一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

大内秀明著『ウィリアム・モリスのマルクス主義』

2012-06-29 11:48:42 | 書評・映画評

マルクス理解を革新する

大内秀明著『ウィリアム・モリスのマルクス主義
         ――アーツ&クラフツ運動を支えた思想

 知と文明のフォーラムの顧問、大内秀明先生の新著が6月15日に発売された。タイトルは『ウィリアム・モリスのマルクス主義――アーツ&クラフツ運動を支えた思想』、平凡社新書の1冊である。工芸デザイナーとして有名なウィリアム・モリスの、思想家・社会運動家としての側面に焦点を当てた本で、現代社会の閉塞状況に風穴を穿つ内容だと思う。この本を企画・編集した立場も踏まえて、簡単に内容を紹介したい。

 企画の発端は、2009年の1月に当フォーラムが主催した「人間にとって労働とは何か――ウィリアム・モリスから宮沢賢治へ」である。大内先生には伊豆高原のセミナーハウス、ヴィラ・マーヤまでご足労願い、2日間にわたって講義をお願いした。またその準備も兼ねて、前年08年の夏には、先生の別荘である仙台市作並の「賢治とモリスの館」を訪問した。この間先生から伺ったモリスの社会主義思想は、私の脳裏に強い印象を残した。そしてその後、先生から送られてきた学会論文「社会主義と『資本論』――マルクスからW・モリスへ」を読むに及んで、これは新書にふさわしいテーマだと確信したのだった。

 モリスは19世紀後半、機械製工業が大きく進展しつつあるイギリスで活動した。その画一的な生産様式を批判して、ロセッティやバーン=ジョーンズらと共にモリス・マーシャル・フォークナー商会(後にモリス商会)を設立して、家具や壁紙、ステンドグラスなどを製造したのだった。有名なこの芸術運動が、モリスの社会主義思想と密接な繋がりがあることを、大内先生は指摘している。労働はアダム・スミスがいうような「苦痛」であってはならない。「喜び」であるべきである。そしてその成果は、私流に解釈すれば、私的に奪取すべきものではなく、共に働いた仲間で分かち合うべきである。ここには、『資本論』を精緻に読み込んだモリスのマルクス主義が息づいている。

 モリスが後期マルクスから学んだ思想は、エンゲルスからレーニンに連なる〈国家社会主義〉ではなかった。それは〈コミュニティ〉を基盤とする〈共同体社会主義〉ともいえる思想であった。資本主義的私的所有を止揚するのは、国家的公的所有ではなく、共同体的公的所有である、というのがその核心であろう。本書は、ウィリアム・モリスのマルクス主義を紹介することで、マルクス主義理解そのものの革新をも意図している。

 「モリスの『資本論』解説」の節など少し難しい部分はあるものの、あとがきにあるように本書は、「賢治とモリスの館」を訪れる人たちに解説するような仕方で叙述されている。現代社会への働きかけにおいて〈コミュニティ〉概念の掘り下げは重要課題のひとつでもあり、是非とも多くに人に読んでいただきたいと思う。

2012年6月23日 j.mosa

 


6月13日の現代打楽器作品展、楽しい演奏会でした。

2012-06-18 10:01:42 | 雑感&ミニ・レポート

音霊が舞い上がる、楽しい演奏会でした!

現代打楽器作品展
@国立オリンピック記念青少年総合センター 

●プロジェクション・トランス・ソニック(湯浅譲二 2010年作曲、初演)
●トライクロイズム(松平頼暁 2006年作曲、2007年初演)
●ふるえる月(木下牧子 2000年初演)
●月の鏡(西村朗 1995年初演)
              演奏:上野信一&フォニックス・レフレクション

久々に、『現代音楽』に心躍ったひと時だった。
と、言うより コンサートという形では、初めてだったかもしれない・・・。
モダンダンスの世界では、結構使われるジャンルではあるが、
今回は、舞台上にかなりの数の多種の楽器が、圧倒的な存在感でおかれていた。

『上野信一&フォニックス・レフレクション』による、
『現代打楽器作品展』というコンサートだった。

4人の作曲家の四様の、実に個性ある作品の演奏・・・。
今迄、海外の作曲家の作品や日本の曲や、CDや生演奏で
聞いたり、はたまた踊ったりと触れてきたジャンルではあるが、
今回は、目からウロコ・・・。

ここからは、私の心に浮かび出た言葉!

