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一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

〈身体性〉とは? 第4回(最終回)

2008-07-10 22:36:48 | 〈身体性〉とは?

 

 

第4回 (最終回)  ■青木やよひ

 

4.一つの生態系としての身体

われわれ現代人にとって、身体とはなんであろうか。これは自分自身への反省も含めてのことだが、現代人は身体を、精神とは切り離されたコントロール可能な道具として見ているのではないだろうか。たとえば、使いやすい電化製品や性能のよい車と同じように、身体もまた自我の意欲を遂行するための手段としてのみ意味があるのであって、身体それ自身の声に人びとはどれほど耳かたむけるゆとりを持っているのだろうか。

 つまりここにあるのは、身体を物質系・分子機械とみなし、それは独立した精神的実体としての自我の所有物であり、故障がおきればそれぞれの専門家たるエンジニアとしての医師に修理をまかせようという考え方である。これは、世界をばらばらの機械とみなしてきた近代の自然観と見事な相似形をなしている。人間と自然が、そして精神と身体が切り離されているという点では、同じ思想の産物である。

 しかも恐ろしいことには、この思想をおし進めたところにあるのが、身体を部品のとりかえのきく機械とみなす臓器移植であり、生命のプロセスさえも工学的に設計しようという遺伝子工学である。とくに体外授精が現実化した今日、卵や精子の売買、あるいは自分たちの受精卵で第三者に出産を依頼する代理出産が実現し、更には類人猿と人間との異種交配を試みようとした専門家まで現われている(*)。これを、科学技術時代の身体観として、われわれは許容すべきなのだろうか。
(*)日本の霊長類研究所のある研究員がこれを実行しようとしたことが、明るみに出た(昭和58年4月23日付、読売新聞)

 しかし不思議なことに、この数年来、欧米の知的領域で新しい現象がおこっている。さまざまな分野の先端的な学者たちが、きそって新しい人間観や世界観を語りはじめているのだ(*)。彼らの思想をごく大まかに要約すれば、「宇宙は巨大な機械である」というニュートン的世界観から、「世界は一つの生命体である」というプラトン的なそれへの大転換である。
(*)たとえば、S・クマール編の『風船社会の経済学』の中での学者たちの発言、あるいは『タオ自然学』のF・カプラ、『精神と自然』の中でのベイトソンの考え方などがそれである。

 つまり、自然界を(かつてゲーテが主張したように)、すべてが相互依存のネットワークでなり立っている有機体とみなし、人間の状況をも、その身体的・感性的・社会的環境との関連でとらえようとしている。当然そこでは、身体を精神から切り離した道具と見立て、その部分的修理に熱中して生体のエコロジーを見失った現代医学は批判されるのである。つまり、現代のもっとも先端的な思想によって、脱近代・東洋的・古代的な世界観と、女性的でエコロジカルな身体観が提示されているのである。

 私はここに、フェミニズムとエコロジスムの思想的出会いを見ている。そしてもはやその方向にしか、人類が生きのびる道はないのではなかろうか。

 


〈身体性〉とは? 第3回(4回連載)

2008-06-12 09:09:02 | 〈身体性〉とは?

 

   

第3回 (4回連載・毎月10日掲載)  ■青木やよひ

 

3.時代によって変わる身体観 

 人間が内面的な成熟をとげ、自立的=自律的な存在となるためには、身体を媒介にした自然とのかかわりを問いなおさねばならないのはたしかなことである。しかしこの場合にわれわれは、自分と身体というレベルだけでなく、その時代・その社会において身体がどのように考えられ、扱われているかという、イデオロギーとしての身体観を無視することはできない。

 身体とは一見、人間にとって自然から贈られた動物的与件そのもののように思える。しかし人間は、己れの身体を意識によって客体化し、状況として把握しうる動物である。したがって、身体がその時代や社会によってどう意味づけられ、またそれをどう受容するかが、われわれの意識を大きく左右することになる。事実、身体とは、文字通り自然の果実として裸で産みおとされながら、ほとんどその瞬間から文化の洗礼を受け、それぞれ特有の仕方で社会化の対象とされる。(*)

 出産の儀礼や新生児の扱い方などには、かつてはそれぞれの地方で独特の習俗が守られており、男女の性別もその大きな要因となっていた。つまり身体とは自然と文化の接点であって、身体が人間存在を規制する仕方は、単にその生物学的条件に還元することはできない。身体性とは、むしろ文化そのものであるとさえ言えよう。

 かつて18世紀のヨーロッパでは、身体については人前で口にすることさえはばかられたという。ビクトリア朝時代のイギリスでは、夫婦でさえもお互いの裸体を生涯見ることがなかったといわれる。このように、身体が人間の精神活動から排除されて、見えない世界に閉じこめられていた時代にくらべると、現代では身体は公然のものとなっている。映像の世界でも活字の世界でも、裸体や性行為の場面が過剰なまでに提供され、衣服もまた身体をかくすものであるよりも身体を美しく見せるものへと変化してきている。とくに近年おこっている健康ブームなどを見れば、人びとがこれほど身体に関心を強めている時代はかつてなかったのではないかと思われる。

 このように、こと身体に関しては、同じ近代人でありながら、この200年ほどのあいだに大きな考え方の変動がおこっているように見える。つまり、かつての精神主義に代わって、一種の身体主義が、時代の潮流としてわれわれの周囲にうずまいているようにさえ思える。

(*)フランソワーズ・ルークス『肉体――伝統社会における慣習と知恵』な  どを参照。


〈身体性〉とは? 第2回(4回連載)

2008-05-10 00:02:21 | 〈身体性〉とは?


