一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

ベートーヴェンハウスがディアベリの草稿取得

2010-03-31 11:20:37 | 活動内容
ボンのベートーヴェンハウスが、「ディアベリの主題による33の変奏曲」の草稿を取得しました。

個人が所蔵し、売りに出されていたもので、ベートーヴェン研究にとっては貴重な資料であることからベートーヴェンハウスが取得を希望しつつも、資金難のため購買のため寄付をつのっていたものです。
6月13日「青木やよひ追悼レクチャー&コンサート」のチケット販売で得られた利益の一部を、青木さんのご遺志もあり、この草稿購入の目的でベートーヴェンハウスに寄付をする予定でしたが、思いのほか寄付の集まりが早かったようです。世界の人々のベートーヴェンにかける思いの強さに改めて驚かされるとともに、ベートーヴェンを愛する人々が、研究機関としてのベートーヴェンハウスに大きな信頼を寄せているということも改めてよくわかりました。

今までにチケットを購入いただいた皆様、ご協力ありがとうございました。
以上のような事情ですので、コンサートの売上の一部は、「ディアベリ購入」に特定せず、ベートーヴェン研究の維持発展のため、ベートーヴェンハウスに寄付をさせていただきます。

ボンのベートーヴェンハウスのHPをごらんになりたい方、アドレスは
http://www.beethoven-haus-bonn.de
です。(ただし、ドイツ語と英語のみです。)

文責 コンサート連絡係 杉山

楽しい映画と美しいオペラ―その28

2010-03-28 22:36:46 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その28


    
    
死刑制度を考える――
           
「死刑囚永山則夫 獄中28年間の対話」

 
 
 1968年の秋、4件の連続射殺事件が起こった。ヴェトナム戦争反対運動など、学生を中心に反政府運動が広がり、社会は騒乱の中にあった。その渦中の事件であり、4件の被害者に共通項が見出せないこともあって、社会はさらに騒然とした。翌年4月、その事件の犯人として逮捕されたのが永山則夫である。ほぼ同世代ということもあり関心は持ったものの、その後の裁判の過程は新聞で知る程度であり、ましてや彼の著作も読むことはなかった。

 昨夜のNHK教育テレビ
「死刑囚永山則夫 獄中28年間の対話」の再放送を観たのもまったくの偶然だった。お好みの「N饗アワー」が終了してこの番組が始まったのだが、観始めると、用意しつつあったオペラのDVDなどそっちのけで、その内容に引き込まれていった。そして強い衝撃を受けた。
 
 
この番組は、永山が獄中28年間に書いた手紙(総数1万5千通を超えるという)と、関係者の証言から構成されている。とりわけ彼と獄中結婚したミミこと和美との関係性に焦点が当てられている。一言ずつ考え、反芻しながら、とつとつと語る彼女の謙虚で奥深い証言は、事件を超えて、人間存在の本質に迫る力があった。

 
和美は、1971年に出版された『無知の涙』を、80年にアメリカで読む。深い感動を覚えた彼女は、獄中の永山に手紙を出す。それに共感した永山は即座に返事を書き、こうして二人の文通が始まる。半年後、永山の懸念にも関わらず和美はアメリカの仕事を捨て、帰国する。鉄格子越しにはじめて彼女の姿を見たときの、天にも昇るような永山の感動が、この番組では素直に表現されていて好ましい。2ヵ月後二人は結婚する。和美は永山の濁りのない魂に惹かれたという。

 
また和美は、永山の中に、自分自身を見たのだった。フィリピン人の父と日本人の母の間に生まれた彼女は、長い間戸籍がなかった。父は行方不明、母は再婚し、15歳の彼女を沖縄に残したままアメリカに去ってしまう。彼女は極貧の中に捨て置かれる。言葉では表現できないほどの苦難は、社会に対する反感を醸成する。永山の殺人は、自分がやったことかも知れないと彼女は思う。彼女を引き止めたものは、幼い彼女を胸に抱いて寝てくれた祖母の温かみだったという。永山にはそれがなかった。

