一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

第2回セミナーに参加して

2006-06-25 06:38:38 | セミナー関連

雌雄同体のカタツムリに学べ

石井ゆたか

 男も女もない世界に生きる「カタツムリ」。たまに食べられてしまうこともあるけれど、たまに人間から「駆除」されることもあるけれど、自然の縁の中で命を繋ぎ、平和に暮らしている印象のある生き物。もっとも、実際には熾烈な生存競争が繰り広げられているのかもしれませんが、男と女が支配する側、される側に分かれて争うこととは無縁であるはず。ですから、私はカタツムリを見ていると落ち着きます。   
 
 「女性がみずからの女性性を無視して、単に男性との平等だけを追求するようなフェミニズムは、近代社会が作り上げた、支配する側の都合によるジェンダーシステムを肯定することになる。だから雌雄の雌である女性性を自ら認めよう。脳の基質的な違いも認めよう」という青木先生。私は、先生のお話を男の立場に置き換えて考えてみました。

 「男性が自らの男性性を無視して、単に押し付けられた「男らしさ」だけを追求するように仕向けられる社会システムは、暴力と搾取と支配を好み、いずれ世界を破滅に追いやる。だから、自然の中に存在する雌雄の雄である男性性を自ら認めよう」。すると私自身が「男性性」についての概念を持っていないことに気付きました。

 「女を守り、家族を養う義務を命がけで果たしてこそ男」という、「男らしさのスタイル」だけが残る自分。この義務感というものの正体は何でしょう。ある男性は「愛情そのものだ」と言い、ある男性は「考えたこともない」と言います。また、ある女性は「当たり前のことだ」と言い、ある女性は「そんな男性って素敵」と言います。女性も、誰かが刷り込んだ「男らしさ」という評価基準で男性の優劣を判断している人が多いようです。どうやら、男性自身が目を覚まして、男性性の本質を深く考察しなくてはならないようです。

 誰が何のために、「らしさ」を押し付けてきたかは何となく理解できます。戦で人殺しをさせるため。会社は、比較的丈夫な体を酷使させ、カネを稼がせるため。そして、「らしさ」を演出するためのモノを売りつけるため。理解できないのは、男性がそうした「社会構造から押し付けられた役割」に疑問も不満も持たずに漫然としていて、私もそうであったこと…。

 そもそも、「義務」や「責任」という社会的基準で生き方の枠をはめられて生きるのは、甚だ窮屈な話しです。とはいえ、一方では、家族の役に立っていることに深いよろこびを感じているのも事実ではあるのですが。

 人間が、「雌雄同体」のカタツムリのように命を繋ぎ、自然がもたらす「縁」の世界で平和に暮らすには、女と男が自然を介して「同体」であることを再認識することが必要なのでしょう。しかし、心でそう思い、頭では混乱しています。カタツムリによって癒される私は、「男らしくあれ」という観念に従って生きることに疲れているのかも知れません。

 次回は「男の何が、男の生き方や価値観を縛り続けているのか」について、もう少し掘り下げてみたいと勝手に想いました。    


北沢方邦『音楽入門』書評抜粋

2006-06-22 13:45:03 | 書評・映画評

北沢方邦『音楽入門』には、「世界の音」が鳴り響いている。
 
 北沢方邦『音楽入門』(2005年11月平凡社刊)は、著者長年の哲学的思考に裏打ちされた、誠にユニークな音楽入門書である。普通の入門書と明確に異なる第1の点は、「音の持つ意味」という主題が全編を貫いていることである。熱帯雨林の笛と太鼓の響きから始まり、日本雅楽、ガムラン音楽、中近東の音楽、そして西洋音楽に至るまで、極めて広い領域をカバーしているにもかかわらず、全体が1つの交響曲のような緊密なまとまりを持っている。

■「出版ニュース」1月上・中旬合併号では、ここに焦点を当てた書評が載せられている。
  本書は音楽の意味を再発見するための音楽入門書で、全編を通して音楽を「記号」として扱う点が特徴である。
 これは音を単なる音記号の連鎖と考え、その表層的な連なりを美しく流麗に演奏することを推奨しているわけではなく、このようなことは「記号のニヒリズム」として逆に否定し、大切なのは音楽という記号にはその種族の伝統や文化、宇宙観が込められていることを自覚することだと書いている。

