一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【134】

2012-11-30 11:57:20 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【134】
Kitazawa, Masakuni  

 寒気の南下が早かったせいか、今年は雑木類の葉も,枯葉色というよりも黄色味を帯び、ハゼ類のみごとな紅葉と映えて美しかった。その大半は落葉し、苔を蔽っている。かつてはこまめに掻き集めては焚き火をし、焼き芋などを楽しんでいたが、条例で野焼きが禁止され、植木屋さんに始末してもらうほかなくなった。ヴィラ・マーヤを含めると20本以上にもなる落葉樹の葉は、もはや私の手にはおえない。

総選挙の選択  

 混迷をきわめた民主党政権が終わりを迎えているが、状況は一層の混迷の度を深め、国民を戸惑わせている。

 とりわけ憲法改正と国防軍の創設、日銀による国債引き受けや3%という途方もないインフレ・ターゲット論など、危険な外交・経済政策を唱える安倍晋三氏率いる自民党、あるいはウルトラ・ナショナリストの石原慎太郎氏と変わり身が早く独断的な橋下徹氏らが代表をつとめる日本維新の会は、たんに政治の右傾化というよりも、袋小路に陥った近代文明の最後の悪あがきともいうべきものを示している。

 それはかつてのファッシズムや軍国主義の再現ではありえないが、国際関係や経済体制をある種の瀬戸際まで追い込み、そこから転落することでわれわれの国そのものや大多数の国民の生活を危険にさらす大変なリスクをともなう政治をもたらすにちがいない。安全神話を信じ、たとえ消極的であれ原発推進体制を支持してきた大多数のひとびとが、3・11で愕然と目覚めたように、いつかわが国やわれわれの生活がそのような恐るべき状況に突き落とされてはじめて目が覚めたのでは、もはや手遅れなのだ。

 その点では、政権交代を望んだひとびとを裏切り、今日の政治的混迷の根本原因を招いた民主党は、厳しい批判を受けるべきではあるが(3・11やフクシマの処理にあたった菅直人政権の対応はけっして悪くはなかった)、それらの勢力よりははるかにましだ、というべきであろう。

 政治にはベストはありえなし、ベターさえないといってもいい。ベストの政治はせいぜい「ノット・バッド(悪くない)」でしかない。そのノット・バッドでさえ稀なのだ。今回の総選挙は、ワースト(最悪)を選ぶかワース(より悪い)を選ぶかという選択であり、危険な道を望まないならば、ワースを選ぶしかないといっていい。

 嘉田由紀子滋賀県知事が、脱原発の一点に絞って日本未来の党を立ちあげ、いわゆる第3極で維新の会などの路線に反対する勢力の結集を図り、ある程度の期待をもたせるが、背後に政治資金で疑念をもたれ、権力志向の小沢一郎氏の影があるのが気にかかる。もしかなりの議員が当選したとすれば、いつかその影が影でなくなる恐れがあるからである(もはや耐用年数をはるかに超えているというべき社民党などは、解体して未来の党に吸収されるべきである。多様な勢力が入ることでその影を影のままにとどめておくことができるだろう)。

 いずれにせよ、もはや未来の扉を閉ざされている近代文明の転換をはかり、資源やエネルギーの浪費ではなく、効率化した再生や再循環にもとづき、かつての自給自足体制とは異なる地域や新しいコミュニティの自立型経済を促進し、それらの網の目によってひとびとが安定したゆたかな生活を送れるような社会体制をつくりあげ、それによるフェアな貿易や交流を行う国際関係を築いていかなくてはならない。

 こうしたヴィジョンにもとづいて当面の政策を立案すべきであり、またそれを目指す勢力を結集すべきであるが、少なくとも脱原発と原発に代わる明確なエネルギー政策による結集は、その第1歩となりうるだろう。投票日までに未来の党がどのようなかたちになっていくか未知数であるが、深い関心をもって見守ろう。


