一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

第10回セミナーに参加して

2008-11-30 10:38:18 | セミナー関連


   第10回セミナー『21世紀の市民と市民的公共性
               ―小さなユートピアをめざして』に参加して


今回のセミナーでは、主に、篠原一先生を講師にお招きし、『シティズンシップと市民的公共性―小さなユートピアをめざして』についてご講話いただいた後、21世紀の市民や市民運動はどうあるべきか、むしろそれをどう築くべきか議論しました。

篠原先生によると、議会制民主主義はそれだけで民意を反映しえるものではなく、それを補完したり、また異議申し立てをするために、「市民としての資格や要件(citizenship)」を持った市民一人一人が活動し、行動し、コミュニケーションし、討議する上でできる「公共空間(public sphere)」が中核となってできる、市民的公共性の強い成熟した「市民社会(civil society)」を作っていく必要がある、とのこと。その公共空間を作るために有効な討議デモクラシーという制度の紹介と、グローバリゼーションの中でどのように公共空間を作っていくか、NGOの活躍などの説明をいただきました。

そのお話の中で特に心に残ったのは、いま、市民としての資格や要件(citizenship)において最も大事とされているのは、他者への尊重だということ。個々の市民が互いに他者を尊重し合って、交流していって、討議して合意を目指すことが大事であり、その互いに尊重し合う関係の中には“give and take” だけでなく、“give and give”の関係もあるということでした。権利と義務という関係概念は産業社会、生産社会の論理であり、環境問題や福祉、介護の問題などは、それだけでおさまるものではない、というお話は、考えてみれば当たり前のことなのですが、でも、生まれたときから産業社会、生産社会の論理の中で生きて来た私は、無意識のうちに、権利と義務は一体だと思っていたのでしょう。give and give が義務とまでは考えられていなかったし、逆に、take and takeの立場になった場合、対等に議論に参加できないような気がしていたように思います。それだけ、近代の効率主義に汚染されていたのだろうと思いますが、自分がどちらの立場に立っても、他者を尊重し、権力者に対しても批判的能力を持って、行動しながら生きていきたいと思いました。

講演後半には、日本人が政治的に淡泊であり、政治的なことに対して自分の意見を公にすることを嫌う国民であることが話題になりました。日本のように運動のない社会もめずらしいのだとか。黙っていることそれ自体が、いまの政治を肯定し、支えていることになるのですが、しかも、最近では、それを超えて、アナルゲシアといって、痛みを与えられている人が痛みを与えている本人に投票しにいったりするのだそうです。この状況をいかに打開していくか、こどもたちへのシティズンシップ教育が重要だ、いや、それ以前に親への教育が重要だと、講演後の座談でも大きな話題となりました。

セミナーが終わって1月近くが経ちました。主婦として、家事と育児の日々に戻った私は、子育てを中心とする今の私の時間軸と近代社会の時間軸とのあまりの隔たりに疲れ、当初の高揚した気持ちがかげり、時に、もの言わぬ市民の感覚にもどりつつある自分を感じます。でも、一人一人が日常生活で感じる違和感を見つめ、自らの怒りを公にすること、エモーションを大事にし、パッションに高め、よりよい社会を作るために市民として努力していくこと、それが必要であること、そして、討議デモクラシーやNGOなどそれらを可能にする手段があること、そういった手段を模索していくことが大切であることを、今回のセミナーで学びました。(そして時を同じくして、違う形ではありますが、アメリカの大統領選挙が一人一人のNoが社会を変えていく力となることを、示してくれました。)私もこれからの人生、自分なりのユートピアをかかげて、努力していきたいと思います。

katakata 


楽しい映画と美しいオペラ―その16

2008-11-25 00:50:50 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その16

         
        
ハイドンのオペラはおもしろい!
                                
北とぴあの『騎士オルランド』  

 心と身体をリラックスさせたいと思うときよく聴くオペラは、やはりモーツァルトやロッシーニのものだ。ヨハン・シュトラウスやレハールもいいし、最近はヘンデルも加わったが、まさかハイドンがその仲間に入ろうとは思いもよらなかった。 

 ハイドンは、モーツァルトとベートーヴェンとほぼ同時代の作曲家なのだが、二人の巨人の陰に隠れて、あまり光をあてられることがなかった(少なくとも私のなかでは)。古典派様式の確立に貢献し、交響曲・弦楽四重奏曲の世界では音楽史に輝かしい名を残している――こんな初歩の教科書的知識はもちろん持っていたけれど、交響曲だけで106曲、弦楽四重奏曲となると150曲以上も作曲していると知るにつけ、ハイドン作品に対する意欲は萎えてしまっていた。ましてオペラおやである。ところが先日、王子の北とぴあでハイドンの『騎士オルランド』を観るに及んで、自分の音楽に対する姿勢は根本的な転換を要すると、いくぶん大げさな反省を迫られることとなった。 

