一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

『ベトナムの現代音楽…』

2012-08-27 15:26:00 | 雑感&ミニ・レポート

『べトナムの現代音楽…』


『現代音楽』・・・縁・・・再び・・・。
長い時間を経て、上野信一さんのコンサートで、
再び出会い心躍った『現代音楽』。
上野信一さんのコンサートで、はじけて、『楽しい~~!』
を、初体験したが、もう一方で 舞踊家魂が、
踊れる?踊れない?と線引き区分けをしてしまう。
そんな響き方をしてしまう 刺激的な曲もあるのが
『現代音楽』なんだな~!?

そして、今度はベトナム!!
『グエン・ティエン・ダオの世界』というレクチャーコンサートが
来る9月29日(土)にあるのだ。
彼の曲を聞かせてもらったことがある。それは、
踊れる・・・舞踊家魂を揺さぶられる・・・静かで激しい、実に刺激的な、
そんな一曲だった・・・。メロディというより、音と対話するように、
時には音をかき消すように、吐き出すように、奏でるように、
『声』が入っていた・・・。吐き出される呼吸 吸い上げる呼吸が
身体から『音』になって出ているようだった。

以前、敬愛する演出家が 私たちダンサーに踊りながら声を出させた。
当時としては新しい試みだったのだが、肉体言語を放つ私達としては、
舞台上で踊りながら声を発することはかなりの戸惑いで
演出家の望むことには、いたらなかった。
グエン・ティエン・ダオさんの曲を聴いて、あの時求められたのは
これだったのか?と、思った・・・。
彼の曲には、パーカッションのための、ヴォイスのための、と書いてある。

今回のコンサートでは、パーカッションはもちろん上野信一さん。

そして、ヴォイスはソプラノの奈良ゆみさんが・・・。
ダオさんも来日し、作曲家の西村朗さんと対談をするそうだ。
パーカッション(上野信一さん)にエレクトーン(内海源太さん)の
音霊の中を、奈良ゆみさんのソプラノの音霊が女神となって、
空へ上って行くのだろう・・・と、私のイメージは広がり、
舞踊家魂はノックされるのを待っている・・・。

そんな、『ベトナム現代音楽』との縁が再び・・・。
それと、写真家の高島史於さんのベトナム写真展も同時開催するらしいです。

楽しみ楽しみ~!

そうだ、世界初演の『inori(祈り)3.11 東日本大震災の犠牲者へのオマージュ』
という曲も演奏されるそうです。これは祈りをこめて、聴かせて頂きたい・・・。

                                     鈴木雅子★舞踊家

『グエン・ティエン・ダオの世界』
2012年9月29日(土) 17:00開演(16:30開場)
国立オリンピック記念青少年総合センター小ホール
一般3500円 学生2500円 全自由席

お問い合わせ  一般財団法人知と文明のフォーラム東京事務局
03-5545-4345(平日9~18時)
 chitobunnei@gmail.com


おいしい本が読みたい●第二十三話

2012-08-15 22:43:42 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第二十三話  


                               

                             ある人生

 

世界の数十億のなかから、偶々つまみ上げたひとつの人生。おそらく、どこにでもある人生。ほかのどれと交換してもいい人生。少なくとも原作者は、そういうニュアンスの題名を選んだ。それが邦題では『女の一生』に化けた。いわずと知れたモーパッサンの代表作のことである。世上では名作の呼び声が高い。自然主義文学の傑作、とまで絶賛されることがある。現地フランスのポケット版では、トルストイのこんな讃辞が人目をひくようにカバー裏面に印刷されている。

   「『ある人生』は見事な小説である。それは単に、モーパッサンの最良の小説であるばかりでなく、おそらく、ユゴーの『レ・ミゼラーブル』以來、最良のフランス小説ですらある」

文豪トルストイがこうまで褒めるからには… と思いたい。しかし、モーパッサンには、もっとわたし好みの中篇、短篇がいくつもある。狂気を扱った、それこそゾクゾクするような『ル・オルラ』、老衰で今にも身罷りそうな老婆の死期を、ほんの少し早める吝嗇女を主人公にした『悪魔』、そしてなによりも『脂肪の塊』

