一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その11

2008-05-24 21:32:54 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラその11

  働くことの意味を問う――黒澤明『わが青春に悔なし』  

 日本映画の巨匠たち、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、この三人に比べれば、私にとって黒澤明は、少し遠い存在だった。『羅生門』、『生きる』、『蜘蛛巣城』、『七人の侍』、『用心棒』、『天国と地獄』、『赤ひげ』など、主要作品は観てきたつもりだが、面白いものの、いまひとつ心に訴えるものに欠けるというのが、正直な印象なのである。

 何年間かごとに繰り返し観る映画がある。例えば成瀬巳喜男の『浮雲』や小津安二郎の『東京物語』などがそうなのだが、観るたびに受ける印象が異なる。それはそれらの作品の内容に少なからず多面性があり、歳を重ねるごとに新しい発見があるということである。他方、黒澤の作品は明解である。弱者へ暖かい眼差しを注ぐそのヒューマニズムには強く共感するが、芸術作品としてどうしても物足りなさを感じてしまう。染み入るような情感に乏しく、またテーマが直接的でありすぎて、考える楽しみを与えてくれない。

 今年は黒澤明の没後10年。それを記念して、NHKのBSで全作品を放映中である。先日、初期の作品である『わが青春に悔なし』を観た。なにやかや述べているものの、時間をみつけては黒澤作品を鑑賞するのは、やはり面白いからである。映画作品として、この要素は一番大切なものなのかもしれない。黒澤は現実をよく心得ていたといえる。それと、画面が構築的で、優れた建築物を観る思いがする。美的感覚の鋭さ、雄大さ、また、効果的なクローズアップの用い方など、黒澤作品の特徴がこの初期の作品からも十分にみてとれる。

 『わが青春に悔なし』は、1933年の京大・滝川事件と41年のゾルゲ事件に題材をとった、黒澤の戦後第一作である。戦中の思想弾圧から解放されて、彼ははじめて自分の考えを作品に反映させることができた。それも渾身の剛速球である。テーマは明解で女性の自己実現。今でこそ珍しいテーマとはいえないが、1946年にこういう映画を作った黒澤には敬意を表さざるをえない。

 二人の男性から想いを寄せられる、大学教授(大河内伝次郎)の令嬢幸枝を演じるのが原節子である。男性は二人とも教授の教え子で、秀才型で穏健な糸川(河野秋武)と、左翼思想の行動家野毛(藤田進)。自由思想家ということで大学を追われようとする教授を支援する京大生である。彼女は二人の愛の狭間で迷うが、迷いはそれだけではない。ピアノを弾き、お花を習いという、いわゆる花嫁修業の毎日の生活に苛立つ。母親の望みどおり糸川と結婚することも考えるが、結局は自立を求めて、一人東京に出る。タイプが打てることで職は得られるものの、その仕事で自分の空虚を埋めることができない。身も心も投げ出すほどの仕事がしたい、と思い続けるのである。

 この映画は、働くことの意味を根底から問うものとなった。単に経済的自立を超えて、仕事に「生きがい」を求める女性を登場させたのである。さらにいえば「自由」を求める女性を。彼女は、「自由の裏には厳しい自己犠牲と責任がともなう」という父親の言葉を常に意識して生きていくことになる。

 野毛と激しく結ばれたのも束の間、彼はスパイの嫌疑で逮捕され、獄中で死ぬ。そして幸枝は、野毛の両親を助けるために田舎に赴く。スパイを出したとして村八分にされた家で、彼女は慣れぬ鍬を手に、田んぼを耕す。この労働は死ぬほどに辛いものであったはずである。しかし彼女は、ここではじめて仕事に生きがいをみいだすのだ。彼女の労働は老いた義父母を助け、愛するひとにもつながるものであった。働くことの意味は、関係性のなかにこそあるのだと、実感させられる。

 幸枝を演じた原節子が素晴らしい。小津安二郎や成瀬巳喜男の映画で幾度となく彼女の姿は観ているのだけれど、この映画の原節子は際立って美しい。優美さはもちろん、強さ、激しさから弱さ、残酷さまで、原節子のすべてが堪能できる。人間原節子をここまで表現しえたとは! やはり黒澤明は、尋常な監督ではないようだ。

