一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラーその25

2009-12-31 07:25:08 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その25

      
     心のままに生きるということ
             ――トルコ映画『パンドラの箱』


 しばらく映画に筆(キーボード)を費やさなかったが、もちろん映画を観ていなかったわけではない。大型テレビを購入してからは、BDプレーヤーのハードディスクは以前の機種にも増して使用頻度が増えている。しかしBD(ブルーレイ・ディスク)に残しておきたいと思うような映画は多くはない。ほとんどの映画は、鑑賞したあとすぐ消去することになる。無駄な時間を費やしたと、ため息をつきながら。この『パンドラの箱』は、その私の独断と偏見による消去を免れた、数少ない名作のひとつである。昨2008年の第9回NHKアジアン・フィルムフェスティバルで公開された映画で、つい先ごろNHKのBSで放映された。

 この映画の幕開けは印象的である。峰々が穏やかに連なる風景がゆっくり俯瞰される。視点は人間の眼で、それほどの高山ではないことが、山を構成する森の深さでわかる。かすかに、犬の遠吠えと牛の低い鳴き声、それに小鳥の囀りが聴こえる。俯瞰は、山の斜面に建てられた一軒の家に焦点を当てて終わる。コンクリート造りのかなり高い土台の上に、年を経ているものの、割にしっかりとした木造の家が建てられている。

 ひとりの小柄な老婆が、薄暗い家のなかから、陽光を求めてベランダに向かっている。大きなビニールの袋を手にしていて、その中には、手指の先ほどの大きさの、赤い木の実がいっぱい入っている。彼女はそれを陽に干そうとするのだが、実を広げはじめたとたん、何かに不意をつかれたように手を止める。そしてしばらく虚空に目をやり、そのまま家に入ってしまう。手にしたままのビニール袋から赤い実がこぼれ落ちる。暗転の後、タイトルが映し出される――『パンドラの箱』と。

 映像はー転して、豪華客船が行き交う大きな港の朝の光景。浮浪者風の若い男がコンクリートの堤の上で眼を覚ます。煙草に火をつけると、ポケットの携帯から着メロが流れる。どうやら浮浪者ではなさそうだ。発信者を確認したらしく、電話に出ることなくそれをポケットに戻す。

 高層マンションの一室では、中年の女がネグリジェ姿で携帯をかけている。呼び出し音は鳴っているようだが相手は出ない。おそらく港を放浪する若い男の母親だろう。溜息をついて携帯を机に置く。すると突然の着メロ。だが電話は息子からではなく、母親の失踪を伝える役所からのものだった。

 新聞社に出勤途中の妹に連絡し、妹はぼろアパートで惰眠を貪る弟をたたき起こして、3人の姉弟は雨のなか、長姉の車で故郷の山村に向かう。こうして開映わずかな時間のうちに、この映画の登場人物がすべて姿を現す。しかもそのそれぞれが、現在の自らの状況を十分に物語る雄弁な映像を伴って。

 山深い自宅から失踪した老婆、港を彷徨う孫、息子の反抗に手を焼く裕福なサラリーマンの妻である長女、有能な新聞記者の次女、ドロップアウトしたその日暮らしの長男。この映画は彼ら肉親同士が繰り広げる家庭劇であるが、それぞれの置かれた多様な立場を基にした彼らの行動が、現代に生きる私たちに、けっして他人事ではない多くの問題を投げかける。

 主要なテーマは老人問題である。老いをどのように生き、どのようにして死を迎えるか。失踪した老婆は山中で発見され、数日間の入院の後、長女に引き取られる。海に近い大都会の高層マンション。日本でいえば台場あたりの高級マンションになろうか。近代的な調度品に囲まれて老婆は落ち着かない。窓から見えるのは高層住宅群と、はるか下界の高速道路を行き交う車の列のみ。老婆はまず、山という「自然」を失ったのだった。

 痴呆が進行しつつある老婆を長女は持て余す。一人住まいの次女のアパートに預けられたり、電気も止められている長男のアパートで過ごすことにもなる。こうして彼女は、「家」も失う。家は「地域」とも重なり、何よりも人の情の中核を構成する場所である。ただひとつの救いは、家出をした長女の息子、つまり孫との交遊である。他者との情愛に満ちた関係さえ存在すれば、人は生きていくことができる。

 老婆と孫の小さな物語が、この映画の中核となっている。家出をして、長男(つまり叔父)のぼろアパートに居候していた少年は、そこで祖母と出会う。そして心を通わすことができ、2人は街を散策することになる。まるで恋人同士のように。イースタンブールを背景としたこの場面は素晴らしい。港町の臭いと、行き交う人々の息遣いまでが伝わってくるようだ。歩きながら祖母は何度も孫に名前を尋ねる。すぐに忘れてしまうのだ。彼はそれに優しく答える。祖母のいささか滑稽な行為と、孫の温かい対応――カメラは2人の行動をユーモラスに、優しくとらえる。