おもしろ~い!
現代音楽って、観るものだ!
聞いてはいかん、ましてや、踊ってもいかん!
CDでは、伝わらない、3D以上の世界感があった。 
マリンバ中心に、銅鑼に太鼓に なんだコレ? こんなものあんなもの・・・。
これで叩くの?それでこするの?
いや~、見てるだけでも楽しいのなんのって!
大人が、真面目に、身体くねらせながら指先手先全身全霊、
呼吸合わせ、神経を研ぎ澄ましながらの演奏。
指揮する、上野信一さんの 『手』の美しかったこと・・・。
『現代音楽』は、難しい。踊ればなお一層、難しくなりがち。
固くしてたのは自分。
上野さんがおっしゃった、「難しく考えないでください。ベートーベンだってその時代には、
現代音楽だったんです。」
その一言が耳に残っている。
いや、本当、演奏者こそが踊る、音霊が舞い上がる、
楽しい演奏会でした・・・。

鈴木雅子★舞踊家


楽しい映画と美しいオペラ―その40

2012-06-11 17:49:47 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その40

                         

                         3人のオペラとメトロポリタン・オペラ
                                      
――「村上敏明とその仲間たち」


 6月3日に「村上敏明とその仲間たち――チャリティ・オペラ・コンサート」という手作りの音楽会があった。手作りというのは、音楽業界とは関わりのない、音楽愛好家の人たちの手になる音楽会ということである。町田市の音楽愛好団体、かしの木山NEXTという組織が主催した。会場も町田市民フォーラムホールという、席数せいぜい200人の小さなホールである。東日本大震災の被災者支援活動の一環で、4人の出演者のうちお二人は石巻市出身ということだった。チケットの売れ行きが芳しくなく、2週間ばかり前に主催者のひとりから支援要請のメールが入った。町田近辺に住んでいる友人たちにも呼びかけ、入りを心配しながらの当日となった。

 客席は7〜8割くらい埋まっていてまずはホッとしたが、中身についてはじつはそれ程の期待はしていなかった。村上敏明は藤原歌劇団や新国立劇場で主役を歌うなど、若手テノール歌手の代表的存在である。しかし会場が東京近郊の小さなホール。はたして実力どおりの歌を聴かせてくれるのか、心もとない気持ちでいたのである。ところが、私の杞憂は見事に裏切られ、まことに楽しい、歌の素晴らしさを伝えてくれるコンサートとなった。歌の背景などの説明も含めた村上の司会は、間違いなく音楽会の雰囲気を盛り上げた。


 
第1部は〈帰れソレントへ〉〈カタリ・カタリ〉などのカンツォーネと、山田耕筰作曲の〈落葉松〉〈鐘がなります〉などの日本の歌で構成されていた。音程にやや不安定さがみられたり、〈愛燦燦〉を強靭なテノールで歌ったりという?はあったものの、3人の歌手の実力はプロであることを充分に証明してくれた。しかし彼らが本領を発揮したのは、第2部の「男声が歌うオペラの魅力」である。

 
まず千葉昌哉が、《フィガロの結婚》の有名なアリア〈もう飛ぶまいぞ、この蝶々〉で、前半とは見違えるような溌剌とした歌を聴かせてくれた。持ち前の深いバリトンの声がよく響き、このアリアに要求される飛翔するような軽やかさも備えている。続く渡邊公威は、《マルタ》の〈夢のように〉を、柔らかなテノールで伸びやかに歌う。村上の〈星は光りぬ〉(《トスカ》)は、天にも届けといわんばかりの透明で力強いテノール。叙情性も兼ね備え、さすがに第一線で活躍している歌手だと納得。

