北沢方邦の伊豆高原日記【125】
Kitazawa, Masakuni
花の季節は終わり、そろそろ緑の濃さを増した樹々の白い花々が咲き、野生のジャスミンなどと香りを競う時期がやってきている。今年は遅くホトトギスが鳴きはじめ、数も少ない。
経営学の神髄
5月19・20日とヴィラ・マーヤでのセミナーが行われた。「世界経済の行方」という大仰なタイトルであったが、京都大学大学院経済学科の日置弘一郎教授のレクチャーは、きわめてわかりやすく、ユニークなものであり、参加者に感銘をあたえた。このブログにもメンバーの何人か感想を寄せる予定なので、その核心だけを述べておこう。
近代社会科学の王座を占めてきたのは経済学であるが、彼によれば、リーマン・ショック以後いまやほとんどの経済学者は自信喪失に陥っているという。なぜなら合理的な行動と自由な意思決定にもとづいて運営されてきたはずの市場が、混乱と危機に陥った、いいかえれば合理性が非合理性を生み、自由の追求が非自由を生みだしてしまったという、ありえない光景が現出したからである。
その根本原因は、経済学が記述できるもののみを記述して分析し、それ以外を「外部経済」として排除した、いいかえれば生身の人間が介在する経済、とりわけ市場の実体の大部分を排除して抽象的な観念の体系を築きあげてきたからである。
私の用語法によれば、すべての近代人間科学同様、経済学も人間の身体性を無視し、経済という現象の数値で把握できるいわば上澄みのみを分析してきたからといえる。しかも経済合理性の追求がもたらしたはずの市場の合理性は、逆に市場によって育てられ、指数的に肥大した人間の欲望によって覆されてしまったのだ。
日置さんは「市場(しじょう)」に「市庭(いちば)」という概念を対峙させる。市場には「いちば」と「しじょう」という二通りの読みがあるが、古語では「市庭」と表記されていたという。それは売り手と買い手というまさに生身の人間によって営まれる生きた経済なのである。実は近代の市場にもこの市庭的な実体があるにもかかわらず、それが無視されてきた点に経済学の落とし穴があったという。
彼は経済学ではなく、経営学の研究者であるが、経営学はむしろ近代の市場においてもこの市庭的な経済のプロセスを追求することで、経済のより深い側面を照射できるとする。それによって現在の危機を脱出し、新しい文明を設計する経済方策も生まれてくるかもしれないという。
彼はまた経営人類学という新しい学問分野を提唱しているが、そのフィールド・ワークともいうべき日本の各地の市場の調査体験を踏まえ、とりわけ食材の見分け方やら調理方法にいたるまで、微に入り細に穿ってうんちくを傾け、われわれをうならせた。
経済の深い問題を教えられるとともに、楽しい2日間であった。