一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

伊豆高原日記【121】

2012-03-26 13:55:21 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【121】
Kitazawa, Masakuni  

 梅はすっかり散り、駅前のオオカンザクラも盛りを過ぎ、淡紅色の花弁を散らせはじめた。まだ冬枯れの光景のなかで、コブシの花が一斉に咲きはじめ、陽光を浴び、あくまで青い空をまばゆいばかりの純白で彩り、鳴き交わすウグイスの声をひきたてている。

フクシマの教訓  

 大震災一周忌に、メディアは多くの特集を組んだ。被災地の現況や被災者たちの声を伝える映像や記事には感動的なものも多くあったが、フクシマの意味を徹底的に検証し、報道するものはほとんどなかった。死者を鞭打つつもりはないが、死去した吉本隆明は、この大事故にもかかわらず、死ぬまで原発推進または依存を口にしていたという(ついでにいえば、さして深くもない思想を晦渋な表現で語るこの手の「思想家」をメディアは好むようだ)。  

 だれも指摘していないが、福島第一原子力発電所のレベル7というこの大事故が、この程度の被害で済んだのはほとんど奇蹟といっていい。古風な表現でいえば「天祐」つまり天の助けである。「ヴィラ・マーヤ便り」第4号でも発言したが、3月11日から水素爆発のあと数日まで、この季節にはめずらしい冬型気圧配置で、寒い北西の強風が吹きつづけていた。たしかに被災者の方々にとっては耐えがたい寒さであったが、そのおかげで恐るべき高濃度放射能の大半は太平洋に吹き散らされたのだ(推測にすぎないが約60パーセント以上と思われる)。その後風は一時南東に変わり、放射能は飯館村付近に達したが、また北西・西・北などに風向きは変わった。  

 原発事故にとって風向きは決定的であり、爆発直後のもっとも恐ろしい高濃度の放射能がどこにむかうか、それが被害の規模と地域を左右する。チェルノブイリでは地元のウクライナより北西のベラルーシの被害がひどかったし、かなりの高濃度放射能はバルト海を超えてスウェーデンにまで達した。その後風向きが変わり、東欧諸国やイタリア、さらにはトルコにまで放射能はばらまかれた。  

 同じレベル7でもフクシマの放射能放出量はチェルノブイリの3分の1程度といわれているが、それでも当時仮に北東からの強風が吹いていたとしたらどうなったか? いうまでもなく人口数千万人を抱える首都圏が直撃されたはずだ。200キロ離れているといっても、水素爆発によって高空に達した高濃度放射能は、風力によっては200キロ程度は優に飛ぶ。想像力を働かせなくてもこの恐るべき事態は理解できるはずだ。数千万人をどうやって避難させるのか。避難所は? 避難場所は? 水は? 食糧は?  

 全国54基の原発のすべてについて、このフクシマ規模の事故が起きたと想定して、放出される放射能の総量、その季節による平均的風向き・風力などの変数を入力してのシミュレーションはいくらでもできるはずである。それによってハザード・マップを造ってみるといい。日本列島にこれだけの数の原発を造ることがいかに無謀であるかわかるはずである。  

 そのうえ無害となるまで約十万年を要する高濃度核廃棄物の処理はまったく未解決であり(「再処理」などというのはたんに使用済み核燃料からプルトニウムを抽出するだけにすぎない)、それらは原子力発電所の構内に蓄積されつづけている(たとえ全原発が停止したとしても、これらの危険物から放射能が漏れないという保証はない)。地下深くに埋めるといってもこの断層だらけの地震列島のどこに埋めるのか。もちろんどこの自治体も拒否するだろう。  

 いま全国ほとんどの原発は停止しているが、幸いにしてまだ深刻な電力不足は起きていない。再生可能エネルギー開発の多様性を図り速度をあげることはもちろんだが、技術大国日本の底力を発揮すれば、省エネルギー技術ももっと飛躍できるはずである。また天然ガスも2酸化炭素排出も少なくて済み、有力なエネルギー源となっている(ただし現在の北米でのシェール[頁岩]ガス開発技術は、多量の有毒化学物質を使うため、深刻な環境汚染・破壊を引き起こしている。開発技術の転換が必要である)。  

 とにかく、いまこそ原発依存を脱することを声を大にして叫ばなくてはならないし、またそれが可能であることも明確にしなくてはならない。不偏不党をうたうメディアにしても、この明晰な事実は伝えてほしい。


北沢方邦の伊豆高原日記【120】

2012-03-11 18:01:58 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【120】
Kitazawa, Masakuni  

 三月も半ばとなれば、さすが陽射しは暖かである。久しぶりの晴れ間にウグイスたちが一斉に鳴きはじめた。初鳴きは一週間以上も前だが、梅の開花といい、ウグイスの初鳴きといい、例年になく遅かった。伊豆高原駅構内の数本の河津桜が、これも遅く淡紅色の花を満開にさせているが、奇妙なことにそれらの花枝に緑の新芽もではじめている。