 北区は年に一度、古楽を中心とした「北とぴあ音楽祭」を開催している。その目玉演目がここ数年、ヴァイオリニストの寺神戸亮さんの指揮によるオペラの上演である。いずれも水準の高い演奏で、私は毎年鑑賞することを楽しみにしている。そしてハイドンのオペラといえば、実は2年前にも、『月の世界』という作品がこの音楽祭で上演されている。実相寺昭雄さんの最後の演出作品ということもあって話題をよび、超現実的な台本も面白かったのだが、音楽にはそれほどの魅力を感じなかった。「ハイドンのオペラ? ああ、そう」という感じで過ぎてしまっていた。しかし今回の『騎士オルランド』は、なによりも音楽に圧倒されたのだった。

 『騎士オルランド』の初演は1782年。この年、モーツァルトの『後宮からの逃走』がウィーンで初演されている。モーツァルトは26歳の新進の作曲家だったが、ハイドンはすでに50歳の円熱期にあった。イタリア語を台本とするハイドンのオペラ作品全13曲のうち、この作品は最後から2番目に位置づけられる。

  これは偶然にすぎないだろうが、この作品の背景は『後宮からの逃走』と同じく、西洋とイスラームの関わりである。台本の原作は、イタリア・ルネサンスの巨匠アリオストの『狂えるオルランド』(1532年)。そしてこれは中世フランスの叙事詩『ロランの歌』をもとに作られている。ロラン即ちオルランドは実在の人物で、フランク王国のカール(シャルル)大帝の甥である。軍の指揮官のー人であり、778年、スペインを支配するイスラームとの闘い(これは初期のレコンキスタの闘いのひとつ)で壮烈な戦死をとげる。

 このオペラでも、ロドモンテというイスラームの勇将がしつこくオルランドをつけ狙うが、しかし、ここで「イスラーム」は、刺身のつまの役割でしかない。『騎士オルランド』のテーマは、古今のオペラのもっとも普遍的なテーマ、「愛」である。

 モーツァルト好きは、このオペラのなかに、その後の彼の傑作オペラの登場人物の片鱗を見い出し、驚いたはずである。性格描写もそうなのだが、何よりも彼らのうたう歌の雰囲気に共通点を感じたのだ。『コシ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージ(中国の王女アンジェーリカ)、『ドン・ジョヴァンニ』のオッターヴィオ(アンジェーリカの恋人メドーロ)とレポレッロ(オルランドの従者パスクワーレ)、『フィガロの結婚』のスザンナ(羊飼いの娘エウリッラ)、『魔笛』の夜の女王(魔女アルチーナ)……。特にレポレッロとパスクワーレの類似性には驚くばかりで、「カタログの歌」とそっくりな歌もある。

 モーツァルトはどこかでこのオペラを観たにちがいと思ったほどだが、『騎士オルランド』がいかに評判をよんだオペラであったにしても、その上演記録からは可能性を見い出すことはできない。モーツァルトもハイドンも、イタリアのコメディア・デラルテなど、オペラ制作上の共通の伝統の上にあったのだと考えるべきだろう。

 アリオストの『狂えるオルランド』は、多くのオペラ作品の題材となっている。すでにオペラの草創期1619年に、ペーリとガリアーノが『アンジェーリカとメドーロの結婚』を、また1625年には、フランチェスカ・カッチーニという女性作曲家が『ルッジェーロの救出』を作曲していて、これは日本でCD化されている(1989年FONTEC)。リュリとスカルラッティにもオルランドものはあるようだし、ヴィヴァルディとヘンデルにはそのものずばり『オルランド』という作品がある。ヘンデルにはあと2作、『アリオダンテ』と『アルチーナ』という名作が『狂えるオルランド』を原作としている。私がすっかり魅了されてしまった、キャサリン・ネイグルステッド演じる妖艶極まるアルチーナは、ハイドンのこのオペラのアルチーナと同一人物だったのである。

 「ルネサンスの精華」「芸術に捧げられた神殿」(デ・サンクティス)とまで評されている『狂えるオルランド』は、ヨーロッパの文化を知るうえでの必読の書であるようだ。2001年に脇功氏の訳で全訳が出版されている(名古屋大学出版会)。大部で高価の書のようだが、これは読まないですますわけにはいかないだろう。オルランドの、アンジェーリカ姫への狂恋のみをテーマとしたこのオペラの台本からは、原作の奥深さをとうてい感じ取ることはできない。

 さてハイドンの音楽である。人が音楽を聴いて感動するのは、そこに「真実の感情」を感じ取るからである。とりわけオペラにおいては、多彩な登場人物一人ひとりにリアリティが内在していないと、まず劇として成り立たない。オルランドの狂気、アンジェーリカとメドーロの愛と哀しさ、エウリッラとパスクワーレの輝く生気、ロドモンテの行き場のない怒り……。音楽は台本を超えて、聴くものの心に強く響くものがあった。

 若い臼木あいさんの、どこまでもコントロールされた美しいコロラトゥーラ・ソプラノは、今公演の最大の収穫。バッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ演奏でリリックな声を聴かせてくれている櫻田亮さんとの二重唱もとても良かった。お二人のモーツァルトのオペラを是非とも聴きたいものだ。パスクワーレを歌ったルカ・ドルドーロさんは、そのコミカルな演技で異彩を放っていた。オーケストラ・ピットまでせり出す額縁つき舞台とスクリーンを用いて、場面転換の多いこのオペラを巧みに視覚化した粟国淳さんの演出も、この上演の成功に一役買っている。寺神戸亮さんの指揮するレ・ボレアードの上質な演奏抜きには、このオペラを語ることはできないのはもちろんである。


