一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【27】

2007-06-24 20:28:33 | 伊豆高原日記
北沢方邦の伊豆高原日記【27】
Kitazawa,Masakuni  

 ヤマボウシをはじめ樹々の白や淡黄色の花々が、やや盛りを過ぎたが濃緑の森を彩っている。ホトトギスかかまびすしく空を翔け、それぞれ鳴き方のちがうウグイスが、高らかに縄張り宣言をする。わが家は三羽の境界に位置するらしく、異なった方角から交替でやってきては近くの雑木で鳴き交わす。梅雨らしからぬ晴天がつづき、各地のこの夏の水不足が心配である。ちなみに、旧五月(さつき)の梅雨どきの晴天を「五月晴れ」というのであって、グレゴリオ暦の五月にいうのはまったくの誤用である。残念ながら定着してしまったが。

脱ダーウィン主義(ポストダーウィニズム)

 微生物科学の進展で、ダーウィンの進化論の書き換えが進んでいる。グローバリズムに乗じて猛威を振るった新ダーウィン主義(ネオダーウィニズム)の凋落は近い。『利己的な遺伝子』で有名となった新ダーウィン主義者のリチャード・ドーキンズが、昨年、神の存在を否定し、神への信仰は妄想であるだけではなく有毒であるとする『神という妄想』(The God Delusion)を刊行し、一時期ベストセラーとなった。かつて読んだジム・ホルトの書評(ニューヨークタイムズ書評紙Oct 22,06)は的確であった。

 つまりそれは、一方ではブッシュ政権を生みだしたキリスト教原理主義などには解毒剤となるが、他方ではイスラームをはじめ世界宗教の本質やその知をゆがめ、たんに誤解をあたえるだけではなく、宗教にかかわる知そのものを破壊する、というものである。

 その書評に引用されていたドーキンズの一文には、思わず失笑してしまった。「イスラームは肉食遺伝子複合(ジーン・コンプレックス)に、仏教は菜食遺伝子複合に類似している」と。こんな浅薄な理解で世界宗教を論ずるなどとは論外である。

 この脱ダーウィン主義的進化の問題については、『ナショナル・ジオグラフィック』誌七月号「誘惑の羽根」(ジェニファー・S・ホランド文、ティム・レイマン写真)が面白い示唆をあたえてくれた。

 パプア・ニューギニアには、有名な極楽鳥(日本学名フウチョウ)の多くの種がいる。世界全体で38種が数えられているが、そのうち34種がここに住む。熱帯雨林に映える目も彩な緋色や瑠璃色の羽根や尾、あるいはあでやかな冠を振りかざした雄たちは、くちばしや足で均して地上や樹上につくりあげた舞台で、ここを先途と踊りに専念する。群がった雌たちは熱心にそれを観察し、気に入ったものが番いとなる。

 この求愛の踊りはいまや世界的に知られているが、雄の翼や尾の羽根、あるいは冠など極彩色の装飾や、その複雑な舞踊のステップなどがなぜこれほど発達したのか、進化論に新しい課題をもたらしている。結論をいえば、生存競争とそのための自然選択(ナチュラル・セレクション)というダーウィンの理論を超えて、身体装飾や求愛儀礼を発達させたのは、セクシュアリティ(性的行動様式)という文化的な表現欲求からである。餌の豊富な熱帯雨林に住み、天敵が皆無という恵まれた条件が、セックスという直接的な生物学的欲求よりも文化的欲求を優先させたのだ。

 極楽鳥たちの行動は、人間の進化を考えるうえでも示唆的である。

サイモン・ラトルよおまえもか

 NHK・FMでサイモン・ラトルとベルリン・フィルハーモニー管絃楽団の、ベルリンでの演奏会録音が放送された(6月22日夜)。

 デビュー当時のラトルは、みずみずしい感性と的確な音楽構成力で大いに将来が期待されたし、ベルリン・フィルハーモニーの芸術監督に抜擢されたのも当然と思われる存在であった。その思い出があるだけに、胸躍らせるほどではないにしろ、この放送を聞き逃すまいと心がけた。だが結果は大いなる失望であった。

