Kitazawa, Masakuni
日に日に秋の気配が深まっている。モズたちがあちらこちらで高鳴きし、縄張りを宣言している。季節にはともに暮らした雌と雄も、秋からは袂を分かち、それぞれ競合する。つぶらな瞳のかわいい鳥たちなのだが肉食性の猛禽であり、冬、餌がないとスズメを襲って食べる。秋からはスズメたちはそれを恐れてこの一帯には近づかない。
杉浦康平思想の真髄
少し前にいただいたのだが、途中まで読み、急ぎの仕事にかかってしまい、ようやく今日読み終えた杉浦康平『多主語的なアジア』(工作舎)は、非常に印象深かった。杉浦さんの著書はほとんどいただいているが、雑誌などに掲載された文を集めた本書は、インドや中国あるいは東南アジアをはじめとするアジアの絢爛豪華な宇宙論的デザインや音楽を、これまた絢爛豪華に語るいままでの著書とちがい、彼の思想的・精神的遍歴をも含み、その隠れた内奥がうかがえる本だからである。
われわれの世代はほとんどがそうだが、敗戦によって明治ナショナリズムや軍国主義の重圧から解放され、全くのタブラ・ラサ(白紙)となったところへ、アメリカを含む西欧近代の思想や芸術や文化が怒涛のように流れ込んできた。合理性にもとづくその明晰な思想やデザインは、まばゆいほどの輝きをもってわれわれをとらえた。
杉浦さんも例外でなく、一時期、西欧近代の明晰な合理性とそのデザインに惹かれたようにみえる。だが、実際に1964年ドイツのウルム造形大学を訪れたとき、彼は近代の主観性と自己主張や、0か1かの2進法数値に代表されるあいまいさを拒絶する思考に強い違和感を抱く。私もまったく同じ頃、犬(なんと杉浦さんも同じだという)とレヴィ=ストロースの『野生の思考』と出会い、近代の合理主義的思考では分析できない領域、つまりヴィットゲンシュタインのいう「明晰に語りえない」広大な領域があることに気づくにいたった。
杉浦さんはそこからアジアにむかう。つまり近代の主観性という単一の主語ではなく、自己と複数の他者、さらには祖先や精霊、大自然や宇宙をも包含し、すべてが「多主語的に」語る世界を発見し、そこにデザインの根源を体得するのだ。そこから鋭い近代批判が展開される:
「……このような自己,自我だけに焦点をあてた自分だけの生存圏の拡張行為が、いろいろな意味で地球に破綻をもたらしている…というのが現代社会の姿であると思います。西欧の現代哲学でも自―他の関係はさまざまに論じつくされているかのようですが、いまだそのことごとくが、自我を核とする、あるいは自我を捨てきれぬ論考にほかなりません」
アジアでもっとも急進的に近代化を進めたわが国では、ひとびとの思考体系も近代化され、主観性や自我の分厚い壁に閉じ込められてしまった。その壁を打破し、「多主語的」世界を回復しない限り、日本も西欧世界も文明の袋小路に陥り、経済的にも文化的にも再生することはできない。だが近代化が頂点に達しているがゆえに、そこからの脱出はきわめて困難であろう。
また残念なことに、われわれの思考を何千年にもわたって養ってきた当のインドや中国が、「近代化」と「経済大国」の夢を追いはじめ、多主語的世界を「前近代的」なものとして振り棄てはじめている。杉浦さんやわれわれの叫びもむなしいものとなるのかもしれない。
だがIT技術は多主語的世界の表現をむしろ深めうるものだし、また最先端の諸科学はむしろヒンドゥーや中国の古代の知恵を実証しつつあるといっても過言ではない。少数かもしれないがインドや中国の若い知識人や芸術家たちも、そのことに目覚めつつあるようだ。われわれはそこに希望を見出すことができる。
いずれにせよこの『多主語的なアジア』は、こうした想念をかきたてる必読の書といえよう。