 19
歳で逮捕され独房に収監された永山は、当初読み書きも覚束なかった。しかし難漢字も必死に覚え、差し入れられた書物を読み漁るようになる。処刑後残された蔵書の、量の多さと、種類の多彩さには目を見張る。思想書と文学書が多いが、中でもマルクスの『資本論』はひときわ目を惹く。熾烈な読書のはて、彼は自らの殺人を正当化する。貧しさが殺人を生んだのだと。極刑を覚悟しながら、社会を憎み、自分を遺棄した母親を憎んだ。

 そんな永山に変化が現れる。弁護団をはじめ彼を支援する人たちの影響もあるが、和美の存在は大きかった。彼は生まれてはじめて人を愛したのである。愛し、愛されることの喜びが、他者の存在を認識することになる。彼が殺した人たちにも、このような愛が存在したかも知れないと思い始める。書物から得た知識に血が通い始めたのである。思想は抽象化なしにはあり得ないが、それが真実の力を獲得するためには肉体化が必要であろう。

 二審の東京高裁は、そんな永山の変化も見据えて、一審の死刑判決(79年)を覆し無期懲役に減刑する(81年)。和美は手放しでは喜ばなかった。死刑を免れたとしても、殺人という罪は消えない。生き延びる時間の経過とともに、その罪の意識は重くなるかも知れない。生きることも地獄なのだ。しかし、社会に出たら何をしたいかという質問に答えた永山の次の言葉には、おそらく心からの共感を示したに違いない。「塾をやりたい。競争主義の塾ではなく、一番できる子どもができない子どもの勉強を助けるような、そんな塾をやりたい」。

 しかし検察は最高裁へ上告する。二審の判決に死刑制度廃止への意思を読み取ったからだともいわれている。事実裁判は、死刑制度への審判の様相を呈したという。ジャーナリズムの多くも二審を非難した。そして83年、最高裁は二審の判決を破棄し、東京高裁に審理のやり直しを命じる。永山の心は再び硬化する。「生きる希望を持たなかった人間にそれを与えておきながら、結局殺す。こういうやり方をするんですね」と弁護士に語ったというが、永山の心中を察するに余りある。彼は弁護団を解任し、和美とも離婚するに至る。

 87年の東京高裁、90年の最高裁で死刑の判決を受け、97年8月1日、東京拘置所において刑が執行された。享年48歳。社会が彼の殺人を生み、更生への道を歩み始めた彼を国家が殺してしまった。日本という社会は、永山則夫という繊細で鋭敏な人間を、二度にわたって押しつぶしたことになる。

 永山則夫の背後には、無数の「永山則夫」がいるに違いない。殺人にいたる「永山」は少ないかもしれない。しかし世間を騒がす数々の犯罪の大きな要因の1つに貧困があるという事実は否定できないだろう。心の弱いもの、感受性の鋭いものほど環境の影響を受けやすい。社会は、その突出した部分に対してこそ、救いの手を差し伸べなければならないのではないか。永山を絞首台に追いやった検事たちや最高裁の判事たちに決定的に欠けていたものは、人間存在に対する柔らかな想像力である。

 永山の遺骨は、和美の手でオホーツク海に撒かれた。それが彼の遺言であった。

追記:死刑制度廃止は世界の趨勢である。「アムネスティ・インターナショナル日本:死刑廃止ネットワークセンター」のホームページによれば、あらゆる犯罪に対して死刑を廃止している国は94、通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国は10、事実上の死刑廃止国は35、合計139。これに対し死刑存置国は58とされている(2009年6月25日現在)。因みに死刑制度廃止は、EUへの加盟条件の1つである。