4回連載(毎月10日掲載) ■青木やよひ

 

2. 感性のエコロジー 

 現代の人間が身体的にかかえこんでいる問題点として、一方では環境の人工化による身体そのものの機能低下と、それにともなう五感の衰えがある。(人間は自分の手足で、つかむこと歩くことをせず、また目でたしかめ耳をすませ口で味わうことを怠れば、思考さえも衰えてしまうという。)また他方では、自然とのかかわりの喪失による感性の貧困化がおこるだろう。そして問題は、こうしたことが人間の画一化と管理化に、すなわち自由の喪失に、つながってゆくことである。なぜならば、人間の自由とは抽象的にあるのではないからだ。本能としての五感が衰え、日常的な欲求の充足さえもみずからの選択によらず、コマーシャル的画一化に依存するようであれば、それはとりもなおさず、「飼いならされる人間」への第一歩にほかならない。

 野生動物が家畜と異なる点は、危険に身をさらしながらも、みずからの判断と選択によって生きる自由を保持していることである。人間の場合もまた、何を食べ何を身につけるか、あるいは何を受け入れ何を拒否するかといった日常的な判断と選択によってみずからの性格を決定し、またその選択自体がそれぞれの価値観にもとづく自己表現なのである。もちろん、状況によっては些細な選択は無意味になる。飢えに瀕すれば味覚は問われない。しかし、どんな場合にも、危険を告げる本能の働きと判断力(=野生の思考)を失ってしまえば、家畜と同様に人間もまた、自分の安全を他人の手にゆだねるほかなくなってしまう。これが、感性の喪失こそが管理主義、あるいは全体主義への道であると私が危惧するゆえんである。

 これまで一般に、男性が論理的・理性的であるのにたいして女性は感性的・直感的であるとされ、社会生活において、それがあたかも女性の劣等性であるかのように言われてきた。だが、その考えはいまや逆転されなければならない。もちろんこうした人間の資質には個人差が強く、性差だけがその決め手ではない。いわば、人間ひとりひとりの、うちなる女性性の回復が問われているのである。しかし、その母性機能ゆえに、女性はみずからの身体の関心度が高く、男性よりも身体感覚において敏感たらざるをえない条件をそなえている。心の砂漠化に抗して感性のエコロジーを求めようとするとき、これまでマイナスに記号化されてきたその身体性を、女性みずからがプラスに持ちかえるべきではないだろうか。


〈身体性〉とは? 第1回 (4回連載)

2008-04-10 22:54:59 | 〈身体性〉とは?

 

4回連載(毎月10日掲載)■青木やよひ

 

1. 人間にとっての自然
 
 
生まれ落ちた人間が最初に環境を認識するのが、視覚によってなのか聴覚によってなのか、あるいは触覚によってなのかはわからないが、いずれにせよ五感によってであることはたしかである。つまり、人は身体を通してしか環境を認識しえないのである。逆にいえば、人間にとって世界とは、さまざまな色彩や形態や肌ざわりや、あるいは音やにおいや味によって成り立っている。したがって人は、感覚ぬきに、つまり身体を無視しては真の知性を獲得できないと言える。

 もちろん、数字や図表や活字などのような二次記号が、かつて体験した世界を喚起する動機となり、それを再認識し、またその体験を他者に伝達する手段として役立つことはたしかだろう。しかし、それを可能にするのは、その人自身が積んだ感覚的体験であり、またそれを共有しうる風土や文化の共通性である。いくら摂氏20度以下、15度以上などという寒暖計の数字を示されても、それ自身で秋や春を現前させうるわけではない。むしろ、なんとはなしに肌寒く、野鳥が鋭く鳴き交わし、木せいの香りがただよってきたりすれば、日本人にとってそれはまさしく秋なのである。  

 感性によるこうした世界の認識と追体験は、豊かな心象風景となって、人生の深い洞察へと人を導いてゆく。芭蕉の句―「この道や 行く人なしに 秋の暮れ」などは、象徴性をともなったその見事な典型であろう。したがっておそらく人間の内面的成熟とは、植物の果実と同様に、自然による感性の開花とその絶えざる活性化のプロセスなしにはありえないにちがいない。だから、人間にとって植物や動物や小鳥たちや、あるいはそれらを含みこんだ四季の変化が必要なのは、単にそこから生活資料をうるためではなく、みずからの可能性を深く耕し、それぞれの個性を成熟させるためなのである。  

 現代のわれわれの日常世界は、残念ながら、こうした人間の成熟からは日に日に遠ざかる方向にむかっている。際限なく肥大する産業社会の要求によって、自然環境が無惨にも破壊されるだけではない。たとえよい環境が残されたとしても、絶えまない「進歩」への強迫観念にとりつかれてしまったわれわれは、自然と静かに心を通わせるゆとりを失っているからである(*)。それは二重の意味で、人間に己れの発見と成熟を困難にしてゆくにちがいない。 

(*)社会的にも個人的にも、近代化のモデルを設定し、それを次つぎとレベル・アップしてゆくことが、勤勉な人間の人生目標であり、社会に貢献する方法であるとする考え方が私たちにはある。それを支えているのは、個人的な楽しみを満喫したり、自分の可能性を十二分に開花させたりすること、つまりエロス的な生き方を悪とする禁欲思想である。

これは、1983年に「女性性と身体のエコロジー」として、編著『フェミニズムの宇宙』に発表したものの一部です。次回からの3篇も同じく、その280~293頁までの抜粋です。25年前の、いわば「プレイ・バック」篇ですが、〈身体性〉という概念を理解するのに役立つのではないかと思い、紹介させて頂きました