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一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

新刊 ベル・フックスの芸術論

2013-03-21 21:39:46 | 書評・映画評

ベル・フックス著

アート・オン・マイ・マインド  アフリカ系アメリカ人芸術における人種・ジェンダー・階級
三元社より好評発売中です。

 

ベル・フックスは現在アメリカ合衆国で最も注目されるカルチュラル・スタディズの研究者にして批評家、文学、映画、美術、音楽、建築など広範な守備範囲と、複雑な考察も分かりやすく、かといって読者の怠惰におもねる「読みやすさ」に堕することなく論じる聡明な文章が魅力です。
本書は主に、アフリカ系アメリカ人、特に女性のアーティストによる芸術について論じた批評と、現在活躍する6人のアフリカ系アメリカ人の女性アーティストとの対談を収めた論文集です。
ちなみに表紙に使用したのはエマ・エイモスの作品「ゴーギャン夫人のシャツ」。英語オリジナルの表紙とはちがう、日本語オリジナルのデザインです。図版の版権をクリアする連絡を取ったとき、エイモス氏が快く使用を許可してくださいました。
この女性はエイモス本人、図版が小さくわかりにくいのですが、彼女の着ているTシャツには、ゴーギャンの有名な「二人のタヒチの女」の左側の女性のボディの部分がプリントされています。(この女性は「ゴーギャン夫人」ではないのですが、エイモスはあえて、彼女のことを「ミセス・ゴーギャン」と読んでいるわけです。)西欧の男性芸術家と彼に見られ、描かれる非西洋の女性、という絵画の伝統の中の力の構造を撹乱するユーモラスな身振りと、色の美しさがすてきだと思います。
対談の相手は、このエイモスや、写真家のキャリー・メイ・ウィームスなど、アメリカではすでに著名ながら、日本でもっと知られてほしいアーティストばかり。批評のほうも、比較的よく知られたジャン・ミシェル・バスキアの絵画や、貧しい黒人の生にとって写真の意味するもの、貧困者用の集合住宅に住むことの政治的意味など、洞察に富む論考がスリリングです。
図版のこと等色々苦労はあったのですが、翻訳しがいのある力作で、自分でも愛着のある一冊となりました。
お手にとっていただければ幸いです。

杉山直子(訳者)

 

 

 


大内秀明著『ウィリアム・モリスのマルクス主義』

2012-06-29 11:48:42 | 書評・映画評

マルクス理解を革新する

大内秀明著『ウィリアム・モリスのマルクス主義
         ――アーツ&クラフツ運動を支えた思想

 知と文明のフォーラムの顧問、大内秀明先生の新著が6月15日に発売された。タイトルは『ウィリアム・モリスのマルクス主義――アーツ&クラフツ運動を支えた思想』、平凡社新書の1冊である。工芸デザイナーとして有名なウィリアム・モリスの、思想家・社会運動家としての側面に焦点を当てた本で、現代社会の閉塞状況に風穴を穿つ内容だと思う。この本を企画・編集した立場も踏まえて、簡単に内容を紹介したい。

 企画の発端は、2009年の1月に当フォーラムが主催した「人間にとって労働とは何か――ウィリアム・モリスから宮沢賢治へ」である。大内先生には伊豆高原のセミナーハウス、ヴィラ・マーヤまでご足労願い、2日間にわたって講義をお願いした。またその準備も兼ねて、前年08年の夏には、先生の別荘である仙台市作並の「賢治とモリスの館」を訪問した。この間先生から伺ったモリスの社会主義思想は、私の脳裏に強い印象を残した。そしてその後、先生から送られてきた学会論文「社会主義と『資本論』――マルクスからW・モリスへ」を読むに及んで、これは新書にふさわしいテーマだと確信したのだった。

 モリスは19世紀後半、機械製工業が大きく進展しつつあるイギリスで活動した。その画一的な生産様式を批判して、ロセッティやバーン=ジョーンズらと共にモリス・マーシャル・フォークナー商会(後にモリス商会)を設立して、家具や壁紙、ステンドグラスなどを製造したのだった。有名なこの芸術運動が、モリスの社会主義思想と密接な繋がりがあることを、大内先生は指摘している。労働はアダム・スミスがいうような「苦痛」であってはならない。「喜び」であるべきである。そしてその成果は、私流に解釈すれば、私的に奪取すべきものではなく、共に働いた仲間で分かち合うべきである。ここには、『資本論』を精緻に読み込んだモリスのマルクス主義が息づいている。

 モリスが後期マルクスから学んだ思想は、エンゲルスからレーニンに連なる〈国家社会主義〉ではなかった。それは〈コミュニティ〉を基盤とする〈共同体社会主義〉ともいえる思想であった。資本主義的私的所有を止揚するのは、国家的公的所有ではなく、共同体的公的所有である、というのがその核心であろう。本書は、ウィリアム・モリスのマルクス主義を紹介することで、マルクス主義理解そのものの革新をも意図している。