NHK教育テレビ
2010年3月21日 22時5分~23時35分 
 

2010年3月22日 j-mosa


青木やよひ追悼◆レクチャー&コンサート

2010-03-26 09:12:28 | 青木やよひ先生追悼


青木やよひ追悼◆レクチャー&コンサート
『ベートーヴェンの生涯』を聴く

《悲愴》から《ディアベリ変奏曲》へ
高橋アキ・・・・【ピアノ】

2010年6月13日(日) 
津田ホール
[開場]=13時  [開演]=13時30分

プログラム①
【鼎談】・・・・・・・北沢方邦・西村朗・高橋アキ
『ベートーヴェンの生涯』をめぐって
プログラム②
《ピアノソナタ第8番〈悲愴〉》作品13
プログラム③
【対談】・・・・・・・北沢方邦・西村朗
ベートーヴェンの後期作品をめぐって
プログラム④
《ディアベリのワルツの主題による33の変奏曲》作品120

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

[入場料]=一般4000円 学生3500円〈全席自由〉

[チケットのお買い求め]
●チケット販売サイト・カンフェティ
http://confetti-web.com/

0120-240250〈平日10-18時〉

●ピティナ
http://www.piano.or.jp/concert/support/
●知と文明のフォーラム東京支部
chitobunmei@gmail.com

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

[主催]=知と文明のフォーラム

[後援]=〈社〉全日本ピアノ指導者教会    〈財〉日独協会 
〈株〉平凡社    フォニックス・プロモート

[協力]=楽友会フロイデ

[お問い合わせ]=知と文明のフォーラム東京支部
090-5322-3920〈担当杉山〉または
 chitobunmei@gmail.com


東アジアを超える「東アジア共同体」の構想を④

2010-03-23 20:28:39 | 「東アジア」共同体構想



   本稿は、2009年9月にソウルで開かれた国際シンポジウム『二一世紀の東アジアを構想する』
  での基調講演に加筆したもので、すでに月刊誌『世界』2010年1月号に掲載されています。
     ここでは、4回にわけて掲載します。本稿の
コピーや転載を禁じます(知と文明のフォーラム)。
    
    

     見出し一覧 
           導入 ●二一
世紀の挑戦・・・・・・・(その1)
     ●東北アジア共同体の条件 ●非核共同体 ●不戦共同体・・・・・・(その2)
      ●安全保障のイニシアティヴ ●体制改革のイニシアティヴ・・・・・・・(その3)
   
  ●国家の境界を超える「共同体」・・・・・・・・・・・その4
     ●東アジアのアイデンティティ ●東アジアを超える「東アジア」



  国家の境界を超える「共同体」

 以上、私は「東アジア共同体」という言葉や観念に、いかに虚構や歪曲があるかを、今日の東アジアの危機の中心である北朝鮮問題に光を当てて、日韓の協力を主題として指摘してきた。だが私が、日本と韓国の協力連帯を論じてきたのは、この両国の協力だけを考えるという趣旨ではない。それに、百年前の決定的植民地化、また戦時の「従軍慰安婦」や強制連行労働者に対する、これまでの日本政府の歴史問題への真摯な反省の欠如一つをとっても、日本は日韓連帯のためになすべきことを曖昧のまま残している。しかし私があえて日韓の未来に焦点をすえてきたのは、もし先ず日韓二国だけでも「共同体」的関係を創ることができれば、それは、更に北朝鮮をはじめとする二国以外の東アジアの国々に、日韓を中核として「共同体」を広げることができるかどうかの、重要な試金石となるからである。北朝鮮との和解を日韓共同で促進し、北朝鮮を東アジア共同体に包摂することこそ、日韓共同体の紐帯に他ならない。もちろん、例えば中国の場合、日韓とは異なった条件があるから、日韓の共同体を平面的に広げるだけではすまないことは明らかである。しかし、日韓の共同体が先ず中核をなさなければ、共同体の拡大はおよそ不可能であろう。