 みずから抜粋したベルリオーズの『ロメオとジュリエット』からの2曲は、旋律美の強調だけで、ベルリオーズ特有の隠されたゆたかな多声が生かされず、深みに欠け、かつてのシャルル・ミュンシュの名演には遠くおよばなかった。

 ストラヴィンスキー後期のバレエ曲『アゴン』はさておき、問題は最後のベートーヴェン『交響曲第五番ハ短調』である。各楽章すべて、これでもか、これでもか、とたたみかける威圧的な表現は、まさに中期ベートーヴェンの典型的なステレオタイプ、あるいは先入観で塗り固められた像であり、聴いていて辟易させられた。

 第一、抒情的に深みのある第2楽章や、謎めいた迷路のような第3楽章のやや抑制の効いた変転のあと、スケルツォの終わりに置かれた仄暗くひそやかな「ドミナント(属音)のトンネル」(エルネスト・アンセルメの言)を抜けでるがゆえに、終楽章のハ長調の光の爆発が、めくるめくほど輝くのであって、先行する2楽章がこのように猛々しく演奏されるなら、その効果はまったく失われてしまう。

 多楽章形式の音楽、とりわけソナタや交響曲では、楽曲全体の構成やその力の配分をどうするかが、それぞれの楽章のテンポの取り方とあいまって、決定的なものとなる。こうした基本中の基本を、ラトルのような「マエストロ(巨匠)」には説くまでもないと思うが、いったいどうしたのだろう。

 こうした演奏はブラーヴォの喚声に包まれるだろうと予測したが、そのとおりであった。演奏家と聴衆が一体となってつくりあげたこの威圧的で猛々しいベートーヴェン像は、いつになったら解体することができるのだろう。盛大な喚声と拍手のなかで、ああ、ラトルよ、おまえもか、と力なくつぶやくだけであった。

『マルテの手記』の読み方

 杉山直子の新著『アメリカ・マイノリティ女性文学と母性』をいただいた。まだ全部を読みとおすにはいたってないが、中国系女性作家マキシン・ホン・キングストンを論じた第2章を読んで、いろいろと教えられ、また感銘した。なぜ第2章から読みはじめたか、それは六十一年まえの記憶と重なったからだ。

 いま私の机のうえに、茶色の絹で表装した分厚い岩波文庫が一冊置かれている。絹装丁の文庫とは、と不思議に思われるかもしれないが、粗末な表紙が破れたため、厚紙に端切れの絹を張って背を糊づけしたからだ。奥付に、『マルテの手記』昭和21年1月20日第1刷発行とあり、敗戦の翌年、苦労して手に入れた本であることを物語っている。岩波文庫の新刊があると、神保町の焼け残った一画にある岩波書店のまわりに、襤褸をまとったひとたち(いまのホームレスたちのほうがはるかにましな服装をしている)や、階級章をはがした軍服の復員兵たちが空腹をかかえながら徹夜で行列した時代である。増刷しようにも紙はなく、印刷所の大半は焼失してしまっていた。もちろん焼け野原に本屋などがあるはずもない。

 それはともかく、リルケの『マルテの手記』は私の魂を震撼させた。16歳の私にすべてが理解できたわけではないが、断片として書きこまれたあらゆる場面が、かつて読んだことのない深い内面的世界を開示したのだ。

 その『マルテの手記』が『西遊記』と並んで物語の思想的骨格となっている(なんという取り合わせだ!)、というホン・キングストンの小説『トリップマスター・モンキー』のみごとなフェミニスト批評的分析が、杉山の手で行われていた。

 この二つの本を解読するキーワードは「母性」である。『マルテ』では主人公の母親の姿や彼女のことばが、断片である全体を統合するディスクール(言説)となっていて、『西遊記』では、一見荒唐無稽な冒険譚をはるか上方から見渡している観音菩薩(中国と日本ではジェンダーは女性である)の姿が、統合のディスクールとなる。この二つのテクストをを巧妙に利用してホン・キングストンは、サンフランシスコの混沌とした現代のマイノリティ社会に生きる男性主人公に孫悟空の姿を重ね、彼の内面の混乱やアイデンティティ危機を「母性」によって救済しようとする。