 「モリスの『資本論』解説」の節など少し難しい部分はあるものの、あとがきにあるように本書は、「賢治とモリスの館」を訪れる人たちに解説するような仕方で叙述されている。現代社会への働きかけにおいて〈コミュニティ〉概念の掘り下げは重要課題のひとつでもあり、是非とも多くに人に読んでいただきたいと思う。

2012年6月23日 j.mosa

 


『シモーヌ・ヴェーユ回想録』書評

2011-09-28 07:07:16 | 書評・映画評

『シモーヌ・ヴェーユ回想録
  ―――
20
世紀フランス、欧州と運命をともにした女性政治家の半生
シモーヌ・ヴェーユ著 石田久仁子訳
(パド・ウィンメンズ・オフィス 3000円 2011715日刊行)

 

 本書は、フランスで200712月に出版され、発売と同時にベストセラーとなった、フランスのユダヤ系女性政治家シモーヌ・ヴェーユ(1927-)の回想録である。ヴェーユは高校生であった1944年に強制送還されたアウシュビッツ=ビルケナウ収容所を生き抜き、戦後は、保健大臣としてフランスに人工妊娠中絶の自由化を実現し、欧州議会の初代議長として欧州統合に尽力した、国民の信頼厚く、国際的にも評価の高いフランスの良心を代表する政治家である。


  18才でビルケナウから奇跡の生還を果たしたヴェーユは、ホロコーストで失われた家族にかわる新しい家族を自ら作り上げた後、夫を説得し、戦後新たに女性にもひらかれた司法官養成制度を利用して自らのキャリアを築いていく。法務官僚だった1974年に保健大臣に抜擢され、数ヶ月後には当時のフランス女性の切実な願いだった人工妊娠中絶の自由化を3日間に及ぶ国民議会本会議の審議を経て実現、一躍女性の自由の象徴的存在となる。その後30年近く政治家として国内および欧州を中心とする国際舞台で活躍、政界引退後は憲法院判事やショア記念財団理事長を務め、一貫して人間の尊厳や人権の擁護、とりわけ女性の人権や自由の擁護に取り組んできた、国民の尊敬を集める女性である。

 

 一読して感じるのは、彼女の偉大さと謙虚さ、そして、人間への信頼と愛、誠実さである。アウシュビッツ=ビルケナウで地獄を経験し、家族を失い、生還後もなお生き抜いた者に向けられる二重三重の差別に直面したにもかかわらず、彼女は人間や社会への信頼を失わない。司法官時代の刑務所改革、保健大臣時代の中絶の自由化、欧州議会議員(議長時代を含む)時代の欧州統合への情熱(それは二度とホロコーストを起こさないためには必要不可欠だった)、ホロコースト以後に起きた大虐殺への糾弾。数々の仕事の局面で、社会の回復力を信じ、人間の尊厳、人権の尊重、正義の擁護のために闘い続けている。

 

 その姿勢は、彼女自身の資質や育った家庭環境、ホロコーストを生き抜いた証人としての使命感にもよるが、彼女自身が突き止めたとおり、フランスが在住ユダヤ人全体に占める強制移送されたユダヤ人の割合がもっとも低い国だったことと無縁ではなかっただろう。ヴェーユは長い年月の間に歴史の真実を執拗なまでに追求し、戦時中のユダヤ人強制移送におけるフランス国の責任を認める大統領の謝罪の実現(1995年)へ働きかけると同時に、占領時代のフランス政府に一定の理解を見せ、占領時の市民生活を批判的に描いた映画を批判し、2007年には、ショア記念財団理事長として、「正義の人々」―大戦中にユダヤ人を匿い、支援した多くのフランス国民―に感謝の言葉を捧げている。

 

 これほど有能で、「女性の大義のために闘うフェミニスト」であることを自認し、女性のチャンスが偶然に支配されすぎており、「法律やもう少し一般的な社会的ルールから生まれることが少なすぎるのだ。女性の被っている不平等が改善すれば、社会に利するだけだ」と確信しているヴェーユが、ポジティブ・アクションやクォータ制について説くのは、声高にそれを要求したり保守層を刺激したりするような論争を行うのではなく、実践してしまうことである。それは、1974年の人工妊娠中絶の自由化の審議をはかる国民議会の演説で、生命についての哲学的論争や保守層を刺激するような女性の身体の自己決定権としての中絶の権利の主張を行うことを注意深く避け、子育てを社会全体でサポートするための家族政策の推進を約束しながら、中絶問題をもっぱら母として子どもを育てられるかどうかの責任の問題として提示し勝利した彼女の、「政治家」としての長年の経験と智恵が言わせたものであろう。夫婦別姓等、日本における女性問題を考える際にも、政治家/実務家のスタンスとして実に参考になるのではないだろうか。

 

(本書は知と文明のフォーラム評議員の石田久仁子さんの訳書である。このすぐれた女性の人生を知る機会を与えてくれた石田さんに感謝の意を表します。)

 