『グエン・ティエン・ダオの世界』を聞いて

2012-11-17 07:56:03 | コンサート情報

2012年9月29日
『グエン・ティエン・ダオの世界』を聞いて
                      ―寺本倫子



                        カーテン・コール    写真(c)高島史於

私が、プログラムの中で、興味を持って望んだのは、『INORI3・11』でした。他国の作曲家が、我が国がかつて経験したことのないほどの悲しみを、どのように表現するのか、大変に興味がありました。第1楽章から第4楽章まで、それぞれ、性格がはっきりしており、のどかで平和な日々から、突如、震災に見舞われ、その後の悲しみから祈りへと進んでいったのが非常によくわかり、私たち日本人誰しもが持っている心の動きそのものでした。ベトナム人作曲家がここまで表現してくださっていることに、非常に感慨深いものがありました。続く『ジオ・ドング』は、このような形態のものを初めて聞きましたが、音楽というのか、声というのか、その不思議さに見せられました。特に、奈良ゆみさんの表現のあまりの多彩さは驚異的だったと誰しも思ったのではないでしょうか。最後の『テン・ド・グ』は、パーカッションの圧倒的な迫力と聞いたこともないようなエレクトーンの表現方法に、これもまた驚きでした。非常に興味深い、大きな感銘を与えられた音楽を聞かせてもらうことができ、充実しておりました。

途中の、西村朗氏のメシアンに対するご意見には大変に興味深いものがありました。

メシアンが、鳥の声を1つ1つ音符にして「スケッチ」していたとのこと。しかし、これに対して、「果たして、我々日本人は、鳥の声をそのように聞くだろうか。ただ単に、音の高低とリズムだけのものとして鳥の声を聞くのだろうか。森の中にあって様々な聞き方をするのではないか。これが西洋音楽の限界なのか。」といった指摘です。そこで、ふと思い出されたのは、ベートーベンが『田園交響曲』について、「この交響曲は、単なる田園の情景の描写ではなく、感情を表現したものだ。」と述べた言葉でした。『田園交響曲』では、特に2楽章の最終部分に、フルートで鶯、オーボエで鶉、クラリネットで郭公の鳴き声が演奏されます。これらを指摘して、鳥の鳴き声を模写描写したものなのかという論争がされることがあります。この点について、ロマン・ロランが、「ベートーベンは、(自然音を)模倣描写したのではない・・・(聴覚を失いつつあった)ベートーベンは、消滅している一世界を、自分の精神のうちから再創造したのである。小鳥たちの歌のあの表現があれほど感動を与えうるのは正にそのためである。小鳥たちの声を聴きうるためにベートーベンに遺されていた唯一の方法は小鳥たちをベートーベン自身のうちに歌わせることだったのである。」と述べたことが思い出されます。ベートーベンにとっては、鳥のさえずりがどんなに感動的であったことでしょう!そして、それは、『田園交響曲』の第5楽章のいよいよクライマックスに向かう最終の部分で、フルートがこの楽章の主題をまるで鳥のさえずりのように響かせるが、そのとき、ベートーベンは、もう聞こえなくなってしまった鳥の声を懐かしみ、まるで、鳥の姿を少し淋しげに目で追っているかのように聞こえます。私は、小学生の頃から、田園のこの部分を聞くとそう思っていました。ここがまた、ベートーベンの音楽の感動なのです。

ベートーベンにとっては、自然そのものが感動であり畏敬すべき存在であって、それを私たちに伝えてくれます。単に、自然界を模写描写したものを伝えるだけあれば、音楽にする必要はありません。それは、一人一人が森の中へでも行って自ら聞いてくればよいのです。芸術というものは、その人の思想の表出であって、科学でも機械でもない。こんな事を、西村氏のお話を聞くうちに考えたものでした。そして、この自然なるもの、宇宙の壮大さを認識し、人間もその一部であることに思い至ること。これこそがまさ、我々「知と文明のフォーラム」の目的とするものだったということを改めて思い知らされました。

『グエン・ティエン・ダオの世界』は、単に、ベトナムの音楽を紹介することや、西洋と東洋の結びつきを探求するきことのみを目的としたものではありません。これらを通じて、人の根元とは何なのか、人が行くべき道は何なのかを探求し、貢献することにあるはずであり、今後、最も必要となっていく作業であることでしょう。

今回のコンサートが、ベトナムに対する親近感と郷愁を呼び起こしたことは間違いありません。


伊豆高原日記【133】

2012-11-05 11:19:27 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【133】
Kitazawa, Masakuni  

 今年は快い気候の秋は短く、朝夕の冷え込みの訪れが早く、はやくも晩秋の淋しさを感じさせる。まだ青い庭の芝生に落葉がはらはらと舞い、茜色の柿の葉蔭に野鳥たちがやってきて、熟した実をついばんでいる。

