一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その38

2011-06-21 11:35:36 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その38

               

                    心を癒すチェンバロの響き
                               ――グスタフ・レオンハルト・リサイタル  



 原発事故の影響で多くの音楽家が来曰をキャンセルしている。メゾソプラノのアンゲリカ・キルヒシュラーガーとヴァイオリンのヒラリー・ハーンはチケットが無駄になってしまった。直接の被害はなかったものの、ムター(ヴァイオリン)やピリス(ピアノ)が来日しなかったことでガッカリした人は多かったはずだし、今公演中のメトロポリタン・オペラでも有名歌手のキャンセルがあいついだ。とりわけ今を盛りのテナー、ヨナス・カウフマンの不在は、オペラ愛好家には衝撃が大きいものと思われる。カウフマンで『ドン・カルロ』を聴きたかったという人が、私の周りに何人もいる。

 しかし、彼らのキャンセルを非難することはできない。福島第一原発の事故の深刻さは測り知れないものがあり、海外メディアはその事実を冷徹に伝えているようだ。事故から3ヵ月経った今も収束の兆しは見えないし、日本国民のなかにも、政府やマスコミの流す原発情報に不信の目を向けている人が多数いる。そんななか、あえて「汚染列島」に足を踏み入れようとする音楽家の方が稀な存在といっていいだろう。

 ドミンゴは、震災の余波がまだ冷めやらぬ4月の10日に、NHKホールでリサイタルを開いた。人間の声は、70歳を過ぎてもなお進化する! テナーとバリトンの領域を往環するその自在な声に圧倒されながら、私は年輪の持つ重みを考えていた。ドミンゴはコンサートを締めくくるにあたって、東日本大震災で被災した人たち、また日本の総ての人たちに向けて心のこもったメッセージを述べた。そのあと歌われた『ふるさと』は、聴衆の心をひとつにする暖かさに満ち、私も声を合わせて歌いながら涙をこらえることができなかった(共演予定のソプラノ、アナ・マリア・マルティネスがキャンセルし、若手のヴァージニア・トーラが急遽来日、好演であった)。

 さて私の手元には、グスタフ・レオンハルトのチェンバロ・リサイタルのチケットがあった(5月31日)。83歳のレオンハルトがはたして来てくれるのか、会場のトッパンホールに着くまで実は不安であった。入口にはレオンハルトの演奏会の案内書きがあり、来てくれた!と胸をなでおろしたものだ。

 長身で痩躯、白髪の自然なオールバック、どこか哲学者を想わせるその知的な風貌は、10年前の12月、第一生命ホールで接した時と少しも変わりはない。しかし左の手に手袋をはめている。腱鞘炎? 高齢のうえ、指の機能にも支障をきたしているのだ。この状態で、よくぞ日本に来てくれた。演奏に入る前から、私の胸には熱いものがこみあげてきた。レオンハルトは具体的な言葉は何も発していないが、日本に対する彼のメッセージは明らかであろう。

 おそらく万全の体調ではなかったと思われる当夜、レオンハルトの指が紬ぎ出す音楽は、信じ難いほど崇高なものであった。 その凛としたチェンバロの響きは、心に深く泌み入った。格調が高く、余分なものを削ぎ落とした、文字どおり音楽の精華を聴いたという思いだ。それでいて、その音楽は決して近寄りがたいものではなく、まるで彼の書斎で聴かせてもらっている心持ちであった。レオンハルトは、気分の赴くままに好みの音楽を奏で続ける。とりわけ前半はあまり耳にしたこともない作曲家の作品群であったが、そんなことはもはや問題ではない。低弦の深い響きが心を鎮めてくれたかと思うと、高音のアレグロでは、老巨匠の秘めた情念の火をかい間見せてくれる。楽曲のくぎり目にわずかなタメをつくるレオンハルト独特の奏法も健在で、音楽のミューズとの、一期一会の逢瀬を堪能させてもらった。

 若き日、盟友アーノンクールと古楽の道を切り拓いてきたレオンハルトだが、たどり着いた道は大きく異なっていた。片やベルリン・フィルを率いてブルックナーを振るかと思えば、ザルツブルク音楽祭では『フィガロ』を指揮して聴衆を熱狂させる。現代クラシック音楽界の頂点を極めた存在といえるだろう。このアーノンクールに対してレオンハルトは、自らに敷かれたー本の道を、わき見などすることなく静かに、堅実に歩いてきたのだ。そんな対象的な二人の生み出す音楽が、共に聴く人の心に深く訴えかける。道を極めるとはこういうことなのかと、奇しくも時を経ずして両人の実演に接することができた私には、まことに感慨深いものがあった。  

●プラシド・ドミンゴ・リサイタル
2011年4月10日 NHKホール
『トスカ』から「星はきらめき」
『アンドレア・シェニエ』から「国を裏切る者」
『リゴレット』から「祭りの日にはいつも~泣け、娘よ」
『マイ・フェア・レディ』から「君住む街で」
サルスエラ『マラビーリャ』から「恋人よ、わが命の君よ」他
テノール:プラシド・ドミンゴ
ソプラノ:ヴァージニア・トーラ
指揮:ユージン・コーン
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団

●グスタフ・レオンハルト・リサイタル
2011年5月31日 トッパンホール
ルルー『組曲ヘ長調』
J.C.バッハ『前奏曲ハ長調』
フィッシャー『シャコンヌト長調』
デュフリ『クラブサン曲集』より
J.S.バッハ『平均律クラヴィーア曲集第2巻』より第9番ホ長調BWV878
J.S.バッハ『組曲ホ短調《ラウテンベルクのための》』BWV996
J.S.バッハ『イタリア風のアリアと変奏』BWV989

2011年6月11日 j-mosa



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