Kitazawa,Masakuni
ヤマボウシをはじめ樹々の白や淡黄色の花々が、やや盛りを過ぎたが濃緑の森を彩っている。ホトトギスかかまびすしく空を翔け、それぞれ鳴き方のちがうウグイスが、高らかに縄張り宣言をする。わが家は三羽の境界に位置するらしく、異なった方角から交替でやってきては近くの雑木で鳴き交わす。梅雨らしからぬ晴天がつづき、各地のこの夏の水不足が心配である。ちなみに、旧五月(さつき)の梅雨どきの晴天を「五月晴れ」というのであって、グレゴリオ暦の五月にいうのはまったくの誤用である。残念ながら定着してしまったが。
脱ダーウィン主義(ポストダーウィニズム)
微生物科学の進展で、ダーウィンの進化論の書き換えが進んでいる。グローバリズムに乗じて猛威を振るった新ダーウィン主義(ネオダーウィニズム)の凋落は近い。『利己的な遺伝子』で有名となった新ダーウィン主義者のリチャード・ドーキンズが、昨年、神の存在を否定し、神への信仰は妄想であるだけではなく有毒であるとする『神という妄想』(The God Delusion)を刊行し、一時期ベストセラーとなった。かつて読んだジム・ホルトの書評(ニューヨークタイムズ書評紙Oct 22,06)は的確であった。
つまりそれは、一方ではブッシュ政権を生みだしたキリスト教原理主義などには解毒剤となるが、他方ではイスラームをはじめ世界宗教の本質やその知をゆがめ、たんに誤解をあたえるだけではなく、宗教にかかわる知そのものを破壊する、というものである。
その書評に引用されていたドーキンズの一文には、思わず失笑してしまった。「イスラームは肉食遺伝子複合(ジーン・コンプレックス)に、仏教は菜食遺伝子複合に類似している」と。こんな浅薄な理解で世界宗教を論ずるなどとは論外である。
この脱ダーウィン主義的進化の問題については、『ナショナル・ジオグラフィック』誌七月号「誘惑の羽根」(ジェニファー・S・ホランド文、ティム・レイマン写真)が面白い示唆をあたえてくれた。
パプア・ニューギニアには、有名な極楽鳥(日本学名フウチョウ)の多くの種がいる。世界全体で38種が数えられているが、そのうち34種がここに住む。熱帯雨林に映える目も彩な緋色や瑠璃色の羽根や尾、あるいはあでやかな冠を振りかざした雄たちは、くちばしや足で均して地上や樹上につくりあげた舞台で、ここを先途と踊りに専念する。群がった雌たちは熱心にそれを観察し、気に入ったものが番いとなる。
この求愛の踊りはいまや世界的に知られているが、雄の翼や尾の羽根、あるいは冠など極彩色の装飾や、その複雑な舞踊のステップなどがなぜこれほど発達したのか、進化論に新しい課題をもたらしている。結論をいえば、生存競争とそのための自然選択(ナチュラル・セレクション)というダーウィンの理論を超えて、身体装飾や求愛儀礼を発達させたのは、セクシュアリティ(性的行動様式)という文化的な表現欲求からである。餌の豊富な熱帯雨林に住み、天敵が皆無という恵まれた条件が、セックスという直接的な生物学的欲求よりも文化的欲求を優先させたのだ。
極楽鳥たちの行動は、人間の進化を考えるうえでも示唆的である。
サイモン・ラトルよおまえもか
NHK・FMでサイモン・ラトルとベルリン・フィルハーモニー管絃楽団の、ベルリンでの演奏会録音が放送された(6月22日夜)。
デビュー当時のラトルは、みずみずしい感性と的確な音楽構成力で大いに将来が期待されたし、ベルリン・フィルハーモニーの芸術監督に抜擢されたのも当然と思われる存在であった。その思い出があるだけに、胸躍らせるほどではないにしろ、この放送を聞き逃すまいと心がけた。だが結果は大いなる失望であった。
みずから抜粋したベルリオーズの『ロメオとジュリエット』からの2曲は、旋律美の強調だけで、ベルリオーズ特有の隠されたゆたかな多声が生かされず、深みに欠け、かつてのシャルル・ミュンシュの名演には遠くおよばなかった。