 ここで留意すべきことは、およそ「地域共同体」の創造は、国家という単位を超え、国家の境界線を超える協力行動が必要かつ可能であるという前提の上に初めて成り立つということである。何らかの形で国家の枠を超えられなければ、新たな「東アジア共同体」の形成は不可能である。ここで私が「共同体」というのは、平和、福祉、正義など、人間としての基本的な価値観を共有して、一国を超えた共同行動をする主体を指す。

 だが、国家は本来的に境界を持つことを特質としており、生死を賭して境界線(国境)を守る組織である。だとすれば、国家の枠を超えることは、国家だけでは本来的に限界があり、国を構成する市民が、国境を超えた協力と連帯の担い手となることなしには不可能である。現に、今日のアジアや世界では、国家の枠を超えた市民の交流や協力が、日常的に増している。市民社会の自立性が困難だと言われる中国でも、環境汚染をめぐる市民社会的な自発的活動は、すでに根強く定着しており、また最近の地震災害を契機に市民の自発的協力行動は大きく盛り上がった。

                                       (その5へ続く)


●速報●『ベートーヴェンが愛した女性たち』放映

2010-03-19 12:35:15 | コンサート情報


速報
名曲『エリーゼのために』をめぐる音楽ドキュメント放映

ベートーヴェンが愛した女性たち
      ~名曲《エリーゼのために》誕生秘話~

BS日テレ●3月21日(日)19時~21時
http://www.bs4.jp/guide/music/elise/


愛らしいピアノの名曲「エリーゼのために(FUR ELISE)」。
聴けば誰でも知っているメロディが作曲され、今年で200年。

エリーゼとは「一体誰なのか?」「実在の人物なのか?」「何のために作曲されたのか?」様々な憶測がなされる中、従来の定説を打ち破るべく<エリーゼに関する新発見>がドイツの音楽学者から発表された。

生涯独身を貫いたベートーヴェンの女性観を辿りながら、名曲「エリーゼのために」に込められた音楽性、メッセージを、現地ドイツ、オーストリアロケを通して紐解いていきます。

楽曲分析:青島広志
楽曲演奏・ピアニスト:三浦友理枝
番組ナビゲーター:羽田美智子

                  (↑以上、BS日テレ番組表より)

                  ★★★★★★★★★★★

制作者によると、「昨年夏にドイツの音楽学者コーピッツ氏が、「エリーゼは実在した!」と言う内容の論文を発表され、論争が巻き起こっています。番組では、ウィーンに取材、定説も含めこの新説を紹介、ベートーヴェンの女性観をたどる、と言う内容です」

この番組は青木やよひ先生の『ベートーヴェンの生涯』と『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉
の探究』を参考文献として使用しているとのことです。また1959年のN響の機関
紙『フィルハーモニー』掲載の青木先生の記事も紹介されるとのこと。ここで青木先
生は、世界ではじめて、〈不滅の恋人〉をアントーニア・ブレンターノと発表された
のでした。

是非ご視聴ください。                   (j-mosa)


北沢方邦の伊豆高原日記【76】

2010-03-14 13:54:04 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【76】
Kitazawa, Masakuni  

 椿の花は落ち、梅はすっかり散ってしまい、寒桜のたぐいを除き、いまちょっとした花の端境期である。今年はウグイスの初鳴きが遅かったが、穏やかな陽射しの今日も数声聴いたのみで、淋しい。代わりというわけではないが、イソヒヨドリが澄んだ囀りを聴かせてくれる。

アーティスト・ホピド 

 ホピの今井哲昭さんからの便りと、同封されていたHopi Tutuveni(ホピ・クロニクル)という新聞に、ホピの芸術家マイケル・ロマウィウェサ・カボーティMichael Lomawywesa Kabotie(1942-2009)の訃報が載っていた。 

