一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その45

2013-02-26 21:11:02 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その45

 

         二人の指揮者の「音楽の自由」     
                        ――ミンコフスキと鈴木雅明

 

 ミンコフスキの音楽はどうしてこんなに面白いのだろう。モーツァルトやシューベルトなどのはるか昔の音楽が、いまそこに生まれ出たばかりのように新鮮に聴こえる。正統性を突き抜けた、自在の面白さとでもいおうか。いまを生きている私たちの心を惑乱させずにはおかない。

 
こういう感覚は他にただひとり、アーノンクールの紡ぎ出す音楽以外には経験したことがない。身体の芯まで訴えてくる音楽である。「音楽の楽しさ」あるいは「音楽の自由さ」――言葉にするとえらく平凡だが、とにかく生命力に満ちた音が奔流のように溢れ出、踊り、心に響き渡る。瞬間瞬間の驚きと喜び。瞬時に過ぎ去っていく人生も、このように送りたいと思わせる。

 
《未完成》はまるで後期ロマンの趣き。フレーズを思い切り引き伸ばし、シューベルトのロマンティシズムが溢れかえる。この曲は作曲家の心の深淵を垣間見せてくれる音楽なのだが、ミンコフスキはそれを踏まえたうえで、シューベルトの暗い情念を世界に向けて解放する。演奏会前半のアンコールが、同じ作曲家の《交響曲第3番》の終楽章。《未完成》とは打って変わった、喜びに溢れる音楽。心憎い演出である。シューベルトもなかなか一筋縄ではいかない。

 
モーツァルトの《ミサ曲ハ短調》はまた、何と官能美に満ちた音楽であることか。これはミサ曲というよりもオペラである。あるいは声とオーケストラのグラン・コンチェルト。ミンコフスキの棒は更に冴えわたる。〈クレド〉では合唱とオーケストラの大協奏で聴衆を興奮させたかと思うと、〈エト・インカルナートゥス・エスト〉では一転、ソプラノの透明感極まりない歌を、たっぷりと聴かせる。そのテンポはあまりに遅く、音楽が失速しそう。しかしこのマリア受胎の歌は、宗教性と官能性とが一体となり、心に深く沁みわたる。ミンコフスキは、霊感溢れるモーツァルトの音楽を、針の先から宇宙の果てまでも拡大したのだった。

 一日置いて、鈴木雅明指揮するバッハのカンタータを聴いた。これは、ミンコフスキの音楽とは対照的に、じつに正統的な演奏である。しかし鈴木は、バッハの音楽と精神をとことん追究して、「音楽の自由」を獲得した。鈴木の音楽の大きさ・自由さは、バッハの音楽の大きさと自由さそのものであろう。

 この日は教会カンタータ・シリーズの最終回。17年を要し、丁度100回目の定期演奏会である。その期間私は、そのほとんどを鑑賞してきたことになる。聖書からの言葉を核とした声部と、オーケストラ、あるいはヴァイオリン、フラウト・トラベルソ、オーボエなど多様な楽器が協奏する――この200曲のカンタータには、バッハの音楽のすべてがある。アンコールは《ミサ曲ロ短調》の最後のコーラス〈Dona nobis pacem〉。平和を祈念する壮大なこの曲は、鈴木たちの偉業を締めくくるにふさわしい。


●マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーブル-グルノーブル演奏会

2013年2月22日 
東京オペラシティコンサートホール
グルック:歌劇《アウリスのイフィゲニア》序曲(ワーグナー編曲)
シューベルト:交響曲第7ロ短調D759《未完成》
モーツァルト:ミサ曲ハ短調K427 

●バッハ・コレギウム・ジャパン第100回定期演奏会
2013年2月24日 
東京オペラシティコンサートホール
カンタータ第69番《主を讃えよ、わが魂よ》BWV69
カンタータ第30番《喜べ、贖われた者たちの群れよ》
カンタータ第191番《いと高きところには神に栄光あれ》
指揮:鈴木雅明
合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ
カウンターテナー:ロビン・ブレイズ
テノール:ゲルト・チュルク
バス:ペーター・コーイ