                                                             katakata


ロシアの古典的名作絵本『ねこのいえ』発売

2011-06-26 10:55:32 | 書評・映画評



マルシャーク 絵ワスネツォフ 訳片岡みい子
2011年6月18日刊行平凡社1890円

http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=newbooks.html


http://www.amazon.co.jp/

知と文明のフォーラム・ブログ管理担当、カタオカ★Mです。
企画のTOKさんと編集 j-mosa さん共々惚れ込んだ
ロシア絵本2冊目を翻訳・出版することができました。

ネコねえさんの屋敷を訪れた甥の兄弟ネコは
門番のネコじいさんに邪魔だと追い払われます。
女主人と門番が家褒めの客たちを門まで見送り、
おしゃべりしているあいだに、暖炉の火がはねて家は全焼。
焼け出されたネコねえさんとネコじいさんは、
泊めてほしいと近所を回りますが、みんなに断られます。
最後に甥達のあばらやにたどり着き、やっと安心してやすむことができました。
新しい家族になった4人は、協力して新しい家を建てることにしました。

「助け合って、皆で幸せになろう!」がメッセージ。読み聞かせや児童劇に最適です。


以下に、訳者あとがきを掲載しました。

 ロシアでは、マルシャークを知らない人はいません。『ねこのいえ』も、親が読んできかせたり幼稚園で演じたりするので就学前には誰もが暗唱できるほどです。マルシャークは、『火事』や『チリ・チリ・チリ・ボン!』といったわらべうたに着想を得てこのお話を書きました。1922年、〈子ども劇場〉のために初めて発表されたときは一幕物の詩劇でしたが、1945年に三幕物に改訂され、さらに1948年、国立中央人形劇場のために書き直されたのが本書の底本です。

 
マルシャークはこの物語を書く前に、第一次世界大戦下、強制移住させられ難民化した子どもたちを助け、履物や外套や毛布などの世話をしています。辛い境遇にある子どもたちのために、「きみたちをこの戦争で死なせない、凍えさせない、子どもはこの世で幸せにする」という強い信念でこの物語を書いたのです。でも、お話は説教くさくないどころか、むしろ滑稽です。動物たちは言いたい放題、それぞれ勝手きままに振る舞っています。火事で焼け出されたネコねえさんに同情はしますが、所詮他人事。ネコねえさんとネコじいさんも自ら苦難を味わってようやく成長します。子どもたちは、マルシャークのリズミカルでユーモラスな台詞を暗唱したり合唱したりしながら、「みんなで幸せになろう」という簡潔で明快なメッセージに親しむのです。

 
いっぽう挿絵もユーモアたっぷりです。ワスネツォフは1947年に出版された三幕物の絵本には青黒2色刷りのお洒落なリトグラフを描き、1959年初版の本書にはカラフルな水彩画を添えています。彼が描く擬人化された動物たちは、愛らしくて可笑しくて魅力的です。また、伝統的な民工芸の故郷で育ったワスネツォフならではの、純ロシア的な家の装飾や花や文字のデザインが全編を彩り、懐かしさと安らぎを与えてくれます。

 
本書は戯曲です。挿絵を参考に舞台装置や衣裳を作って演じてみてください。ロシアの田舎の家にも注目です。門や木戸を開けて敷地に入り、外階段でポーチへあがったところに玄関があります。窓の鎧戸は観音開きの木彫り細工、窓のまわりにも木彫りを施したり模様を描きます。家に入ると玄関の間があり、客間兼食堂に入ると暖炉(ペチカ)があって、煙突は1本。

 
火事は多かったようで、1920年代の新聞に「一生のうちに一度も火事にあわない農民はいない」とあります。消防隊は馬を大事に手入れし、勇敢な消防士たちは憧れの的でした。ちなみに1000ルーブルしたネコねえさんのドレスですが、当時の富農の年間の現金収入、および都市生活者のほぼ年収にあたります。工業製品としての美しい布や短い靴はなかなか手に入らず、田舎の家ではベッドはもちろん、家具調度、鏡やピアノはたいへんな贅沢品でした。娯楽といえば、集まって歌ったり踊ったり、お話しをすること。そんな昔のロシアの暮らしを想像しながら、演じてみてください。
                    


韓国語版『感性としての日本思想』出版

2011-05-06 19:10:58 | 書評・映画評

韓国語版『感性としての日本思想』 『日本思想の感性伝統』



 韓国の全南(チョンナム)大学の文化人類学専門の金容儀(キム・ヨンイ)教授(大阪大学文学部大学院卒業)が、私の『感性としての日本思想;一つの丸山真男批判』を読み、従来と全く違う日本思想論であり丸山真男批判であると感銘され、大学でのセミナーのテクストとして使用され、また手分けして訳し、出版にこぎつけられたものです。訳者は金教授のほかに3名です。

 出版社は、民俗学叢書などを手掛けている【民俗苑】という堅実なところのようです。訳書のタイトルも韓国向けに変えてあり、金教授による訳者解説や韓国向けの訳注などもつけられてあります。
 
 また今回の大震災に金教授からお見舞いをいただきました。私の韓国語版への序文の最後に、大震災に対しての韓国の支援へのお礼を付け加えたかったのですが、すでに印刷に入っていて、間に合いませんでした。(
北沢方邦)