 ホピだけではなく、アメリカ・インディアンの現代芸術は、たんに合衆国のみならずヨーロッパでも高い評価を受けている。とりわけホピのそれは、たとえば絵画では、技法的に立体派以後の20世紀芸術の強い影響を受けながら、それを巧みに脱構築してホピ固有の宇宙論や世界観の表現媒体と化している。また彼らは、絵画だけではなく、彫刻やジュウェリーを手がけ、またカチナ人形や銀細工や陶器など伝統工芸にも携わり、むしろそうした多様なジャンルに踏みこむことによって、自己の芸術言語をゆたかにしている。 

 マイケルの父フレッドやチャールズ・ロロマなどをホピ現代芸術の第一世代とすると、マイケルは第二世代にあたる。この第二世代は、ロロマたちが創設したサンタ・フェのインディアン美術学校に学び、他部族の芸術家たちと交友を深めることによってホピの独自性に目覚め、それをさらに深めることを目指したといえるだろう。 

 1975年最初に長期滞在したとき、ホピ文化センターの展示場で芸術家たちの絵画作品が展示され、即売されていた。カチナ仮面をモティフにしたきわめて幻想的な作品をやよひがひどく気に入って、ぜひ購入したいとふたたびひとりで出かけ、買ってきた。「この絵の作者もいて、話をしてきたわよ。“あんた高校生(ハイスクール・ガール)?”だって、失礼しちゃうわ、もうじき五十おばさんだっていうのに」といいながら、彼はなかなかの好青年だと好意をもったようだ。 

 それがまだ無名だったニール・デーヴィッド・シニアNeil David Sr.(1944-)だった。第一メサのテワ族の村出身の彼は、第二メサのションゴポヴィ出身のマイケル・カボーティたちと「アーティスト・ホピド」という集団を五人で結成したばかりで、それは彼らの最初の絵画展示会であったのだ。(たしかその絵の値段も50ドル前後であった。いまインターネットで調べると彼の絵やカチナ彫刻は1000ドル前後はする)。 

 アーティスト・ホピドは残念ながらわずか5年で解消(1973-1978)したが、そこから彼らは独自の道を歩みはじめた。ニール・デーヴィッド・シニアはさらに内面化し、沈潜し、その挙句に第一メサ固有の祭りの道化(他のメサの道化にくらべ白黒のボディ・ペインティングや尖がり帽子と手にする采配などスペインの宮廷道化の影響を強く受けている)を描き、彫りつづけ、一見リアルでありながら救済と浄化を必死に求める近代文明を二重に映しだすにいたる。 

 他方マイケル・カボーティは、ペトログリフや伝統的デザインをふんだんにちりばめながら、力強いタッチと大胆な色彩――といってもホピの4基本色、わが国と同じ白・黒・アヲ(青というより緑)・赤――で壁画的で挑戦的な画面にいどむ。そこにあるのも近代文明に対する危機意識であり、ホピの世界観や価値によって世界を浄化しようとする力と意志に溢れている。 

 ホピのカチナのひとつに「母ガラスCrow Mother」があるが、それは母なる「ゴミ掃除人」であり、地球を浄化する役割を負っている。彼は自己の絵画にこのメッセージがあるという(Cf.I Stand in the Center of the Good. Ed.by Lawrence Abbot,1994.p.115)。彼はカール・ユングの心理学にも学んだとするが、それは彼にとってひとつのホピの原型であり、集合的無意識の象徴であるだろう。 

 心から哀悼の意を表する。

プレトニョフのベートーヴェン 

 3月8日のNHKFMで、ミハイル・プレトニョフ指揮のロシア・ナショナル交響楽団のベートーヴェンが放送された。 

 「交響曲第七番イ長調」のスケルツォから耳にしたのだが、きわめて生き生きした内発的テンポ(多くの指揮はこのテンポでなくてはならないといういわば外圧的なものだが)にすっかり魅せられた(翌日偶然だが、同じ「第七」のしかもスケルツォのほとんど同じ部分から耳にしたものがまったくよくなく〔なんとズービン・メータとウィーン・フィルだという〕、余計印象がよくなったが)。 

 次ぎにとりあげられた「交響曲第五番ハ短調」(いわゆる運命)が、同じく自在なテンポと骨格をきわだたせるダイナミズム、細部の微妙な音色の変化と潜在的なポリフォニーの深い彫りこみなど、こういう発見があるのかとひさしぶりに「第五」を堪能した。青木やよひに聴かせたらなんといっただろうか? 

