一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【105】

2011-06-30 08:56:44 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【105】
Kitazawa, Masakuni  

 梅雨明けしたかのような青空がつづく。窓から吹き込む微風が涼しく、どこからともなく野生のジャスミンの花のえもいわれぬ芳香を運んでくれる。おそらく裏の森の樹の緑の枝にからみつき、白く咲いているのだろう。芳香の行方を定めてみたが、みつからない。

昨日から明日へと貫く音楽 

 6月28日オペラ・シティ・コンサート・ホールで行われたNHK交響楽団のMusic Tomorrow 2011で、本年度の尾高賞受賞作品、西村朗の『蘇莫者(そまくしゃ)』が、演奏というよりも上演された(指揮パブロ・エラス・カサド、天王寺楽所[がくそ]舞人)。

 2009年の作品で、大阪で初演されたものであるが、初演時と同じく、フル・オーケストラが取り囲む舞台中央に、青毛氈を敷き詰め、金の擬宝珠に朱塗りの欄干を四方に配した本格的な舞舞台をしつらえ、そこで黒褐色の異形の面に金襴の打ち掛けの蘇莫者の舞人を中心に、蔵面(ぞうめん)をつけた蘇利古(そりこ)など二人の舞人を添え、これも本格的な舞をともなうものである。

 日本雅楽(舞楽)の『蘇莫者』は、山の奥深い川瀬で聖徳太子(役[えん]の行者という説もある)が笛を吹いていると、信貴山の神が現れ出で、舞を舞ったという伝説にもとづいているが、それは太子の怨霊そのものであるという説もある。いずれにせよ、聖霊会(しょうりょうえ)で上演される重要な儀礼舞であり、太子の怨霊であれ信貴山の神であれ、神の荒御魂を鎮め、豊穣と平安を祈るものである。

 西村の音楽は、荒ぶる神の宇宙的な荒ぶる息吹と、その御魂鎮めという奥深い主題を、彼独特の重層的なヘテロフォニー技法で徹底的に表現し、聴くものを圧倒する。オーケストラのみの「前奏曲」、舞人の入場から舞に至る「乱声(らんじょう)」・「音取(ねとり)」・「序」・「破」と「後奏曲」からなるが、クライマックスの「破」の冒頭で雅楽『蘇莫者』の笛の主旋律がフル-トで吹きならされる(四天王寺の聖霊会では、舞台に昇った楽人が聖徳太子遺愛の笛と伝えられる笛でこれを奏でる)だけで、あとは雅楽の模倣や変奏のたぐいはいっさいない。

 だが不思議なことに、基本的なテンポとリズムはあくまでも『蘇莫者』の滔々とした流れであり、大太鼓や打楽器群が独特の間合いで、ずっしりと身体にひびく大地の音を打つ。舞も、いうまでもなく西村の音に合わせた創作であるが、伝承された基本的パターンはいっこうに崩れない。50分もの演目であるが、時間はあっというまに過ぎ去り、千年もまえの「昨日」の伝承が、「明日」へと大きく羽ばたくさまが見えてくる。

 そのうえ東日本大震災とフクシマ原発大事故の現在である。2009年に書かれたにもかかわらず、この幽暗にして雄大な鎮魂曲は、今日あるを予期して書かれたものとしか思われない。これこそまさに「知と文明の転換のための」音楽版といえよう。


ロシアの古典的名作絵本『ねこのいえ』発売

2011-06-26 10:55:32 | 書評・映画評



マルシャーク 絵ワスネツォフ 訳片岡みい子
2011年6月18日刊行平凡社1890円

http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=newbooks.html


http://www.amazon.co.jp/

知と文明のフォーラム・ブログ管理担当、カタオカ★Mです。
企画のTOKさんと編集 j-mosa さん共々惚れ込んだ
ロシア絵本2冊目を翻訳・出版することができました。

ネコねえさんの屋敷を訪れた甥の兄弟ネコは
門番のネコじいさんに邪魔だと追い払われます。
女主人と門番が家褒めの客たちを門まで見送り、
おしゃべりしているあいだに、暖炉の火がはねて家は全焼。
焼け出されたネコねえさんとネコじいさんは、
泊めてほしいと近所を回りますが、みんなに断られます。
最後に甥達のあばらやにたどり着き、やっと安心してやすむことができました。
新しい家族になった4人は、協力して新しい家を建てることにしました。