 あとはこの本を読んでいただくしかないが、『マルテの手記』を「母性」をキーワードに解読することは、私にとっても大きな啓示であった。

北沢方邦の伊豆高原日記【26】

2007-06-05 23:35:22 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【26】
Kitazawa, Masakuni  
 
 季節の移り変わりが早い。朝、窓を開けると柑橘類の白い花々の甘い香りが漂う日々はあっという間に過ぎ、野生のジャスミンの同じく白い花の強烈な芳香にむせる日々も過ぎ去ろうとしている。旧五月つまり梅雨時に咲くのでその名があるサツキが、すでに満開の桃色もあれば散りはじめているものもあり、わが家にいたっては、白や赤白斑の花がやっとほころびはじめたばかりだ。ヴィラ・マーヤの紫のサツキは、まだ気もない。

 ときどき朝取り立ての有機野菜をいただく植木屋の御主人が、今朝ジャガイモとタマネギを届けてくださったが、野菜の出来がおかしく、タマネギはもう地中で芽をだしはじめているといっていた。いずれにせよ地球温暖化の暗い影といえよう。

 一ヶ月集中して本を書いた(『ヨーガ入門』平凡社新書でこの秋刊行予定)後遺症で、まだ疲れがとれない。八〇歳近い身でモーツァルトの真似はできないことを痛感したしだいである。その間に溜まった雑誌類をのんびりと読んでいるが、『ナショナル・ジオグラフィック』誌が、環境破壊に連動する地球温暖化問題に意欲的に取り組んでいるのが目についた。政治的・イデオロギー的色彩をいっさい排除して、淡々と事実を記述する同誌の姿勢は、声高でないだけに説得力がある。日本語版に掲載されているかどうか知らない(インターネットで調べればすぐわかることだ)が、ぜひ多くの人に読んでいただきたい。

アマゾンの最後 

 同誌一月号の「アマゾンの最後」と題するスコット・ウォレスの文・アレックス・ウェブの写真がすごい。「この論文を読んでいるあいだにも、フットボール場200よりも広いブラジルの熱帯雨林が破壊されている」というリードは、けっして誇張ではない。

 いま環境にやさしいとして、日本でもバイオエタノールが自動車燃料に推奨されているが、稲藁や雑草、あるいは落葉などバイオマスを原料とするならともかく、トウモロコシやサトウキビ、あるいは大豆など食料を原料にするなどとは論外である。ベネスエラのチャベス大統領が主張しているように、世界の飢えた20億人の貴重な食糧を奪うだけではなく、この熱帯雨林の破壊に直結しているのだ。

 世界最大のバイオエタノール生産国ブラジルでは、原料の大豆・トウモロコシ・サトウキビなどの価格高騰で、大企業だけではなく、零細農民にいたるまで作付け面積の拡大に狂奔している。ということは、政府の乱開発規制にもかかわらず、闇の農地拡大、いいかえれば熱帯雨林の消滅に拍車がかかっている。かつては熱帯雨林と共存していた、熱帯果樹などの植えられた牧歌的で古典的な農園は、かつての日本のバブル時代の地揚げ屋と同じ土地マフィアの脅迫的な買収で次々と失われ、土埃の舞う荒涼とした新開農地に換えられ、隣接する雨林も、これも稀少な熱帯木材を狙う林業マフィアに伐採され、荒廃し、農地に変わっていく。

 重武装したマフィアのガンマンには、政府環境省の監視団にはとうてい対抗できない。熱帯雨林を護ろうとする環境保護活動家は次々と暗殺され、ついには運動の象徴であったドロシー・スタング尼もマフィアの銃弾の犠牲となった。この流れはもはや、軍隊の動員とそれによる監視網の創設によってしか妨げることはできないだろう。

 これがグローバリズムによる資源争奪戦争の最前線なのだ。

マングローヴ林の消滅と暗闘

 同誌二月号には、これもグローバリズムによる資源争奪戦争のもうひとつの最前線からの報告が載っている。「黒い金(石油)の呪い――ニジェール・デルタの希望と裏切り」と題するトム・オニールの文とエド・ケイシの写真である。