1946年日本映画
監督:黒澤明
脚本:久板栄二郎
撮影:中井朝一
音楽:服部正
出演:原節子、藤田進、大河内伝次郎、河野秋武、志村喬、杉村春子

2008年5月16日 
j-mosa


楽しい映画と美しいオペラ―その10

2008-05-13 12:09:14 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その10

イスラームの寛容――モーツァルトのオペラ『後宮からの誘拐』

 現代の世界は、アメリカの主導する経済のグローバリズムに、すっかり席巻されている。それに対抗しうる政治勢力はきわめて少なく、イスラームはその中の最大のものといっていいだろう。もちろん、自爆テロをはじめとするその戦いの方法は受け入れることができないが、イスラームの中に、反グローバリズムの確かな精神的背景を探り出したい気持ちは強くある。

 このブログの2007年8月28日号で、北沢方邦先生は中世のイスラーム文明について書かれている。それによるとイスラームは、数学、化学、医学、天文学、建築学、航海術、さらには哲学、文学、音楽と、あらゆる文化の領域にわたって豊かな成果を生み出している。これらの文化的遺産がなければ、現代の世界はまったく異なったものになっていただろう。そしてその豊穣な文明が生まれた背景には、イスラームの宗教的寛容があったという。ユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教が、イスラーム教とともに併存していたというのだ。グローバリズムを推進する現代世界の主流勢力はもちろん、肝腎のイスラームも、残念ながら、もっとも大切なイスラームの精神、「寛容」を学んでいないということになる。

 『後宮からの誘拐』は、モーツァルト14番目のオペラで、1782年に初演された。1782年といえば、モーツァルトがザルツブルクの宮廷から飛び出し(つまり脱サラをし)、ウィーンで自由な音楽家として出発した翌年にあたる。コンスタンツェ・ウェーバーと結婚したのもこの年で、いわばモーツァルトがもっとも活力にあふれ、またおそらく幸せな時期でもあったろう。明快なメロディーと弾けるリズム、若さあふれる意欲作である。そしてこの作品を特徴づけるもうひとつの大きな要素が、「イスラーム」なのである。

 13世紀末に登場したオスマン帝国は、16世紀にはアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる勢力を持ったが、17世紀末からは衰退に向かっていた。モーツァルトの時代にはもはや脅威ではなくなり、むしろその文化は、異国情緒を醸し出すオリエンタリズムの魅力で、多くの芸術家たちを惹きつけていたようだ。モーツァルトも、有名なピアノ・ソナタK331やヴァイオリン協奏曲K219に、トルコ風の音楽をつけている。トルコ風の音楽とは、トルコの軍楽隊の音楽で、何よりも弾けるようなリズムが特徴である。シンバル、トライアングル、大太鼓など、打楽器が大活躍をする。

 『後宮からの誘拐』は、まず序曲からしてトルコそのもの。指揮者のミンコフスキーの大きな丸っこい身体が、右に左に、上に下に、リズミカルに躍動する。大成功の初演に臨席したモーツァルトの得意満面の顔も浮かんでくるようだ。そして、トルコ音楽をもっともよく体現しているのが、後宮の番人(この上演では太守の秘書官)オスミンである。最初の台本ではほんの端役だったそうだが、モーツァルトが大きく手を加えて、このオペラの一方の要の役となった。恋人の救出を阻むいわば悪役なのだが、どこか憎めないキャラクターで、魅力的な音楽がふんだんに与えられている。『後宮』の魅力は、何よりも、このオスミンにあるといっても過言ではないだろう。モーツァルトは、大衆の心をつかむ術をよく心得ていたと、感心せざるをえない。

 オスミン役のフランツ・ハヴラタ、囚われの女性コンスタンツェ役のクリスティーネ・シェーファーなど、歌手陣は総じて巧みで、ミンコフスキーの指揮も最後まで躍動感を失わない。申し分のない演奏といえる。しかし、この上演を特別に印象深くしているのは、何よりも、パレスチナ人であるフランソワ・アブ・セイラムによる演出である。

 この上演は現代劇である。後宮は有刺鉄線で囲われ、武装した兵によって厳重に守られている。こうしてのっけから、イスラームと西洋世界の対立の構図を見せつけられる。太守セリムはビジネスマンなのか、仕事着はスーツである。しかし室内ではアラブ風の服装で、そこではイスラームの音楽が奏でられている(これはもちろんモーツァルトの原曲にはない)。彼はアラビア語(?)でコーランを読む。後宮は濃密なイスラームの世界であり、太守セリムはその伝統を守りながらも、西欧の知識にも通じた知識人なのである。心の通じ合わない愛などありえないこともよく理解している。コンスタンツェを愛しながら、彼女にそれを強要することはない。