「助け合って、皆で幸せになろう!」がメッセージ。読み聞かせや児童劇に最適です。


以下に、訳者あとがきを掲載しました。

 ロシアでは、マルシャークを知らない人はいません。『ねこのいえ』も、親が読んできかせたり幼稚園で演じたりするので就学前には誰もが暗唱できるほどです。マルシャークは、『火事』や『チリ・チリ・チリ・ボン!』といったわらべうたに着想を得てこのお話を書きました。1922年、〈子ども劇場〉のために初めて発表されたときは一幕物の詩劇でしたが、1945年に三幕物に改訂され、さらに1948年、国立中央人形劇場のために書き直されたのが本書の底本です。

 
マルシャークはこの物語を書く前に、第一次世界大戦下、強制移住させられ難民化した子どもたちを助け、履物や外套や毛布などの世話をしています。辛い境遇にある子どもたちのために、「きみたちをこの戦争で死なせない、凍えさせない、子どもはこの世で幸せにする」という強い信念でこの物語を書いたのです。でも、お話は説教くさくないどころか、むしろ滑稽です。動物たちは言いたい放題、それぞれ勝手きままに振る舞っています。火事で焼け出されたネコねえさんに同情はしますが、所詮他人事。ネコねえさんとネコじいさんも自ら苦難を味わってようやく成長します。子どもたちは、マルシャークのリズミカルでユーモラスな台詞を暗唱したり合唱したりしながら、「みんなで幸せになろう」という簡潔で明快なメッセージに親しむのです。

 
いっぽう挿絵もユーモアたっぷりです。ワスネツォフは1947年に出版された三幕物の絵本には青黒2色刷りのお洒落なリトグラフを描き、1959年初版の本書にはカラフルな水彩画を添えています。彼が描く擬人化された動物たちは、愛らしくて可笑しくて魅力的です。また、伝統的な民工芸の故郷で育ったワスネツォフならではの、純ロシア的な家の装飾や花や文字のデザインが全編を彩り、懐かしさと安らぎを与えてくれます。

 
本書は戯曲です。挿絵を参考に舞台装置や衣裳を作って演じてみてください。ロシアの田舎の家にも注目です。門や木戸を開けて敷地に入り、外階段でポーチへあがったところに玄関があります。窓の鎧戸は観音開きの木彫り細工、窓のまわりにも木彫りを施したり模様を描きます。家に入ると玄関の間があり、客間兼食堂に入ると暖炉(ペチカ)があって、煙突は1本。

 
火事は多かったようで、1920年代の新聞に「一生のうちに一度も火事にあわない農民はいない」とあります。消防隊は馬を大事に手入れし、勇敢な消防士たちは憧れの的でした。ちなみに1000ルーブルしたネコねえさんのドレスですが、当時の富農の年間の現金収入、および都市生活者のほぼ年収にあたります。工業製品としての美しい布や短い靴はなかなか手に入らず、田舎の家ではベッドはもちろん、家具調度、鏡やピアノはたいへんな贅沢品でした。娯楽といえば、集まって歌ったり踊ったり、お話しをすること。そんな昔のロシアの暮らしを想像しながら、演じてみてください。
                    


楽しい映画と美しいオペラ―その38

2011-06-21 11:35:36 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その38

               

                    心を癒すチェンバロの響き
                               ――グスタフ・レオンハルト・リサイタル  



 原発事故の影響で多くの音楽家が来曰をキャンセルしている。メゾソプラノのアンゲリカ・キルヒシュラーガーとヴァイオリンのヒラリー・ハーンはチケットが無駄になってしまった。直接の被害はなかったものの、ムター(ヴァイオリン)やピリス(ピアノ)が来日しなかったことでガッカリした人は多かったはずだし、今公演中のメトロポリタン・オペラでも有名歌手のキャンセルがあいついだ。とりわけ今を盛りのテナー、ヨナス・カウフマンの不在は、オペラ愛好家には衝撃が大きいものと思われる。カウフマンで『ドン・カルロ』を聴きたかったという人が、私の周りに何人もいる。

 しかし、彼らのキャンセルを非難することはできない。福島第一原発の事故の深刻さは測り知れないものがあり、海外メディアはその事実を冷徹に伝えているようだ。事故から3ヵ月経った今も収束の兆しは見えないし、日本国民のなかにも、政府やマスコミの流す原発情報に不信の目を向けている人が多数いる。そんななか、あえて「汚染列島」に足を踏み入れようとする音楽家の方が稀な存在といっていいだろう。

