一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【55】

2009-02-22 16:02:41 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【55】
Kitazawa, Masakuni  

 今年は春が早い。ウメは白梅・紅梅ともに散り、緋寒桜や河津桜は満開だという。ツツジの根元のヒアシンスがいっせいに背を伸ばし、いまにも濃い紫の花を咲かせそうだ。 

 例年通り厳冬期だけ、朝食のリンゴの芯や皮をヒヨドリたちにだしているが、時間が近づくと、庭椅子やテーブルに乗り、けたたましい声をあげて催促する。ツツジの列のコンクリート囲いの突端に載せてやると、手の届かんばかりのところに飛び移り、精一杯喜びの声をあげ、つつきはじめる。

ダーウィン再考

 今年はダーウィンの生誕二百年・『種の起源』公刊百五十年記念の年というので、ダーウィンを称える行事や本、あるいはメディアの記事が溢れている。 

 創造主が世界を造りだしたとき、人間を筆頭に生物のすべての種が、いまあるがままの形で生みだされた、とするユダヤ・キリスト教的世界観が支配していた19世紀の西欧で、人間を含む地球上のすべての生物は、単一の原初的生物から自然選択によって段階的に「進化」してきた、とする画期的な生物学的世界観を提出したダーウィンの歴史的功績は、ここであらためて称揚するまでもない。 

 この「進化」概念そのものは今日まで、生物学に限らず、自然科学全体の共通の理解となり、前提となっている。だがそれはダーウィンひとりの「発見」ではなく、先駆者であるフランスのラマルク、ダーウィンより若いが、東南アジアのフィールド・ワークから生物が自然環境に適応して「変異」していくことを発見したアルフレッド・ウォレス(狭いロンボク海峡を挟んでバリ島とロンボク島では動物相と植物相がアジア系とオーストラリア系とまったく異なることを発見し、そこから有名な「ウォレス線」を導入した)など、同時代の学者たちの努力に負っている。メディアの扱いとは異なり、ダーウィンひとりがその栄誉を占めることはできない。 

 そのうえ私は、「進化」論(セオリー・オヴ・エヴォリューション)と、世にいう「進化論」(エヴォリューショニズム)とは厳密に区別されるべきだと考えている。なぜなら「進化」論(以下進化理論と呼ぶ)は科学理論であるが、「進化論」は近代の世界観であり、科学イデオロギーだからである。ダーウィン自身それを混同していたといわなくてはならない(「マルクス理論」と「マルクス主義」を混同したマルクスのように)。もちろん科学の知といえどもその時代の認識論の制約のもとにあるが、その概念や構造は継承可能だからである。

イデオロギーとしての進化論 

 事実、『人間の出自』でダーウィンは、西欧の近代が人類の進化の最終段階にあることを示唆し、それを継承したT.H.ハクスリーやハーバート・スペンサーは、人間の社会や文化にも「適者生存」の優劣があるという「社会進化論」を主張し、ついにはそれをメンデル以来の遺伝学に結びつけ、植物の品種改良の概念を人間の生殖にも適用する「優生学」にまで拡大した。優生学はナチスによる悪名高い実践にまでいたり、西欧が進化の頂点にあるとする「哲学」は、テイヤール・ド・シャルダンにまでいたっている。 

 これがイデオロギーとしての進化論であり、人種差別や西欧中心史観の根拠とさえなった。そのうえごく近年、ワトスンとクリックのDNAやRNAの二重螺旋構造の発見にはじまる分子生物学の展開は、遺伝子決定論という新しい装いのもとに、「新ダーウィン主義(ネオダーウィニズム)」を登場させ、経済グローバリズムに呼応する競争社会の生物学的正当性を主張するにいたったことは記憶に新しい。ある種のハエがレイプによって子孫を増やすという観察を根拠に、ヒトの雄のレイプを正当化する社会生物学(ソシオバイオロジー)などが現われたのも、この新ダーウィン主義流行の一端である。

ポスト・ダーウィニズムの登場 

 進化理論同様、分子生物学の基本はすでに自然科学の前提的な認識となり、遺伝子の配列やヒト・ゲノムの解読は、医療の分野にまで大きな影響をあたえているが、遺伝要因と環境との弁証法や、個体内部での心身の弁証法など、生物学的ヒトが「人間」となるメカニズムはほとんど未解明である(たとえば一卵性双生児の遺伝子はまったく同一であるが、成長するにつれ、個性や思考様式はもとより身体的特徴さえ異なってくる)。 

