一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その29

2010-05-10 20:45:30 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラその29



            心を癒す芝居――
                       
チェーホフと東京ノーヴィ・レパートリーシアター



 下北沢は小劇場が多数存在する演劇の街である。そのなかのひとつに東京ノーヴィ・レパートリーシアターという、日本でほとんど唯一のレパートリー・システムを採用している劇場がある。レパートリー・システムとは、一定の出し物を入れ替えながら常時上演するシステムで、例えばウイーン国立歌劇場の運営がそうである。今夜は「フィガロの結婚」、明日の昼は「トスカ」、夜は「アイーダ」という具合に、観る側からすると短期間に多様な演目を楽しむことができる。スタッフの充実はもちろんのこと、成熟した多数の観客を前堤にしないと成り立たない。日本の演劇界でそれが可能だなどと誰が思ったことだろう。ところがこの東京ノーヴイ・レパートリーシアターはこのシステムを実践しつづけている。今年で6年目だという。

 この6年間はチェーホフの作品が中心だった。「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」である。加えてゴーリキー「どん底」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、近松門左衛門「曽根崎心中」、シェイクスピア「ハムレット」。レパートリーは少しずつ増えてきたようで、現在はこれら7作品を、11月から翌年の5月にかけて、金曜日の夜、土曜日は昼・夜と上演しつづけている。

 この劇場の中心人物はレオニード・アニシモフというロシアの演出家である。スタニスラフスキー・システムをその演出の柱としている。スタニスラフスキーはチェーホフと同時代のロシア・ソヴィエトの俳優・演出家である。彼の演技理論の影響を受けない現代演劇人はいないといわれるほどの大きな業積を残した。「演じるのではなく役を生きよ」というのが彼の方法論の根本理念であろうか。

 さて私はこの東京ノーヴィ・レパートリーシアターの芝居をこの3年間観つづけてきた。観客席26の小さな劇場で、すぐ目の前で人生の劇が演じられる。同じ演目を何度も体験し、また同じ演目であっても観るたびに受ける感銘が異なるという、レパートリー・システムならではの貴重な体験を味わうことができた。そしてチェーホフの芝居こそこの上演システムのためにあるのではないかと、強く思うようになった。

 チェーホフは、20世紀と世紀が改まって数年後の1904年に、44歳という若さで亡くなっている。いまの時代から振り返ると、早逝という言葉を使ってもおかしくはないほどの若さである。それにしてもと思う。その若さで、彼は一体どれほどの人生体験を積み重ねていたのだろうか、と。そんな感嘆の言葉を吐かずにはおれないほどに、チェーホフの芝居には人生が詰まっている。平凡な日常劇でありながら、人間の想いやら感情やらが、重層構造のなかに動めいている。人間模様の曼荼羅図とでもいえばいいのだろうか。光のあて方によって、劇は千変し万化する。

 東京ノーヴィ・レパートリーシアターでも、当然のことながらダブル、あるいはトリプル・キャストである。同じ演目でも上演ごとに出演者が異なる。このことはチェーホフ劇の重層性にふさわしい。俳優によって、芝居の意味そのものが変化する。というよりも、芝居のなかに層を成している意味の現れ方が、演じる人間によって異なる、といった方がより正確かも知れない。

 「三人姉妹」では、いままで私のなかで、三女のイリーナの存存が大きかった。背伸びしながら大人になろうとしている少女の健気さ、そこにふりかかる残酷な試練、それでも生きていかなければならない人生というものの哀しさ。イリーナに焦点をあてると、生きるということの意味が、少しは見えてくるような気がする。

 ところが4月17日に観た「三人姉妹」では、ニ女マーシャにいたく感情移入させられた。だいたいマーシャは、どこか斜に構えた生き方をしている、気ままな女である。夫がある身ながら、これも妻子のある軍人ヴェルシーニンを愛してしまう。転属によって彼が街を去ろうという日、三人の姉妹は食卓を囲む。三女イリーナはトーゼンバフとの結婚を迷っている。

