一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

【グエン・ティエン・ダオの世界】を聴いて

2012-10-25 11:58:03 | コンサート情報

    アジアとヨーロッパを融合するベトナムの現代音楽

     【グエン・ティエン・ダオの世界】
         レクチャーコンサート・世界音楽入門Ⅲ を聴いて
                               ―佐藤優子

 

 

 9月29日土曜日の夕、国立オリンピック記念青少年総合センター小ホールに於いて(財)知と文明のフォーラムの主催によるコンサートが開かれた。昨年3月11日の東日本大震災の犠牲者への鎮魂の祈りの曲の世界初演をはじめとするダオ氏の作品の演奏と、現代日本を代表する作曲家のひとりである西村朗氏との対談、そしてフォーラムの代表である北沢方邦氏のレクチャー、という充実した内容の会であった。


                        photo(c)Fumio Takashima

 祈り、について、私自身、日常的にも繰り返しよく考えるテーマである為、ヨーロッパで学ばれたベトナムの作曲家のダオ氏がどんな表現をされるのか、とても楽しみであった。今回の作品では、祈り、を伝える媒体として、打楽器と人間の声、が選ばれた。人の魂、あるいは霊の根源を、人間誰もがもつ声、と、原始の時代から人間が自然と身につけた、叩くということによる伝達方法により表現された。

 祈り、とは一体何であるか、、、。素朴に何か欲しい、あるいはこうありたい、と願うことから、自分を無とし、より大きな存在に対して救いをもとめるもの、又無念無想の境地を求めて瞑想するものまで、国や宗教、又民族の違いなどにより、人は様々な祈りに向き合って生きていると思われる。表面的な祈りの言葉を口にする事は簡単であるかもしれないが、心の底から、本当に祈る、ということは、平穏に暮らしている人間にとってはとても難しく、遜って自分を見つめ直す作業は苦しいものだと感じている。

 私の育った家庭は日蓮宗の檀家であり、又近所の氏神様の氏子でもあった。幼稚園は日蓮宗のお寺の幼稚園で、お弁当の時間には、こんしーさんがいがいでーがーうー、にーこんしーしょー・・・と皆でお経を唱え、日曜日には近所のカルバリ教会でスウェーデン人の牧師さんと一緒に、いつくしみ深き友なるイェスよ、と讃美歌を歌って成長した。小学校は公立で宗教色は全くなく、中学高校はカナダ人ミッショナリーにより設立されたプロテスタントの女子校で楽しく充実した日々を送ったが、宗教的には、一日を礼拝で始め、新約聖書は他のどんな書物より詳しく読みくどき、季節ごとにボランティア活動を重ねる、という教育を受け、思春期の内面の成長に大きな影響を受けた。中でも6年間、一週間に何回も礼拝のピアノ(オルガン)を担当し続けたことは、その後の自分の音楽人生の、人前でピアノを演奏することの原点となった、と実感している。全校生徒が講堂に入る前から前奏を弾き始め、最後の一人が退場し、講堂の外に去るまでの礼拝の全ての時間、いつも生徒の信仰心を高める為にどの様に弾いたら良いか、と思いをめぐらせていた。讃美歌の伴奏はもちろんであるが、私にとっての一番の関心は、礼拝の終わりの祈りのあと、全員が黙とうし後奏のピアノに続く、そのピアノの出だしをどのタイミングでどんな音で弾きはじめるかということであった。私はこの祈りの時間いつもこっそり目を開けて講堂の檀上のピアノの位置から皆を見下ろし自分の出すべき音をはかっていた。こんな具合の日々であったから、高校を卒業するころには、全く祈れない自分を自覚するようになっていた。その後成人してカトリック信者と結婚した私は、宗教的に、又祈りのかたちにおいても、多種多様なものを経験し、本当に苦しい時には、キリスト教の祈りと仏教の瞑想を併せて修行し思索を重ねる何人かのカトリックの司祭の著作や言葉に救われたものである。祈る、ということをおぼろげながら理解できるようになったのは、50代もやっとなかば過ぎてからのことと記憶している。


                                                   photo(c)Fumio Takashima

 さて、ダオ氏の作品は素晴らしく、INORI 3・11の演奏も一人芝居を見るような、奈良女史独特の世界観によるものであった。ヨーロッパの歌曲ではなく、といって、東洋のうた、ともいえない、人間の声にはこんな多様な表現があったのか、とひきつけられた。ただ残念だったことは、テキストに日本語がつかわれた部分につき、言葉が音(オン)として聞こえ、意味ある言霊として伝わってこなかった点である。日本の古い時代の言葉を西洋の発声で歌う、ということはやはり非常にむずかしい事なのかもしれない。プログラム最後の、打楽器協奏曲 テン・ド・グはオーケストラをエレクトーンに代えての演奏であったが、上野、内海両氏の熱演でもり上がった。作品も演奏も、聴く人を力づける強さと暖かさが感じられた。

 ダオ氏と西村氏の対談は、メシアンの鳥の声の書き取りの話など大変興味深く、又、西村氏の真言宗についても、是非とも、第2回の対談の実現を期待したいものである。それぞれの民族固有の音楽と西洋の音楽の融合性、又音楽における東洋の瞑想などにつき、続きを聞く機会があれば幸いである。

 INORI 3・11は、もし機会があれば、実際に被害にあった人々の声、津波から生還した人々の浜の太鼓で聴いてみたい。人間の魂からほとばしる祈りは、素朴であっても力強く、東北の人々の大きな再生の源になることだろう。  