 さらに、近年の微生物学(マイクロバイオロジー)または微生物科学(サイエンス・オヴ・マイクローブ)の展開は、進化理論そのものの修正だけではなく、近代の科学的イデオロギーまたは世界観としての進化論を、根本的に批判する視点さえも開きつつある。 

 すでに19世紀、ロシアの生物学者クロポトキンは、植物の根に寄生する菌糸類が宿主から栄養素をえるだけではなく、宿主にとって困難な化学物質の分解や合成をおこない、宿主の成長を助けていることを発見した。彼は生物と微生物相互のこの「内共生(エンドシンバイオシス)」(外共生〔エグゾシンバイオシス〕つまり蜜蜂と花との関係のようなものに対して)をはじめ、万物の「共生(シンバイオシス)」が自然界の基本的な在り方であるとし、当時流行の適者生存の「社会進化論」を真っ向から批判し、人間の社会も「共生」のネットワークを基礎とすべきであると、無政府主義的ユートピア社会主義を説いた。 

 それから約一世紀後、微生物科学は細胞や分子のレベルにおけるバクテリアやヴィールスの作用や機能を明らかにし、内共生のさらに精密な体系がすべての生物の根底にあることを示すにいたった。

ポスト・ダーウィニズムの哲学 

 新ダーウィン主義の遺伝子決定論では、真核生物(細胞核をもつ生物)の遺伝は細胞核(ニュークレウス)によってのみ行われるとしていたが、最近の微生物学は、それを取り囲む細胞質(サイトプラズム)こそがすべての遺伝の母胎であることを示し、さらにそれが、酸素の貯蔵庫ともいうべきミトコンドリアをはじめ、無数のバクテリアやヴィールスを取りこみ、強力な内共生の体系をつくりあげる舞台であることを明らかにした。人間の健康や正常な生活も、それによって保証されているのだ。 

 たとえば妊娠である。精子を受胎した卵は胚として成長するが、その細胞核には父親の遺伝子が含まれ、母胎にとっては異物である。通常であるなら、母親の身体の免疫機構が働き、異物を排除するが、子宮に宿るHIVレトロヴィールス(酵素を奪う普通のヴィールスに対して酵素を排出するのでこの名がある)が免疫不全を起こし、胚を保護する。いうまでもなくHIVは、免疫不全病エイズのヴィールスと同種のものである。 

 これは一例にすぎないが、こうした共生関係は生物体だけではない。いわゆる有機物と無機物でさえも緊密な共生関係にある。 

 われわれ生物はすべて、太陽の光熱と水によって成長するが、雨(日本の古語では天も雨もアメ〔所有格や形容詞はアマ〕であり、雨は天の水を意味する)を降らせる雲は、水蒸気だけでは形成されない。核となるディメティル硫黄化合物が必要とされるが、海中や水中の微生物や藻類がそれを放出し、水に溶けて水蒸気とともに上昇することがごく近年明かとなった。これも原初的な有機物・無機物の共生である(こうした硫黄サイクルは、炭素サイクルや酸素サイクルより地球にとってはるかに古い)。 

 つまり母なる地球全体が「共生」の産物であり、そのダイナミズムのうえに成り立っているのだ。人間と大自然との関係だけではなく、人間の社会そのものも共生の産物であり、それを生かす体系として造りあげられてきた。ホピやナバホをはじめとするアメリカ・インディアン、あるいはオセアニアやアフリカなどのかつての社会の在り方が、そのことを証明している。 

 経済グローバリズム崩壊後の世界を考えるうえでも、この「共生の哲学」は重要である。  

●この問題を考えるうえで次の書物を参考にした:
Ryan,Frank. 2002.
Darwin’s Blind Spot; Evolution Beyond Natural Selection,
Houghton Mifflin Co.,New York.