 娘たちの苦渋の決断の末、老婆は施設に入れられる。孫は心を許す叔父に抗議の意思を伝えるが、彼は「それが人生だ」と答えるのみ。映画の終盤、孫は施設から祖母を連れ出し、2人で故郷の山に向かう。もちろん都会育ちの若者にとって山村の生活は楽なものではない。加えて祖母の失禁など経験したことのない出来事が続く。ある日祖母が言う。「山を忘れないうちに山に入りたい」と。翌日早朝、孫が眠っている間に、彼女はひとり山に向かう。目覚めた彼は急いで祖母を追おうとするが、思い止まる。山の坂道を登る祖母の小さな姿。そして遠くから涙に濡れた目でそれを追う孫の姿を大写しにして、映画は終わる。

 ここにきて観る者は、冒頭の老婆の映像を思い起こすことになる。不意をつくように彼女を襲った「あるもの」とは何であったのか。それは、一瞬のうちに老婆の脳裏に兆した「悟り」ではなかったのか。人間として生きていくことの限界を、日常的な行為のなかで瞬時に感じ取ったに違いない。誰にも迷惑をかけず、緑豊かな森のなかで、眠るように死にたい、そう彼女は願ったのだ。しかし、娘や息子たちの捜索の手が及び、すでに「パンドラの箱」が開け放たれている下界に降りて行く他はなかったのだ。

 老婆の心を理解した孫に見守られて、彼女は大自然のなか、森深くに姿を消した。その2人を共感をこめて見つめる私たちは、さあ、どのように老いを生き、死に行けばいいのだろうか。周りには「パンドラの箱」を飛び出した人間の悲劇が満ちている。

2008年トルコ・フランス・ドイツ・ベルギー
監督・脚本:イェシム・ウスタオウル
脚本:セルマ・カイグスズ
撮影:ジャック・ベス
音楽:ジャン=ピエール・マス
出演:ツィラ・シェルトン/ダリヤ・アラボラ/オヌール・ウンサル

2009年12月28日   j-mosa


青木やよひさんの思い出

2009-12-27 11:51:18 | 青木やよひ先生追悼

    吉 田 乙 恵


 青木やよひさんに私がお会いしたのは約15年前、レディース専門の鍼灸治療室を開業していたときです。「伊豆高原ゆうゆうの里」に入所されていたお母様の訪問の帰りに看板を見て、突然、予約なしでフラーと立ち寄られたのが最初でした。

 その初診での事、まず、いつも通りに問診から入りました。問診から治療まで、一人に約1時間の時間をとっていますが、やよひさんは、腸に憩室があり時々出血があるという持病の事、農薬による水質汚染で身体が侵された事など、たんたんと静かに、強く、そして怒りを込め、話し始められました。

 しっかりメモを取りながらお聞きしていたのですが、気が付けば、すでに1時間が過ぎていました。やよひさんはほぼ全て話し終えられたようで、満足された様子でしたが、私は問診に長く時間を取りすぎて、少々慌てました

 
続けて、東洋医学で行う切診の1つ、脈診に入りました。脈状は、沈・緊・遅――漢方でいう裏証・寒証・虚証でした。腹診は、全体に力なく心下(みぞおち)に少々緊張あり。  望診では、細身、目の力はあり、全体的に黒っぽいが顔色良し。他、若干、力の無い声、気の不足、お血(オケツ)あり(私の診るところ、完全に虚証です)、という印象でした。

 15年程前の事で、その時の一番の主訴は何だったのかは忘れてしまってはいるのですが、問診が長かったこともあり、初診の日の様子はとても印象深く心に残っております。特に脈は、私が診た患者さんの中では一番弱い脈だったので、今でも指先は覚えております。

 私の治療と相性が良かったのか、それからも都合のつく時は、1週間に1度の間隔で通院してくださいました。大腸の表裏関係でもある肺経で気の巡りをよくし、脾経・胃経の気を補う、基本的な治療を中心に行いました。治療後の脈は緩脈(病状の回復)となられ、憩室の出血がひどい時もありましたが、確か2~3年過ぎた頃からは、ほぼ安定した良好な状態になられたようです

 当時から、虚証体質であられるのに秘めたるパワーをお持ちで、精神力の強さには感心しきりでした。治療中は、お母様との関係や仕事の話などもされ、ある時は、女性誌にご夫婦で載られた記事を見せて下さいました

