北沢方邦の伊豆高原日記【141】
Kitazawa, Masakuni
東京ではソメイヨシノが順調に開花し、満開となったようだが、伊豆高原では異変が起きている。山桜の類は例年通り美しく咲き誇り、ヴィラ・マーヤのそれも、本居宣長の歌をいつも想起させるのだが、新芽の鮮やかな緑──本来古語でミドリというのは生まれたばかりのもの、植物では新芽のことなのだが──を背に満開となり、朝日を受け、匂い立つように白く輝いている。
だがソメイヨシノは例年の半分あるいは3分の1程度の花しか付けず、しかも散らないうちに新芽に蔽われはじめている。いささか不気味だ。気象の異常に、山桜は強く、ソメイヨシノは弱いということなのだろう。
科学と想像力の境界
異変といえば、科学のさまざまな分野で「異変」が起きている。ひとつは新しい分野が次々と開拓されていることと、それに関連して、物理学・化学・生物学などといった古典的な境界が消失しつつあること、またそれらの最先端ではいい意味で、「科学」と「想像力」の境界が失われつつあることである。
たとえば宇宙生物学(astrobiology)である。いうまでもなく地球外生物の探索と研究が目的である。この日記でもたびたび取りあげてきた(最近のものでは138)が、この地球上での微生物科学(サイエンス・オヴ・マイクローブ)または微生物学(マイクロバイオロジー)の驚くべき展開によって、生命と進化の概念に革命がもたらされつつあるが、その成果のうえに地球外生物あるいは生命を探索し研究しようというのである。
実はこの地球上でも、従来の生物学によって確認されてきた生物または生命体の種の数はわずか10数パーセントでしかないことがわかってきた。残りはまだ命名はおろか発見されていない生命体であり、そのうちのかなりの部分は従来、生命の維持が可能ではないと考えられてきた超高温・超高圧あるいは高線量放射能(最近チェルノブイリの溶融炉芯で未知のバクテリアが発見された)など、過酷な環境にみごとに適応する生命体である。
そうであるならば、地球一般よりはるかに過酷な環境にある諸惑星やその衛星、あるいは太陽系外の諸天体に生命が存在しないということは考えられない。宇宙生物学者たちは、そうした物理学的諸条件のなかで、どのような化学反応が起こり、どのような生命体が発生しうるか、理論的に研究しつつ、最新の天文学の成果と提携しはじめている(それによればブラック・ホールの縁にすら生命は存在しうると計算されている)。
かつて科学哲学者カール・ポッパーは、科学が科学でありうるためには、1)実験可能であること、2)検証可能であることと条件づけた。だがすでに量子物理学のストリング理論はこの条件をいわば蹴散らしているが(保守派はそのためにストリング理論はメタフィジックス[形而上学]であってフィジックス[物理学]ではないと非難している)、この宇宙生物学もみごとにこの条件を破綻させている。
いまや最先端の諸科学では、科学と想像力との境界は失われつつあり、また逆にゆたかな想像力を働かせることによってのみ、科学の進展あるいは新しい創造がありうることを示している。
子供たちは生まれながらにこうしたゆたかな想像力をもっているのに、教育を受けるにしたがってそれを失い、社会や学問の型にはめられてしまっていく。教育体系の変革も、こうした観点から考えられなくてはならない。想像力とは身体性そのものから沸きあがってくるものなのだ。 (ニューヨーク・タイムズ書評紙March 10,2013に掲載されたWeird Life; The Search for Life That is Very Very Different From Our Own. By David Toomeyの書評[ by Richard Fortey)]に刺激されて)