や重水など素材を提供している)を黙認するだけではなく、イスラエル空軍によるシリアの核施設爆撃といった「国際的暴挙」を容認し、イスラエルの核に対抗して核開発を推進するイラン(名目は平和利用であるが)をきびしく非難し、制裁を課し、さらにインドとそれに対抗するパキスタン両者の核兵器保有になんの具体的措置も制裁も行わず、あまつさえインドと核利用協定を結ぶにいたっている。これほど露骨な二重基準(ダブル・スタンダード)はない。 

 核兵器廃絶を謳うオバマ政権が、イスラエルによるイラン核施設爆撃(イスラエル国民の大多数がそれを支持している)を容認するとはとうてい思えないが(こうした事態が生ずればイランは、ただちに通常兵器ではあるが数百発の中距離ミサイルでイスラエル諸都市を攻撃し、「中東大戦」が引き起こされるだろう)、この北朝鮮の核実験は、世界がたんに核拡散の危機にさらされているだけではなく、いつ爆発するかもしれない核の火薬庫の上にあることを教えている。 

 小泉政権や安倍政権以来、わが国の北朝鮮政策は最悪である。軍事的仮想敵国視でナショナリズムを煽り、経済制裁をきびしくするだけで6カ国協議になんの建設的役割も果たさず、6カ国協議のなかでさえ孤立してきた。 

 もし北朝鮮のミサイル発射実験や核実験に脅威を覚えるなら、MD(迎撃ミサイル)配備などの軍事的対抗手段ではなく、むしろ経済的・国内的危機にあるがゆえに脅迫的態度にでている北朝鮮を、ふたたび6カ国協議の場に引き出すための方策を立て、国際的に主導すべきなのだ。だが不幸なことに、そうした意思をもつ政治家も政党も皆無である。

大相撲夏場所 

 大相撲夏場所は、近来になく劇的で波乱にみちた面白い場所であった。本命と目されていた両横綱は、たしかに順調に白星を積み重ねてきた(朝青龍は三カ目に安美錦に一敗を喫した)が、大関三場所目の日馬富士(はるまふじ)が安馬(あま)時代の相撲にもどり、土俵狭しの暴れ馬の本領を発揮し、ついに優勝杯を手にするにいたった。 

 とりわけ千秋楽が劇的であった。長身の琴欧州に差され、右手を跳ね上げられてもはやこれまでと思われた日馬富士が、左のまわしをさらに深く取ろうと琴欧州が動いた瞬間、その右手で首投げを打ち、あの大男を一回転させてしまったのだ。栃錦・大内山の熱闘の最終場面、土俵際の栃錦が首投げであの大男を一回転させた伝説の一番を思い起こさせた。 

 横綱白鵬との優勝決定戦も、息を呑む緊張があった。14日目、右上手で出し投げを打ちつづけたが、半身に構える白鵬を崩すにいたらず、最後に足をひっかけられる裾払いで負けた戦訓を生かし、上手ではなく右下手を引いたのが勝因となった。白鵬の身体が近くなった分、下手投げが効いたのだ。 

 幕内最軽量の日馬富士のこの活躍は、かつての名横綱初代若乃花を思わせる。十両時代の安馬をはじめて見たとき、鉛筆のように細い力士が「大きな相撲」を取っているのに驚き、ファンとなったが、大関にまで昇進し、優勝するとは考えていなかった。似た体形のモンゴル出身力士鶴竜(かくりゅう)が三回目の技能賞を獲得したが、これも楽しみな力士である(父がウランバートル大学教授というのも異色だが)。 

 近年、外国人力士の活躍に比べ日本勢がふるわないのにはいろいろ理由がある。ひとつはモンゴル勢のように足腰が強くない。昔、双葉山や初代若乃花のような大横綱・名横綱は、少年時代、沖仲士や仲士といった仕事をしていた。いずれも貨物船の船倉から荷物を運びだし、渡し板を渡ってダルマ船とよばれる平底の木造船や岸壁に荷を下ろすものである。私も敗戦直後、生活のために芝浦埠頭で仲士をした体験がある。米軍の輸送船の船腹から食料品の重い木箱をかつぎだし、渡し板を渡るのだが、バネのようにしなう板のうえでバランスを取るのは至難の業であり、一歩間違えば荷物ごと海中に転落することになる。ああ、これで双葉山は足腰を鍛えたのだな、と実感したものである。 