 アンコールのバッハ=ストコフスキーの「組曲第三番ニ長調」からの有名なアリアも、心に染み入るものであった。終了後余った時間にチャイコフスキー=プレトニョフ編曲の「組曲くるみ割り人形」が彼自身のピアノで流されたが、これも感銘をあたえるものであった(私は「くるみ割り」をチャイコフスキーの最高傑作だと思う)。 

 プレトニョフの名を記憶しておこう。


北沢方邦の伊豆高原日記【75】

2010-03-10 11:31:04 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【75】
Kitazawa, Masakuni  

 遅咲きのわが家の白梅・紅梅も散りはじめ、駅周辺の大寒桜(オオカンザクラ)の並木は満開で、枯れた景色にまばゆいほどの淡紅色を振り撒いている。野鳥の囀りがひときわ賑やかになってきた。

アメリカでもっとも危険な男 

 3月1・2日NHKBS1の「世界のドキュメンタリー」で、『アメリカでもっとも危険な男』The Most Dangerous Man in America が放映された。時の大統領ニクソンが、怒りのあまり「あいつはアメリカでもっとも危険な男だ」と怒鳴ったというダニエル・エルズバーグの引き起こしたペンタゴン・ペーパー事件の真相を、本人や息子や友人、また当時の政界やメディア関係者の生々しいインタヴューを交え、追ったものである。

 前編は英語で聴いていたが、あまりもの面白さに、後編は一語も聞き漏らすまいと、日本語に切り替えて観た。 

 1971年、アメリカ国務省の招待ではじめてアメリカを訪れていた私は、少なくとも東部の旅行中はその事件の渦中にあった。ボストンに滞在中、ケンブリッジのマサチューセッツ工科大学で言語学者のノーム・チョムスキー教授に会うアポイントメントを取ってあったのだが、当日彼はエルズバーグ支援の緊急の用事ができてワシントンに行って会えず、彼が依頼した別の学者に会う羽目になった。政治問題だけではなく、彼の画期的な言語学や構造主義についての数々の質問を用意していっただけに落胆したが、代理で会ったレットヴィン教授もペンタゴン・ペーパー事件で、奇妙な言い方だが、冷静に昂奮しているようにみえた(詳細は私の『野生と文明―アメリカ反文化の旅』1972年ダイヤモンド社を参照していただきたい)。 

 ペンタゴン・ペーパー事件とはなにか。ハーヴァードを卒業後、海兵隊の好戦的な士官(当時は徴兵制であった)をへてタカ派のランド・コーポレーションの研究員となり、ジョン・マクノートン国防次官補の片腕としてヴェトナム戦争戦略の立案にかかわり、すでに民間人であるにもかかわらず、武装して海兵隊と行動をともにする現地視察を行い、マクナマラ国防長官とも同行したダニエル・エルズバーグは、多くの民間人が巻き込まれたヴェトナム戦争の現実(民間人を含めヴェトナム人の死者約200万人、アメリカ人の死者2万8千人)に直面し、しだいに考え方を変えていく。マクナマラ自身も帰りの航空機のなかで彼に、ヴェトナム戦争は間違っていたかもしれないと語ったという。だが空港に降り立ったマクナマラは、記者団に取り囲まれ、満面に笑みをたたえて戦争は順調に進行していると語る。それをみてエルズバーグは衝撃を受け、自分は絶対に自己に忠実であろうと決意する。 