 夫婦別姓のことや旦那様のお話もされました。「彼は生き字引。聞けば何でもすぐに答えてくれるんです」とか、「彼の料理は凝り性で、本格的なんですよ」など、控えめに誇らしげに……。私にとって、羨ましい話ばかりでした

 余談ですが、ある年の、我が家の恒例である地元八幡野神社への初詣の日のことです。少し離れた所から、お話ばかり伺っていたご主人を初めてお見かけしたのですが、腕を組み、にこにこと楽しそうな会話をされておられる幸せそうなお二人に、お声をかけそびれてしまったことなども思い出します。

 それから数年後、体調を崩してしまった私は閉院せざるをえなくなり、情けないことに自分が療養生活に入りました。それからも気に掛けてくださり、復帰を期待してくださっていたやよひさんの脈をまた診る事無く、お別れとなってしまい心残りです。

 ただ、10月、最後になってしまったセミナーの欠席を手紙でお伝えした折に、「女性として、人としての生き方をとても尊敬しています」と書いた私の言葉を受け止めてくださり、後悔なく良かったと思っております。

 患者さんと鍼灸師という関係でしたが、逆に私の心に沢山の刺激をくださり、やよひさんとお会い出来たことは、私の誇りです。ありがとうございました。感謝を込めて心からご冥福をお祈りいたします。

  文中では「やよひさん」と呼ばせていただきました。

                       


青木やよひ先生最後のベートーヴェン

2009-12-09 22:26:09 | 青木やよひ先生追悼


青木やよひ先生最後のベートーヴェン
平凡社新書 『ベートーヴェンの生涯』


 青春時代にベートーヴェンに魅せられたという青木やよひ先生は、〈不滅の恋人〉を核として、以降50年余にわたってその真実を追い続けてこられた。ベートーヴェン関係の著作は数多いが、私は最後の
3冊を編集者としてお付き合いさせていただいた。その3冊目、12月15日に発売になる『ベートーヴェンの生涯』が、文字どおり青木先生の「白鳥の歌」となってしまった。そしてこの本は、その言葉にふさわしく、透明な美しさに満ちた著作となった。いまその制作過程を顧みて、青木先生との最後のお仕事のありさまを書き記したい。

 青木先生がいつベートーヴェンの生涯を本にしようと思い立たれたのかはわからないが、私がその思いを最初に耳にしたのは、確か2006年の末、「知と文明のフォーラム」の忘年会の席上だったように思う。『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究』(平凡社ライブラリー)も校了になり、一息つかれた頃である。2004年の11月に刊行された『ゲーテとベートーヴェン』(平凡社新書)と合わせて、ベートーヴェン3部作としたいというお話だった。編集者として異存のあるはずはない。

 ベートーヴェンの生涯を正面から取り上げた本は意外と少ない。まだ生存中の関係者から取材したりして大部な本にまとめあげたセイヤーの伝記は有名だが、専門家はともかく、一般の読者は手に取りがたい。結局、ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』が、ほとんど唯一の一般書としての伝記ということになる。しかしこの本は内容的にも古く、誤りも多い。ロマン・ロランの伝記に代わるべきものを書き残したい――この思いこそ、青木先生が『ベートーヴェンの生涯』を書こうとされた最大の動機ではないかと思う。

 北沢方邦先生の日記にもあるように、青木先生がこの最後の本に本格的に取りかかられたのは2008年5月の大腸癌の手術後である。綿密な資料集めの後、第1章はほぼ完了されていたようだが、第2章から第5章までは、癌の転移と闘いながらの執筆だったということになる。しかも第1章は、全章を書き終えられた後、全面的に書き改められたという。本を執筆するというのは並大抵の労働ではない。それにこの種の本の場合、資料的な正確さが求められる。執筆に割かれる時間の何倍もの時間が資料の点検に費やされたはずである。

 『ベートーヴェンの生涯』は新書の形で刊行されるが、青木先生は必ずしも新書を希望されていたわけではない。私も、とにかく思う存分ベートーヴェンについて書いていただき、出来上がった時点で出版形態は考えようと思っていた。図版をふんだんに挿入した、美しい装丁の単行本も選択肢に入っていた。いっぽう、2009年5月に創刊10周年を迎える平凡社新書は、メモリアルにふさわしいテーマを求めていた。青木先生のベートーヴェンは間違いなくそのひとつになると判断し、術後すぐ先生とも相談のうえ、2008年12月を原稿の締め切りと設定した。1日4枚のペースで書き進めれば12月には間に合うと考えられたようだ。