 ドミンゴは、震災の余波がまだ冷めやらぬ4月の10日に、NHKホールでリサイタルを開いた。人間の声は、70歳を過ぎてもなお進化する! テナーとバリトンの領域を往環するその自在な声に圧倒されながら、私は年輪の持つ重みを考えていた。ドミンゴはコンサートを締めくくるにあたって、東日本大震災で被災した人たち、また日本の総ての人たちに向けて心のこもったメッセージを述べた。そのあと歌われた『ふるさと』は、聴衆の心をひとつにする暖かさに満ち、私も声を合わせて歌いながら涙をこらえることができなかった(共演予定のソプラノ、アナ・マリア・マルティネスがキャンセルし、若手のヴァージニア・トーラが急遽来日、好演であった)。

 さて私の手元には、グスタフ・レオンハルトのチェンバロ・リサイタルのチケットがあった(5月31日)。83歳のレオンハルトがはたして来てくれるのか、会場のトッパンホールに着くまで実は不安であった。入口にはレオンハルトの演奏会の案内書きがあり、来てくれた!と胸をなでおろしたものだ。

 長身で痩躯、白髪の自然なオールバック、どこか哲学者を想わせるその知的な風貌は、10年前の12月、第一生命ホールで接した時と少しも変わりはない。しかし左の手に手袋をはめている。腱鞘炎? 高齢のうえ、指の機能にも支障をきたしているのだ。この状態で、よくぞ日本に来てくれた。演奏に入る前から、私の胸には熱いものがこみあげてきた。レオンハルトは具体的な言葉は何も発していないが、日本に対する彼のメッセージは明らかであろう。

 おそらく万全の体調ではなかったと思われる当夜、レオンハルトの指が紬ぎ出す音楽は、信じ難いほど崇高なものであった。 その凛としたチェンバロの響きは、心に深く泌み入った。格調が高く、余分なものを削ぎ落とした、文字どおり音楽の精華を聴いたという思いだ。それでいて、その音楽は決して近寄りがたいものではなく、まるで彼の書斎で聴かせてもらっている心持ちであった。レオンハルトは、気分の赴くままに好みの音楽を奏で続ける。とりわけ前半はあまり耳にしたこともない作曲家の作品群であったが、そんなことはもはや問題ではない。低弦の深い響きが心を鎮めてくれたかと思うと、高音のアレグロでは、老巨匠の秘めた情念の火をかい間見せてくれる。楽曲のくぎり目にわずかなタメをつくるレオンハルト独特の奏法も健在で、音楽のミューズとの、一期一会の逢瀬を堪能させてもらった。

 若き日、盟友アーノンクールと古楽の道を切り拓いてきたレオンハルトだが、たどり着いた道は大きく異なっていた。片やベルリン・フィルを率いてブルックナーを振るかと思えば、ザルツブルク音楽祭では『フィガロ』を指揮して聴衆を熱狂させる。現代クラシック音楽界の頂点を極めた存在といえるだろう。このアーノンクールに対してレオンハルトは、自らに敷かれたー本の道を、わき見などすることなく静かに、堅実に歩いてきたのだ。そんな対象的な二人の生み出す音楽が、共に聴く人の心に深く訴えかける。道を極めるとはこういうことなのかと、奇しくも時を経ずして両人の実演に接することができた私には、まことに感慨深いものがあった。  

●プラシド・ドミンゴ・リサイタル
2011年4月10日 NHKホール
『トスカ』から「星はきらめき」
『アンドレア・シェニエ』から「国を裏切る者」
『リゴレット』から「祭りの日にはいつも~泣け、娘よ」
『マイ・フェア・レディ』から「君住む街で」
サルスエラ『マラビーリャ』から「恋人よ、わが命の君よ」他
テノール:プラシド・ドミンゴ
ソプラノ:ヴァージニア・トーラ
指揮:ユージン・コーン
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団

●グスタフ・レオンハルト・リサイタル
2011年5月31日 トッパンホール
ルルー『組曲ヘ長調』
J.C.バッハ『前奏曲ハ長調』
フィッシャー『シャコンヌト長調』
デュフリ『クラブサン曲集』より
J.S.バッハ『平均律クラヴィーア曲集第2巻』より第9番ホ長調BWV878
J.S.バッハ『組曲ホ短調《ラウテンベルクのための》』BWV996
J.S.バッハ『イタリア風のアリアと変奏』BWV989

2011年6月11日 j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記【104】

2011-06-15 08:51:06 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【104】
Kitazawa, Masakuni