第11回セミナーに参加して

2009-02-19 23:51:59 | セミナー関連


         第11回セミナーに参加して

 
 
この2月7日、東京都美術館で開催されている「アーツ&クラフト展」を見に行った。ウィリアム・モリスの壁紙やタペストリーなどの工芸品は美しいには違いないが、私とは別世界のものだという印象をそれまで持っていた。しかし、この展覧会の2週間前に、マルクス経済学者の大内秀明先生を講師にお迎えして、モリスに関するお話を伺った後でもあり、私のモリス観はかなり変化していた。彼の壁紙作品などに描かれている植物や動物たちの背景に、モリスの豊かな自然観や労働観を感じとることができ、実りあるひとときを過ごしたのだった。

 大内先生のセミナーのタイトルは「人間にとって労働とは何か――ウィリアム・モリスから宮沢賢治へ」であった。モリスと賢治の思想と生き方がお話の中心であったのだが、二人の作品が生み出された背景もよく理解できた。コッツウォルズの豊かな自然とモリス、イーハトーヴの、厳しいけれど懐かしい風景と賢治。風土を抜きにして二人の芸術を理解することはできないようだ。

 
モリスは、イギリスの産業革命による機械制工業化の時代に生まれている。彼は後期マルクスの『資本論』から、コミュニティの再建、共同体を中心としたギルド的社会主義を学び、「アーツ&クラフト運動」として実践したとのこと。モリスの美術作品の制作過程は、それこそ彼の思想の実践だったのだと納得できた。彼にとっての労働とは、 Art is Man’s Expression of his joy in labor(労働の芸術化、芸術の労働化)であり、joy and pleasure であったのだ。

 
これは、A・スミスによる古典的な労働価値説にいう、労働とは toil and trouble という考え方とは大きく異なっている。また、ロシア革命に疑問を持っていた宮澤賢治は、「農民芸術概論綱要」の中で、労働についてこう言及している。「芸術をもて、あの灰色の労働を燃やせ」と。これは、ウィリアム・モリスの  Art is Man’s Expression of his joy in labor を引用、継承したものであるとのお話だった。

 
大内先生のセミナーが行われたのは、アメリカのサブプライム問題に端を発した金融経済恐慌で世界が揺れている最中だった。日本では、従業員の大量解雇、内定取り消しが相次いでおり、日比谷公園で寝泊まりする若者のニュースがマスコミを賑わせていた。この出来事についての大内先生の次の言葉は納得のいくものだった。「昔なら、都市で過剰労働力となった者は、農村に帰っていった。しかし現在では、家族や共同体の崩壊により、すでにそのような仕組みは働かず、農村はセイフティネットの役割を果たさなくなってしまっている。

 
国家社会主義が崩壊し、資本主義社会も先が見えない現在、モリスと賢治の思想は見直されなければならないとのこと。新しい形の共同体、コミュニティからこそ、未来を展望できるということだろう

知と文明のフォーラム第11回セミナー
「人間にとって労働とはなにか?
        
―ウィリアム・モリスから宮沢賢治へ」
日時:2009124日(土)~25(日)
場所:伊豆高原ヴィラ・マーヤ
セミナー内容:
序論 北沢方邦「経済グローバリズムの行方」
講義 大内秀明「世界で一番美しい村・コッツウォルズとW・モリス」
「モリスから賢治へ、そして〈賢治とモリスの館〉」

あんず
 


レクチャー・コンサート③開催のお知らせ

2009-02-09 08:55:11 | 活動内容

レクチャー・コンサート:世界音楽入門Ⅱ

新実徳英の世界

螺旋をめぐって・・・生命の原理

【司会・構成】…北沢方邦

2009年4月25日(土)14時開演

セシオン杉並
東京都杉並区梅里1-22-32 ℡03-3317-6611
丸の内線●東高円寺駅から徒歩5分 ●新高円寺駅から徒歩7分

全自由席 一般4000円(前売3500円) 学生3500円(3000円)

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風の音、魂の声、生命の響き―
新実徳英の深遠なる音宇宙は
どこから生まれるのか?