2013年2月26日 j-mosa
 


楽しい映画と美しいオペラ―その44

2013-02-13 20:37:58 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その44


               高倉健が、愛おしい

                           ――降旗康男「駅 STATION」

 

 高倉健という俳優は前々から気になっていた。そんな存在でありながら、彼の主演作品を映画館で観たことはほとんどない。こんな人間が高倉健を云々するのはおこがましいが、それは承知の上で、今日の話題は健さんに絞らせていただく。こういう気持ちにさせてくれる俳優はめったにいないし、それは何故なのかも考えてみたい。

 私の観た高倉健主演の映画は数少ない。任侠映画は観る気もしないし(健さんフアンには申し訳ない)、せいぜいが山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」と「遥かなる山の呼び声」、他に「居酒屋兆治」や「冬の華」。「八甲田山」、「鉄道員」も観ているな。これらの映画を通して、高倉健はどこか気にかかっていた。もちろんいい男である。それも近頃珍しい、太い眉の、いかにも男らしい男である。演技はお世辞にもうまいとはいえない。しかしスクリーンから発散されるその存在感は観る者を圧倒する。圧倒されながら、どの映画にも不満だった。高倉健が生かされていない。

 たとえば三船敏郎である。男らしい風貌、演技はうまいとはいえないが、圧倒的な存在感。高倉健に近い俳優だ。しかし、彼は黒澤明という稀有な監督によって数々の名作を残すことができた。「野良犬」「七人の侍」「羅生門」「蜘蛛の巣城」「赤ひげ」など数え上げればキリがない。とりわけ「用心棒」は黒澤・三船コンビの最高傑作だと思う。残念ながら高倉には、三船に於ける黒澤がいなかったのではないか。無念というか、惜しいというか、高倉健については、こんな感懐を抱いていたのだった。

 だいたいがワンパターンすぎるのである。暗い過去がある、刑期を終えて出所した、正義感に溢れ、腕っぷしが強くてぶっきらぼう、女性には淡白だが、もちろんもてる。山田洋次作品ですらそうで、三船が演じた黒澤映画の主人公の多様性に比べて、あまりに単純である。不器用で、個性が強すぎる高倉の存在そのものに問題があるのだろうか、などと思ってもみた。

 ところが、年末に放映された映画のなかに「駅 STATION」があって、私は非常な感銘を受けた。ああ、これが高倉健なのだ、と思ったのである。大袈裟にいえば、彼はこの作品で映画史に残る俳優になったとさえ思った。もちろん全編これ高倉健で、彼を極立たせる映画である。彼の主演する映画はどれもそうなのだが、しかし「駅」は他の作品とはー味も二味も違っていた。

 まず倉本聡の脚本がいい。ひとつひとつの事件や出来事が丁寧に描かれ、それらを伏線にして物語が展開する。物語は重層構造をなし、人物の描写も彫が深い。黒澤作品が人を引き付けるのも、優れた脚本のお蔭である。黒澤は自身も優れた作家であったが、菊島隆三、橋本忍、小国英雄など錚々たるメンバーと構想を練った。脚本の重要性はいくら強調してもしすぎることはない。

 監督は降旗康男。彼は「冬の華」「居酒屋兆治」「鉄道員」など、高倉主演の映画を何本も撮っているのだが、この作品では同じ監督とは思えない腕の冴えを見せている。犯人を追いつめるサスペンスの迫力もさることながら、倍賞千恵子、烏丸せつこ、宇崎竜童、いしだあゆみ、根津甚八といった俳優の個性を見事に引き出している。分けても、現実からズレ、浮遊感漂う烏丸の演技は出色である。居酒屋のテレビに流れる八代亜紀の「舟唄」も効いている。作品が傑作となるには、ひとつの要素も欠けてはならない。高倉健の前にはすべてが揃ったのだ。そして彼は――。