 さて、私が最終的に原稿をいただいたのは今年の8月である。昨年の5月に手術をされて以来、癌は肝臓、肺、卵巣と転移し、何度も検査のために入院された。最低限使用された抗癌剤の強い副作用のお話など病状についてお聞きすることはあっても、原稿の進捗状況を確認することはためらわれた。病と闘っておられる先生に向かって、原稿の進み具合はいかがですかとは聞けない。平凡社新書10周年に間に合わせることはあきらめていた。しかし先生は、常にそのことを考慮に入れながら執筆をされていたのだ。私から催促がないことを寂しいと思われていたことをあとで知った。ともあれ、進行に関しては3月頃に再調整をし、ベートーヴェンの季節である12月刊行に向けて態勢を組み直すことにしたのだった。

 私がいただいた原稿は、青木先生の古くからのお知り合いの手でテキストファイル化されていた。加筆訂正も済んだ、ほぼ完全原稿と思われた。一読して私は、全編に溢れるある種の清澄さを感じ取った。それこそ、ベートーヴェン研究50年余の知識が総動員されていながら、そんな大仰さは影も見られず、たんたんとベートーヴェンの人生が綴られている。そこには、女性を愛し、駄洒落を飛ばし、魚に舌鼓を打ち、甥への愛に振り回される、隣人ベートーヴェンがいた。もちろん、ナポレオンやメッテルニヒの影が濃いウィーンの政治情勢や、カントやフリーメイソン、インド思想との関わりなど、ベートーヴェンの哲学的な背景も語られる。バッハ、ヘンデル、モーツァルトの音楽との関連性が書かれた箇所など、音楽フアンには嬉しい情報である。こうして、興味深く読み進めるうちに、まったく新しいベートーヴェン像が胸に刻まれることになる。

 完成度の高い原稿であるため、あとは注、年表、索引など、いわゆる付き物の作成に集中すればよいと、一安心していた。ところが、初校を出す前に、訂正で真っ赤になった第1章が送られてきた。組み上がった初校を大急ぎで訂正し、ゲラを先生に送った。この本はDTPで制作したため、訂正は編集者、すなわち私が行うことになる。結果的にはこれが良かった。初校・再校とかなりの量の赤字を短時間で訂正しゲラを出校することになったが、通常の印刷工程では到底12月には間に合わなかっただろう。それにしても、完璧さを求める青木先生の意志の強さには舌を巻いた。内容の誤りを訂正したり、文章をより読みやすくするために修正したりするのは当然だが、先生の赤字は文章の完成度にも関わるものだった。言葉遣いひとつひとつを点検し、読点の打つ箇所を注意深く変更するなど、まさに「作家」のお仕事だと実感した。そして、これだけの赤字を入れられる体力が残されているのだから、先生の病状は当分維持されるだろうと考えた。

 青木先生のお仕事として、本文の校正とは別に注の作成が残されていた。今回の注は、文献表も組み込んだ、これだけ読んでも面白いものに仕上がっているが、9月と10月のお仕事の重なり具合は、健康な人間でも消耗するほどのものだった。章ごとに注の原稿が送られてくるとすぐテキスト化し、先生に送り返した。先生は本文の校正と注の続きの執筆以外に、この校正もしなければならない。おまけにTさんが作成した年表と索引にも目を通す必要がある。12月の刊行を守るため、私は、それらのお仕事を何日までにお願いしますと言わざるを得なかった。この2ヵ月間のお仕事だけでも、先生のお命を縮めるに十分な重労働だったのではないかと、悔いが残る。

 三校のゲラをお送りしたのは11月13日。それを確認していただいたあと、19日に入院された。24日にご自宅に帰られたと聞き、お声が聞けないかとお電話したが、休まれているとのことだった。その夜、北沢先生と慈しみ深いお時間を過ごされ、翌25日他界された。ある意味では、この本を完成させるために生き延びられたのではないかと、私は自らを慰めるしかなかった。そして残念だったのは、完成した本をお見せできなかったことだ。1冊だけでも早く作るべく印刷所とは話がついていたのだが、1週間足りなかった。

 それにしても、癌が体内で増殖し続ける中、よくも430枚もの原稿を書き上げ、ゲラでは何度となく内容に修正を加え、かつ最終校正までも確認し終えられたものだと思う。その意志の強さには驚嘆する。本書のあとがきにも書かれているが、青木先生はベートーヴェンの度重なる病苦を追体験されたのだ。「死に直面することによって人は、はじめて自分の存在意味を明確に自覚し、自己に託された仕事をなしとげずにはいられないという強い意志に動かされる」。青木先生の『ベートーヴェンの生涯』は、知力と体力と、この強力な意志力を使い切ることによって、見事に完成されたのである。そのお仕事に伴走させていただいた日々を、青木先生からのかけがえのない贈り物として、私は生涯忘れることはないだろう。

              2009年12月8日 森 淳二