 いまのわが国には、そのような力仕事はほとんどない。横浜や神戸の埠頭にはクレーンが林立し、コンテナーを吊り上げ、積み下ろす現場には人影もない。だがモンゴルでは、たとえ都会暮らしのひとであろうとも、休暇や週末には草原のゲル(天幕家屋)に赴き、馬に乗る。乗馬ほど足腰や身体のバランスを鍛えるものはない。 

 もうひとつの理由は、人類学的にいえば神話的思考の有無である。はじめての外国勢で成功したのが、高見山、小錦、曙、武蔵丸といったハワイ勢であるのも象徴的である。先住ハワイ人(武蔵丸は米領サモア生まれだが、のちにハワイに移住した)、つまりポリネシア人である彼らは、儀礼舞踊フラが示すように、いまなお神話的世界に親密である。たくましい男たちがハカ(戦士の踊り)を奉納する戦争神クーや、荒ぶる火山の女神ペレなど、神々は身近に生きているのだ。 

 モンゴル相撲の勝者が、天の神々の使者である鷲の舞を舞って勝利を報告するように、伝統を排除した社会主義の一時代があったにもかかわらず、モンゴルにもいまなお神話的思考が生きている。 

 荒ぶる神々や女神たちの御魂を鎮め、豊饒をねがう儀礼の格闘技であるわが国の相撲は、彼らにとってなじみのないものではまったくない。ヨーロッパ勢にとって相撲は異国的なレスリングにすぎないようにみえるが、モンゴル勢にとってそうでなくみえるのは、たんに容貌がわれわれに似ているというだけではなく、神話的思考に根ざすものがあるからだ。 

 現代の日本人よりも彼らのほうが、はるかに相撲道の本質を理解し、体得しているのかもしれない。それもよいのではないか。誤った国際化によって日本式レスリングと化した柔道と異なり、これこそが日本の伝統文化の国際化だからである。


おいしい本が読みたい●第十話

2009-05-24 22:54:15 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第十話              読点は語る
 

        “彼女は切った、乱暴に、根元から、ひと房の長い髪を。   
        ―それをとっといて下さいね! お別れです!“ 
               

 ひょんないきがかりで再読することになった、フロベール『感情教育』のクライマックスシーンでの一節である。ほぼ二十年ぶりに再会した、初老のアルヌー夫人と年下のフレデリック、訪ねてきたのが彼女なら、別れの言葉を口にするのも彼女で、男は小説の最初から最後まで煮え切らない。場所は彼のアパルトマン、時は三月下旬のとある夕刻。目だけがはっきり見えるようなコスチュームで、日暮れ時を選んだのは、やはり相応の理由があるだろう。  

 わたしたちの身体のなかで、目はもっとも老化に抵抗すると言われる。薄暗がりのなかで、帽子をかぶったままの夫人の目を見る男は、二十年前の麗しの夫人を幻視する、おそらく彼女の計算どおりに。男は独身である。それでも何事も起こらないのが、軟弱男フレデリック・モローを主人公にすえたフロベールの新しさだった。  

 新しさついでに言えば、このクライマックスで物語が終わっていたなら、ある種の映画のラストシーンのような、それなりの余韻を残す効果があっただろうと思える。しかし作者はそうせず、フレデリックはもうしばらく無味乾燥な、さほど面白くもない人生を生きることになる。リアリズム文学の元祖と称される所以はこの辺にもある。  

 フロベールのこの小説の何が見事といって、読点と余白の使い方ほど見事なものはない。その好例が冒頭にあげた一節であった。余白については若干留保がいるかもしれない。というのは、作者が余白を計算に入れていることは明らかだけれども、彼が意図したのは初版の余白であって、わたしの眺めているポケット版では多少模様が異なるはずだからだ。  

 その点、読点は心配いらない。それにしても、さして長くないこの一文に読点が三個。副詞「乱暴に」とあいまって、この三つの読点が最大の効果を与える。ことばで名指すのではなく、ことばとことばの狭間の空白に、空白の息遣いのなかに、女の内面を封じ込めようとしたのだろうか。語りえぬものは、感じさせるしかないのだろうか。  