さまよう皇国史観の亡霊  

 11月3日の総合テレビNHKスペシャル「発見!幻の巨大船」が興味深かった。長崎県鷹島沖で、海底の泥約1メートル下から発見された元(モンゴル帝国の中国部分)の巨大軍船と、その積載物の分析や研究から判明した事実をドキュメンタリーとしてまとめたものである。

 1281年(弘安四年)の「元寇」つまりモンゴル帝国軍14万の第2次九州侵攻時に、「神風」によって沈没した数千隻の軍船のひとつである(全数は4千5百隻と伝えられ、沈没を免れたものは撤退したとされている)。近年さまざまなテクノロジーによって著しく発展した海中考古学の目覚ましい成果のひとつであるが、文献や絵巻物などによって伝えられてきた歴史的事実をはるかに上回る驚くべき発見があいついでいる。  

 たとえばこの巨大軍船は、約10メートルにおよぶ竜骨(キール)のうえに組み立てられていて(船の全長は20メートル以上になる)、外洋の大きなうねりをも吸収することができ、マルコ・ポーロがその見聞記で驚嘆している中国の先進的な造船技術を実証している。船室は隔壁でへだてられ、万一一か所が浸水しても、隔壁を閉じることによって浸水をその船室だけにとどめることができる(近代の軍艦にも応用された技術である)。  

 のちに明の大提督鄭和がひきい、平和裏にインド洋に進出し、さらにアフリカにまで足を延ばして交易にあたった大艦隊には、これを数倍も上回る巨船が使われていて、揚子江河岸でその船橋部分が近年発掘されたばかりである。モンゴルに征服された南宋の造船技術を元が、さらには明がうけついでいたのだ。  

 また驚くべき軍事技術のひとつは、元寇を迎え撃つ鎌倉幕府勢に多大な損害を与えた「てつはう」である。直径約15センチ程度の素焼きの玉に火薬と鋭い鉄片などを詰め、火縄に火をつけ、投石機などで遠くにとばすもので、爆発によって鉄片を吹き飛ばし、ひとを殺傷する。中世の迫撃砲とでもいうべき武器である。いままでその存在は知られていたが、火薬とともに鉄片が詰められていたことはわからず、ただ爆発音で敵を脅すものとしか考えられていなかった。中身が詰まったままのものが出土し、分析の結果はじめて明らかになったものである。  

 ただ解説では「てつはう」とのみ書き、発音し、視聴者にはそれが「鉄砲」であることを理解できなかったのは遺憾であった。ほんらい鉄砲はこの火薬兵器を指し、のちに渡来した火縄銃は、それを積載したポルトガル船が漂着した種子島にちなんで「たねがしま」とよび、ながいあいだ本来の鉄砲と区別していたのだ。ただ火薬を使う兵器ということで、のちに種子島も鉄砲とよばれるようになった。  

 さらに遺憾なことは、このドキュメンタリーへのコメントや解説である。半藤一利氏は日本の近現代史にはくわしく、また正論を述べるひとではあるが、中世や古代は専門ではない。元の数千隻の軍船を壊滅させた「神風」についてのコメントは、首をかしげるものというよりは明らかに誤りであった。  

 つまり古語では神風(本来はかむかぜ)はすなわち台風であって、そこにはなんの付加的な意味はない。「台風」は古代ギリシア語のティフォン(暴強風)に由来する英語の気象用語タイフーン(typhoon)の音韻的当て字の訳語で、明治以後の造語であり、明治以前はすべて神風であったのだ。  

 「神風の伊勢、常世[とこよ]の浪寄するところ」と古来呼ばれてきたように、聖地伊勢は、太陽女神アマテラスの常世での守護神である雷神サルタヒコ(イセツヒコ、タケミナカタなどさまざまな異名で呼ばれている)が、その妻である稲の女神トヨウケ(外宮に坐す)とともに鎮まる地である(のちにこのサルタヒコの守護をいわばあてにしてアマテラスをこの地の内宮に移した)。サルタヒコは夏の気象神であり、わが国にとってとりわけ重要で神聖な稲作の出来を支配する神である。その荒御魂は、手にした鉾を振り回すことで引き起こす神風すなわち台風にほかならない(稲の女神を妻とするので雷[神鳴り]は古来イナヅマ[稲妻と書くが古語ではツマは配偶者の呼称であり、本来は稲夫と書くべきである]と呼ばれてきた。台風は雷をともなう)。伊勢にかぎらず、天狗サルタヒコが先導するすべての祭りは、稲作の死命を制するサルタヒコの荒御魂鎮めと稲作の豊饒を願って行われる。  