 この太守役のアクラム・ティラウィがなかなかいい。テル・アヴィヴ大学で演劇を学んだ人らしいが、若々しくて情熱的、しかも知的という、女性に好まれる要素をたっぷりと備えている。囚われのコンスタンツェが、抗いながらも惹かれていくのも、もっともだと思わせる。恋人ベルモンテは、危険を冒して彼女を救いに来ているのだが、人間的魅力という点では太刀打ちできない。

 芝居としてのハイライトは最後の場面。後宮から逃走しようとするベルモンテとコンスタンツェたちは捕らえられ、まさに死刑に処せられようとする。ベルモンテが太守の宿敵の息子だとわかってさらに危機は深まる。しかし太守セリムは、彼らの命を救うのである。憎しみには、憎しみにかえて、寛容で応えるほかはない、というのが太守の哲学なのだ。当時の啓蒙君主・ヨーゼフ2世の寛容を称える意図はあったにせよ、イスラームの太守の道徳律が、西洋人ベルモンテ一族(スペインの貴族)のそれよりもはるかに勝っていることを、このオペラは明確に伝えている。原曲の精神を踏まえたうえで、この上演は、太守の美しい旋回舞踏で幕を閉じる。中世イスラームの神秘思想スーフィズムの、神との一体感を表現するのが旋回舞踏だといわれている。私たちは今こそ、イスラームの精神を、真剣に学ぶ必要がありそうである。

1997年8月 ザルツブルク・レジデンツ
指揮:マルク・ミンコフスキー
演出:フランソワ・アブ・セイラム
出演:
[コンスタンツェ]クリスティーネ・シェーファー   
[ベルモンテ]ポール・グローヴズ   
[ブロントヒェン]マリン・ハルテリウス
[ペドリルロ]アンドレアス・コンラート   
[太守セリム]アクラム・ティラウィ   
[オスミン]フランツ・ハヴラタ   
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団、
ウィーン国立歌劇場合唱団

2008年4月17日 j-mosa


〈身体性〉とは? 第2回(4回連載)

2008-05-10 00:02:21 | 〈身体性〉とは?


4回連載(毎月10日掲載) ■青木やよひ

 

2. 感性のエコロジー 

 現代の人間が身体的にかかえこんでいる問題点として、一方では環境の人工化による身体そのものの機能低下と、それにともなう五感の衰えがある。(人間は自分の手足で、つかむこと歩くことをせず、また目でたしかめ耳をすませ口で味わうことを怠れば、思考さえも衰えてしまうという。)また他方では、自然とのかかわりの喪失による感性の貧困化がおこるだろう。そして問題は、こうしたことが人間の画一化と管理化に、すなわち自由の喪失に、つながってゆくことである。なぜならば、人間の自由とは抽象的にあるのではないからだ。本能としての五感が衰え、日常的な欲求の充足さえもみずからの選択によらず、コマーシャル的画一化に依存するようであれば、それはとりもなおさず、「飼いならされる人間」への第一歩にほかならない。

 野生動物が家畜と異なる点は、危険に身をさらしながらも、みずからの判断と選択によって生きる自由を保持していることである。人間の場合もまた、何を食べ何を身につけるか、あるいは何を受け入れ何を拒否するかといった日常的な判断と選択によってみずからの性格を決定し、またその選択自体がそれぞれの価値観にもとづく自己表現なのである。もちろん、状況によっては些細な選択は無意味になる。飢えに瀕すれば味覚は問われない。しかし、どんな場合にも、危険を告げる本能の働きと判断力(=野生の思考)を失ってしまえば、家畜と同様に人間もまた、自分の安全を他人の手にゆだねるほかなくなってしまう。これが、感性の喪失こそが管理主義、あるいは全体主義への道であると私が危惧するゆえんである。

 これまで一般に、男性が論理的・理性的であるのにたいして女性は感性的・直感的であるとされ、社会生活において、それがあたかも女性の劣等性であるかのように言われてきた。だが、その考えはいまや逆転されなければならない。もちろんこうした人間の資質には個人差が強く、性差だけがその決め手ではない。いわば、人間ひとりひとりの、うちなる女性性の回復が問われているのである。しかし、その母性機能ゆえに、女性はみずからの身体の関心度が高く、男性よりも身体感覚において敏感たらざるをえない条件をそなえている。心の砂漠化に抗して感性のエコロジーを求めようとするとき、これまでマイナスに記号化されてきたその身体性を、女性みずからがプラスに持ちかえるべきではないだろうか。