 ガラス戸を開けて芝生にでると、さまざまな樹々の花々の香りが、いささか湿った大気のなかにただよってくる。ときおり近くにやってくるウグイス、ホトトギス、クロツグミ(?)の他を圧する囀りに混じり、メジロやジョウビタキやコガラなどガラ類の声が、昔に比べると少なくなったとはいえ、聴こえてくる。

 ニューヨーク・タイムズ書評紙からの雑感 

 仕事の都合でときおり溜め込んでしまうニューヨーク・タイムズの書評紙を、数週間分まとめて読むことになった。そのなかで関心をひいたいくつかを紹介しよう: 

 アダム・カーシュ(Adam Kirsch)の「歴史のための戦い」(The Battle for History)と題するエッセー(May 29)が面白い。イラク戦争やヴェトナム戦争が「汚い戦争Dirty War」であったという悔恨の念をこめた認識は、かなりひろくアメリカ人のあいだに浸透しているが、第2次世界大戦は、ナチズムや日本軍国主義などの諸悪と戦った「正義の戦争または善き戦争Good war」であるという認識は、知識層のあいだでもかなり一般的である。だが全面的にそうであるか、という疑問がここ数年来歴史界のなかで高まってきたという。 

 いうまでもなく戦争末期、ハンブルクやドレスデンを壊滅させた英米空軍による無差別絨毯爆撃(毛布爆撃blanket bombingともいう)、またカーティス・ルメイ将軍の指揮で一晩に10万人の死者をだした東京大空襲、あるいはヒロシマ・ナガサキを一瞬に廃墟と化し、数10万に昇る死者・負傷者をだしただけではなく、戦後何十年にもわたり延々とつづく被曝者の死亡など、非戦闘員を意識的に標的とした──ドイツでも日本でも都市に残っていた市民は、治安・防災要員は別としてほとんど女性と高齢者と中学生以下の子供であった──残虐な戦術・戦略は、はたして正義の戦争や善の名にあたいするかという疑問である。ある学者は、ナチスや日本軍がやったように、小銃や機関銃で非戦闘員を虐殺するのと、上空から爆弾・焼夷弾で虐殺するのとどこが違うのか、と述べている。

 それに加え連合国側でも、ソヴェト軍は枢軸側の捕虜や非戦闘員を意図的に虐殺し、ドイツや旧満州では、女性は見つけ次第強姦するのが敵への正当な復讐だとされた。ドイツ国防軍と赤軍との戦闘の主戦場であったロシア西部からドイツ東部にいたる地域で、両軍に虐殺された非戦闘員は1千4百万人に昇る(そのうち赤軍による虐殺は4百万人であり、ドイツ軍による1千万人のなかには、強制収容所において親衛隊が手掛けたユダヤ人6百万人が含まれる)。またイギリスの植民地インドでは、天候不順とイギリス軍による食糧徴発のため、ベンガルで飢饉が起こり、数万人が餓死するまで人種差別主義者の首相チャーチルは手を打たなかった(日記【84】でも取りあげた)。

 アメリカ歴史学界のこの新しい潮流は、すでに祖父たちの偉大なる戦争として半ば神話化されつつある第2次世界大戦を、「正義の戦争」でも「汚い戦争」でもなく、つねに道徳的問題を人類につきつける「戦争」のリアルな姿として正確に記憶にとどめなくてはならない、それが歴史であり、歴史家または歴史学者の使命なのであるというメッセージを告げている。

『ゲルマニア』とドイツ・ナショナリズム 

 ローマの歴史家タキトゥスに『ゲルマニア』という小さな本がある。現在のドイツの地に一度も足を踏みいれたことのないタキトゥスが、紀元前9世紀にライン河を渡って「未開の地」に攻め入ったクインクティリウス・ウァルス率いる強大なローマ軍団が、アルミニウス率いるゲルマン諸族の連合軍と、現在のオスナブリュック近郊の森で戦い、壊滅的な敗北を喫したできごと──その報を聴いたカエサルは激怒し「わしの軍団を返せ!」と怒鳴ったという──をもとに、野蛮と思われていたゲルマン諸族が、野蛮どころか誇り高く、勇敢で高潔な種族であり、快楽にふける頽廃的なローマ人よりもはるかに高貴だと称えた本である。 

 中世を通じ、長い間『ゲルマニア』は失われたものと信じられていた。だが1455年、ある孤立した修道院でその写本が発見され、のちに活字化されることとなった。18世紀、プロイセンのフリードリヒ大王がこれを読み、称揚して以来、フィヒテやヘルダーといった学者たちが、これぞわれらの祖先たちの偉大さを証する本であり、われらのよりどころである、として聖典のように扱った。 

