一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

レクチャー・コンサート開催のお知らせ!

2006-12-19 11:19:19 | 活動内容

没後180年記念レクチャー・コンサート

不滅の戀人にみる ベートーヴェンの變貌

プログラム

レクチャー 青木やよひ

〈不滅の恋人〉探求50年の成果と、楽聖ベートーヴェンの人間的魅力をあますところなく語りつくす。

楽曲解説 北沢方邦
〈不滅の恋人〉のテーマが、いかにベートーヴェンの後期の作品に色濃く影を落としているか、
楽曲をもとに解説する。

ピアノ演奏 ヨンヒ・パーク
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ ホ長調 作品109
――――――
◆日時・・・・・2007年2月2日(金) 18:30開場/19:00開演
◆場所・・・・・ルーテル市ヶ谷センター ℡03-3260-8621 

http://www.l-i-c.com
◆チケット(全席自由)・・・・・・・・一般3000円 学生2000円
◆チケットお申し込み・・・・・東京文化会館チケットサービス ℡03-5815-5452
http://www.tbk-ts.com
主催●知と文明のフォーラム 協賛●楽友会フロイデ 後援●株式会社 平凡社

★メールによるお問合せ、チケットのお申込みは・・・・
 maya18_2006@mail.goo.ne.jp
※メールアドレス@前は、maya18(underbar) 2006です。
コメントでのご連絡も、大歓迎です。


北沢方邦の伊豆高原日記⑰

2006-12-18 09:31:46 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記⑰
Masakuni Kitazawa  

 雑木類の葉はほとんど落ちたが、それでもまだ黄色や橙色の葉をまとって冬に頑強に抵抗する樹々がある。風が吹くと落葉吹雪で、空一面に枯葉が舞うのは壮観だ。ヴィラ・マーヤの通路も枯葉でおおわれてしまったが、冬特有の強風が吹けば、また顔をあらわすだろう。ここしばらく雨が多く、おかげで原木から椎茸が傘をひろげはじめ、食卓をゆたかにしてくれる。

「テロ戦争」二題噺

 しばらく体調を崩し、ジンマシンなどがひどくなったので、三日間の断食を行った。若い頃は春休みを利用して一週間の断食をしたが、高齢を考慮して三日にとどめることにした。ただジンマシンが完全に回復したわけではないので、五日にすればよかったかもと思っている。いまは断食明けの二日にわたる食養生も終わり(断食明けに多食をすると決定的に胃腸を壊す)、ようやく仕事机に向かったしだいである。 

 断食中はヨーガを欠かさず、瞑想をしたり、薬湯を煎じたりと日常生活をつづけるが、さすがハードな仕事はできず、溜まっていた「ニューヨーク・タイムズ書評紙」や「カレント・アンスロポロジー」誌などを読むにとどめた。書評紙でいくつかの面白い記事をみつけたので紹介したい。

 ひとつは『他の手段による戦争;テロ戦争についてのあるインサイダーの説明』というジョン・ユーの本と、『次ぎの攻撃のまえに;テロリズムの時代に市民的自由を保持するには』というブルース・アッカーマンの本である(Dec.17,2006)。前者は第一次ジョージ・W・ブッシュ政権の司法省高官であり、「拘束者」についての法的助言を行った人物である。当然ブッシュ政権寄りの立場をとり、法的に疑義のある「拘束」を正当化している。後者はやや穏健な立場から、テロとの戦争は半永久的につづくのであるから、9・11のような事件が起こった直後に、そのときどきの(アド・ホックな)法の整備を行えばよい、とするものである。

 これらの本については紹介するほどではないが、書評者のファリード・ザカリアの議論が鋭く新鮮であった。

 ザカリアはその名によって判断されるように、中東系アメリカ人であり、「ニューズ・ウィーク」国際版の編集長である。PBSのジム・レーラー・アワーにもよく登場し、中東情勢についてきわめて明晰な分析を展開するひとでもある。

 彼は「マグナ・カルタ」の人身保護令(ハベアス・コルプス)以来の西欧の人権や自由の概念を喚び起こしながら、ジョン・ユーの立論に疑問を呈する。なぜならブッシュの宣言するように「対テロ戦争」であるなら、アル・カイダなどの拘束者は当然「戦争捕虜(POW)」であり、ジュネーヴ条約の適用下に置かれるべきであり、グアンタナモでの拘束や拷問に近い尋問などは行うべきではない、となる。第二に、戦争は国家や集団あるいは組織に対して行われるものであり、ゲリラやテロといった、対等な外交手段をもたないひとびとの「戦術(タクティック)」は戦争の対象ではない、という点にある。戦術が戦争の対象であるなら、対テロ戦争は人間の歴史がつづくかぎり継続する。