『目にみえない世界のきざし』について★清水茂

2010-12-28 10:35:53 | 書評・映画評

『目にみえない世界のきざし』について

                                   清水 茂

あれから半世紀以上もの時が経った。取り返しのつかない過誤ともいうべきあの戦争が終ってほどなくの頃、残された精神の廃墟のなかで、いっそう人間らしい新たな価値を模索していた若者たちの数人が片山敏彦の存在と仕事とに惹かれて、おのずから一つの小さなグループを形成したのだった。北沢方邦はそのなかにあって、歯切れのよい口調でバルトークの音楽を論じ、まだあまりよくは知られていなかった十九世紀デンマークの作家ヤコブセンの『ニールス・リーネ』について語っていた。その姿は私にはいささか眩く映るものだった。

一九六一年に片山敏彦が亡くなり、グループの若者たちはそれぞれの道を辿りはじめた。隔たりはしだいに大きくなるように感じられた、互いの姿が見えなくなったと思われるほどに。

ところが、私たちの生涯の道がほぼ果てにまで到るかに思われたこの時期になって、思いがけず彼の姿が大きく私の目のまえに、それもほとんど同じ道の上で見えてこようとは! 詩集『目にみえない世界のきざし』を携えて。

驚き? だが、当然といえば当然のことでもあるのだ。戦時の困難のなかで、ゲーテの『西東詩篇』の「不思議な魔力に囚われ」、片山敏彦によってリルケを知った彼がひそかに詩の道を辿りつづけていたとしてもそれを訝しく感じることはない。そして、この一冊が久しい歳月に亙ってのその道筋の全体を顕してくれているのだ。

比較的初期に属する詩篇の多くは短詩型で整えられているが、その器はずっと後にまた繰り返し用いられている。芭蕉やオマール・ハイヤームの名を挙げて、それらとの親近性のあることを彼自身が述べている。

けれども小さな器に注がれる詩想は広大な人間の文化領域に、時代を超えて飛翔している。ときに、生死の境域を跨ぎ、見える世界と見えない世界とを自在に往還する。そして、透けて見えてくるのは、近代以降の西欧的自我が世界に、あるいは自然にむかって投影する飽くことを知らぬ欲望が、私たち人類の全体を終焉へと導こうとしている事実への憤りとともに、いま一度、その自我から解放されて、万物との共生の衷に身を置きたいという強い願望である。

あの楽園が、いつか甦ることがあるだろうか。

松葉杖や義足の男たち、身寄りを失った老人たち、
幼な児を餓死させた女たち、そして裸足の孤児たちの
瓦礫の下に埋めてきた遠い遠い記憶とともに。

しかしやがていつか、黄褐色の沙漠の谷間の廃墟の村落と、
焼け残った巴旦杏の老木にも、春のきざしと、萌えいでる芽生えのときが、
訪れるにちがいない、死者たちの記憶とともに。

「アフガニスタンの黙示録」という詩篇からの引用である。詩は宇宙の呼吸のリズムに倣うものではあるが、同時に、絶えず私たち自身の置かれている現実空間との接点を持ちつづけていなければならないものであることを、この詩集は私たちに再度確認させる。

だが、また、こんな四行詩、
     
きらめく若葉、囀る小鳥たち、
       色と音がひびきあう初夏の交響曲、
         いまここにあるものに酩酊しつつ、なおも
           永遠なるものの使信を聴きとりたい欲求。

あるいはまた、
     
われらは目にみえる世界を過信している。
       たしかにこの世も美しい。だが目にみえない
         隠された世界は、なお美しい。夕映えの空の
           彼方からひびく、無音の楽に耳を傾けよう。

ほとんど片山敏彦を想わせるこれらの表現には、また別種の驚きが感じられる。そして、私たちのあいだの隔たりはそれほど大きくはなかったのかと改めて思うのである。

※『洪水』第7号より。執筆者と洪水企画の了承済み
  http://www.kozui.net/frame-top.htm


詩集『目に見えない世界のきざし』

2010-12-24 22:07:17 | 書評・映画評

詩集『目に見えない世界のきざし』                   
 

北沢方邦 様

 詩集「目に見えない世界のきざし」上梓おめでとうございます。
いつも、早々にお贈り下さりありがとうございます。
感想を書かせていただき、お礼の言葉に代えさせていただきます。

 今回の詩集には、これまでの北沢さんにはなかった新しい世界を感じさせていただきました。これはもう随分以前からの私の素朴な疑問でしたが、誰もが認める一流の論理で知的な文明論を展開される北沢さんが、そうした表現とはまったくかけ離れた、どちらかと言えば人間臭い、小説や詩の世界にどうして興味を持たれているのだろうか?と言うものでした。もう40年も前に、「いずれ時間が出来たら、ぜひ、小説を書きたいと思っているんだけど・・・」と言う言葉を耳にした時以来の、とても不思議なことの一つでした。