プログラム①「音楽と日本的霊性」

【レクチャー】…北
沢方邦

魂の鳥■フルートとピアノのための
ソニトゥス ヴィターリスⅠ■ヴァイオリンとピアノのため
ピアノトリオ…ルクス・ソレムニス  

プログラム②「音楽と宇宙」

【対談】…新実徳英+杉浦康平

風のかたち■ヴィブラフォンのための
アンラサージュⅡ■3人の打楽器奏者のために
ヘテロリズミクス■6人の打楽器奏者のために

…演奏…
上森祥平/寺岡有希

永井由比/長尾洋史
上野信一&フォニックス・レフレクション

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チケットご予約・購入できます。
チケット販売サイト●カンフェティ

http://confetti-web.com

http://confetti-web.com/ticket/ticket.asp?G=ch00un38&S=090425  

電話でのお問合せ●03-5477-2977
ファックスによるご注文●03-5486-5022
メールでのご注文・お問合せ SNA41919@nifty.com
★メールにてお問合せの方は、お手数ですが、
「新実コンサート問合せ」と、タイトルをお願いします。

●チケットは
杉並文化協会
 http://www.sugibun.com

コミュかるショップ、杉並区内各区民センター、杉並公会堂でも
お買い求めいただけます。(会員・区民割引有り)

【主催】ハーツウィンズ
【共催】知と文明のフォーラム
お問合せ・予約●知と文明のフォーラム東京事務局
(090)7176-6700 SNA41919@nifty.com

 


北沢方邦の伊豆高原日記【54】

2009-02-05 20:37:15 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【54】
Kitazawa, Masakuni  
 
 白梅は満開、紅梅も五分咲きとなり、むらがるメジロたちの羽根の鴬色が陽光に映える。苔の絨毯の合間に群生するスイセンも咲き、あたりに強い野生の芳香を放っている。今年は、立春の名にふさわしい春のきざしに満ちた日々である。

ダヴォス会議と反ダヴォス会議 

 トーマス・マンの『魔の山』の舞台、結核療養所の建ち並ぶ保養地としてかつて有名であったスイスのダヴォスで、世界経済会議が開かれるようになってから久しい。各国の首脳や経済界のお歴々を招いたこの会議は、グローバリズム推進のサロンの様相を呈していたが、さすが今年は、市場万能の新自由主義の招いた世界経済の危機と混乱を受け、暴走する金融資本主義を政治がいかにコントロールするかが話し合われたようだ。 

 そのなかで目をひいたのが、ガザ侵攻とパレスティナ人大量殺戮を弁護するイスラエルのペレス大統領を激しく非難し、途中退席したトルコのエルドアン首相である。日本の明治維新に相当するケマル・パシャの近代化と政教分離、あるいは国字のローマ字化などに示されるように、ながらく西欧を追いつづけてきたトルコが、国民の多くのイスラーム覚醒とともに選んだイスラームの福祉政党の首相のこの心底からの怒りによって、彼らの文化の基底がアジアであることを世界に表現した。喝采したい。 

 他方、ベネスエラのチャベス大統領やボリビアのモラレス大統領など南米左派のリーダーたちがエクアドルで開催した反ダヴォス会議がある。こちらはわが国のマスメディアの報道がほとんどないので詳細は不明だが、内容は推測できる。ポスト・グローバリズムの構想のためにも、彼らの健闘を称えたい。

リベリアを変革した女たち 

 アメリカ合衆国の解放奴隷たちの定住地として、アメリカの手によってアフリカ最初の独立国として19世紀に誕生したリベリア(英語発音ライベリア)は、今世紀の初めから悲惨な内戦の渦中にあった。当時、キリスト教を信奉する解放奴隷の子孫たちはアメリカとの貿易の富を独占し、その植民地的経済によって貧困に陥った先住民のイスラーム教徒たちを支配する体制を築いていた。またイスラーム教徒のあいだでの部族対立など、複雑な政治状況が、アフリカではもっとも遅い内戦の引き鉄となった。 

 だがテーラー独裁体制に反撃した反政府武装勢力も、たんに権力とそれにともなう富を手中にしたいだけであり、政府軍同様、殺戮・略奪・レイプお構いなしの暴力集団であった。この血にまみれた戦乱のなかで、とにかく内戦を終結させ、新しいリベリアを再建しようと立ちあがったのが、首都モンロヴィア(建国時のアメリカ大統領モンローの名に由来する)の女たちである。 