 長女オーリガがイリーナに言う。「トーゼンバフと結婚しなさい。彼はいい人です。結婚に一番大事なものは誠実さです」。その隣の、愛のない結婚生活を強いられているマーシャは、ニ度と戻らないだろう恋人との別れを迎えようとしている。結婚生活の本質は誠実さ? オ一リガの言葉は虚ろに響いているはずである。そして、恋人との別れは真に切ない。去ろうとする彼に抱かれたマーシャの背中はその哀しさを伝えて、涙を誘わずにはいられない。  

 いっぽう、マーシャの夫クルイギンは、上司の動静に敏感で、生活の些事にうるさい、俗物の中学校教師である。マーシャが愛想をつかすのも無理はないと思わせるに十分なほど平凡だが、彼はマーシャを愛している。彼女の心の動きがわかっていながら、その愛は変わることがない。このクルイギンも、演じる俳優によって、観るものの心を揺さぶる存在となる。人間存在の愚かしさ、滑稽さと、それゆえの愛おしさを体現しているのだ。  

 マーシャの恋するヴェルシーニンとて、颯爽とした軍人などではない。多少生きることについて哲学めいたことを述べることはあっても、狂言自殺を試みる妻を抱えてうろたえる半端な男に過ぎない。だいたいチェーホフ劇には人生の勝者など登場しない。生きていくことに困難を抱えた、平凡な人間ばかりである。そんな彼ら彼女らに、観る者は自らを投影する。そして溜息をつく、「やれやれ」と。それでも人は生きていかなければならないのだ。

 「チェーホフがいてくれた」。これは東京ノーヴィ・レパートリーシアターのチラシに刷り込まれたキャッチコピーである。チェーホフ劇の核心をついた言葉だと思う。チラシではまた、アニシニモフが次のようなチェーホフの言葉を紹介している。「真実だけが人を治療でき、癒すことができる」。チェーホフの芝居は人の心を癒す。そして東京ノーヴィ・レパートリーシアターのチェーホフは、その本質をよく伝えている。

「三人姉妹」
2010年4月17日 
下北沢・東京ノーヴィ・レパートリーシアター http://www.tokyo-novyi.com/
オーリガ:川北裕子
マーシャ:大坂陽子
イリーナ:槐奏子
アンドレイ:安部健
ナターシャ:増田一菜
クルイギン:渡部朋彦
ヴェルシーニン:菅沢晃
トゥーゼンバフ:佐藤誠司
ソリョーヌイ:後藤博文

チェブトイキン:岡崎弘司
フェドーチク:中林豊
ロデー:一柳潤
フェラポント:武藤信弥
アンフィーサ:高瀬くるみ

2010年5月7日 j-mosa


北沢方邦の伊豆高原日記【78】

2010-05-07 13:11:03 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【78】
Kitazawa,Masakuni


 ツツジの咲く時期が年々早まっている。今年は4月の半ばに満開となり、青木やよひの散骨式には散っているのではないかと心配したが、その後の寒さで持ち直し、華やかな緋色や紅で参加いただいたひとびとの目を楽しませてくれた。例年なら5月上旬の今頃は新緑が美しいのだが、もはや新緑ではない。

古代インドの社会と宇宙論 

 翻訳の仕事と青木の介護などで、机の上に積んだままであった何冊もの本を、ようやく落ち着いて読みはじめた。そのひとつが Wendy Doniger:The Hindus;An Alternative History,Penguin Press, 2009 という700頁に及ぶ大著である。 

 わが国でも中村元博士の業績をはじめ、インド哲学研究は世界的水準にあるが、一般には近づきがたいアカデミーの世界と思われている。またインド紹介や紀行文は数多いが、あまりにも断片的で、この壮大な文明の背景はほとんど伝わってこない。

 その点本書は、約5000万年以前からのインドの歴史をたどりながら、キリスト紀元前1500年頃に遡るヴェーダ類、同じく前800年頃のブラフマナ類、前600年頃のウパニシャド類、前400年頃の『ラーマーヤナ』や前300年頃の『マハーバーラタ』などの大叙事詩を徹底的に渉猟しながら、それらの説話や神話を通じて古代インドの壮大な世界観と、それを生みだした文明の奥深さ、さらに古代インド社会のおおらかさと自由さをみごとに解明している。いうまでもなく、それがしだいにカースト制度の固定化や宗派的対立を生み、イギリスの植民地支配の「分断して統治せよ」とその誤った近代化によって変形し、多くの矛盾と悲劇をもたらす過程ももちろん追求されている。