 その疑問が、今回の詩集を読ませていただき少しだけ解明できたように思います。「そうか、もしかしたら、文明論を得意とされる北沢さんが、最も表現したかった世界は、こうした詩や小説の世界にこそあったのかも知れない」ということです。

 北沢さんが長年探求され、広く社会に提言して来られた文明論の真髄「見える世界の文明から、見えない世界をも包含する新しい文明へ・・・・」と言う核心を、自ら率先して体現して見せるためには、論理の大きな壁である言語の世界を超えた表現が、ぜひとも必要だったのだという気付きでした。 

 それは、まさに、北沢方邦というこの宇宙にただ一人しか存在しない人間が、ただ、今、この一瞬でしかない時空の中で、新しい文明論の本質(リアリティー)を表現するためには、知も肉体も、論理も言語も超えた、その存在のすべてをそっくりそのままに顕すことの出来るパフォーマンスが、必要だったのですね。この詩集が、若い時にではなく、人生の集大成に取りかかった今のこの時だったと言うこともまた、大きな意味のあることだったと思いました。

 私にとって、この詩集は、まるでシェークスピアの戯曲を読んでいるようでした。知的で論理的で繊細な北沢流の神話が、素晴らしい装丁のイメージとあいまって、論理や言語の世界を飛び越え、読んでいる私の感性、知性、世界観を、そっくりとそのまま炙り出すような、そんな詩であったように思います。

 また、お宅にお邪魔して雑談をしたくなりました。そのうち、お伺いしたく思います。長年の念願だった詩集の完成、本当におめでとうございます。亡くなられた青木さんも、きっと心から喜ばれていると思います。ありがとうございました。                   

                           2010.12.22 橋本 宙八


『失われた歴史』刊行

2010-10-01 21:51:52 | 書評・映画評


イスラームの本質は
「知の探究」と「宗教的寛容」!!

 平凡社から『失われた歴史』(北沢方邦訳)刊行される

 9月17日、平凡社から『失われた歴史―イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった』が刊行されました。「物語イスラーム文明史」と呼んでもいいほどの巧みな叙述で語られる本書は、現代イスラームをより深く理解するためにも、必読の啓蒙書と言えます。

 イスラームは中世から近世初頭にかけて華麗な文明を築き上げました。本書は、その哲学、数学、天文学、医学、化学、物理学、さらには建築、音楽などが、いかに近代科学・思想・芸術に大きな影響を与えたかを、精緻に、しかしわかりやすく記述しています。

 たとえば地動説の創設者は16世紀ポーランドのコペルニクスだと言われていますが、すでに13世紀のイスラーム世界に、地球や惑星が太陽の周りを回転している事実を正確に計算した科学者がいました。バグダッドからイル・ハーン国の首都アゼルバイジャンに招かれ、当時世界最大の天文台を造営したアル‐トゥシーです。コペルニクスの地動説は、このアル‐トゥシーたちの文献からの借用であることが本書を読めば理解できます。 

 次の文章は、訳者である北沢方邦先生のあとがきからの抜粋です。

 イスラーム天文学者たちは「地動説」や地球自体が球体であることを認識し、数々の書物として書き表していた。他方中世からルネッサンスにいたる西欧の学僧や知識人たちにとって、イスラームの知の一大中心地であり、大学や膨大な蔵書を誇る諸図書館を有するコルドバへの留学が、あこがれの的となっていた。したがって知識人の教養の基礎は、当時のリングア・フランカ(国際語)であるアラビア語の習得であった。……こうした「失われた歴史」の再発見が本書の醍醐味であるが、同時にそれは歴史観の変革にも寄与することとなる。

★ご近所の書店あるいは以下にてお買い求めください。http://www.amazon.co.jp/
http://www.heibonsha.co.jp/

                      
                 2010年9月27日 J.Mosa
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『失われた歴史―イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった』
マイケル・ハミルトン・モーガン著/北沢方邦訳
平凡社刊/四六判上製/448頁/定価3,360円(税込)
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『ベートーヴェンの生涯』書評 『洪水』第五号より

2010-04-25 22:18:54 | 書評・映画評

 

青木やよひ著 『ベートーヴェンの生涯』
(平凡社新書 920円+税)

詩と音楽のための『洪水』第五号
洪水企画/発売=草場書房(800円+税) P.98掲載の書評より転載
http://www.kozui.net/



        

                                 評者 池田 康

 今もって魔法というほかないベートーヴェンの音楽。それがどれほどの奇跡かは音楽を知る人はみな知っている。音楽の創造になんらかの形で携わる人間はいまだにベートーヴェンに圧倒されつづけているだろう。ひょっとしたらこの状態はあと百年も二百年も続くのかもしれない。

 しかしその力強く巨大で普遍的な音楽がどんな特殊な時代状況と社会体制から、そしてひとつの生涯の独自(ユニーク)形から生まれてきたかは、しっかりした評伝を読まない限り、既成概念の描く模糊とした図解を出ることはない。このたび刊行されたこの『ベートーヴェンの生涯』は、コンパクトな本ではあるが、ベートーヴェンが生きた時代と社会、そして彼の一歩一歩の足取りを、要点を的確に押えながら描き直しており、一読すれば読者の内にあったベートーヴェン像が劇的に刷新されることはまちがいない。
 