この手の読点多用でいつも思い起こすのは、谷沢永一の文である。ただし、谷沢の場合は、フロベールのようにここぞというところで用いるのではなく、延々読点オンパレード文体で攻める、泣き落とし戦術に近い。引用は、親友だった開高健への挽歌とも言うべき『回想 開高健』(新潮社)の最終行。    

      “その、開高健が、逝った。以後の、わたしは、余生、である。”
                                                                                                                                       むさしまる


安田節子さんの新著刊行迫る!

2009-05-21 23:02:56 | 雑感&ミニ・レポート

 

シンポジウム◆食の現状・農の未来◆のパネリスト
 安田節子さんの新著 刊行迫る!


6月28日のシンポジウムの内容を凝縮した、安田さん渾身の力作です。
世界の食が、
遺伝子工学を駆使した一握りの
アグロバイオ(農業関連生命工学)企業によって支配されつつあるという、
衝撃的な内容です。
もちろん、そこからの脱却の道も示されています。


6月15日発売です

平凡社新書
『自殺する種子――アグロバイオ企業が食を支配する』
定価756円(税込)




なないろ畑訪問記

2009-05-19 09:23:16 | 雑感&ミニ・レポート



 シンポジウム◆食の現状・農の未来  なないろ畑訪問記 


6月28日のシンポジウムに先立ち、パネリストのお1人、片柳義春さんを訪ねました。
片柳さんは、神奈川県綾瀬市で、
CSA(Community Supported Agriculture:
地域コミュニティが農業を支える)システム
による「なないろ畑農場」を運営しておられます。

片柳さんは、東京生まれのシティボーイにもかかわらず、
幼い頃から農業に興味をもち、
「成長の限界」、『複合汚染』、2度の石油ショック、スリーマイル島核事故など、
環境への危機感が高まった70年代には、

大学の裏山で畑を耕していたという、根っからの農業青年だったそうです。

「有機農業を基礎にコミュニティを再生し、エコロジー型社会に変えていこう」
という信念は
今なお揺るぎなく、
いつくかの地域通貨にも携わってこられた熱い運動家でもあられます。
シンポジウムでは実践に根づいた興味深いお話を伺うことができそうです。

●「なないろ畑農場」の詳細は、サイト↓をご覧ください。
http://members2.jcom.home.ne.jp/nanairobatake/

訪問日5月13日の出荷所と畑での写真です。


甘い新玉葱


見事なレタスは、サラダに


実がつき始めたトマト


胡瓜の隣には、虫除け効果のある葱やバジルを植える


「夏には畑めぐりツアーを企画しています」

※食と農・シンポ事務局TABAに、j-mosaとカタオカMが同伴しました(文責●カタオカM)


食料・身体性・環境セミナーのお知らせ

2009-05-16 10:24:25 | 活動内容


 知と文明のフォーラム主催◆食料・身体性・環境セミナー




食の安全性・自給率などどれを見ても農衰日本の現状は深刻です。
加えて出口の見えない世界規模の経済危機は、
ポスト・グローバリズム世界の構想の必要性を迫っています。
そこでも「食と農」のあり方をどう転換するかは
ひとつの大きなポイントとなりえます。
食・農に於けるエコ・ソリューションとは?

食と農の危機をあきらかにし、
経済学の視点や、首都圏での地産地消の取り組み報告を交えて、
ご一緒に考える場を持ちたいと思います。

  パ ネ リ ス ト

安田節子
(食政策センター・ビジョン21主宰・日本有機農業研究会理事)
植田敬子
(日本女子大学家政経済学科教授)
片柳義春
(CSAシステムによる「なないろ畑農場」を神奈川県綾瀬市で運営)

司会●
北沢方邦
(知と文明のフォーラム代表・信州大学名誉教授)

日時:2009年6月28日(日) 午後2時~5時
会場:世田谷区・北沢タウンホール集会室
下北沢駅南口徒歩3分(井の頭線・小田急線)
TEL.03-5478-8006
資料代:800円
※予約の必要はありませんので、直接会場においでください。