 その結果がペンタゴン・ペーパー事件である。ランド・コーポレーションの金庫に保管され、彼が保管者であった国家最高機密の数千ページに上る文書、つまりトルーマン大統領以来5代にわたるアメリカ合衆国大統領が、合衆国がやむをえず戦争に巻きこまれていったという公式説明とは裏腹に、ヴェトナムをいかに反共の決戦場としての強固な砦に構築し、積極的軍事介入と援助を行ってきたかという記録を盗み出し、コピーしてひそかにニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙をはじめとする有力紙に手渡し、スクープさせた事件である。政府が申し立てた掲載停止の仮執行にもめげず、停止させられた新聞の代わりに別の有力紙がそのつづきを掲載するなど、言論の自由を求めるメディアの抵抗は結局勝利する。 

 マサチューセッツ工科大学に移籍し、チョムスキーの同僚となったエルズバーグ自身も、国家機密を盗んだスパイ容疑で逮捕され、告訴されるが、連邦最高裁で合衆国憲法修正第一条、つまり「言論の自由の保証」にもとづく判決で無罪となる。 

 われわれはそこに、完全な三権分立にもとづくアメリカ民主主義の底力を見る思いがする。 

 だが、あのヴェトナム戦争の教訓、そしてペンタゴン・ペーパー事件で示された民主主義の底力は、いったいどこへ消え失せてしまったのだろうか。9・11事件以来、メディアを含むアメリカの狂気は、これらの記憶を吹き飛ばしてしまったようだ。たしかにイラク戦争の教訓がオバマ政権を生みだしたが、その反省の記憶すら薄れつつある昨今である。 

 われわれにとっての最大の教訓は、政治的パニック(テロは決して軍事的パニックではない)はナショナリズムの嵐を吹き起こし、それは結局国家を誤った方向に押し流すということである。歴史はしばしばこうした巧妙な罠を仕掛ける。罠を回避する道は唯一、他者を鏡として、われわれ自身の歴史の記憶をつねに喚起しつづけることである。


楽しい映画と美しいオペラ―その27

2010-03-06 10:38:42 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その27

    オペラ上演史に残る父親像
        ――ドミンゴ主演の『シモン・ボッカネグラ』
 

 古希を来年に控えたドミンゴが、このところ新しい冒険に挑んでいる。このコラムでも紹介したが、2008年にはバロック・オペラ(ヘンデルの『タメルラーノ』)に登場し、つい数週間前にはバリトン歌手ドミンゴが誕生した。ヴェルディの『シモン・ボッカネグラ』でタイトル・ロールを演じたのである。そのニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での上演は早くからアナウンスされ、実況録画が東京でも上映されると聞いて、心待ちにしていた。で、上映の初日、2月27日に新宿ピカデリーまで足を運んだ。

 ドミンゴは周知のように、スペイン出身の世界的なテノール歌手である。ヴェルディをはじめとするイタリア・オペラはいうに及ばず、『カルメン』などのフランス・オペラも当然のこと、ワーグナーではバイロイト音楽祭にも登場した。はてはチャイコフスキーにまで至り、彼の歌わないテノールの役はないというほどの万能のスターである。その彼がバリトンの難役、シモン・ボッカネグラに挑戦したのだ。

 女性への恋、娘への愛、そして政治家としての矜持と苦悩、シモン・ボッカネグラはそんな、男としての多様な人生を歌わなければならない。ドミンゴがこの役を歌うことで、私ははじめてこのオペラが理解できたような気がする。悲哀に彩られた宿命の人生、それでも生き続けなければならないシモンに、ヴェルディは作り上げようとしてかなわなかったリア王の姿を投影しているのだ。ドミンゴの深いバリトンの声と自在の演技はリア王そのもの。圧巻というほかなかった。  