 とくにベートーヴェンをめぐる人間関係の解きほぐしが鮮やかである。ハイドン、モーツァルト、ゲーテ、サリエリ、ツェルニー、ルドルフ大公といった我々の耳になじみのある人間たち、そして初めて耳にするような、ベートーヴェンの周囲にいて彼の仕事の形成に非常に重要な役割を果たした人たちと、彼がどう交わり、どんな言葉をかわしたか、著者の眼差しのフォーカスは冴える。父親ヨーハン、甥カールとの複雑な関係もベートーヴェンの人生の陰をなす部分として丁寧に辿られる。更にベートーヴェンと女性たちとの関係には特別の注意が払われていて、ベートーヴェンの情熱のもっとも柔らかい部分にもっともふさわしいタッチで触れることができる。アントーニア・ブレンターノとベートーヴェンとの相思の親密な関係は著者の青木やよひがベートーヴェン研究者として世界ではじめて指摘しその正しさがその後実証された。彼の生涯におけるアントーニアという存在の重要さは本書をひもとけば読者は間違いなく直感できる。

 音楽の生成にまつわることでは、「〈英雄〉概念の音楽的表現」が交響曲第3番等でいかに結実したか、あるいは交響曲第9番第4楽章の奇妙に聞こえる呼びかけ「友よ、このような調べではない……」がいかなる宗教的な背景と見解を踏まえてのものなのか、ピアノソナタ「悲愴」がいかにセンセーションを巻き起こし音楽を志す若い人達を刺戟したか、ロシアの貴族との交遊がどのようにして一連の価値ある弦楽四重奏曲の誕生に結び付いたか、歌劇「フィデリオ」はなぜ世俗的成功から逸れた不運な道を辿ったか、等々、興味尽きない論述が続く。
 
 その他、面白く思われる箇所を挙げれば、父親の年齢操作によりベートーヴェンが「四十歳近くになっても自分の年齢を正確に把握できず誤認していた」こと。モーツァルトが少年ベートーヴェンのピアノ演奏を聴いて、周囲の友人たちに「彼に注目したまえ。いつの日か彼は、語るに足るものを世界に与えるだろう」と言ったが、おそらくベートーヴェンはこの発言を死ぬまで知らなかっただろうこと。1809年、ナポレオン軍の侵攻がオーストリアを脅かし、「包囲されていたウィーンはフランス軍のいっせい砲撃を浴びることに」なって、ベートーヴェンも弟の家の地下室で息を潜め、その後大変な物価高と食料不足に苦しめられたという苦難の事実。ベートーヴェンの耳から聴覚を奪いついには命を終わらせた病気が最新の研究によるとどうやら鉛を原因としていたらしいという知見。ピアノという楽器の発達とベートーヴェンの音楽キャリアとが並行しており、こういう機能をもったピアノがほしいという彼の要望もその発達の方向性に寄与したこと、などがある。フリーメーソンの思想やインドなど東洋の思想の研究がベートーヴェンの世界観をどう変えていったかということは交響曲第9番の話ともかかわってくるのだが、これは面白いという段階を超えて西洋精神史的に非常に重要なことのように思われた。

 「ベートーヴェンに私自身が出会ったのは、いまから五十年以上も前だった。十八歳で戦後の社会的混乱の中に投げ出されて、人生の指針を喪失していた私に、彼の晩年の『弦楽四重奏曲第一五番』(作品132)が、人間として生きる究極の意味を啓示してくれたのだった」と、あとがきでベートーヴェン研究に携わるようになった経緯を語る青木やよひは、惜しくも昨年十一月に亡くなった。憶測や偏見なくベートーヴェンにまみえるための、冷静でしかも情熱のみなぎる、非常にいい本を残してくれたと感謝したい。


ロシアの名作絵本『小さなお城』発売

2007-12-17 20:46:25 | 書評・映画評

マルシャーク 絵ワスネツォフ 訳片岡みい子
2007年12月12日刊行平凡社1680円


http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=newbooks.html


http://www.amazon.co.jp/

知と文明のフォーラム・ブログ管理担当、カタオカ★Mです。
企画のTOKさんと編集 j-mosa さん共々惚れこんだ絵本を翻訳・出版することができました。

カエルが野原に小さなお城を見つけ、
ネズミとオンドリとハリネズミが加わり、皆で仲良く暮らしていました。
そこへ腹ぺこオオカミとキツネとクマがやってきて、「中に入れろ!」と凄みます・・・。

7体の動物人形や着ぐるみを作って、子どもたちのお芝居に。
読み聞かせにもぴったり。
クリスマス・プレゼントに是非どうぞ。
原画は多色刷りリトグラフで美術作品としても評価が高く、大人も十分に楽しめます。

以下に、訳者あとがきを掲載しました。


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 民話をもとに子ども向けに書かれたこのマルシャークの戯曲『小さなお城』は、日本でも戦後さまざまな版が翻訳紹介され、長年上演されてきた名作です。今日も、ロシアはもとより世界各国でアニメーション映画やミュージカルになっています。

