楽しい映画と美しいオペラ―その29
心を癒す芝居――
チェーホフと東京ノーヴィ・レパートリーシアター
下北沢は小劇場が多数存在する演劇の街である。そのなかのひとつに東京ノーヴィ・レパートリーシアターという、日本でほとんど唯一のレパートリー・システムを採用している劇場がある。レパートリー・システムとは、一定の出し物を入れ替えながら常時上演するシステムで、例えばウイーン国立歌劇場の運営がそうである。今夜は「フィガロの結婚」、明日の昼は「トスカ」、夜は「アイーダ」という具合に、観る側からすると短期間に多様な演目を楽しむことができる。スタッフの充実はもちろんのこと、成熟した多数の観客を前堤にしないと成り立たない。日本の演劇界でそれが可能だなどと誰が思ったことだろう。ところがこの東京ノーヴイ・レパートリーシアターはこのシステムを実践しつづけている。今年で6年目だという。
この6年間はチェーホフの作品が中心だった。「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」である。加えてゴーリキー「どん底」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、近松門左衛門「曽根崎心中」、シェイクスピア「ハムレット」。レパートリーは少しずつ増えてきたようで、現在はこれら7作品を、11月から翌年の5月にかけて、金曜日の夜、土曜日は昼・夜と上演しつづけている。
この劇場の中心人物はレオニード・アニシモフというロシアの演出家である。スタニスラフスキー・システムをその演出の柱としている。スタニスラフスキーはチェーホフと同時代のロシア・ソヴィエトの俳優・演出家である。彼の演技理論の影響を受けない現代演劇人はいないといわれるほどの大きな業積を残した。「演じるのではなく役を生きよ」というのが彼の方法論の根本理念であろうか。
さて私はこの東京ノーヴィ・レパートリーシアターの芝居をこの3年間観つづけてきた。観客席26の小さな劇場で、すぐ目の前で人生の劇が演じられる。同じ演目を何度も体験し、また同じ演目であっても観るたびに受ける感銘が異なるという、レパートリー・システムならではの貴重な体験を味わうことができた。そしてチェーホフの芝居こそこの上演システムのためにあるのではないかと、強く思うようになった。
チェーホフは、20世紀と世紀が改まって数年後の1904年に、44歳という若さで亡くなっている。いまの時代から振り返ると、早逝という言葉を使ってもおかしくはないほどの若さである。それにしてもと思う。その若さで、彼は一体どれほどの人生体験を積み重ねていたのだろうか、と。そんな感嘆の言葉を吐かずにはおれないほどに、チェーホフの芝居には人生が詰まっている。平凡な日常劇でありながら、人間の想いやら感情やらが、重層構造のなかに動めいている。人間模様の曼荼羅図とでもいえばいいのだろうか。光のあて方によって、劇は千変し万化する。
東京ノーヴィ・レパートリーシアターでも、当然のことながらダブル、あるいはトリプル・キャストである。同じ演目でも上演ごとに出演者が異なる。このことはチェーホフ劇の重層性にふさわしい。俳優によって、芝居の意味そのものが変化する。というよりも、芝居のなかに層を成している意味の現れ方が、演じる人間によって異なる、といった方がより正確かも知れない。
「三人姉妹」では、いままで私のなかで、三女のイリーナの存存が大きかった。背伸びしながら大人になろうとしている少女の健気さ、そこにふりかかる残酷な試練、それでも生きていかなければならない人生というものの哀しさ。イリーナに焦点をあてると、生きるということの意味が、少しは見えてくるような気がする。
ところが4月17日に観た「三人姉妹」では、ニ女マーシャにいたく感情移入させられた。だいたいマーシャは、どこか斜に構えた生き方をしている、気ままな女である。夫がある身ながら、これも妻子のある軍人ヴェルシーニンを愛してしまう。転属によって彼が街を去ろうという日、三人の姉妹は食卓を囲む。三女イリーナはトーゼンバフとの結婚を迷っている。
長女オーリガがイリーナに言う。「トーゼンバフと結婚しなさい。彼はいい人です。結婚に一番大事なものは誠実さです」。その隣の、愛のない結婚生活を強いられているマーシャは、ニ度と戻らないだろう恋人との別れを迎えようとしている。結婚生活の本質は誠実さ? オ一リガの言葉は虚ろに響いているはずである。そして、恋人との別れは真に切ない。去ろうとする彼に抱かれたマーシャの背中はその哀しさを伝えて、涙を誘わずにはいられない。
いっぽう、マーシャの夫クルイギンは、上司の動静に敏感で、生活の些事にうるさい、俗物の中学校教師である。マーシャが愛想をつかすのも無理はないと思わせるに十分なほど平凡だが、彼はマーシャを愛している。彼女の心の動きがわかっていながら、その愛は変わることがない。このクルイギンも、演じる俳優によって、観るものの心を揺さぶる存在となる。人間存在の愚かしさ、滑稽さと、それゆえの愛おしさを体現しているのだ。
マーシャの恋するヴェルシーニンとて、颯爽とした軍人などではない。多少生きることについて哲学めいたことを述べることはあっても、狂言自殺を試みる妻を抱えてうろたえる半端な男に過ぎない。だいたいチェーホフ劇には人生の勝者など登場しない。生きていくことに困難を抱えた、平凡な人間ばかりである。そんな彼ら彼女らに、観る者は自らを投影する。そして溜息をつく、「やれやれ」と。それでも人は生きていかなければならないのだ。
「チェーホフがいてくれた」。これは東京ノーヴィ・レパートリーシアターのチラシに刷り込まれたキャッチコピーである。チェーホフ劇の核心をついた言葉だと思う。チラシではまた、アニシニモフが次のようなチェーホフの言葉を紹介している。「真実だけが人を治療でき、癒すことができる」。チェーホフの芝居は人の心を癒す。そして東京ノーヴィ・レパートリーシアターのチェーホフは、その本質をよく伝えている。
「三人姉妹」
2010年4月17日
下北沢・東京ノーヴィ・レパートリーシアター http://www.tokyo-novyi.com/
オーリガ:川北裕子
マーシャ:大坂陽子
イリーナ:槐奏子
アンドレイ:安部健
ナターシャ:増田一菜
クルイギン:渡部朋彦
ヴェルシーニン:菅沢晃
トゥーゼンバフ:佐藤誠司
ソリョーヌイ:後藤博文
チェブトイキン:岡崎弘司
フェドーチク:中林豊
ロデー:一柳潤
フェラポント:武藤信弥
アンフィーサ:高瀬くるみ
2010年5月7日 j-mosa