主催●
知と文明のフォーラム(代表 北沢方邦・青木やよひ)
連絡先●TEL/Facs. 03-3918-1479



北沢方邦の伊豆高原日記【58】

2009-05-05 18:40:03 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【58】
Kitazawa, Masakuni  

 今年は異様に季節の移り変わりが早い。新緑の季節というのに、もはや新緑とはいえない。ツツジの花は散り、旧六月、つまり夏の花である牡丹も散ってしまった。わが家のボタンは深紫色の大輪で、今年は多くの花をつけ、出入りの植木屋さんが賛嘆したが、他のひとの目には触れずじまいであった。あいかわらずウグイスは鳴いているが、ホトトギスの声が聞こえそうな雰囲気である。

日本の色 

 「みどりの日」にちなんで、メディアのコラムにさまざまな記事が載るのが通例となっている。毎日新聞の「余禄」に、「古事記や万葉の時代は白と黒以外の色を示す言葉は“赤”と“青”しかなかったという」との書き出しで「みどりの日」の随想が書かれていた(5月4日)。まるで古代人は色について関心がなく、色彩の判別に無知であったといわんばかりである。すぐに以下のような手紙を送った: 

 《二〇〇九年五月四日の毎日新聞「余禄」を拝見致しました。みどりの日に寄せて日本の古代の色彩ついての説明が、古代人がいかに色彩に無頓着で無知であったかといったはなはだしい誤解を招くものと思われますので、ご参考までに拙著からの抜粋と前田千寸『日本色彩文化史』からの古代の色名表のコピーをお送りします。 

 われわれの祖先は、現代日本人よりはるかに色彩に鋭敏で、微妙に異なる色彩を識別し、色名をつけていました。だがそれとは別に、古代の宇宙論にもとづいて、四つの色彩カテゴリー(白・黒・アヲ・赤)を立て、世界を解釈していたのです。 

 詳細は拙著『日本人の神話的思考』(講談社現代新書一九七九年)をお読みいただければ幸いです。残念ながら現在絶版ですが、グーグルの絶版本ファイルまたは図書館でご覧いただけると思います。 

 以上、失礼の段お許しください。》 

 前田千寸〔ゆきちか〕の『日本色彩文化史』(1960年)によれば、奈良朝時代約60、平安朝時代約120の色名が挙げられているが、彼自身それはあくまで文献に載っていたものであって、それがすべてではない、と断わっている。 

 この先人の業績は特筆に値するが、前田をはじめ、大野晋、佐竹昭広など日本の色彩について論考を発表している研究者たちがその根底で誤ったのは、この多様な具体的色名(多くは染料や花の色に由来する)と、宇宙論としての抽象的色彩カテゴリーを混同したことにある。 

 たとえばアヲは、紫や青から緑をへて灰色にいたる色名を統括する名詞であった。平安時代の宮中の「白馬の節会」は「あをうまのせちゑ」と訓ずるが、実際には灰色の連銭模様をもつ白馬をめでる儀式である。万葉に「青雲のむかぶす彼方」など「青雲」をうたった歌が多いが、それも「白雲」に対して「灰色の雲」をいう。なぜ「あをうま」や「あをぐも」か。それは「アヲ」というカテゴリーが、日(太陽)や火、血(生命)や雷電などを象徴するカテゴリー「赤」に対して、水を含むすべての色彩を統括するものだからである、灰色の雲は雨雲であり、春である旧正月の節会には、豊饒を約束する「アヲ」の馬が登場しなくてはならない。 

 アヲと赤が水と火という地上の元素の対称(シンメトリー)であるとすれば、白と黒は、「天」と「地」または父なるものと母なるものとの対称をあらわす。天の神々を祀るヤシロを白木で造営し、地の神々を祀るヤシロに黒木(皮つきの木材)の鳥居を構えるのはそのことを表わしている。 

 「世界音楽入門」のレクチャーでは、音や楽器による日本の古代人の宇宙論の一端に触れたが、われわれの祖先は、色彩という記号からもこのような壮大な宇宙論を組みたてていたのだ。