 だがこの古代の分析にほぼ半分の頁が費やされているのをみてもわかるように、今日の人類にも教訓をあたえるようなインド思想の源泉は、まさに古代にある。

反戦の書『マハーバーラタ』 

 たとえば『マハーバーラタ』である。『ラーマーヤナ』には日本語の要約がある(しかしラーマとシータが再び結ばれてめでたしという結末になっているが、原書はその後の悲劇的な離別である)が、18巻に上るこの膨大な叙事詩には、第6巻の一部である「バガヴァッド・ギーター」の完訳を除いて日本語訳はない。

 男神たちや女神たちの子孫であり、親族でさえあるカウラヴァの一族とパーンダヴァの一族との葛藤と戦いを描いたこの叙事詩は、はじめインダス峡谷に、その後ガンジス平原に栄えた古代の諸王国の征服や被征服、戦闘や敗北など現実の生々しい歴史を遠く反映しながら、それをより神話的・伝説的次元に昇華しているといえるが、「バガヴァッド・ギーター」が明示しているように、さらにそれをインド古代哲学によって批判的にまとめあげ、語りあげたものである。 

 戦闘の前夜、殺戮に思いをおよぼし、嫌悪と迷いに陥った英雄アルジュナのもとに、戦士の姿となったクリシュナの神があらわれ、ヨーガの教えを説く。すなわち戦争は神々が創りだした迷妄(マーヤー)にほかならないが、戦士たる汝は、この迷妄の戦闘に参加するという行為(カルマ)を通じてしか、このマーヤーの帳を破ることはできない。迷妄の世界では、すべては矛盾からなっている。だがひとつひとつの矛盾は、それを認識(ジュニャーナ)し、それを業(ごう:カルマ)として生き抜くことで、はじめて解消する。カルマのなかで認識(ジュニャーナ)は自己の運命に対する信愛(バクティ)となり、そこで汝の個我(アートマン)は宇宙の個我(アートマン)のなかに溶け込み、ブラフマン(宇宙我)となる。これが解脱(モクシャまたはムクティ)、すなわちマーヤーからの離脱なのだ、と。 

 (この思想は、一部が彼の『日記』のなかで共感をもって引用されているだけではなく、まさにベートーヴェンの思想であり、生き方であり、音楽である)。 

 その後の恐るべき戦闘で、クリシュナの助けをえたアルジュナは勝利を手にするが、パーンダヴァの一族もやがて次々と死に、戦士クリシュナも狩人に射られて死ぬ(もちろん神として再生するが)。アルジュナも兄弟とともに、ヒマーラヤの山々で死ぬ。まさにマーヤーの世界の「はかなさ」を歌うことで全編は終わる。 

 ドニガーは『マハーバーラタ』を世界最大の反戦の書と呼び、その思想はガーンディにいたるとしているが、まさにその通りであろう。ガーンディの非暴力(アヒンサ)は、戦争を含む暴力(ヒンサ)の全否定(ア)であって、けっして弱者の戦術などではない。 

 だが非暴力も、観念にとどまる限り、世界を変革する力とはなりえない。行為(カルマ)による身体的な力となってこそ、マーヤーの世界の矛盾を克服できるのだ。

青木やよひの散骨式 

 4月24日に青木やよひの散骨式が行われた。当日は曇り時々雨の天候であったが、海は比較的穏やかで、借り切った遊覧船がほぼ満席の21名の方が参加してくださった。伊東港の沖合手石島近くで、波にゆられながら、ひとりずつ、一握りの遺灰を撒き、花をたむけた。 

 終了後ヴィラ・マーヤに集まり、それぞれの自己紹介や青木の思い出を語り、おいしい地魚の握り寿司とビール、日本酒などでにぎやかに懇談し、また青木の「ベートーヴェン不滅の恋人」のヴィデオ(NHK総合)などを鑑賞し、彼女の業績を偲んだ。 

 ご参加のみなさん、そして当日都合がつかず不参加のメールや電話をいただいた方々、心からお礼を申しあげます。