 『音楽入門』の記述のうちほぼ半分は、非西洋音楽に当てられている。
■「読売新聞」12月11日の吉田直哉氏の書評は、主にこの部分に触れている。これは短文でもあるので全文を紹介したい。
  「北沢さんが『野生の思考』の音楽版を書いてくれるといいんだがなあ」と亡き武満徹が言ったのは、彼がチェロとオーケストラのための『オリオンとプレアデス』を作曲した年だから、1984年である。
  この一対の星座が展開する「追いかけ、追いつき」は、オーストラリアのアボリジニ、アメリカ先住民ホピなどの重要な天文学的コードであった。日本の神話でもスバルとカラスキはスサノオの「天つ罪」をあらわす、という北沢説に刺激されてこの曲を構想した、と彼は打ち明けてくれた。
  それから20年。武満は残念ながら読めないが、彼の待ち望んでいたものがついに世に出た。本書である。熱帯雨林の奥の笛と太鼓から、中国古代の編磬と編鐘による天と地の音の交響。インドのラーガが描く宇宙そのものの情感。誤って未開と呼ばれてきた社会の、宇宙的ひろがりをもった音楽に力点をおいて、小型本ながら内容はずっしりと重い。

 この書評の影響力は大きく、『音楽入門』は今でも、書店の民族音楽の棚に置かれていたりする。本書は当然のことながら西洋音楽にも十分な目配りをしていて、私なども日頃聴いている音楽がまったく新しい相貌を持って立ち現れてくるのを実感したものだ。民族(俗)音楽と西洋音楽との関わりについては、
■「音楽現代」2月号の倉林靖氏がいい書評を書いている。
 今日のグローバル化社会のなかにあって、あるいは文化と社会の制度を全般的に見直さなければならないという風潮のなかにあって、西洋のいわゆる「クラシック音楽」のありようを相対化するとか、世界のなかの西洋音楽ということで改めて位置付けするということが随所で行われつつあるが、北沢方邦のこの『音楽入門』はそうした方向での格好の入門書であり概説書であり、かつ刺激的な問題提起の書となっている。単に内容が概説的であるというだけではなく、どの部分をとっても深い思索と知識に裏打ちされており、鋭く啓発的な問いかけを行っているのだ。こうした内容は、北沢氏が世界の民族(俗)音楽や邦楽にも、クラシック音楽にも、どちらにも等しく幅広い知識を持っており、かつ構造主義哲学や文化社会学などの面においても旺盛な著作活動を行ってきたひとだからこそ提出しうるものなのである。    
   ……
 民族(俗)音楽のなかにある天・地の宇宙論などの解説も新たに知ることが多く大変興味深いし、また西洋クラシック音楽の歴史を「人間の音楽」として思想的に、あるいは社会的に論評していくくだりは非常に啓発的で、新たな発見を促してくれる。
   ……
 こうした体裁の本にもかかわらずどこでも極めて真摯に考察を進めていることは尊敬に値する。これから「音楽」を考える人には誰でも読んでほしい、優れた「思索」の書である。

  『音楽入門』には「世界の音」が鳴り響いている。帯の文句ではないけれど、本書を読んで、音楽発見の旅に出かけよう!

2006年6月15日  j-mosa  


北沢方邦の伊豆高原日記⑤

2006-06-18 18:06:39 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記⑤

 梅雨らしい鬱陶しい日々がつづく。しかしこのモンスーンの降雨とそのあとの熱帯並みの高音多湿の夏が、この中緯度地帯の稲作を可能にし、わが国の何千年という文化をはぐくんできたのだ。梅雨の風土にも感謝しなくてはならない。