 高倉健はやはり強くなければならない。彼は警察官で射撃の名手、最後の場面ではその力を存分に発揮する。しかし警察官は、やくざや殺人犯とは異なり、「体制側」の人間である。高倉のイメージとは異なる。ここでは、仕事に疑問を抱き、現実とのギャップに苦しむ男、という普遍性を獲得することになる。

 たった一度過ちを犯した妻を許すことができない。妻は幼い息子を連れて家を出る。最初のシーンは彼らと別れる駅の風景。愛しているが故の別離は、融通のきかない不器用な男の悲劇を象徴している。これもまた高倉健である。いしだあゆみが初々しいだけに痛ましい。

 飲み屋の女将が倍賞千恵子。何を演じても器用にこなす女優だが、いずれも自然さを失わない。ある意味で高倉健とは対照的な役者である。そんな二人が恋に落ちる。なるほど、男と女の間に必要なものは「相性」だと、十分に納得がいく。健さんは文句なく女にもてる。それに他者にも優しい。

 ひとつひとつ挙げていけば何のことはない、これまでの高倉健のイメージそのものである。しかし、この映画の高倉健は愛おしい。それは、生きることに確かな意味を見いだせない男が、静かに、なお生きようとしているからである。降りしきる雪のなかに彼はたたずむ。その哀しい姿が、無性に愛おしい。


■《駅 STATION》
1981年11月7日 公開
2012年12月31日 NHKBSプレミアムで放映
脚本:倉本聡
監督:降旗康男
音楽:宇崎竜童
出演:高倉健、倍賞千恵子、いしだあゆみ、烏丸せつこ、宇崎竜童、根津甚八

2013年2月11日 J.mosa


コンサートのお知らせ 新宿・2月27日 「兵士の物語」

2013-02-12 22:12:58 | コンサート情報

新宿エコギャラリー ランチタイムコンサート
2月27日 12時より。新宿エコギャラリー (新宿駅徒歩10分)

ストラヴィンスキー「兵士の物語」全曲です。
演奏は上野信一が主催するアンサンブル・ムジカ・ヴィヴァンテ
朗読グループによるお話と音楽のコラボレーションです。

休暇中の兵士が悪魔と出会い、バイオリンと引き換えに魔法の本を手に入れます。
喜んだのもつかの間、故郷に戻ってみると、ほんの三日の寄り道のはずが三年間が過ぎていました。再び歩き始める兵士、こんどは病気のお姫様を治してみせる、とバイオリンを手にするが・・・
コンサート情報、くわしくはこちらをご覧ください。

http://www.shinjuku-ecocenter.jp/event/2013/02/01_20130227_01.html


北沢方邦の伊豆高原日記【138】

2013-02-06 13:28:08 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【138】
Kitazawa, Masakuni  

 いつもなら1月の下旬には満開となる早咲きの白梅や紅梅が、ようやく3分咲き程度となった。冬枯れの光景や、冬にはくすんだ色となる常緑樹の濃い緑を背景に、淡い陽光をうけてほのかに輝く。山茶花の花が終わりを告げはじめたため、まだ冬毛でこれもくすんだウグイス色のメジロの群れが、蜜を吸いにやってくる。

微生物(マイクローブ)の驚くべき世界  

 ひと仕事が終わったので、例によって溜まっていた雑誌類や書評紙などを読みはじめた。そのなかでNational Geographic, Jan.2013の125周年記念の特集「われらはなぜ探求するか」が興味深かった。とりわけ微生物科学の最新の情報である微生物学者ネースン・ウルフ(Nathan Wolfe)による記事Small Small Worldは、昨年書きあげた本に関連してきわめて刺激的であった。微生物科学がいままで隠されていた生物学的リアリティを発見しただけではなく、新しい世界像への扉を開きつつあることを確信させる記事であった。以下、私見を交えながら紹介する。  