【新実徳英の世界】を聴いて

2009-05-04 21:56:17 | 活動内容

【新実徳英の世界】を聴いて 

フランス音楽を中心とする室内楽コンサートを続ける、カルチエミュジコの活動に関わるNOBOBONさんが、「新実徳英の世界」のコメントを書いてくれています!
力作なので皆さんにもご紹介します。(フォニックス・プロモート●杉山)

掲載元URLNOBOBNの日記(WebDICE)
http://www.webdice.jp/diary/detail/2273/


カルチエミュジコのブログ
http://quartiersmusicaux.blog77.fc2.com/



セシオン杉並で、
「世界音楽入門II 新実徳英の世界ー螺旋をめぐって:生命の原理ー」
という、レクチャー・コンサートを聴いた。(2009.04.25 14h00)


       
前半は北沢方邦の世界音楽をめぐるレクチャーと、新実徳英のピアノを含むデュオ、トリオ作品のコンサート、後半は新実徳英とこのコンサートのチラシなどのグラフィック・デザインを手がけた杉浦康平の対談と、パーカッションのための作品という構成で、3時間以上に渡るプログラム、ちょっとツカレタ。

<プログラム>
 魂の鳥(フルートとピアノのための)(1996) 
  永井由比 fl. 長尾洋史 pf. 

 ソニトゥス・ヴィターリスI ヴァイオリンとピアノのための (2002)
  寺岡有希子 vl. 長尾洋史 pf. 

 ピアノトリオーールクス・ソレムニスーー (2008)
  寺岡有希子 vl. 上森祥平 vc. 長尾洋史 pf. 

 風のかたち ヴィブラフォンのための (1990)
  上野信一 vib.

 アンラサージュII 3人の打楽器奏者のために (1978)
  上野信一  大前和音 峯崎圭輔

 ヘテロリズミクス 6人の打楽器奏者のために (1993)
  上野信一 +フォニックス・レフレクション
        石井喜久子 大高達士 大前和音 萩原松美 
        小田もゆる 新田初美 峯崎圭輔 三宅まどか 

       
まず、最初の『魂の鳥』、これにかなりオドロイタ。ピアノの響きの余韻の只中に生成し、立ち昇るがごときフルートの音。作曲家のプログラムノートには「ピアノのつくり出す倍音の中にフルートはその生を生き始め飛翔へと向っていく」とあり、まさに意図通りの音を聴き取ってしまったようだ(ちょっとクヤシイ)。時間の流れは「横軸」な感じがするのだけど、ここで鳴る音は垂直に立ち昇り、でもそれは時間を断ち切るのではなく、垂直な時間だったのであった。タイトルの意味するところは、「鳥はしばしば飛翔の象徴であり、魂の実体化したもの」。メシアンの鳥たちとは違うなー。違いは、楽想や作曲家の資質や嗜好のことではなく、生態系の違いなんだなこれは、と、ひとり納得。


       
次の『ソニトゥス・ヴィターリス I』、このシリーズのIVとVを、2007年の全音の「四人組」のコンサートで、そういえば聴いていた。彷徨うようなヴァイオリンの音ではじまり、ピアノがからみついてくる。「音の闇から立ち上がろうとする音を聴く」というのが作曲家の言。これも悪くない。


       
『ピアノ・トリオールクス ソレニムス』=荘厳の光。形式の見通しのないところから出発して、気がつけば螺旋形式、「宇宙と同じ螺旋状の上昇を、はからずも音楽の中に表現することとなった」そうな。何が螺旋状かといえば、旋回し上昇する音形ということでもなく、昂揚感でもなく、何とはうまくいえないのだが、ああ、うん、そうね、螺旋螺旋…と納得する、人のいいワタシ。前半3曲通して、この人のピアノの使い方がイイナと感じた。キラキラひらひらしてないピアノ。音の塊がぐわーんと響くところとか。


       
休憩後、まず対談があって、杉浦康平のアジアにおける螺旋図像のスライドショーがあって。まあ、ワタシは好きなんですけどね、生命の螺旋状運動とか、量子力学とヴァナキュラーな宇宙論の連関とか、宇宙樹・生命樹がナンタラカンタラとかさ。でも割愛。