 しかしわが家のまわりではちょっとした異変が起きたようだ。このあたりでは、二月の末から八月の上旬までウグイスが囀るが、ここ五・六年、この周辺をテリトリーとしてきたウグイスが死んだらしく、遠くで別のウグイスたちが鳴き交わすのを聴くほかはなくなった。早朝、枕元にひびくその妙なる囀りを聴きながら、夢うつつの境地を味わう贅沢が失われてしまった。

芸術三題噺

 中国映画『那山、那人、那狗』(監督:霍建起、1999年)をテレビで見る。日本題名は『山の郵便配達』だが、これでは郵便配達の父と息子とならび、山つまり奥深い風景と、狗つまり犬が主人公であることがわからない。『かの山、かの人、かの犬』とでも訳すべきか。

 それはともかく、まるで南画をそのまま色彩映画にしたような美しい山や谷のたたずまいと、それを縫って村から村へと終日郵便配達に歩きつづける年老いた父と、その業務を引き継ぐ息子、そして暖を取る薪をくわえて運ぶなど、彼らの忠実な助手である犬との、心あたたまる魂の交流にすっかり堪能した。

 幻想的なトン族の夜の祭りや、その魅惑的な若い娘たちなど、いくつかの挿話が点描されるが、淡々と描かれるのは、中国の山村の伝統的なスロー・ライフ、つまり南画やタオイズム(道教)の思想の生活的実践にほかならない。大自然と一体となり、その四季折々のリズムをおのれのものとし、それによって精神を高め、智慧を深める、つまり「道(タオ)」を体得し、きわめることである。

 この映画は、中国のあまりにも急激な近代化によって失われようとしているものへの愛惜の情にあふれているが、同時にそれは、真の伝統であるこの「道」をつねに意識せよ、という警鐘でもあるようだ。 ただ登場する犬が、わが家でも飼っていた由緒正しい(らしい)ドイツ・シェパードであるのが少々可笑しい。湖南省の貧しい山村にこんな犬がいるはずがないからである。恐らく、これだけの演技のできる犬がほかにいなかったからであろう。

 仕事に少々疲れ、居間に降りてテレビのスイッチを入れたら、一陣の涼風のような津軽三味線の音がひびいてきて、ついつい番組の終わりまで見てしまった。異なった地域、異なった職業、異なった気質の数人の若者が、毎年五月に開かれる津軽三味線の全国コンクールにいどむ姿をとらえたドキュメンタリーであった(NHK総合「人間ドキュメント」6月16日)。とりわけ、まだ童顔の残る青年のすばらしいテクニークと、繊細きわまりない感受性がつくりだす、即興的で幻想的な音の世界にすっかり魅せられてしまった。

 岩木山(津軽富士)の残雪に満開の桜が映える弘前城公園の市民会館で開催された2006年コンクールで、彼がみごと優勝(三年連続優勝であるという)したのは当然かもしれないが、この青年、浅野祥君の発言には深く感動した。言葉どうりではないかもしれないが、要するに「日本の伝統を知ってもらうため、海外で演奏したい。とりわけ紛争地の人々のまえで弾きたい。(肉親を失い、家を失い)悲しんでいる人たちが、ぼくの三味線で少しでも癒されたら本望です」というのである。

 マスメディアや観念知識人たちの「人類愛」には反吐がでるが、彼の人類愛は本物だ。教育基本法改正案ではないが、真の郷土愛や伝統愛、ひいてはアイデンティティとしての「国」(国家ではない!)への愛のみが、ほんものの人類愛を育てるのだ。

 友人の岩城宏之が死去した。昨年、大相撲九月場所の両国国技館の廊下で、岩城夫妻とばったり会ったのが最後となった。お互いに相撲好きとは知らなかったので、「おお、久しぶり」といいながら、意外なところで意外や意外、という顔をしたが、私のほうも同じであっただろう。

 芸大在学時代から、外山雄三とともにN響の研修生となっていたが、日比谷公会堂でリヒアルト・シュトラウスの『祝典序曲』(いわゆる皇紀二千六百年〔1945年〕に寄せられた楽曲のひとつであったが、祝典に間に合わず上演されなかったと記憶している)の復活初演で、ステージの最後列に音程順に並べられた数十個の梵鐘を、楽曲のクライマックスで走りまわりながら必死で叩いていた二人の姿を、ありありと思いだす。

