一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その1

2006-11-15 11:02:38 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その1

私は鳥になってしまった――『wataridori』に魅せられる


 先日、ひさしぶりに近所の公園まで散歩した。いわゆる谷津を公園化したところで、南北に細長い池がある。そこにはカモが群れをなしていて、もう渡りの季節なのかと、時の移ろいの早さに感慨を覚える。オナガガモ、ヒドリガモ、キンクロハジロ。この池に目立って多いハシビロガモはまだその姿を見せていない。きっと渡りの最中なのだろう。シベリアからの何千キロの旅……。ワタリドリ。

 そうか、映画とオペラについてのこの小さなコラムは、『wataridori』から始めるとするか。うじうじと投稿を引き延ばしてきたのだが、天気に誘われての散歩から、やっと決心がついたのだった。

 さて映画『wataridori』は、何年か前の春の休日、日本橋の丸善から銀座までの散歩の途中、ふらりと入った小さな映画館で偶然に観たのだった。バードウォッチングすること年に数度というまことに怠惰な鳥好きの目から見ても、この映画は不思議な映画であった。科学映画でもなく、教育映画でもなく、ただ何種類もの鳥たちの渡りの姿を追っているだけである。思いついたようにところどころに字幕が入る。「ハイイロガン、シベリアから3,000キロ」という具合に。しかし、すべての鳥たちについてそれが入るわけではない。この映画を観て、ワタリドリについての知識を得ようと思っても、それは無駄というものである。

 しかし、じつに感動的な映画であった。私は2時間近くの間、何種類もの鳥たちと一緒に、大空を飛んでいたのである。私の隣を飛ぶハイイロガンの翼が、大きく羽ばたく。力強く上下に動く、何かをしごくような羽音を、私は耳もと近くに聴きとる。そして広大な湿原の上を、雪に閉ざされた大山脈の上を、私は飛んでいた。カメラは完全に鳥の目になっている。そして私も鳥の目で地上を見おろしている。大自然のなんという美しさ!

 いったいどうやって撮影したのだろうか。この映画のスタッフはよほどの鳥好きで、空中での至近距離の撮影にも、鳥たちは違和感を抱かなかったのではないか。鳥たちは、彼らを仲間だと思ったに違いない。こんな感慨を覚えるほど、この映画は自然そのものである。

 この映画に人間が登場することは稀である。そしてそのほとんどの場合、ろくでもない行動しかとらない。罠をしかけたり、猟銃で打ち落としたり……。鳥たちが羽をくねらせながら大空から落ちてくる。私は自分の心臓を射抜かれたような思いがした。ニューヨークの摩天楼の横をも鳥たちは飛ぶが、人間が作った都市文明は、どうしてあんなにもちゃちなのかと思う。工場の廃液で鳥たちの羽がどす黒く汚れると、恥ずかしさで鳥たちにたいして顔を向けることができない。

 人間文明批判――これはこの映画の重要なテーマの1つだろう。しかし、それを遥かに超えて、この映画は何よりも、大自然賛歌の映画である。

※2001年フランス映画
監督=ジャック・ペラン(『家族日誌』(1962)や『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などに出演したフランスの名優)

2006年11月12日 j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記⑯

2006-11-12 03:50:54 | 伊豆高原日記
北沢方邦の伊豆高原日記⑯
Kitazawa, Masakuni  

  ここ数日の冷え込みで、落葉の舞がひときわ目立つようになった。海洋性気候で寒暖の差が少ないこの地方では、紅葉はあまり美しくない。そのなかで、ハゼやウルシなどの紅色の葉が、あざやかな点景となっている。今日は雨となり、薄い多色の日本画といった風景となったが、そこで一句:

           黄葉朽ち葉 踏むひともなしに 夕時雨

アメリカ中間選挙

 アメリカ合衆国の中間選挙が終了した。予測通り民主党が上院・下院を制し、多数派となり、ブッシュ政権は窮地に追い込まれた。早速軍内部でも批判が渦巻いていた国防長官のラムズフェルドが更迭された。次期下院議長(House Speaker)のナンシー・ペローシがホワイト・ハウスに招かれ、合衆国と世界にとってよりよい方策をみいだそうと、ブッシュ大統領との微笑会談が行われた。少数派時代ブッシュ戦略を激しく攻撃したペローシと、名指しで反論したブッシュとの微笑会談は、時代の大きな変化の象徴である。

 ちなみに私は、その鋭い論理とさわやかな弁舌、魅力的な人柄に惹かれて、以前からペローシ・ファンであった。事実民主党には、上院のヒラリー・クリントン、私がたびたび訪れていた頃のサンフランシスコ市長であったダイアン・ファインスタインなど、すぐれた女性議員が多い。同じサンフランシスコで平和運動や環境運動に献身してきたペローシが典型であるように、彼女らはリベラルというよりも、本質的にはラディカル(急進派)である。ラディカルに軸足を置きながら、中道路線にも手を広げられる彼女らの懐の深さに、アメリカ民主党の未来を托したい。