この対談の最初に、杉浦康平が作曲家をヨイショ(失礼、絶賛)してた中で、ルクス・ソレニムスのことを、「音の闇から立ち上がってきた音に、どんどん力を与え、螺旋状に高みへ高みへと導く…」というようなことをおっしゃっていましたが、「どんどん力を与え」「導く」というのはチガウカナと。作曲家の意図によって生成する運動としての音なのではあろうが、「力を与え」というような、他律的なものには聴こえなかった、ワタシには。


       
後半のコンサートは、パーカション部門。上野信一のマルチ・パーカッショニストぶりを拝聴拝見すべく、姿勢を正す(ほんまか?)。

ヴィブラフォンのソロ『風のかたち』。2台の微妙にピッチの異なる(らしい)ヴィブラフォン、最初はコントラバス(たぶん)の弓を使って、鍵盤(っていう?)の小口をこする。そのあとの共鳴管の響きはまさしくヴィブラフォンなんだが、へええ、鍵盤を弓でこするとこんな音がするんだー。でもって、とにかく倍音の嵐。マレットで叩いても倍音の嵐。うわー。うわーん、わーんわーんわーん。気持ちいーよーん…あ、失礼。作曲家によれば、〈尺八本曲から抽出された旋法」を使った作品で、「中空にゆらめきながら漂っては消えていく余韻の交わり、それらの作り出す「線の形」。それはまるで「風のかたち」のように捉えようのないものかもしれないが、しかし確かにそこに在る。〉……打楽器は、音って空気の振動だったよなと、こっちも共鳴しながら思い出すとこがいいね(旋法とか言われると太刀打ちできないので、話を変える)。


       
『アンサラージュ II』、フランス語で「纏わりつく」の意。太鼓系の打楽器(革張ってるやつね)、名前はわからないが、タムタムとかみたいなやつ、3人で叩きまくりな作品。打楽器は、音って空気の振動…あ、さっき書いたか。渦巻くリズムリズムリズム。血が騒ぐ。


      
『ヘテロリズミックス』。6人の打楽器奏者のための…しまった楽器構成が全然わからん。マリンバとヴィブラフォン(あったような…)、大太鼓2、小太鼓、銅鑼みたいのもあったかな、あといろいろ叩き物が所狭しと並んだ舞台、楽器掛け持ちで舞台後ろを駆け抜けるオニーサン。これも作曲家の解説より、「hetero+rhythm+mix…原旋律・リズムと、それを異なる時間単位、異なる音高・音色へと変化させたものが、互いに重なり合って多層的複合的な音楽時間を作り出す」、ふむふむ。通奏低音的にベースになるリズムが刻まれているのだが、そこからズレたり派生したりしてくるリズムや音色がひとつになって旋回していって、もう何が何やら…さらに一層血が騒ぐ、ひたすら楽しい曲でした。上野信一の指揮の身振り手振りがさすがパーカッショニスト、切れが良くて、指先から音が聴こえてくるかの如し、でした。


余談ですが。北沢方邦著『メタファーとしての音』(新芸術社)を、会場で購入。彼は青木やよひとともに、アメリカ先住民ホピ族の地を訪ね、ホピや先住民文化についての本を何冊も書いていて、私はそれを読み耽り、『ホピの聖地へ―知られざる「インディアンの国」』(北沢方邦著 東京書籍)を携えて北米大陸南西部を経巡り、十数年越しの憧れの地、ホピの国を訪ねたのだった(それが既に十数年前のことだ…)。音楽をめぐる彼のお仕事は寡聞にして知らなかったが、『メタファーとしての音』は、「音楽は人間感情の表現である、としばしば語られてきた。たしかに、大衆の好むいわゆるカラオケの演歌から、リヒァルト・ヴァーグナーやブルックナーあるいはマーラーの咆哮する大管弦楽に至るまで、すべては人間感情の表現であるかのようにみえる…」とはじまり、この〈語られてきた〉〈みえる〉」という留保のつけかたに、すでにワクワクしてしまう。目次を眺めると、世界音楽、西欧中世-近代-現代と駆け抜けるこの本、会場で著者に話しかけたら「むつかしいですよ」と言われてしまって、ちょっとトホホなのだが、むつかしくても駆け抜けてしまおう…。

投稿日:2009-04-26 01:30