素直に傑作として肩入れできないのには、わけがある。なにしろ『女の一生』のジャンヌは、なし崩し的に堕ちてゆく。落下したその場所で、せめて少しでも踏んばってくれたらと願うのだが、それはつねに裏切られる。女子修道院を出た当初から、ジャンヌには自分の人生を決める意思が薄弱だ。それが、十九世紀前半に生きた、北フランスの田舎貴族らしさ、なのだろうか。同じ自然主義でも、師匠格のゾラの作品の多くには、悲惨のなかにある力強さがあって、それが救いになるのだが。

 ところが、そんな主体性のない女主人公の一生を描いた作品を、意志力の横溢した女性が気に入るのだから人はわからない。しかも、自分の回想録もずばり『ある人生』と名付けた。『シモーヌ・ヴェーユ回想録』(石田久仁子訳、パド・ウィメンズ・オフィス)のことである。ヴェーユは思わず背筋を伸ばしたくなるほど誠実な知性をもち、それでいて緊張をやんわりとほぐしてくれそうな暖かさもある。その見事な融合が全編を貫いている。じつに知性的な文体だ。それを日本語的な口当たりの良さへといたずらに流さなかった訳者もさすがである。ほんとうの実力がなければこうはいかない。そのヴェーユの一節。

  「ショアに触れることを嫌がる人々がいる。別の人々は語る必要に駆られる。いずれにしても、だれもが皆ショアとともに生きているのだ」

重いことばだ。直接関係しなかったわたしたちにも、なにがしかの切実さを喚起する、重いことばだ。ただ、同じヴェーユから「あの体験を語らずにいられることが私には分からない」という不満が漏れるのは、いささか残念である。語るということは、もう一度それを生きるということである。強く生まれた人間は、語る責務を負う。しかし、弱く生まれた人間には、もう一度過酷な体験を生き直すことはむずかしい。

いずれにせよ、ショアの問題は重くて、厚い。その重さと厚さのなかに、もうひとつ謎がつけ加わる。ヴェーユに好意を寄せて、特別扱いをしてくれたアウシュヴィッツの女監督官である。別格扱いをした理由はよくわからない。立花隆は「確かにガス室ですぐに殺すには惜しい容貌だ」などとナチスばりの書評を書いてるが(なぜなら、この論理からいけば、容貌次第ではガス室ですぐ殺しても可能ということになるから)、容貌ばかりが好意の理由となるわけではない。とりわけ同性の場合、判断はむずかしい。

それこそ「語りえぬ」何かをヴェーユに感じとったのかもしれない。

小説はこの謎を書かれなければならない。ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』(新潮文庫)がまさにそれだ。刑期を終える直前に自殺する、もとアウシュヴィッツの女監督官。なぜ?

                             むさしまる 


北沢方邦の伊豆高原日記【129】

2012-08-08 10:40:08 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【129】
Kitazawa, Masakuni  

 ヤマユリは終わり、ウグイスの鳴き交わしも間遠になり、強い日差しに蝉時雨だけがかまびすしい。サルスベリや夾竹桃の淡い紅の花叢が、樹々の濃い緑を彩っている。テッポウユリのつぼみはまだ青い。

文明の転換点としてのフクシマ  

 マス・メディアの異様なロンドン・オリンピック狂想曲がつづいている。主要新聞はスポーツ紙と化し、NHKにいたっては一時期、定時のニュースを見ようとスイッチを入れても、オリンピック・ゲームの中継という異常さである。国際的・国内的な重要ニュースもかき消され、とても正気の沙汰とは思えない。  

 それでも首相官邸周囲でまったく自発的にはじまった市民たちの脱原発・反原発のデモは、数万人の規模に脹れあがり、さすがメディアでも取りあげざるをえなくなってきた。いまや県庁所在地などの地方都市でも、それに呼応する数百人から数千人規模のデモがみられるようになった。  