北沢方邦の伊豆高原日記【132】

2012-10-16 08:54:22 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【132】
Kitazawa, Masakuni  

 急速に秋が深まっている。桜は落葉し、柿の葉が赤く色づきはじめ、逆に9月末に満開のはずのキンモクセイの花が盛りだが今年は香りが薄く、気象の異常を知らせている。秋の夜の虫の音ももはやかそけく、鈴虫の声は絶え、コオロギや、カネタタキ、カンタンなどが静かに鳴くのみである。

身体性とはなにか  

 知と文明のフォーラムでは12月、「身体性とはなにか」というセミナーを計画している。環境破壊の深刻さや地球温暖化による異常気象の激化など、近代文明がもたらした地球の生態系の劣化は、人類の生き残りにもかかわるため、一般にもひろく認識され、危機感が高まっているが、近代文明がわれわれ人間の身体や精神の深刻な劣化をもたらしていることはほとんど知られていないし、議論も巻き起こっていない。  

 それは根本的には近代文明を支えてきた価値観や思想あるいは哲学に、「身体性」つまり人間の思考と大自然や宇宙を結ぶ人間の「内なる自然」概念が決定的に欠けていたことに由来する。それが自然資源の収奪を許し、環境破壊をもたらしたことはいうまでもないが、同時にそれはいまや、精神活動をも含む身体全体の劣化や異常をもたらし、日常的に生きることさえ脅かす事態となっている。  

 かつて1971年にアメリカを訪れたとき、シカゴで黒人の人権活動家エラ・トンプスン女史にインタヴューしたが、それが終わって雑談のおりに、「先進諸国のなかで日本はなぜそんなに癌の発生率が低いのか?」と質問されたことがある。私は生半可な知識ではあったが、たぶん伝統的な食生活のせいであるだろう、とりわけワカメなど海藻を食べるのがいいのでは、と答えた記憶がある。  

 1960年代では、日本はそのような状況であったのだ。ところがいまやどうだろう。国民2人に1人は癌患者であり、3人に1人は癌で死亡するという癌発生率最大の癌大国となったのだ。なぜ?  

 この伊豆高原日記【51】でも書いたが、その理由は1960年代後半からはじまった経済的高度成長と、それにともなう農業での化学肥料や農薬の大量散布、長距離輸送や保存という流通の都合のための多種類の食品添加化学物質の使用がはじまったことによる。日記51に記したが、ホピで出会った白人女性の環境運動家に「日本では、アメリカの7倍の農薬が使われているというがほんとうか?」と質問され、当時21世紀クラブという政策集団を主宰していたこともあり、農業問題にも詳しかったので「いや、10倍だ」と答え、「テン・タイムズ!オオ・ノー!」と絶句させたことも鮮明に覚えている。直接農薬中毒となった青木やよひの例もあるが、残留農薬や食品添加物を長期間摂取しつづければ大腸癌や胃癌、消化器系の内臓癌にならない方が不思議である。  

 肺癌や呼吸器系の癌は、いうまでもなくタバコとりわけ紙巻きタバコ、および家庭で使う消臭剤や風呂場のカビ取りをはじめとする薬品、大都会や工業地帯などでは車や工場の排気ガスなどの大気汚染にほかならない。空気のいい伊豆高原に住んでいると、ときに仕事で東京にでたりすると喉や気管支がおかしくなり、ひどいときは翌日痰に血が混じっていたりする。  

 癌治療の進展には医学界もメディアも血眼であるが、癌発生の根源であるこれらの現象を無意識的あるいは意図的に無視し、黙殺して、癌や難病の発生拡大に加担している。  

 最近フローレンス・ウィリアムズの『乳房:自然史・非自然史』(Florence Williams. Breasts; A Natural and Unnatural History. W.W.Norton & Co., New York)が出版され、高く評価されている(New York Times Book Review, Sept.16,2012)。  

 つまりかつてレイチェル・カースンが『沈黙の春』(1962年)を書き、農薬などの化学物質による環境破壊すなわち外部汚染の恐るべき状況を告発し、大きな反響をよんだが、ウィリアムズは化学物質による人体の内部汚染の恐るべき状況を告発したというのだ。  

 乳児にとって母乳は、他のすべての人工栄養剤に勝る最良のものであるが、その母乳が無数の化学物質に汚染され、乳児に影響しているだけではなく、女性の乳癌の驚くべき拡大をもたらしているという。「あなたの母乳にはロケット燃料が含まれている」という警句は嘘ではない。  

 母乳は、人体が摂取する飲料だけではない栄養水分を乳腺が吸収し、つくりだしていくが、それとともにそれらの水分や唾液がとらえる、飲食物や大気に含まれる残留農薬から化粧品や消臭剤やカビ取り薬などにいたるすべての吸収物の化学成分をも取り込んでしまうからである。そのうえ飲料水に問題のある地域も多い。原発や核廃棄物による汚染もそれに輪をかける。  

 このような人体の内部汚染が精神活動にも影響を及ぼすのは当然であろう。現在の恐るべき社会状況がもたらす強烈なストレスは、いうまでもなく鬱病をはじめとする精神的疾患の主たる原因だが、こうした内部汚染はストレスに対する抵抗力を失わせる。  

 近代文明が「身体性」を喪失していることの思想的・哲学的意味についてもこの日記ではたびたび触れたが、それを含め、セミナーではこの問題を徹底的に追求してみたい。