 わが国でも一時期メディアやひとびとの話題を賑わわした、胃に寄生するバクテリア「ピロリ菌」(Helicobacter pylori)のことを覚えている方も多いだろう。メディアに登場した通俗医学では、ピロリ菌は胃潰瘍を引き起こす悪玉菌であり、除去すべきであるとされた。だがニューヨーク大学の微生物学者マーティン・ブレイザーによると、ピロリ菌は胃に寄生しながら人体の免疫作用を強化する機能を果たしていて、特異な条件下では胃潰瘍を引き起こすが、通常は必要な善玉菌であるという。事実、幼少時、抗生物質の多量投与によってピロリ菌がほとんどいなくなったひとびとには、喘息患者がひじょうに多いことがわかってきた。つまりピロリ菌の不在で喘息に対する免疫力が失われ、消化器系のピロリ菌の欠如が、呼吸器系に免疫不全を引き起こしたことになるのだ。  

 われわれの身体の全細胞に、発疹チフス菌の一種であるミトコンドリアが寄生し、思考活動を含むわれわれの酸素エネルギーすべての貯蔵庫の役割を果たしていて、その遺伝子が母方の人間の遺伝子とともに子々孫々に伝えられていることは、この日記でもたびたび指摘してきた。そのミトコンドリアを含め、われわれの身体に寄生しているバクテリアの総数は、われわれ固有の細胞数のほぼ10倍に当たり、総重量は約1・5キログラムになるという。  

 その多様にして大量のバクテリアが、実はそれ自体によって人体に精密なエコロジー体系をつくりあげ、われわれの生存に必要不可欠な諸条件をつくりだしている。すでにたびたびこの日記で述べてきたが、われわれの腸に寄生する無数の種類の無数のバクテリアは、食物の消化を助けるだけではなく、腸が吸収不可能な栄養の吸収をし、ヴィタミンや炎症防止プロテインなどをつくりだしてくれる(まばゆいばかりの赤や青などの色彩の多様な種類のバクテリアが食物繊維に群がっているショッキングな電子顕微鏡写真が掲載されている)。また皮膚に寄生するバクテリアは、適度な湿気を皮膚にあたえ、毛穴などに侵入する病原菌を防いでくれる。大気や水や食物などからわれわれは大量のバクテリアやヴィールスを吸収し、そこには多くの病原菌やヴィールスもふくまれているが、体内でのこのバクテリア・コミュニティの均衡や機能が正常に保たれているかぎり、病原菌はバクテリオファージュといういわば戦士ヴィールスによって撲滅され、駆逐される。

 だが上記の抗生物質にかぎらず、強い医薬品や、食品などに含まれる残留農薬や添加物、あるいは大気汚染、また日本人に多い過度の衛生観念による身体などの過剰な洗浄などは、これらのバクテリアやヴィールスの精密なエコロジー体系の均衡を崩し、身体のさまざまな機構に異変をもたらす。しかもこうした異変が起こると、コントロールをしあっていたバクテリア相互の力の均衡が崩壊し、前記のピロリ菌のように悪玉に変異し、胃潰瘍を引き起こしたりするのだ。医療の第一は、いかにしてこのバクテリア・コミュニティの均衡を回復させるかであるという。東洋医学でいう気の回復が、このことにもかかわっていることはいうまでもない。  

 生物体だけではない。この地球上のすべての存在は、これらバクテリアやヴィールスとの共同体であるといってもいい過ぎではない。たとえば全生物にとって太陽光と水は生成や生存に不可欠であるが、黄砂のような微細な物質に乗って上空に舞い上がったバクテリアやヴィールスは、核となって雲を形成し、雨や雪を降らす。雪の結晶には必ずこれらバクテリアやヴィールスが核となっている。つまり地球のエコロジー的循環全体が、微生物体の働きがなくては成立しないのだ。  

 微生物科学の驚くべき進展は、生物学や進化論だけではなく、世界像そのものを大きく変えつつある。