 その後N響の指揮者として二人は正式にデビューしたが、そのデビュー・コンサートで、ベートーヴェンの『交響曲第五番』で聴かせた外山雄三の雄大な構成力、チャイコフスキーの『交響曲第六番悲愴』で表現された岩城宏之の細部にわたるみずみずしい感性に、心から感銘を受けた。

 それ以来、二人の演奏会に注目し、楽屋を訪ねて感想や批評を述べりしたが、ときにはきびしい評言に耳障りと思われたこともあっただろう。岩城には、あの世で会ったら率直に詫びよう。

 ただ岩城がモデルであったというのではまったくないが、西欧の古典音楽におけるオーケストラと指揮者のあり方が、ひとつの大きな曲がり角にきているのは事実だろう。フルトヴェングラーやワルターといった巨匠たちの時代には、彼らのカリスマ性とオーケストラ・メンバーたちの絶対的な信頼が、絶妙にして幸福なハーモニーを奏でていたが、CDをはじめメディアや商業主義が絶大な権力をふるういまは、状況がまったくちがう。カラヤンのような絶対権力をもつ指揮者と、その精密な将棋の駒であるオーケストラ・メンバーという関係は、いまや変革されなくてはならないのだ。


上野信一リサイタル紹介第2弾

2006-06-15 14:16:28 | コンサート情報

さて6月30日のソロ・リサイタル、
こちらはもう現代音楽バリバリです。

最近購入した中国製のドラとか、ホームセンターやハンズで買った材料でつくった楽器、解体したピアノからとった材料からつくったチャイムみたいなものなど、100種類以上の楽器をつかった曲、ティンパニだけの曲、わたくしが「いいグローバル」とよびたい、フランス在住のベトナム人作曲家ダオによる「タイ・ソン」など、いろいろ楽しめると思います。

ぜひお誘いあわせのうえ、みなさまでいらしてください。(nasugi)

●4月、杉並セシオンでのフォニックス・リフレクションのコンサートに行ったカタオカ★です。
音楽を感覚的消費しかしてこなかった私ですが、
いろいろな音がキラキラ輝いて見えるようなステージでした。

 


七夕コンサート

2006-06-09 08:54:02 | コンサート情報

楽しみな七夕コンサート                     青木やよひ

 パークさんはとても不思議な人だ。

 意志堅固で頭脳明敏なのに、なんとも素直で抜群の感性の持主なのだ。

 指先のテクニックを競うだけの演奏家が多い中で、作曲家の世界を自分の内面に吸収して、それを見事に再現する貴重な人だと思う。私は直接お会いする前にチェンバロによる彼女のバッハのCDを聴いて、すっかりファンになってしまった。

  聞けば、あちらも以前から私の本の愛読者でいらした由。こんな出会いは長い人生でもそう度々あるものではない。

  今度のコンサートで、息が合った戸田弥生さんとの協奏も楽しみだが、はじめて生で聴くパークさんのドビュッシーやショパンを、いまからとても期待している。

七夕コンサート  ~デュオの夕べ~
戸田弥生
(ヴァイオリン)&ヨンヒ・パーク(ピアノ)
2006年7月7日(金)19:00開演 18:30会場
横浜みなとみらいホール 小ホール
チケット★一般3,000円  ペア5,000円  学生1,500円
横浜みなとみらいホールチケットセンター 045-682-2000
チケットぴあ                  0570-02-9990
後援★(財)横浜市芸術文化振興財団/神奈川新聞社/テレビ神奈川
         「音楽のまち・かわさき」推進協議会
協賛★ヤマハミュージック横浜/㈱大東ハウジング
主催★特定非営利活動法人 CFAインターナショナル
お問合せ★044-556-0970
 


北沢方邦の伊豆高原日記④

2006-06-07 00:06:29 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記④  
Kitazawa,
 Masakuni