 アフリカ中央部を西から東に流れ、大湾曲をして西へと流れを変え、大西洋に注ぐ大河ニジェールの河口付近は、かつてゆたかなマングローヴ林が広がる湿地帯であった。このデルタに点在する村落は、海水と淡水の入り混じる絶好の条件で生育する豊富な漁業資源で生活していた。船を駈って都市に魚を運び、穀類を手にする生活も恵まれていた。だが1960年代この一帯に石油が発見されてから、漁民たちは「黒い金」の呪いのもとに置かれるようになった。

 それでも原油価格が安定していた時代は、まだ牧歌的であった。だがこの十数年来、原油価格が高騰しはじめてから、それはまさに呪いとしかいいようがない状況となった。英米や西欧の石油大資本が進出し、デルタだけではなく、沖合いも海中掘削の櫓で埋めつくされ、パイプラインがマングローヴ林を伐採して縦横に走りはじめた。

 大気は余剰ガスの燃焼で汚染され、水は漏洩する原油でよどみ、大量に消失したマングローヴはもはや魚をはぐくまず、漁業は壊滅した。そうかといってハイテク化された搾油施設は技術者以外の労働を必要とせず、漁民の雇用はほとんどなかった。村落はスラム化し、貧困が大地を蔽った。中央政府の高級官僚と石油資本は癒着し、汚職が蔓延し、石油による莫大な国家収入も、この貧困の解決に投じられることはまったくなかった。

 たびたびの原油漏洩(一部はパイプラインに穴を開け、原油を盗む盗賊団による)や大気汚染に対する補償要求に発する人権運動が、現地の知識人を中心に起こったが、ほとんど成果をあげることができなかっただけではなく、活動家たちの暗殺さえもたらすことになった。。そこで一部の過激な若者たちは、武装闘争に決起するにいたった。それがMEND(ニジェール・デルタ解放運動)である。

 MENDは石油施設を襲撃し、パイプラインを破壊し、白人技術者たちを誘拐し、多額の身代金を獲得し、それを戦費として武装を強化し、組織を拡大する。警備陣や国軍との激しい銃撃戦で多くの死傷者をだすが、戦争神エグベスの加護をあらわす伝統的な赤と白の布を腕や腰に巻いた戦士たちの士気は高い(軍神である八幡〔厳島〕女神の加護をあらわす赤または白の布を鎧の下に巻いた平安朝時代や、戦前の千人針を思い起こさせるが)。

 この状況は年々深刻化し、ナイジェリアの経済と政治を深部でゆるがす事態となりはじめているが、この暴力的で経済帝国主義的資源戦争に、中国やインドあるいは韓国があえて参加し、分け前に預かろうとしている。社会主義を標榜する中国よ、おまえもか、という感を深くするが、わが国が手をだそうとしていないのがせめてもの慰めである。

WEO創設の提唱

 同誌六月号は「大氷解」という特集で、北極圏・南極圏あるいは各地の氷河の氷が温暖化によって融けだし、危機的状況であることを知らせている。十年まえまでは温暖化の元凶が、人間の手による二酸化炭素ガスの排出であることを疑う気象学者や気候学者がいたが、いまや疑うものはいない(ブッシュ政権が合衆国機関である各研究所にこうした主張やデータの発表をさせない圧力をかけたことは広く知られている)。また十年まえには誇張として批判を受けた諸データの推計が、誇張どころか現実はそれさえ超えているという恐るべき事実が明らかとなっている。

 いまや回復不可能となる大自然の限界が先にくるか、そのまえに回復可能な数値にまで二酸化炭素ガス排出を抑制できるか、時間の競争となっている。

 われわれ先進国の人間も、従来のままエネルギー消費をつづけるかぎり、非先進国のひとびとやわれわれ自身の子孫に対して、環境破壊に加担する加害者でありつづけることを自覚しなくてはならない。

 だが同時に、この資源と市場の激烈な争奪戦争を終わらせないかぎり、人類の未来は存在しないし、そのためには国家が主導するだけではなく、強力な国際機関の介在による経済と産業の構造転換、いいかえれば文明そのものの転換を計らなくてはならない。

 すでにフェア・トレードのための世界公正貿易機構(WFTO)の創設を提唱したが、今回はそのための世界環境機構(WEO)の創設を提唱したい。詳細についてはまた書く機会があるだろう。