 さて私はいままで、『シモン・ボッカネグラ』を、『リゴレット』『トロヴァトーレ』『ラ・トラヴィアータ』に続くヴェルディ中期の作品と理解していた。しかし今回の上演を観るに及んで、それは間違っているという思いを深くした。初演は1857年、そういう意味では確かに中期の作品である。しかしそれは散々な失敗で、大幅に手を加えられたものが24年後の1881年に再演された。現在上演されているものはこの改訂版のほうである。年代的にいうと『アイーダ』(1871年)と『オテッロ』(1887年)の中ほどの時期にあたり、間違いなく後期の作品ということになる。  

 この作品は、人間の声と管弦楽が緊密に結びつき、きわめて濃密な演劇空間を作り上げている。聴かせどころのアリアはほとんどなく、その分演劇性が高められている。これはヴェルディの後期作品の特徴で、いわばワーグナーの楽劇に近づいている。しかしそこはイタリア・オペラ、ベル・カントの伝統はしっかりと受け継がれている。『シモン・ボッカネグラ』を通底する深く哀しい抒情や激しい感情の表出は、ワーグナー作品のどこを探しても見当たらない。  

 シモン・ボッカネグラは実在の人物である。ジェノヴァ共和国の初代統領(ドージェ)で、1339年にその地位についた。14世紀は教皇の権威が失墜しつつあり、いわば西欧的中世の解体期にあたる。ジェノヴァでも貴族が教皇派と皇帝(神聖ローマ皇帝)派に分かれ、さらに平民派がこれに加わり、勢力争いを繰り広げた。シモンはこの政治状況のなかで苦悩することになる。同じく歴史的事実に基づいた『仮面舞踏会』(1859年)や『ドン・カルロ』(1867年)同様音楽的規模は大きく、テーマのひとつが統治者の政治的苦悩であることも共通している。  

 ヴェルディはある意味で政治的人間である。1861年にイタリアが王国として統一されたときの最初の国会議員で、5年間務めた。それにヴェルディの青壮年期は、イタリア統一運動(リソルジメント)の盛期と重なる。はじめて成功を博した3作目のオペラ『ナブッコ』(1842年)中の合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼にのって」は、リソルジメントのなかで民衆の圧倒的な支持を受け、イタリア全土で歌われたという。そんなヴェルディの政治的な体験が、『シモン・ボッカネグラ』に反映されていないわけはないであろう。  

 とはいえ、これは愛のオペラでもある。父親の愛を描いて、これほどの深みを持ったオペラは他に存在しないだろう。25年間も行方不明であった娘に再会したときの喜び、その娘が自分の政敵を愛していることを知ったときの苦しみ、そして、巡り会ったばかりの娘に永遠の別れを告げなければならないときの哀しみ。音楽は、激しく、哀しく、またたとえようもなく美しい。ドミンゴ以外の誰が、このシモンの苦悩を歌うことができようか。まさにオペラ上演史に残る父親像だと思う。  

 この上演で素晴らしいのはドミンゴだけではない。第1幕で唯一といっていいアリアを歌うピエチェンカは、強く美しいアメーリアを好演したし、ガブリエーレ役のジョルダーニもその一途さに心打たれた。ベテランのモリスは貫禄十分、ドミンゴのシモンに対抗し得るフィエスコだった。そして指揮のレヴァインは、メトロポリタン歌劇場管弦楽団の底力を十二分に発揮した。いささか硬めの、筋肉質のオーケストラの響きが、ヴェルディにはよく合っている。伝統的な演出も好ましく、総じてきわめて水準の高い『シモン・ボッカネグラ』であった。

2010年2月6日 メトロポリタン歌劇場
シモン・ボッカネグラ:プラシド・ドミンゴ
マリア・ボッカネグラ(アメーリア・グリマルディ):エイドリアン・ピエチェンカ
ガブリエーレ・アドルノ:マルチェッロ・ジョルダーニ
ヤーコポ・フィエスコ(アンドレーア・グリマルディ):ジェイムズ・モリス
メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ジャンカルロ・デル・モナコ

作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ
原作:アントニオ・ガルシア・グティエレス
台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ
台本改訂:アッリーゴ・ボーイト

2010年3月1日 j-mosa