 それはともかく、アメリカ国民は、泥沼化したイラク戦争と、新自由主義的経済政策(わが国の小泉改革なるものはその追随にすぎないし、さらに悪いことに、アメリカ経済とその多国籍大企業への奉仕であった)による格差拡大とその固定化に、明確に否定の声をあげたのだ。

イラク戦争をどう終わらせるか

 イラク戦争の収束に特効薬がないことは確かだが、ここまで事態を悪化させた原因は、アメリカをはじめとする多国籍軍の事実上の占領状態の継続にある。撤退の道筋と日程表を明示すること、周辺のアラブ諸国やイランとイラク安定と復興のための協議を行うこと、これも泥沼化したパレスティナ問題(イスラエル軍によるベイト・ハヌーン虐殺を日本政府はなぜ批判しないのか)についてイスラエルにきびしい姿勢を貫くことなど、当面解決の糸口となるような政策転換を行うことは可能である。民主党はブッシュ政権にそのような圧力をかけるべきである。

新自由主義経済の破綻

 経済問題も深刻である。財政と貿易のいわゆる双子の赤字も問題であるが、所得格差の拡大と、高所得層の減税と社会福祉の削減という、貧困層の傷口に塩を擦り込むような政策がもたらした結果は、目を蔽うような状況となっている。

 とりわけワーキング・プーア(働く貧困層)という、社会的に認知された職業につきながら、給与所得の向上につれて社会福祉の補助が削減され、実質所得が大きく減り、低所得時代以上に生活が苦しくなるという階層が増大し、大問題になっている。さらに最低賃金が十数年も凍結され、物価水準上昇で30パーセントも目減りしていることも、低所得層をきびしい状況に追い込んでいる。

 蟻地獄にも似たこの貧困のスパイラルから彼らを脱出させるには、経済政策を大きく転換するほかはない。 だがこれは合衆国だけではない。新自由主義経済政策またはグローバリズムを推進したすべての国が抱える問題である。安倍内閣も「小泉改革の継承」を打ち出し、ひずみの是正として再チャレンジの美名のもとに、いわゆるセーフティ・ネットの構築を唱えているが、それでは根本的な解決にはならない。

ひとつの歴史の終わりのはじまり

 すでに中南米では、ベネズエラ(正確にはベネスエラ)のチャベス政権が典型であるように、貧困層の経済的自立をはかり、グローバリズムによる収奪に防火壁を築こうという脱新自由主義経済の動きがはじまっている。いまはグローバリズムに乗って好調にみえるブラジル・ロシア・インド・中国(いわゆるBRICs)なども、いずれ格差増大に象徴されるこの二律背反と矛盾によって、経済的というよりも社会的・政治的危機に直面することになるだろう。

 2006年のアメリカ中間選挙は、世界が脱新保守主義・脱新自由主義へと一歩を踏みだした、その最初の徴候となるかもしれない。後世の歴史家はそれを、ひとつの歴史の「終わりのはじまり」と記すにちがいない。

おいしい本が読みたい②

2006-11-07 05:24:29 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第二話   南アメリカを旅するには  

 
日本の対蹠地である南アメリカはかぎりなく遙かな地だ。でも、太古の昔、ベーリンジアを渡ったモンゴロイドが今も暮らしていると思うと、そして写真で見る日焼けした人々の顔立ちにわが爺婆の面差しの名残をみとめた気がすると、遠国であることをふと忘れる。そんな遠くて近い土地をせめて本のなかだけでも旅したい、と思って手にしたのが『パタゴニア・エキスプレス』(ルイス・セプルベダ)だった。

 期待を裏切らない旅を堪能した。チリ人の作者が訪ねる最果ての地の住民たちは、人生を降りた者に特有の、なんともいえない柔らかな眼差しで迎えてくれる。「列車は八時から十時の間に来て、十時から十二時の間に満員になったら出発します」などと駅員が臆面もなくいい切る、去りがたい地方だ。

  セプルベダの旅は、南アメリカをエクアドルから西海岸沿いに南下するものだが、このルートをアルゼンチン側からまわって北上すれば、『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』となる。昔日の旅路とはいえ、これもいい。医学生ゲバラと親友アルベルトの弥次喜多道中は、適度の冒険に若者らしい好奇心と純真さが味つけとなって、じつに楽しい。

 ゲバラ日記を締めくくるのは、アマゾン川沿いのハンセン病療養所だ。そこから「半レグアも歩けば原住民族が住んでいる密林」がある。その密林を、奥地を、訪れずしてどうして南アメリカを旅したといえようか。たしかにセプルベダもアマゾンは見た。しかしそれは、軽飛行機から“眺めた”だけだ。植民地への空からの視線でなく、土を踏みしめながら見つめるには、『悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース)以上の作品は考えられない。西洋近代を相対化する視線に教えられることが多いばかりでなく、描写力たるや凡百の作家を軽く凌駕する。ただし、この著作にかぎっていえば、安上がりの文庫本は日本語訳に問題があって、旅の安全は保障しかねるが…                                        