 仮にアル・カイダという組織が対象なら、それは対アル・カイダ戦争であり、上記のジュネーヴ条約が適用される。いずれにしても合衆国政府の対テロ政策は、こうした大きな矛盾のうえに成立している。この矛盾を解消しない限り、「愛国者法(ペイトリオット・アクト)」や「軍事委任法(ミリタリー・コミッション・アクト)」などに代表される超法規的法によって、市民的自由は侵害されつづけるだろう。

 アッカーマンのいうように、「問題の根はイスラームやイデオロギーにあるのではなく、国家と市場と破壊技術とのあいだの関係の根本的な変化にある」ことは確かだし、またザカリアのいうように「これは戦争ではない。平和の本質が変わったのだ」との主張も肯定できる。

 だが私見によれば、問題の根はもっと深いところにある。グアンタナモに象徴されるように、異文化のひとびとの人権や市民的自由がかくも簡単に侵害されるのは、人身保護令以来の人権概念が西欧文化にのみ偏っていたことに由来する。国内的・国際的に人権概念が、異なる文化の感性や身体性まで含むものに深化されない限り、この問題は終わらない。

グリーン・ゾーンの壁の裏

 バグダッドには旧フセイン宮殿を中心にして、巨大な防護壁と米軍の厳重な警備に護られたグリーン・ゾーンと称する地域があることはご存知だろう。膨大な人員をかかえるアメリカ大使館もそのなかにある。イラク占領初期に「ワシントン・ポスト」紙のバグダッド支局長であったラジヴ・チャンドラセカラン(名からするとインド系アメリカ人である)の著書『エメラルド・シティの皇帝生活;イラク・グリーン・ゾーンの内側』の、マイケル・ゴールドファーブによる書評が同じ号に掲載されている。

 第一次ブッシュ政権が、派遣されていた有能な人材をいかに排除し、ブッシュ政権やキリスト教右派に忠誠を誓う無能な人材を大量に送りこみ、彼らの無為無策によって、もっとも重要な初期占領政策がいかにねじまげられ、その後の泥沼化を生みだしたか、みごとに活写されているようだ。

 送りこむ人材の踏み絵が、なんと有名な最高裁の「ロー対ウェード判決」(これによって制限つきではあるがある程度の妊娠中絶が許されることとなった)である。いうまでもなくこの判決に反対の人物のみが、派遣人材となる。

 評者のあげている一例をあげよう。イラクの医療と保険衛生体系の再建のために、輝かしい経歴をもち、湾岸戦争後クルド地域で献身的に医療にあたった医学博士フレデリック・バークル・ジュニアが派遣されていた。彼はフセイン政権崩壊後、一週間もたたないうちに更迭された。理由はブッシュ政権に忠誠ではないというのだ。

 代わりに派遣された人物は、キリスト教右派の中絶反対のためのコンサルタントであり、なんと彼の行ったイラク医療再建策は、国有化されていた医療体系の私有化であり、おそらくアメリカ製薬業界の利益のための、薬剤販売の自由化・民間化にすぎなかった。病院の機材や薬品不足、イラク人医師や看護師の確保など、緊急の要請にはほとんどなにも応えなかった。

 一事が万事、すべてこの調子であるから、初期占領政策はイラク民衆のためにはなにもしなかったといっても過言ではないようだ。一時は米軍を解放軍として迎えたシーア派サドル師の民兵たちも早々に反旗をひるがえし、武力衝突となったのも当然である。今日のイラクの凄惨な混沌は、このときに種が撒かれていた。ブッシュ政権の罪は重いし、その意味で政権の直面する巨大な試練は自業自得といってよい。

改正教育基本法の成立(12月15日)

 改正教育基本法が国会で成立した。すべての審議に立ち会ったわけではないので断言はできないが、国会の討議は、高校の未履修科目問題、いじめや子供の自殺、タウン・ミーティングでのいわゆるやらせ問題など、直近の現象に集中し、肝心の条文の検討であまり深い議論は行われなかったように思われる。いつものことながら、失望といってよい。