 六月 今年は旧正月が早かったので、卯月(旧四月)も終わり、すでに皐月(旧五月)に入っている。野鳥のなかで、ひときわホトトギスの声が目立つ季節となった。古歌に《鳴きとよむ》とあるが、緑の樹々の梢を飛翔しながら鳴くその声は、あたりをどよもすほど大きい。女神の化身でもあるウグイスを女性的、ホトトギスを男性的とした古代のひとびとの神話的想像力が偲ばれる。《テッペンカケタカ》とされてきたその聴き慣らしも、頭上高く飛ぶ雄姿からきているのかもしれない。もっともわれわれには、《特許許可局》(特許庁は存在するがそんな官庁はない)としか聞こえないのだが。

 「伊豆高原日記」の覆面を脱ぐのも別に他意はない。「知と文明のフォーラム」のメンバーたちから勧められたからである。今後もお読みいただければこれにまさる幸いはない。

知の閉塞状況 
 
 政治状況だけではなく、知の状況も息苦しいほどの閉塞感に包まれている。たんに右翼的言論やナショナリズムがメディアを支配しているというだけではなく、それらに対抗する旧左翼や旧新左翼の細々とした言論も、化石化しているとしか思われないほど古びてみえるからである。その原因はどこにあるのだろうか。

 たしかに1970年代の終わりから、政治には新保守主義が台頭し、経済的には新自由主義によるグローバリズム推進がはじまった。その背後にある思想もイデオロギーも、とりたてて新しいものではない。政治的にはいわゆる自由と民主主義という(欧米にとっての)「普遍的価値」を世界に拡大する、経済的には市場経済の自由を徹底し、世界にひろげるという新保守主義者(ネオ・コンズ)や新自由主義者(ネオ・リベラルズ)の主張は、近代社会や近代化を推進してきた思想の当然の、しかも究極の帰結であり、その意味でハイパーモダニズムと名づけることができる。

 かつてそれに対抗するかにみえた新旧左翼の主張も、共産主義的であれ、社会主義的であれ、修正資本主義的であれ、資源や富の公平で適正な配分を求めるだけで、歴史的進歩によって獲得されたとする近代の「普遍的人間性」やその社会的価値を疑うものではまったくなかった。したがってその挫折であるベルリンの壁の崩壊以後、ハイパーモダニズムが、経済的指標や超高層ビルの林立する風景といった目にみえるかたちで「勝利」を宣言しても、それに対抗するすべさえなかったのだ。

 環境問題に対する感受性の高まり、国内的・国際的格差の拡大に対する懸念や批判など、潜在する反ハイパーモダニズムはあるが、それはまだ知のレベルにまではいたっていない。

 だがむしろ先端的な科学の分野には、新しい知の変革の徴候があらわれてきている。物理学では異端中の異端であった多重世界解釈やスーパーストリングズ(超弦理論)が台頭し、かつての批判者であったホーキングでさえも、ブレーン・ワールド(膜世界 = 膜によってへだてられた多重世界)などといった用語を口にしている。

 激烈な競争社会をつくりだしたネオ・コンズやネオ・リベラルズのイデオロギーとさえなったネオ・ダーウィン主義に代わって、生物学の最先端では、微生物や、無機物であるとともに有機物であるヴィールスの研究から、ダーウィンの予想もしなかった生物進化の様相があきらかとなり、獲得形質の遺伝を説いたラマルクの再評価もはじまっている。第一、われわれホモ・サピエンス・サピエンスも、かつて考えられていたように進化の樹木の中心や頂点にいるのではなく、天の川宇宙のなかの地球の位置と同じく、その周辺に位置するにすぎない。

 脳神経科学では、脳の性差(男女による機能差や脳梁などの容量差)や種族差(言語理解の仕組みや感性のありかたなどの差異)が明らかになりつつある。人間の生物学的不平等を説いたルソーは、個体差から種族差にいたる差異を認めることで、逆に社会的平等が実現できるとしたが、いまや「普遍的人間性」に代わってさまざまな《差異》を認識することが、あらゆる《差別》を根絶する基礎となるのだ。 

 これら最新の知見のうえに、われわれは新しい知を築かなくてはならない。それのみが時代の閉塞状況の打破を可能にするだろう。(6月6日)