2008年10月25日 

北とぴあ・さくらホール
指揮:寺神戸 亮
演出:粟國 淳
出演:
[オルランド]フィリップ・シェフィールド 
[アンジェーリカ]臼木あい  
[ロドモンテ]青戸知
 [メドーロ] 櫻田亮
[エウリッラ]高橋薫子  
[パスクワーレ]ルカ・ドルドーロ
[アルチーナ]波多野睦美
[リコーネ]根岸一郎
[カロンテ]畠山茂
管弦楽=レ・ボレアード

2008年11月23日 j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記【48】

2008-11-06 00:23:07 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【48】
Kitazawa, Masakuni

 前夜、木枯らしとまではいかないが、かなりの風が吹き、庭の落葉の散乱が、晩秋の弱い陽射しを浴びている。散りかけたカキの葉の赤みがかった鮮やかな黄色の上方に、まだ青みを残すクヌギの枝越しに、碧玉の海がひろがり、梢ではモズが誇らかに高鳴きする。

アメリカ大統領選挙 

 民主党のバラク・オバマ上院議員が大統領選挙に勝利を収め、次期大統領に確定した。世論調査で10ポイント近くリードしていたが、それを上回る圧勝といえよう。おそらく後世の歴史家はこれが、アメリカのみならず、世界にひとつの転機をもたらした歴史的な選挙であったと指摘するだろう。事実共和党大統領候補のジョン・マケイン上院議員の「敗北宣言」――実にみごとで感動的なものであった――も、この選挙の歴史的意義をたたえ、そこに参加できたことを誇りに思う、というものであった。 

 たんにオバマ氏が黒人であるというだけではない。事実長期にわたる予備選挙の前半では、ジェッシ・ジャクスンやアル・シャープトンといった民主党の黒人指導者だけではなく、一般の黒人たちにもオバマ支持者は少なく、大多数はヒラリー・クリントン上院議員を支持していた。投票日前日に亡くなった母方の祖母――幼少期のオバマ氏を育てた――は純粋白人であったし、黒人の父はケニヤからの移民であって、アメリカ黒人たちのように奴隷の子孫ではなかったからである。 

 この選挙が歴史的であったのは、まさにアメリカが主導してきた政治的・経済的グローバリズムの崩壊を目の当たりにするという、世界的な危機状況のさなかの戦いであったからである。 

 9・11につづくアフガニスタンとイラクでの戦争は、「テロとの戦い」に勝利するどころか、むしろ敗北とさえいえる泥沼化をもたらし、レーガン政権以来の新保守主義イデオロギー、いいかえれば政治的グローバリズムによる世界制覇を崩壊に追い込んだ。いまわずかに、現地米軍が採用した「アンバール・アウェイクニング(覚醒)」とよばれる方策――アルカイダの暴虐に憤慨するイラク・アンバール県のスンニー派武装勢力を、過去の敵対を問わず味方にし、アルカイダ武装勢力に対して合同で戦うという方策――が成功を収め、その教訓にもとづき、アフガンのタリバーン穏健派を取りこむ試みが、残された唯一の希望となっているだけである(イラクの治安改善は、米軍の増派というよりもこの方策によるところが大きい)。 

 他方、ウォール街に端を発した世界的な金融恐慌と、実体経済に急速に波及しはじめている経済危機である。 

 新保守主義と両輪をなしていた新自由主義経済イデオロギーは、すでにたびたび述べたように、多国籍大金融機関や大企業のために各国のあらゆる分野で規制緩和を推し進め、市場万能と完全な自由貿易の名のもとに、それらの世界制覇を計ってきた。だが経済グローバリズムに内在する多くの矛盾は、ついにその破綻を招き、もはや新自由主義は理論としても実践としても破産したといっていい。 

 オバマ氏が唱えてきた「変革(チェンジ)」は、出発当初はかなりあいまいでエモーショナルにみえていたが、いまやこの世界的危機をもたらしたグローバリズムの根本的変革という、きわめて具体的なものと映じはじめたのだ。それが合衆国ではいまなお厚い人種の壁を越えて、ひとびとの心をつかむものとなった。 

 だが問題は今後である。経済では新自由主義を踏襲し、北米自由貿易協定(NAFTA)などを推進した民主党のクリントン政権の政策(ヒラリー・クリントンはNAFTAの見なおしを公約のひとつとした)に回帰することはできない。オバマ氏の大統領選挙での公約は経済にかぎっても、中産・下層階級への減税、きびしい環境政策や環境ビズネスの育成など、大きな転換を予測させるものがある。もし彼がすぐれたブレーンを結集し、経済にとどまらず、すべての領域で脱グローバリズムの政策的展望を示すことができたなら、それは世界そのものの「変革」をもたらすアリアドネーの糸となるだろう。