むさしまる


北沢方邦の伊豆高原日記⑮

2006-11-04 08:00:42 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記⑮
Kitazawa, Masakuni  

 柿の葉が橙色に染まり、橡や楢もかすかに色づきはじめた。澄んだ空のあちらこちらにモズの高鳴きがこだまし、中国語に似たイソヒヨドリのなめらかな音節が遠くにひびく。イソヒヨドリは伊東市の市の鳥となっていて、地元ではアカハラというが、鳥類図鑑でいうアカハラとはちがう。秋深く、今宵(十一月三日)は九月の十三夜の明月がみられるだろう。

暦は文化である

 昔、NHKの大河ドラマで、「大石内蔵助が山科の里を江戸へと出立したのは九月十何日であった」というナレーションにかぶせて、かまびすしく蝉の鳴声が入ったのには、驚くというより笑ってしまった。旧暦の九月は晩秋であり、木枯らしに枯葉が舞う季節である。ついでにいえば、討ち入りの十二月十四日は今のグレゴリオ暦では一月末か二月はじめであり、太平洋側に大雪の降る頃なのだ。しかも十四日は十四夜の月であり、雪雲が切れた夜半(討ち入り時刻が遅れたのは雲が切れるのを待っていたからである)、明月は晧々と銀世界を照らし、屋内以外照明はいっさいいらなかったにちがいない。

 たびたびいうように、革命後の中国でさえ伝統行事はすべて旧暦、つまり太陽太陰暦によっている。伝統行事を旧暦で復活させなければ、われわれは真の伝統や文化を忘却し、古典の感性的な読み方をも失い、自国の歴史を観念でしか理解できなくなるだろう。声高に愛国心を叫ぶより、子供たちにわれわれの伝統や文化を、身体的・感性的に身につけさせるのが先決である。

自国の文化に無知な子供を育てるな

 このことを考えたのは、去る十月三十一日、川崎などいくつかの都市で、子供たちを集めてハロウィーンの祭りを行ったというTV報道を見たからである。ハロウィーンはキリスト教の「万聖節」と、ケルトの収穫感謝祭とが合体した祭りで、合衆国ではアイルランド系のひとびとがひろめた。

 カボチャが主役であるのは、フランスのペローの童話『灰娘(サンドリヨン、英語シンデレラ)』で、魔女の杖の一振りで馬車に変ずるカボチャ同様、魔女がお使えする女神「母なる大地」の子宮、いいかえれば豊饒を象徴するからである。

 キリスト教徒でもないのにキリスト降誕祭(クリスマス)を祝ったり、カトリック教徒でもないのに謝肉祭(カーニヴァル)を演じたり、さらにはハロウィーンに子供たちを動員したり、もう欧米崇拝もいいかげんにしてくれ、といいたくなる。

 私の子供の頃は、まだ田舎では、月遅れなどという奇妙な日程(グレゴリオ暦ではあまりにも季節感がない)ではあったが、伝統行事が盛んであった。わが家には女の子がいなかったが、桃の節句では、知り合いや知り合いでない女の子の家をいわば梯子して、白酒に酔ってしまったり、ご馳走に招かれたりした記憶がある。

 仲秋の名月(これだけはいまでも旧暦に従わざるをえない)では、夜、家々の縁側にススキの穂とともに供えられている三方の団子を、そっと盗んでは食べ歩きをした。花泥棒同様、明月団子盗人は、笑われるだけでおとがめがなかったものである。

 晩秋の夜、オオクニヌシのように白木綿の袋を背負い、家々を廻って祝いのことばを述べ、代わりに駄菓子をもらって袋に入れる恵比須講(これはまさに日本のハロウィーンであり、カボチャではなく袋が子宮の象徴である。古語で子宮はコブクロといい、母親は敬称をつけてオフクロといった)など、思い出しただけでもほのぼのとした感慨がある。

 こうした記憶の蓄積が、人間のアイデンティティの基盤となるのだ。ハロウィーンにエネルギーやお金を使うくらいなら、旧暦による伝統行事復活に心を傾けてほしい。

太陽太陰暦

 旧暦は、農業暦としての太陽暦と、月の暦としての太陰暦とを合わせたものである。冬至からはじまる太陽暦は、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬と八等分され、さらにそれぞれの区間を三等分した二十四節気からなる。たとえば冬至と立春のあいだは小寒・大寒と命名され、夏至と立秋のあいだは小暑・大暑に区分される。

 太陰暦は、月の満ち欠けが29・5日であるため、大月(30日)と小月(29日)を組み合わせて12月とし、それでは1年365日のかなりの日数が余るため、今年がそうであったように六月を二度繰り返す「閏月」を何年かに一度挿入する。こうした暦を作製するにはかなり高度の天文観測と知識を必要とした。明治に天文台や気象台が設立されるまで、太陽の女神アマテラスを祀る伊勢の神官たちが専門家として暦の作製にあたった。毎年発売される伊勢暦は、いわばベストセラーとして、伊勢神宮の大きな収入源ともなっていた。

 以上蛇足として記す。