 そしてこのコンサートの白眉は、何といっても《愛の妙薬》の〈ネモリーノとドゥルカマーラの二重唱〉である。朴令鈴の絶妙の伴奏に支えられて、渡邊と千葉がオペラの一場面をじつに楽しく演じてくれた。私にとって、ドニゼッティやベッリーニなどのいわゆるベルカント・オぺラは、少し遠い存在である。ヴェルディやプッチーニに比べると、ドラマ性が希薄なような気がするのだろうか。しかしベルカントがイタリア語で「美しい歌」を意味するように、ベルカント・オペラの本質はまさしく歌なのだ。渡辺と千葉のニ重唱はそのことを明確に伝えてくれた。2つの美しい声がリズミカルに、また微妙に絡まり合い、聴く者を至福の境地に誘う。

 ベルカント・オペラもいいものだと実感した私は、翌日、録画してあった《ルチア》を観ることになった。メトロポリタン・オペラの上演で、出演者もネトレプコ、ベチャワなど有名どころである。アリア、重唱、合唱、それぞれに美しい歌が溢れていて、十分に楽しんだ。それにしても、オーケストラ、裏方なども含めると何百人の大所帯。対して、前日の《愛の妙薬》の舞台は、ピアノを含めてたった3人である。3人でも数百人の上演に対抗できる! この発見こそ、町田の小さなホールで聴いたコンサートでの最大の収穫である。今度はピアノ伴奏で是非オペラの全曲をと、主催者に伝えた。


村上敏明とその仲間たち――チャリティ・オペラ・コンサート
(2012年6月3日 町田市民フォーラムホール)
第1部■カンツォーネ&日本の歌
第2部■男声が歌うオペラの魅力
テノール:村上敏明、渡邊公威
バリトン:千葉昌哉
ピアノ:朴令鈴

2012年6月6日 j-mosa


高島史於写真展【3×20の旅】

2012-06-08 11:22:34 | 紀行

高島史於写真展【3×20の旅】
3回目の成人(60才)を祝い、夫婦2人ベトナム縦断63日間、バックパッカーの旅



「エプサイト」エプソンイメージングギャラリー
東京都新宿区西新宿2-1-1 新宿三井ビル1F
電話03-3345-9881 http://www.epson.jp/epsite/

2012年6月22日(金)~7月5日(木)※日曜日休館
10:30~18:00(最終日は15:00まで)
入場無料

★写真内容★
サイゴン陥落35周年を祝うホーチミン市から中国国境まで、
8回の取材では伺い知れなかった、平和を享受する人々の日常を追い、
交流し、54民族の伝統工芸文化に触れ、食文化を楽しんだ旅の記録。
★写真点数★
約40点
★取材協力★
駐日ベトナム社会主義共和国大使館  ベトナム航空  スタジオ・ページワン
★協力★
日本ベトナム友好協会  ベトナム・フェスティバル2012実行委員会  ベトナム・スケッチ

高島史於 
(有)カインド 日本舞台写真家協会会員 日本ベトナム友好協会会員
http://www.jsps.info/

たかしま ふみお★プロフィール 
64才 日芸写真、1995年からの16年間に117回の海外取材を通し、
写真と文で各国の文化、生活を雑誌に発表。2009年、韓国仁川市の広報大使。
東京下町に生まれ心持ちを伝える写真を心掛ける。
※9月29日開催予定の
知と文明のフォーラム主催のレクチャー・コンサート:世界音楽入門の3
【グエン・ティエン・ダオの世界】アジアとヨーロッパを融合するベトナムの現代音楽
にもご協力いただいています。是非、ご高覧のほど。


北沢方邦の伊豆高原日記【126】

2012-06-05 10:00:04 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【126】
Kitazawa, Masakuni  

 梅雨入りが近く、台風が近づいているというが、さわやかな晴天がつづいている。色とりどりのサツキが満開であり、蜜蜂たちを引き寄せている。野鳥たちも鳴き競っているが、一時姿を消していたホオジロの声が聞こえるようになった。数十年前には、他を圧するほど数が多かったのだが……

世界経済の行方  

 山ほど溜まっていたニューヨーク・タイムズ書評紙などをようやく読み終えたが、そこからえたさまざまな情報にもとづきながら、最近の世界の状況や知的動向などをランダムに考えてみよう。  