 一昨年の「アラブの春」から、《ウォール街を占拠せよ!》の「アメリカの秋」にいたるまで、世界の各地で民衆のデモがくりひろげられた。強権的あるいは独裁的政治体制の打破から、人口のわずか1%が合衆国の富の20%を占めるという新自由主義経済がもたらした巨大な格差の是正要求など、テーマはさまざまであったが、そこに共通するものは政治的であれ経済的であれ体制がもたらした抑圧からの解放であり、その意味での人権の主張であった。  

 脱原発のデモも、基本的には同じである。平和利用という名の核の脅威、つまり一旦大事故が起きれば、ヒロシマ原爆何百発の量に相当する放射能が広範囲にわたってまき散らされ、何十万あるいは風向きによっては何百万・何千万のひとびとが被曝し、即死者がいなかったとしても長期にわたって癌など身体の異常を経験しなくてはならなくなる脅威に対して、自己を護る人権の主張にほかならないからである。  

 8月6日のヒロシマ・デイで、ヒロシマ・ナガサキの被曝者たちとフクシマの被害者たちが連帯したのも当然というべきであろう。いまは正常であるとしても、フクシマの被害者たちにいつ被曝の兆候があらわれても不思議ではない。  

 低線量長期被曝といえば、すでにウラニウム鉱山の例がある。ヒロシマ・ナガサキ(ナガサキはプルトニウム爆弾であるが、これもウランから精製される)に落とした原爆製造のために、1940年代、アリゾナ・ニューメキシコ州のナバホ族保有地に多くのウラニウム鉱山が開発され、ナバホ族優先雇用という美名のもとに多数のナバホのひとびとが鉱山で働いた。彼らはウラニウム鉱から発生する放射能(ラドン・ガス)の低線量長期被曝で肺・皮膚・内臓などの癌に冒され、死亡率約80%という高さで次々に死亡し、多数の未亡人をつくりだし、家族を困窮させた。それだけではない。ボタ山として山積みされたウラン鉱の残滓に含まれる放射能は水や大地を汚染し、鉱夫ではない多くの人々も長期被曝し、亡くなっている。私はすでに1980年代にこの事実をいくつかの雑誌で報告したが、最近やっと毎日新聞が取りあげている(「怪物この地から──ウラン鉱山と生きる米先住民」12年8月5日)。  

 ナバホのひとびとだけではない。あるいはアメリカだけではない。原爆実験の直後に爆心地に突入させられた兵士たち、実験場周辺の民間人、あるいはウラン精錬・濃縮工場、核兵器製造工場などの労働者、原発の下請け労働者など、世界で無数のひとびとが高線量・長期低線量被曝で亡くなり、あるいは病に苦しんでいる。兵器であれ平和利用であれ、この事実は「人類は核とは共存できない」という深刻なリアリティを物語っているのだ。  

 脱原発のデモは、先行する多くのデモと異なり、人権概念そのものを問い直し、それによる文明転換への主張を内在させているといってよい。

 人権概念の問い直しとは、人間の生存や生活の権利だけではなく、またそれを脅かす体制だけではなく、それを支えている知や文明や文化にいたるまで、人権の基盤を変えなくてはならないという主張である。

 すでにたびたび述べてきたように、あらゆる領域で利便のための合理性を追求し、軍事合理性の頂点としての核兵器、経済合理性の頂点としての原発を開発してきた近代の文明そのものを変革することが人権の究極の擁護であることを、脱原発のデモは教えている。

 運動には必ず盛衰がある。60年安保や70年安保、あるいはベトナム反戦運動など様々な運動にかかわってきたものとして、脱原発運動は共感をもってみつめているが、いつかそれが衰退するとしても、それは必ずなんらかの形で受け継がれていくであろう。袋小路に陥った近代文明は、人類の滅亡へと進むか、決定的な転換を迎えるかのいずれかの道しかないからである。