 初演以来マルシャークは、子どもたちの反応をみながら、『小さなお城』を何度も書き直したそうです。本書の底本は比較的初期の版で、台詞は短いながら、登場する動物たちの性格が明快に描かれています。 

 ロシアでは、昔から詩の朗読が盛んです。また、声を出して身体で演じる芝居は教育の現場で重視されています。私も、訪問先の学校でさまざまな演目を観る機会がありました。子どもたちは人形や衣装を作り、装置を描き、歌に曲をつけ、効果音や照明を工夫します。配役を決め、台詞を合わせ、とても楽しそうでした。『小さなお城』は、こうしたロシアならではの子ども文化のなかで繰り返し演じられてきたのです。

 いっぽう、豊かな自然に囲まれて育ったワスネツォフは、故郷特産のヴャトカ人形が大好きでした。泥で成型し、カラフルに彩色した素朴な味わいの人形です。彼は、おとぎ話やわらべ歌、遊び歌のためにたくさんの挿絵を描きました。この『小さなお城』の原画は多色刷りリトグラフですが、のちに水彩画版も描いています。ワスネツォフは挿絵の仕事をするかたわら、学校で美術を教え、後年おもちゃ研究所の所長になっていますから、よほど子どもとおもちゃが好きだったのですね。

 この『小さなお城』の絵をすみずみまでじっくり見てください。登場する動物たちのほかに、草花や木、鳥や昆虫までが独特の色づかいと筆致で丹念に描き込まれています。どの絵からも、ワスネツォフの自然に対する強い愛着、生き物への優しいまなざし、挿絵で子どもたちを喜ばせたいという熱意が伝わってきます。絵にこめられたこの情熱こそ、ワスネツォフが時代を超えて支持されてきたゆえんです。

 マルシャークの戯曲『小さなお城』を、ワスネツォフの美しい挿絵で紹介できることは大きな喜びです。絵本としてはもちろん、読み聞かせや芝居の脚本として活用していただければ、なお一層うれしく思います。


『敬愛なるベートーヴェン』

2006-10-07 00:20:46 | 書評・映画評

『敬愛なるベートーヴェン』を見て

 年末に封切りが予定されている映画『敬愛なるベートーヴェン』を、久しぶりの試写で先週見に行ってきた。

 事前に見たチラシでは、晩年のベートーヴェンと女性写譜師の師弟を超えた愛の物語とのこと。数々のエピソードの持主であるベートーヴェンだが、女性写譜師の話は読んだことも聞いたこともない。どうしてまた写譜師なのか? ほかにもっといい話がいくらでもあるのに。また以前の映画のように荒唐無稽の筋書きに辟易させられるのではないかと、半ばしらけた気持で出かけた。

 物語は、『第九』の演奏が四日後に迫っているのに、まだ合唱のパート譜が出来ていないという設定ではじまる。『第九』の場合、これは史実に反するのだが、他の曲ではこういう状況がしばしば起っていたので、まあ許容範囲といえよう。

 全体に、人に嫌われそうなベートーヴェンの変人ぶりと粗暴さが映画化されてふんだんに出てくる。そして、にもかかわらず彼の中には、神に対する本質的な敬虔さが宿り、音楽とはその神の声を音で表現することだという彼の創作の原点が、作曲家自身によってくり返えし語られる。それを、作曲家志望で彼を尊敬する若い女性コピストが、敬愛の念をもって受けとめるという構成になっている。

 女性写譜師はフィクションではあるが、一見二律背反的なベートーヴェンの本性をうつし出す鏡として彼女を設定した意図はよく伝わってくる。これまでの歯の浮くような映画と違って、そこにははっきりと一つのベートーヴェン解釈、いうならば哲学がある。 私自身のベートーヴェン像とは必ずしもすべて一致しないが、従来の音楽映画には見られない奥行きを持った力作といえよう。

 俳優たちの渾身の演技にも好感が持てる。
                                  10月6日 双子座


北沢方邦『音楽入門』書評抜粋

2006-06-22 13:45:03 | 書評・映画評

北沢方邦『音楽入門』には、「世界の音」が鳴り響いている。
 
 北沢方邦『音楽入門』(2005年11月平凡社刊)は、著者長年の哲学的思考に裏打ちされた、誠にユニークな音楽入門書である。普通の入門書と明確に異なる第1の点は、「音の持つ意味」という主題が全編を貫いていることである。熱帯雨林の笛と太鼓の響きから始まり、日本雅楽、ガムラン音楽、中近東の音楽、そして西洋音楽に至るまで、極めて広い領域をカバーしているにもかかわらず、全体が1つの交響曲のような緊密なまとまりを持っている。

■「出版ニュース」1月上・中旬合併号では、ここに焦点を当てた書評が載せられている。
  本書は音楽の意味を再発見するための音楽入門書で、全編を通して音楽を「記号」として扱う点が特徴である。
 これは音を単なる音記号の連鎖と考え、その表層的な連なりを美しく流麗に演奏することを推奨しているわけではなく、このようなことは「記号のニヒリズム」として逆に否定し、大切なのは音楽という記号にはその種族の伝統や文化、宇宙観が込められていることを自覚することだと書いている。