 この神風を、国難にあたり神が日本を救うために吹き起こす風という定義に変えたのは、水戸派国学の流れを汲む明治ナショナリズムであり、昭和軍国主義のイデオロギー的背骨であった皇国史観である。義務教育を通じて徹底的にたたきこまれた皇国史観は、太平洋戦争末期、多くの若者に犠牲を強いた特別攻撃隊「神風」を生み、敗色濃厚な戦局挽回にかならず神風が吹きおこり、米艦隊を壊滅させるという幻想にひとびとをすがらせることとなった。  

 わが国の古語や真の伝統に対する無知がいまだにメディアを支配し、皇国史観の亡霊をさまよわせている現状には深い憂いを抱かざるをえない。  

 ちなみにいえば、昔の小学唱歌で「国難ここに来る、弘安四年夏の頃……」とうたわれていたが、旧暦では「夏」ではなく「秋」である。神風が吹き荒れたのは閏七月一日の夜であるが、そもそも七月は秋(したがって七夕は秋の行事である)で、しかも閏月であるから、電子計算機によらないかぎり正確には計算できないが、九月の末であったと思われる。


「東日本大震災追悼で作品」(小川大洋)

2012-11-02 19:44:47 | コンサート情報

【断面】ベトナムの現代作曲家   東日本大震災追悼で作品   
                                           赤旗」10月16日(火)8頁より転載

 

ベトナムの現代作曲家であるグエン・ティエン・ダオさんの作品を紹介するレクチャー・コンサートが9月29日、東京の国立オリンピック記念青少年総合センターで開催されました。

グエン・ティエン・ダオさんは1940年ハノイ生まれ。パリ国立高等音楽院でオリヴィエ・メシアンに師事しました。その作品は管弦楽曲、室内楽、声楽曲など多岐に渡り、ベトナムや中国の詩に着想を得た作品が多くあります。

この日、注目を集めたのは「INORI 3.11―ソプラノとパーカッションのための」の世界初演でした。作曲家自身のプログラムノートによると、「東日本大震災の犠牲者へのオマージュ(献辞)」として書かれ、4楽章からなる15分ほどの作品です。ソプラノ歌手の奈良ゆみさんとパーカッション奏者の上野信一さんが演奏しました。

第一楽章は「春の日に」と題し、「小倉百人一首」で知られる紀友則の歌「ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ」をもとに、幻想的な響きで春が表現されます。 一転して第2楽章「2011年3月11日」は、地鳴りを思わせる打楽器の大音響が続くなか、歌手が大災害にかんするフランス語、ドイツ語、ベトナム語の単語を切れぎれに叫び、人々の恐怖と混乱を表現します。

第3楽章「涙」は、これも「小倉百人一首」の道因法師の歌「思いわびさても命はあるものを憂きに堪えぬは涙なりけり」をしっとりと歌い上げます。それは「葬送行進に近いものによって喪を表現」したとのことです。第4楽章「祈り」は、ビブラフォンの透明感ある響きに導かれ、作曲家自身の作詞によるベトナム語の子守唄が歌われます。

ベトナムの音楽家が日本文化への探究を深め、震災犠牲者への哀悼を込めてつくった作品に、聴衆は集中して聴きいりました。

このほか、東洋と西洋の発声技法を組み合わせたユニークな声楽曲「ジオ・ドング」や、「打楽器協奏曲テン・ド・グ」のエレクトーン編曲版など、ダオさんの作品が紹介されました。

演奏の合間には、ダオさんと作曲家の西村朗さんが対談。「東洋の作曲家にとって西洋の記譜法を学ぶことは大切だが、自分は東洋人だという根っこを持つことが大事」と強調するダオさんに対し、西村さんは「エキゾチシズムではなく、伝統文化のコンセプトをとらえることが大事」と応じました。日本とベトナムの音楽界の交流として、貴重な機会となりました。

                                     (小川大洋・ジャーナリスト)