 キリスト教徒とイスラーム教徒、住民と各地からの避難民など、すべての障壁を超えて数千人の女たちが団結し、政府に対してだけではなく、アメリカ大使館をはじめ国際社会に停戦を働きかけ、ついにはアフリカ連合(AU)を動かして和平会議を開催させるにいたった。ガーナで行われた会議中にも彼女らは、合意が達成されるまで会場を包囲し、各国の首脳や代表団に陳情し、2ヶ月も粘った末についに会議を成功させた(もちろん合意が達成されないかぎり援助を停止するという欧米各国の「外圧」も大きかった)。その結果、AUを主体とする国連平和維持軍の駐留、そのもとでのテーラーの追放、民主的選挙による新大統領(女性が選ばれた)と新政府の樹立という偉業をなしとげたのだ。いまも彼女らは、リベリア社会のよりよい変革のために活動しつづけている。 

 アメリカ・インディアンの社会同様、アフリカは母系制が多く、もともと女たちの強い社会であったが、昼日中から銃声がひびき、着弾による黒煙が上がるさなかでの、文字どおり命を賭けたこの活動は、なみの意志や勇気ではない。そのうえ彼女らは、集会では常に白い衣裳やターバン(白にはもちろん土着の宗教的意味がある)をつけ、プラカードを手にして唄い、踊りつづけ、市民だけではなく、官憲や兵士にいたるまでも宗教的に畏敬の念をあたえたようだ。 

 2月2日NHKBS1の海外ドキュメンタリーの時間に放映された「リベリア内戦を終らせた女たち」(原題はPray the Devil Back to Hellつまり「悪魔を地獄へ返せと祈ろう」)は、きわめて感動的であった

ジネット・ヌヴー賛歌 

 いつもFMで聴いた演奏が不満のとき、同じ曲の手持ちのCDで「口直し」することにしている。シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」、これがいま聴いたのと同じ曲か、と思うほどのちがいであった。演奏者はジネット・ヌヴー、ヴァルター・ジュスキント指揮のフィルハーモニア管絃楽団である。 

 深い森の湖のような静寂のなか、管弦楽のさざなみにこだます清澄な旋律ではじまる冒頭から、低音の弦とティンパニのユニソンが、ひとつの音、ひとつのリズムでとどろき迫るなか、それに抗して低音から高音へと飛翔し、目の醒めるような音の空間を開いてみせるフィナーレにいたるまで、息つく間もないほどの緊張感でわれわれを惹きつけるこのジネット・ヌヴーとはだれなのか。 

 フィナーレの3度の重音による音階という「難所」でさえも、らくらくと越えてすべての音をひびかせるこの技術、この音量をたくみに駆使し、おどろくべき繊細なニュアンスと力強さとを同時に表現するこの魔女は、いったいなんなのか。 

 ラディオでこの演奏を聴いたシベリウスが、「私のこの協奏曲を不滅にしたのは、あなた、ジネット・ヌヴーである」と賞賛の電報を打ったという「伝説」(事実である)も、当然といえよう。はじめての渡米のとき、巨匠ミュンシュとニューヨーク・フィルハーモニーとのブラームスの協奏曲の演奏で、カーネギー・ホールの聴衆を熱狂の渦に巻き込み、次の演奏曲目になかなか進めなかったという伝説も、それに輪をかける、 

 1949年、アゾレス群島の山腹に衝突した乗機と運命をともにし、30歳で夭折したのは、おそらく音楽の女神たちの嫉妬からであるだろう。


楽しい映画と美しいオペラ―その17

2009-02-02 23:15:48 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その17

    チャイコフスキーの抒情と諦念
    ―バレエ『オネーギン』と交響曲『悲愴』  

 昨年も末頃、まったく思いがけなく、立て続けにチャイコフスキーを聴くことになった。貰い受けた招待券の演目がチャイコフスキーだったり、指揮者を聴く目的で買ったチケットもそうだったり、常日頃はほとんど聴くことのない音楽をたっぷり耳にして、これまた予想外の感動を味わったのだった。

 そんなこともあり、このブログでの私の分担を外れることになるが(オペラと映画、これは私が勝手に決めた分担)、今回は番外編として、チャイコフスキーのバレエと交響曲を取り上げることをお赦し願いたい。

 バレエという舞台芸術も私にはずい分と縁遠いものだった。娘たちがまだ小学生の頃、もう20年も前のことになるが、『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』など、いわゆる名作バレエを観たくらいである。今回、『オネーギン』なるチャイコフスキー作品を観る気になったのは、招待券が回ってきたこともあるが、オペラ『エウゲニー・オネーギン』と比較してみようという気持ちもあったからである。