 成立後のいわゆる識者たちのコメントも、右翼的立場からの賛成か旧左翼的な反対論かのいずれかで、新味はなかった。わずかに、元文化庁長官の安嶋弥氏が、旧教育基本法は「教育勅語」回帰への防波堤になった点で評価できるが、今回の改正を含め、教育基本法なるものは(諸外国の例をみてもわかるように)そもそも不必要なものである、と述べているのがこの問題をめぐる議論の盲点をついて新鮮であった(「毎日」12.16)。

 さらに問題はメディアの対応であって、改正法第2条5を「愛国心」条項として強調し、批判をすることで、逆にナショナリズムへの関心を煽りたてたことである。改正法が絶対多数で成立することは目にみえていたのだから、伊豆高原日記2で提言していたように、野党もある時点で戦術転換をし、「偏狭なナショナリズムや愛国主義教育に利用されてはならない」といった趣旨の国会付帯決議をつけるべきであったのだ。法律は付帯決議があれば、運用にかなりの歯止めがかかる。

 西欧近代の価値体系にどっぷり漬かっていた旧法に比べ、伝統や固有の文化に言及する点で、改正法は文化相対主義に若干の歩みよりをみせ、自国の文化に無知な大量の日本人を育ててしまったことへの反省をかいまみせているが、それも真の異文化理解のうえに立つ脱近代または近代を超えた視点からはほど遠い。ナショナリズム回帰への危うさもそこには匂う(ついでにいえば、西欧近代に疑問をもった戦前の「近代超克派」が右翼ナショナリズムにしか回帰できなかったのは、彼らが、近隣の中国や朝鮮半島などの異文化を理解さえしようとしない傲慢な帝国主義的マインドをもっていたからである)。

 さらに問題は基本法よりも、その下位にある教育諸法や、戦前の教育国家管理体制の枠組みを大筋で存続させている教育体系・制度である。これらを改革しないかぎり、日本の教育の未来はない。

 教育委員会改革などがもくろまれているようだが、それはわれわれの望むような市民に開かれた委員会の方向ではなく、管理強化のためである。今後の安倍内閣の「教育改革」は、きびしく監視されなくてはならない。


楽しい映画と美しいオペラ―その2

2006-12-13 23:38:30 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その2

永遠は存在しないか―アーノンクールポネル『コシ・ファン・トゥッテ』

  先日、オペラ好きの友人から連絡が入った。新しいDVDを入手したので観に来ないかとのこと。『コシ・ファン・トゥッテ』、しかもアーノンクールとポネルの組み合わせだという。これはなんとしても行くしかない。
 
アーノンクールは、いうまでもなく、先ごろ来日して日本の音楽界を賑わせたニコラウス・アーノンクール、そしてポネルとは、フランスの演出家、ジャン=ピエール・ポネルのことである。

  ポネルはすでに1988年に事故で亡くなっている。50歳代半ばの若さだったが、幸いその舞台の多くが映像として残されている。オペラの映像を初めて鑑賞するのなら、ポネルの舞台に優るものはない。現在のオペラ上演は、特にヨーロッパでは、本来の設定から離れて、かなり自由奔放に行われている。同じ『コシ・ファン・トゥッテ』でも、2002年のベルリン国立歌劇場でのそれは、時代は現代、旅客機も登場し、ゲバラのTシャツを着た若者たちのマリファナ・パーティーまであるという「過激さ」である(バレンボイムの指揮、ドリス・デーリエの演出)。これはこれで一見に値するのだが、やはり「正統的な」上演を経験してから観るべきものだろう。

  ポネルの演出は、作品の時代背景もキチンと押さえた、それこそ「正統的な」演出である。しかし彼の作り出す舞台は、どれをとっても、この言葉にややもすると含まれる退屈さとは無縁の、生命力に溢れたものとなっている。とりわけモーツァルトの『フィガロの結婚』、ロッシーニの『セビリアの理髪師』『チェネレントラ』など、オペラ・ブッファが素晴らしい。

  さて『コシ・ファン・トゥッテ』である。ダ・ポンテ3部作の掉尾を飾るオペラ・ブッファの傑作を演出して、ポネルの右に出る者はいないだろうとまで期待したのだった。しかも音楽はアーノンクール指揮のウィーン・フィルである。期待の裏切られるはずはない。
 この映像は、舞台そのものではなく、声と映像を別々に収録した「映画」である。まず音楽が録音され、映像がそれに合わせて作られたのは間違いない。ポネルはおそらく、音源が作られる過程にまで関わったのではないか。そう思えるほど、この映画は音楽と映像が緊密に結びついている。グリエルモがドラベッラを口説き落とす、バリトンとメゾ・ソプラノの二重唱の場面など、音楽は濃密な官能に満たされ、これ以上先に進められるのだろうかと観るものを惑乱させるほどの危うさである。映像は、触れなば落ちんというドラベッラの姿をアップでとらえて、そのなまめかしさは、音楽に対してぎりぎりの拮抗を保っている。
 