 まず前回の日記にひきつづき経済であるが、ユーロ崩壊の危機が迫っている今回は、リーマン・ショックよりはるかに深刻である。なぜならリーマン・ショック以後の世界経済の立て直し役を担った中国をはじめとする新興諸国に、大きな暗雲がひろがりはじめているからである。

 ハーヴァードとオクスフォードで学んだインドのジャーナリスト、アカシュ・カープルが、高度成長を走りつづけてきたインドの恐るべき内情を報告している(Akash Kapur. India Becoming; A Portrait of Life in Modern India)。その他のインド情報とあわせながら紹介しよう。  

 さまざまなひとびとから指摘されているが、国内の経済格差の拡大とその深刻さは恐るべきものである。高度成長のおかげで確かに中産階級は飛躍的に増大したが、それをはさむ資産階級と貧困階級との格差は途方もないものになっている。現政権の新自由主義的経済政策は、ネルー以来のかつての社会主義志向時代の福祉政策をくつがえし、格差拡大を放置した。かつてはムンバイが典型であったが、大都市のスラムにも住民自身による秩序や相互扶助、あるいは革なめしなどの職業保障があったが、それも崩壊し、無秩序と犯罪が氾濫している。スラム再建計画の実施速度より、地方から流入するいわば経済難民の増大によるスラムの拡大の方が早い。  

 たしかにかつて、ある種のギルド的職業保障でもあったカースト制度は、急激な近代化とともに身分差別制度となり、独立後憲法でも禁止されたが、昔のそれを支えてきたモラル──昔の日本にもあったがそれぞれの職業に対する相互敬意など──も崩壊し、しかも近代市民社会に要求されるモラルも確立していないという状態である。いたずらに権利の要求や欲望のみが肥大し、衝突し、葛藤や暴力を生みだしている。  

 とりわけ置き去りにされた農村は、成長にともなう恐るべき環境破壊や農地の収奪に脅かされている。かつて豊饒であった土壌の50%は流失し、灌漑用水の70%は化学物質に汚染されている。それによって、ゆたかな農業国であったインドは、国の成立基盤さえゆるがされる事態に陥っている。  

 インドはもはや持続不可能な社会となり、体制となりつつあるとカープルはいう。それを転換する方策は? 彼もまたここで、たんなるノスタルジーではなく、マハートマ・ガーンディを思い起こしている。インドの心ある知識人たちのように……  

 おそらく中国も、また違ったかたち──政治体制と経済体制の深刻な軋轢と、知識人や中産階級に増大する民主化の要求──で持続不可能な社会となりつつある。これらの軋轢が経済の停滞や不況によって爆発する危険は刻々と迫っている。インドも中国も、国内の矛盾が極限に達しつつあり、リーマン・ショック時のように、もはや世界経済の行方にかかわりをもつ余裕はまったくないのだ。

モダニスト・フェミニズムの没落  

 バダンテールの『葛藤』の英訳が出版されたりして、しばらくフェミニズム論争が復活したようにみえるが、フェミニズム関係の本の女性評者たちは、バダンテールをはじめとする青木やよひのいう近代主義的フェミニズム(モダニスト・フェミニズム)にはきわめてきびしいようだ。  

 その論点は要するに、ひとつは妊娠・出産のアウトソーシング(人工授精や代理母出産など)の増大や産業化にみられる、女性の性や性役割の合理化が、結局女性の自己(セルフ)のアウトソース化、マルクスの古典的用語にいいかえれば「自己疎外」をもたらし、むしろ女性の真の自立を奪うこととなったというものである(Arlie R. Hochschild. The Outsourced Self; Intimate Life in Market Times)。  

 もうひとつは、男女の所得格差の是正などから出発し、女性の法的・経済的平等を訴えてきたモダニスト・フェミニズムは、結局新自由主義的経済体制のなかで、女性の知的労働力をもっと取り込み、活用することで企業は生き残り、勝ち残ることができるという企業文化に完全に取り込まれ、その役割を終えたとするものである。  

 これらの主張は、その名や概念こそ取りあげていないが、女性自身の身体性を基礎とし、それを自覚することによって自然や社会そのものとの絆を回復し、真の平等を手にすることができるとする「エコロジカル・フェミニズム」への回帰を示しているようにみえる。  

 青木やよひももって瞑すべし、であろう。