 当時のドイツは、封建時代以来の無数の小さな領邦諸国からなる国で、統一された王国であるイギリスやフランスに劣等感を抱く「大いなる田舎」であった。50を超える諸部族を統一して勝利を収めたアルミニウスの故事に倣えとばかり、『ゲルマニア』はたちまちドイツ・ナショナリズムの聖典となった。19世紀末、ついにドイツは統一国民国家として成立し、数百年に渡る念願を果たすこととなった。

 だが『ゲルマニア』の影響はさらにつづき、ウルトラ・ナショナリズムつまりナチズムの興隆にまでいたる。ヒトラーやヒムラーはこれを愛読し、権力掌握後の1936年ニュルンベルク党大会──レニ・リフェンシュタールの恐るべき美しい映像が残されている──では、タキトゥスの文章を飾った「ゲルマニアの部屋」まで設置された。それはゲルマン民族の「血の純潔」と読みかえられ、ユダヤ人など「劣等種族」のホロコーストにいたったのだ。

 以上、ハーヴァードの古典学者クリストファー・クレブスの『もっとも危険な本:ローマ帝国から第三帝国にいたるタキトゥスの「ゲルマニア」』(Krebs, Christopher B..A Most Dangerous Book;Tacitus’s “Germania”From the Roman Empire to the Third Reich)とその書評(Cullen Murphy,June 12)による。

訂正●日記【102】で記述した勉強会は、古い日記を読み返して2001年の2月であったことが判明したので訂正します。なおそこでは脱原発の話題は私の持論であるので省略したらしく、懇談の場面で、民主党は新自由主義者小泉純一郎氏などに共鳴する鳩山由起夫氏が駄目にしたし、社民党は土井たか子氏のおかげで護憲のみを唱える新左翼残党と総評残党の弱小政党となってしまい、もはや政治状況に希望はないから、むしろ自民党の加藤紘一氏などと組み、新党を創りなさい。政策が斬新であればブームを起こしますよと助言した、と書かれてある。


ブノア・ムーラン マリンバ・コンサート

2011-06-11 16:04:27 | コンサート情報

上野信一&フォニックス・レフレクションが 
プログレッシブ・ロックのアーティストと共演 
SINSKEも参加



フランス・プログレ界で、「ゴング」「GONGZILLA]などのメンバーとして、
またソロ・アーティストとして活躍するブノア・ムーラン。
今回、ジャズロック風アレンジのソロアルバムを引っ提げ2度目の来日をするにあたって、
上野信一&フォニックスと日仏パーカッションの共演が実現することになりました。
ソロ・アーティストとして活躍中のSINSKEさんも参加します。

ブノア・ムーランの動画(ただし今回のコンサートはエレキではなくアコースティックのみです) 
http://www.youtube.com/watch?v=btmj1l-Wz_w&feature=share

ブノアのオリジナル曲「ゴング」や、「フォニックス」のレパートリーを中心に、
メロディアスでノリのいい、ぴったりと息のあったフォニックス・サウンドで盛り上げていきます!

チケットは以下の方法でもお求めになれますが、
information@phonix.nows.jp

FAX 03-5486-4870に、「知と文明のフォーラム関係」とお書きになり、
枚数(一般・学生別)、お送り先をご指定の上お申し込みいただいた方には、
オンライン手数料・送料分を割引させていただきます。

お振り込み先 郵便振替口座 00130-9-759115(名義 フォニックス・プロモート)
お申し込み後、お振込みをお願いいたします。ご入金確認後発送いたします。
6月20日以降は当日受付でのお渡しになります。

日時:7月1(金) セシオン杉並
(地下鉄丸の内線東高円寺または新高円寺) 地図
http://mappage.jp/popup/popmap.php?X=2.4374792630601&Y=0.6229749774126&L=12

開場■18:30  開演■19:00 
チケット価格■前売 一般 ¥3500 学生¥2500  当日¥4000
オンラインでのチケットお求めは、こちら 
http://confetti-web.com/detail.asp?tid=108510

主催●Usakuma Records  www.usakuma-records.jp
協力●POSEIDON  
www.poseidon.jp
問合せ先●Usakuma Records事務局 yayoi-izu@hb.tp1.jp (月―土17:00~21:00)
ご来場特典●Usakuma Records 設立記念 オリジナルファイルホルダー&ボールペン
をもれなくプレゼント!
詳細は、
http://www.usakuma-records.jp/archives/51628059.html 
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