ストラヴィンスキー後期のバレエ曲『アゴン』はさておき、問題は最後のベートーヴェン『交響曲第五番ハ短調』である。各楽章すべて、これでもか、これでもか、とたたみかける威圧的な表現は、まさに中期ベートーヴェンの典型的なステレオタイプ、あるいは先入観で塗り固められた像であり、聴いていて辟易させられた。
第一、抒情的に深みのある第2楽章や、謎めいた迷路のような第3楽章のやや抑制の効いた変転のあと、スケルツォの終わりに置かれた仄暗くひそやかな「ドミナント(属音)のトンネル」(エルネスト・アンセルメの言)を抜けでるがゆえに、終楽章のハ長調の光の爆発が、めくるめくほど輝くのであって、先行する2楽章がこのように猛々しく演奏されるなら、その効果はまったく失われてしまう。
多楽章形式の音楽、とりわけソナタや交響曲では、楽曲全体の構成やその力の配分をどうするかが、それぞれの楽章のテンポの取り方とあいまって、決定的なものとなる。こうした基本中の基本を、ラトルのような「マエストロ(巨匠)」には説くまでもないと思うが、いったいどうしたのだろう。
こうした演奏はブラーヴォの喚声に包まれるだろうと予測したが、そのとおりであった。演奏家と聴衆が一体となってつくりあげたこの威圧的で猛々しいベートーヴェン像は、いつになったら解体することができるのだろう。盛大な喚声と拍手のなかで、ああ、ラトルよ、おまえもか、と力なくつぶやくだけであった。
『マルテの手記』の読み方
杉山直子の新著『アメリカ・マイノリティ女性文学と母性』をいただいた。まだ全部を読みとおすにはいたってないが、中国系女性作家マキシン・ホン・キングストンを論じた第2章を読んで、いろいろと教えられ、また感銘した。なぜ第2章から読みはじめたか、それは六十一年まえの記憶と重なったからだ。
いま私の机のうえに、茶色の絹で表装した分厚い岩波文庫が一冊置かれている。絹装丁の文庫とは、と不思議に思われるかもしれないが、粗末な表紙が破れたため、厚紙に端切れの絹を張って背を糊づけしたからだ。奥付に、『マルテの手記』昭和21年1月20日第1刷発行とあり、敗戦の翌年、苦労して手に入れた本であることを物語っている。岩波文庫の新刊があると、神保町の焼け残った一画にある岩波書店のまわりに、襤褸をまとったひとたち(いまのホームレスたちのほうがはるかにましな服装をしている)や、階級章をはがした軍服の復員兵たちが空腹をかかえながら徹夜で行列した時代である。増刷しようにも紙はなく、印刷所の大半は焼失してしまっていた。もちろん焼け野原に本屋などがあるはずもない。
それはともかく、リルケの『マルテの手記』は私の魂を震撼させた。16歳の私にすべてが理解できたわけではないが、断片として書きこまれたあらゆる場面が、かつて読んだことのない深い内面的世界を開示したのだ。
その『マルテの手記』が『西遊記』と並んで物語の思想的骨格となっている(なんという取り合わせだ!)、というホン・キングストンの小説『トリップマスター・モンキー』のみごとなフェミニスト批評的分析が、杉山の手で行われていた。
この二つの本を解読するキーワードは「母性」である。『マルテ』では主人公の母親の姿や彼女のことばが、断片である全体を統合するディスクール(言説)となっていて、『西遊記』では、一見荒唐無稽な冒険譚をはるか上方から見渡している観音菩薩(中国と日本ではジェンダーは女性である)の姿が、統合のディスクールとなる。この二つのテクストをを巧妙に利用してホン・キングストンは、サンフランシスコの混沌とした現代のマイノリティ社会に生きる男性主人公に孫悟空の姿を重ね、彼の内面の混乱やアイデンティティ危機を「母性」によって救済しようとする。
あとはこの本を読んでいただくしかないが、『マルテの手記』を「母性」をキーワードに解読することは、私にとっても大きな啓示であった。