一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

伊豆高原日記①

2006-04-28 14:49:50 | 伊豆高原日記

伊豆高原日記①

 四季折々美しいこの地に住みなれていても、新緑のまばゆさには年毎に感嘆を新たにする。しかし、新緑は年々早まり、今年は桜の花吹雪が収まるやいなや、樹々が萌えだし、赤、白、淡紅色とつつじの花の燃えるような色彩が新緑に映じはじめた。やはり地球温暖化の影響なのだ。この季節に遅れてはなるまいと、ウグイスやメジロ、ヤマガラやコガラなど多くの野鳥が樹間で鳴き競い、あるいはコジュケイが森のなかでけたたましく鳴き交わす。だが、ここに住みはじめた35年前には、野鳥の種類も多く、オリヴィエ・メシアンの『鳥たちの目覚め』ではないが、早朝鳥たちのさえずりで目が醒めたものである。文明の利器や便利さを否定する気は毛頭ないが、現代社会は過剰な便利さを追い求め、環境を破壊し、資源を浪費し、人類をゆっくりと破滅に追い込んでいる。

 それはさておき、「知と文明のフォーラム」準備版ブログに日記を掲載することにした。ただし、毎日書いているわけではない。おりにふれて書き、掲載するつもりである。今回は、いささか旧聞に属することだが、重要な問題にふれてみたい。
 
ムハンマドの風刺画(2月)

 デンマークの一新聞社が掲載したムハンマドの風刺画が、イスラーム諸国の民衆に怒りの火をつけ、各地で大規模なデモや西側施設──イギリスを除くヨーロッパの各紙がそれをニュースとして転載したので──への襲撃などの事件を引き起こしている。

 いつぞやのサルマン・ラシュディ事件もそうであったが、「言論の自由」の名のもとに、そのすべてを擁護することはできない。なぜなら、たとえ個人であっても、言論の自由は他者の人権を侵害しないという最低限の責任をともなうからである。これはイスラーム教徒という「集団的人権」(国連憲章に規定されている)の侵害である。

 そのうえメディアとりわけマス・メディアは、政治権力や経済権力(企業として若干の権力はもつが)ではないが、言論やコミュニケーションの大きな権力である。この巨大な権力の行使には、きわめて大きな責任がともなう。メディアにはその自覚がまったくといっていいほどない。個人に対しても、集団に対しても、メディアはつねに人権侵害の加害者になりうることを深刻に自覚しなくてはならない。

 もちろんどこまでが批判や風刺で、どこからが人権侵害か、その境界は文化によって微妙に異なる。したがってこの問題も異文化理解が前提である。西欧が軽い気持ちでやったことも、イスラーム教徒にとっては大問題である。その逆もありうるだろう。だが極度に世俗化された近代の西欧では、逆のことは起こりにくいが……

 みずからの尾を飲みこむ北米アナコンダ(4月)

 合衆国下院で、いわゆる不法移民をきびしく制限する法案が提出され(政府案よりきびしい)、それに反対する市民や非合法移民(なんと1200万といわれている)たちの大規模なデモが各地でひろがっている。

 それに呼応するかのように、ニューヨークタイムズ書評紙に、スティグリッツ(ノーベル経済学賞受賞者)とチャールトンの『万人のためのフェア・トレード』(Fair Trade for All)の書評が掲載された。国内的にも国際的にも「勝ち組」「負け組」をつくりだす自由貿易協定万能の現状を批判し、国際的なフェア・トレードを説いた本だが、それに対する鋭い書評に感銘を受けた。評者はクリントン政権時代の労働長官だったロバート・ライシュ(現在カリフォルニア大学バークレイ校教授)であり、いまさらながらクリントン時代が「古き良き時代」であったことを認識した。

 その本や書評に直接言及されているわけではないが、非合法移民の急激な増大は、結局北米自由貿易協定(NAFTA――合衆国、カナダ、メキシコ間の)の予期せざる結果なのだ。なぜなら、いわゆる先進国と途上国とのあいだの自由貿易協定は、若干の利益と引き換えに、「与えよ、さらば奪われん」の状況に途上国を突き落とすことだからである。すなわち、安い資源、安い労働力の提供と引き換えに国内産業を破滅させ、進出する外国資本企業が求める以上の大量の失業者を生みだし、農業など資源産業の収益を低下させ、こうして人々を越境に駆りたてるのだ。