 このオペラは、メロディーの美しい抒情性豊かな作品で、私は気分が向けば、ラックの片隅からこのDVDを選り出すことがある。しかし主人公オネーギンには、その倣慢さが鼻について、何度聴いても共感を覚えることはなかった。このオペラは、オネーギンに心を寄せながらその想いがかなわない、貴族の娘タチヤーナこそが主人公だと思う。

 バレエももちろんそのように作られている。しかしここでのオネーギンは、満たされることのない心の空虚をその踊りににじませて、私はいたく心を動かされたのだった。タチヤーナの求愛を冷たく拒絶したオネーギンだったが、その後数年間の放浪生活は空しいものだった。この間のオネーギンの悲哀の心境、そして彼と舞踏会で再会したときのタチヤーナの激しい心の動き。音楽に込められたこれら哀切と痛切の情感を、ジェイソン・レイリーとスー・ジン・カンの2人の踊り手は見事に表現した。とりわけ韓国人スー・ジン・カンは、私が観たオペラのどのタチヤーナよりも素晴らしかった。少女の恋の甘さと切なさ、公爵夫人の気品と揺れる心――舞踏がこれほどの説得力をもつとは!

 オペラは音楽と演劇が結びつき、その2つを媒介するものは言葉である。バレエにはその言葉がなく、音楽がいきなり人間の肉体の動きに結びつく。それが抽象的である分、バレエの方がより音楽に近い。オペラも音楽が主体であることは間違いないのだが、演劇的要素で強引に観る者を引きずり込むことができる。演出が勝って、音楽を殺してしまうこともままあるし、つまらない音楽を演出でカバーすることもある。

 バレエの上質な上演は、いい音楽を抜きには考えられないのではないだろうか。踊り手に深く感受された音楽は、その肉体をとおして、観る者の全身にストレートに訴えかける。タグルという指揮者はこのバレエ団専属の人らしいが、聴かせどころをわきまえたいい音楽を奏でた。そして、人間の感情を濃密なまでに表現するチャイコフスキーの音楽は、やはりバレエに向いているのだと、この公演を観て実感した。

 チャイコフスキーは、私をクラシック音楽に導いてくれた作曲家のひとりである。初めて聴いた生のオーケストラも交響曲第6番『悲愴』だったし、中学から高校にかけて、彼のピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲もよく聴いた。しかし青春時代以降、チャイコフスキーとはほとんど縁がなくなった(オペラは別にして)。おそらく、そのあまりに人間臭い音楽に辟易したからだろう。ところがバレエ『オネーギン』を観てから半月後、今度は『悲愴』を40数年ぶりに聴くことになった。

 一度聴いてみたいと思っていた指揮者の尾高忠明が、自宅近くのかつしかシンフォニーヒルズに来演するというので、オーケストラは地元のアマチュアながら出かけることにしたのだった。そしてそこで、誠に感動的な『悲愴』と出会ったのである。

 尾高の奏でる『悲愴』に込められた、死を目前にしたチャイコフスキーの諦念が、私の心の琴線に深く触れたのだと思われる。音楽の発するメッセージに聴く者の心が共振すると、そこに日常の裂け目が生じる。メッセージが深いものであるなら、その裂け目からは間違いなく感動が生まれる。それが哀しみに満ちたものであっても、聴いた者の心は落ち着いた充実したものとなる。尾高忠明と葛飾フィルハーモニー管弦楽団に感謝を捧げたひとときだった。そして今、これからもチャイコフスキーを聴いてみようという気になっている。

シュツットガルト・バレエ団『オネーギン』
台本・振付・演出:ジョン・クランコ
オネーギン:ジェイソン・レイリー
レンスキー:マリイン・ラドメイカー
ラーリナ夫人:メリンダ・ウィサム
タチヤーナ:スー・ジン・カン
オリガ:アンナ・オサチェンコ
乳母:ルドミラ・ボガード
グレーミン公爵:ダミアーノ・ペテネッラ
指揮:ジェームズ・タグル
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニー管弦楽団

2008年11月29日 
東京文化会館

チャイコフスキー『交響曲第6番〈悲愴〉』
指揮:尾高忠明
管弦楽:葛飾フィルハーモニー管弦楽団

2008年12月14日 
かつしかシンフォニーヒルズ

2009年1月30日 
j-mosa