 『コシ・ファン・トゥッテ』、すなわち「女はみんなこうしたもの」は、男たちが寄ってたかって姉妹の貞節を試そうとする、ある意味でまことに不道徳な、女性蔑視のオペラである。同時代のベートーヴェンはそのテーマに不快感を持ったし、ワーグナーも「これほどひどい台本ではさすがのモーツァルトも力を発揮できなかった」と切り捨てている。20世紀はじめのマーラー指揮による上演が再評価への道を開いたようだが、歌劇場のレパートリーに必要不可欠な作品となったのは第二次世界大戦の後である。

  このオペラの何よりの特徴は重唱の美しさである。三組の男女(二組の恋人同士、老哲学者、召使)が繰り広げる二重唱、三重唱、四重唱、さらに五重唱、六重唱は、それこそ天上の美しさである。モーツァルトは嬉々としてこの音楽を書いたにちがいないし、二転三転するダ・ポンテの台本は、傑作を生み出した源泉にふさわしくよく出来ている。そして、そのテーマも、19世紀のヨーロッパが切り捨てた単なる「不道徳さ」を超えて、もっと人間の本質を見つめたものではないかというのが現代の見方であろう。

  アーノンクールとポネルが、この多義性に満ちたオペラに見出したテーマとは何か。それは、移ろいゆくものへの愛惜である。「永遠の愛」という美しい理想が崩れ去り悲嘆にくれる若者たちを尻目に、老哲学者ドン・アルフォンソは、ひとりその姿を楽しんでいる。
 
  ところがである、モーツァルトの音楽を聴いていると、「永遠」という言葉を信じるほかはなくなってくるから、やはり一筋縄ではいかない。

エディタ・グルベローヴァ
デローレス・ジーグラー
ルイス・リマ
フェルッチョ・フルラネット
パオロ・モンタルソロ
テレサ・ストラータス
ニコラウス・アーノンクール[指揮]
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ジャン=ピエール・ポネル[製作/装置/演出]

2006年12月10日 j-mosa


おいしい本が読みたい③

2006-12-10 11:38:54 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第三話  作家と出会う人々

 映画『サンチャゴに雨が降る』の背景を知りたいと思い、ネルーダの自伝と一緒に図書館から借りたのが『精霊たちの家』だった。といってもアジェンデ政権を崩壊させる国内外の政治的、社会的背景ではない。社会主義政権下で近代化をめざす小国チリで、人々がどんな感覚をもち、どんな夢を描いていたのか、それが知りたかったのだ。

 望外の収穫とはこのことだろう。アジェンデ家年代記ともいえる『精霊たちの家』には無数の人物が登場するが、彼らのおかげで、学術書や旅行記や案内書のたぐいではけして知り得ない、人々の息づかいを感じることができたのだ。いうまでもなく多くは架空の人物である。しかし、さながら、文字という表現手段をもたない者たちが自己を語るべく憑依したかのように、ある種のエネルギーをみなぎらせて、生き、行動する。一瞬の無口な横顔でさえ、ふしぎな光芒を行間に残して去ってゆく。

 どうやら作者のイサベル・アジェンデは、幻視力という特異な能力の持ち主らしい。『パウラ、水泡なすもろき命』を読んで、これにはいよいよ確信をもった。難病で死につつある愛娘の病室から、現実とも虚構ともつかない過去へと、またその逆方向に、作者は自在に往還する。それは、小説的戦略より以前に、ほとんど体質的な問題だったようにみえる。

 ところで、すぐれた作品は時代を象徴し、人々の声を代弁する、としばしば言われる。典型的人物を創造することはその最たる例だろう。けれども、アジェンデの作品を読んでいてあらためて思ったのは、能力のある作家の存在だけですぐれた作品がうまれるわけでなく、そもそも人々の生きるエネルギーが凝縮し、はけ口を求めていなければならない、ということである。

 イサベル・アジェンデの幻視力と人々の生の欲望の幸運な出会い。

むさしまる