 『音楽入門』の記述のうちほぼ半分は、非西洋音楽に当てられている。
■「読売新聞」12月11日の吉田直哉氏の書評は、主にこの部分に触れている。これは短文でもあるので全文を紹介したい。
  「北沢さんが『野生の思考』の音楽版を書いてくれるといいんだがなあ」と亡き武満徹が言ったのは、彼がチェロとオーケストラのための『オリオンとプレアデス』を作曲した年だから、1984年である。
  この一対の星座が展開する「追いかけ、追いつき」は、オーストラリアのアボリジニ、アメリカ先住民ホピなどの重要な天文学的コードであった。日本の神話でもスバルとカラスキはスサノオの「天つ罪」をあらわす、という北沢説に刺激されてこの曲を構想した、と彼は打ち明けてくれた。
  それから20年。武満は残念ながら読めないが、彼の待ち望んでいたものがついに世に出た。本書である。熱帯雨林の奥の笛と太鼓から、中国古代の編磬と編鐘による天と地の音の交響。インドのラーガが描く宇宙そのものの情感。誤って未開と呼ばれてきた社会の、宇宙的ひろがりをもった音楽に力点をおいて、小型本ながら内容はずっしりと重い。

 この書評の影響力は大きく、『音楽入門』は今でも、書店の民族音楽の棚に置かれていたりする。本書は当然のことながら西洋音楽にも十分な目配りをしていて、私なども日頃聴いている音楽がまったく新しい相貌を持って立ち現れてくるのを実感したものだ。民族(俗)音楽と西洋音楽との関わりについては、
■「音楽現代」2月号の倉林靖氏がいい書評を書いている。
 今日のグローバル化社会のなかにあって、あるいは文化と社会の制度を全般的に見直さなければならないという風潮のなかにあって、西洋のいわゆる「クラシック音楽」のありようを相対化するとか、世界のなかの西洋音楽ということで改めて位置付けするということが随所で行われつつあるが、北沢方邦のこの『音楽入門』はそうした方向での格好の入門書であり概説書であり、かつ刺激的な問題提起の書となっている。単に内容が概説的であるというだけではなく、どの部分をとっても深い思索と知識に裏打ちされており、鋭く啓発的な問いかけを行っているのだ。こうした内容は、北沢氏が世界の民族(俗)音楽や邦楽にも、クラシック音楽にも、どちらにも等しく幅広い知識を持っており、かつ構造主義哲学や文化社会学などの面においても旺盛な著作活動を行ってきたひとだからこそ提出しうるものなのである。    
   ……
 民族(俗)音楽のなかにある天・地の宇宙論などの解説も新たに知ることが多く大変興味深いし、また西洋クラシック音楽の歴史を「人間の音楽」として思想的に、あるいは社会的に論評していくくだりは非常に啓発的で、新たな発見を促してくれる。
   ……
 こうした体裁の本にもかかわらずどこでも極めて真摯に考察を進めていることは尊敬に値する。これから「音楽」を考える人には誰でも読んでほしい、優れた「思索」の書である。

  『音楽入門』には「世界の音」が鳴り響いている。帯の文句ではないけれど、本書を読んで、音楽発見の旅に出かけよう!

2006年6月15日  j-mosa  


映画紹介

2006-04-01 18:09:57 | 書評・映画評

『アンリ・カルティエ=ブレッソン 時間の記憶』

 世界31カ国を訪れ、歴史的場面から独特のポートレート、市井の人びとの日常のなにげない瞬間まで、「激動の20世紀」を撮影したカルティエ=ブレッソンが、自作と人生を語ったドキュメンタリー映画。撮影されたのは2003~2004年。翌2005年8月には95歳で亡くなっている。写真家エリオット・アーネット、作家アーサー・ミラーをはじめ、親交があった人びとのインタビューも挿入される。

 彼は、「撮影は短気が一番、パッと撮って逃げろ」と笑う。
「いい写真は音楽的だ」
「即興と本能でフォルムが生まれる」
「見事な構図は演劇に似ている」など、
心に残るコメントがたくさんある。

 彼の「夢を撮ったような写真」や「多くを物語る写真」を大きなスクリーンで鑑賞し、彼が愉快そうに思い出話をする様子を見ていると、幸せな気分になる。「写真が人生を満たしてくれた」、「瞬間を選ぶ楽しさ・・・生も死もある。至福だよ」としめくくる。

 写真は不思議な媒体だ。人が写っていてもいなくても、殺伐とした廃墟でも凄惨な光景でも、落ち葉でも星空でも、「生きろ、生き続けろ」というメッセージを発している。それはきっと、被写体だけでなく撮影者の気配を感じるからだ。しかも、そのメッセージは映像よりはるかに強く伝わってくる。
(東京・渋谷ライズXにて初夏公開) カタオカ★M