 先進国の内部でも同じである。自由貿易協定は弱い産業(たとえば日本では農林漁業)を淘汰し、国内に貧富の格差や中央・地方の格差を増大させる。自由貿易協定は、グローバリズムの一環であり、結局すべては巨大多国籍企業群、世界銀行、国際通貨基金、世界貿易機構(WTO)などが推し進め、新自由主義・新保守主義の各国政権が「規制緩和」「小さな政府」の合言葉のもとに道ならしをするグローバリズムに帰着する。中南米で反グローバリズム政権が次々と誕生するのも当然であろう。その動向はいずれ先進諸国にも反映するものと思われる。コミュニケーションや交通手段の飛躍的発展によるグローバリゼーションは不可避かもしれないが(それにも文化の画一化という否定的側面がある)、少なくとも世界市場の制覇を狙うグローバリズムには異議申立てをすべきである。

 いまや世界貿易機構ではなく、世界公正貿易機構(World Fair Trade Organization)が必要な時代なのだ。(Maya-K)


発足にあたって

2006-04-04 12:38:47 | 企画趣旨
知と文明のフォーラム発足にあたって

 これはいま誰もが感じていることですが、環境破壊やそれにともなう異常気象、それらを推進している経済的・政治的グローバリズム、そこから派生する戦乱やテロリズム、国内的・国際的貧富の格差の拡大と人心の荒廃、増大する犯罪と疾病、各地域のゆたかで多様な文化の崩壊など、頂点に到達したはずの近代文明の未来、あるいは人類そのものの未来には、なにひとつ明るい見通しはありません。世界はいま、急激に悪い方向にむかっているとしか思えない状況です。
 しかしそれに対して、グローバリズムを推し進めてきた政治的新保守主義(ネオ・コンサヴァティヴィズム)や経済的新自由主義(ネオ・リベラリズム)を批判することで、文明の方向転換をはかろうとしても、同じ近代主義あるいは近代性の土俵で格闘するかぎり、出口はなく、迷路でさまようだけで終ることになるでしょう。
 私たちは、かつて多くの賢者たちが警告したように、一度近代性の土俵の外に立ち、現状のよってくる所以を確認し、そのうえで未来への方向性を見いださなくてはならないのです。
 その出発点は、これまで省みられることのなかった「身体性」にあります。これは、現在見られる“健康ブーム”や、知育よりも体育を尊重せよといった意味での「身体」ではありません。長いあいだ観念だけの思想に頼り、「人間精神」をささえる手段でしかなかった「身体」、または「自然」を問いなおすことを意味します。具体的には、私たちが取りこむ最初の自然である大気や食を通じ、また自己の身体のもつ自然の力を喚び起こすことによって、人間と大自然および宇宙との関係を問いなおすことからはじまります。
 その上で、それによってえた認識を、さまざまな非近代や古代の知、あるいは諸々の芸術などから学びながら、近代性が生み出した矛盾を根源から批判する「知」にまで高め、それを、「文明」を新しい方向に転換する梃子としなくてはなりません。
 私たちの運動を、「知と文明のフォーラム」と名づけたゆえんはそこにあります。
 私たちはここで、上記のように身体や感性の鍛錬からはじまり、最新の科学的認識にいたる人間の全体的な知を探求し、またそうした表現の場を、自由で友愛的な人間関係の中でつくりだしていきたいと考えています。このフォーラムをどのような創造的な場としていくかは、メンバーや参加者の意欲と意志にかかっています。


映画紹介

2006-04-01 18:09:57 | 書評・映画評

『アンリ・カルティエ=ブレッソン 時間の記憶』

 世界31カ国を訪れ、歴史的場面から独特のポートレート、市井の人びとの日常のなにげない瞬間まで、「激動の20世紀」を撮影したカルティエ=ブレッソンが、自作と人生を語ったドキュメンタリー映画。撮影されたのは2003~2004年。翌2005年8月には95歳で亡くなっている。写真家エリオット・アーネット、作家アーサー・ミラーをはじめ、親交があった人びとのインタビューも挿入される。

 彼は、「撮影は短気が一番、パッと撮って逃げろ」と笑う。
「いい写真は音楽的だ」
「即興と本能でフォルムが生まれる」
「見事な構図は演劇に似ている」など、
心に残るコメントがたくさんある。

 彼の「夢を撮ったような写真」や「多くを物語る写真」を大きなスクリーンで鑑賞し、彼が愉快そうに思い出話をする様子を見ていると、幸せな気分になる。「写真が人生を満たしてくれた」、「瞬間を選ぶ楽しさ・・・生も死もある。至福だよ」としめくくる。

 写真は不思議な媒体だ。人が写っていてもいなくても、殺伐とした廃墟でも凄惨な光景でも、落ち葉でも星空でも、「生きろ、生き続けろ」というメッセージを発している。それはきっと、被写体だけでなく撮影者の気配を感じるからだ。しかも、そのメッセージは映像よりはるかに強く伝わってくる。
(東京・渋谷ライズXにて初夏公開) カタオカ★M