東日本大震災一周忌  

 東日本大震災の一周忌である。国立劇場で、地震の発生時刻に合わせ、政府主催の追悼式典が行われた。野田首相の形式張った追悼式辞より、天皇のおことばのほうが、はるかに真情がこもり、感動的であった。  

 それはともかく、あの大震災とその余波の数カ月も、そしていまも、私はそれに対する言語をずっと失ったままだ。膨大な数の死者や行方不明者への追悼の心、被災し、また放射能に避難を余儀なくされたこれも膨大なひとびとへのおもいやりの心を失ったわけではけっしてないが、それを表現する言葉がない。  

 むしろ私自身が被災者であったなら、あるいは肉親や友人たちを失っていたら、表現の言葉は溢れ、追悼の詩さえ書けたかもしれない。  

 だがいま私の心に残るのは、巨大なむなしさだけである。  

 たしかに正確な記録のない古代はともかく、日本列島を襲ったM9というかつてない巨大地震や巨大津波は「想定外」かもしれない。それによって生じた福島第一原子力発電所の大事故も「想定外」であったかもしれない。だが前者の「想定外」はまだしも、後者の「想定外」はけっして許されることばではない。なぜなら私を含めて、世界の心あるひとびとや専門家たちが、1960年代から原発の危険性、とりわけ地震列島であるわが国に建設することの危険性を訴えつづけてきたにもかかわらず、政府もメディアも無視しつづけ、少なくともフクシマまでは、大多数の国民に安全神話を植え付けてしまったからである。  

 もうこの主張は繰り返したくない。なぜなら、大事故が起こらないかぎりだれも原発の危険性に耳を貸さなかったように、この文明が現実に破滅しないかぎり、近代文明が完全な袋小路にはいりこみ、出口のない状態にあること、そして文明の構造やシステムそのものを変革しないかぎり、いつか破滅にいたるであろうことに、だれも耳を貸さないからである。  

 いま私の耳の奥に、『バガヴァッド・ギーター』の恐ろしいクリシュナのことばが、雷鳴のようにひびく:  

 「われ、世界を滅亡に導く大いなる死(時間)なり。諸世界を打ち砕くためにここに来たれり!」(11-32)  

 それと不可分に、クリシュナのもうひとつの声が静かにひびく:  

 「汝らの思考のなかにわれ(クリシュナ)いまさば、わが恩寵により、汝らすべての苦難を乗り越えん。もしおのれに固執して耳を貸さねば、汝ら破滅せん」(18-58)  

 いま文明の皮相なゆたかさに酔い痴れている人たちには、ぜひ『バガヴァッド・ギーター』を紐解いてほしい。

訂正●日記【118】のグエン・ティエン・ダオさんの綴りはNguyen(yが入る)、
またグエン王朝の漢字は「玩」ではなく「阮」の誤りでした。訂正します。


北沢方邦の伊豆高原日記【119】

2012-03-07 10:12:48 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【119】
Kitazawa, Masakuni  

 例年なら1月の末か2月初めに満開の梅が、ようやく5分咲き程度になっている。わが家の遅咲きの紅梅もやっとほころびはじめた。昨日は冷たい雨だったが、今日は晴天に一転、強い南風とともに4月並みの暖かさだ。植物たちも驚いているだろう。強風に乗ってカラスたちが文字通りのウィンド・サーフィンをしている。風上に向けて羽ばたき、身を翻して風に乗って流され、繰り返し楽しんでいる。

物理学は近代科学の限界を超えられるか?  

 執筆中の本の第4章を書く必要から、リサ・ランドールの近著『天国の扉をノックする』(Randall,Lisa. Knocking on Heaven’s Door; How Physics and Scientific Thinking Illuminate the Universe and the Modern World. 2011,Harper Collins,New York.)を大急ぎで読了した。いうまでもなく題名はボブ・ディランの歌詞からの借用である。  

 彼女の立場に立って最新の物理学とその量子論や宇宙論が紹介されていて、その点では大いに読むに値したが、その結論や哲学はあまり満足させてくれるものではなかった。  

 彼女の基本的な物理学的立場は、ストリング理論にかなりの足場を置きながらも、いわゆる標準モデルまたは標準理論を拡大し、それを彼女の主張する4次元空間理論(時間を入れると5次元)で補い、完璧なモデルに仕上げようとするものと思われる。  

 つまりストリング理論によれば、標準モデルのいわゆる粒子は約10のマイナス12乗から18乗センチメートルの微小空間に存在するとされるが、それはプランクの長さとよばれるほとんど絶対的な微小空間(10のマイナス33乗センチメートル、それを超えると時空は崩壊する)に存在するストリング(弦)の多様な振動のあり方の現れにすぎないとする。さらにそれは数学的解析によって10次元または11次元の時空、つまり多次元超空間(ハイパースペース)に存在していることが明らかとなり、そのために必然的にわれわれの住む4次元の時空を超えた時空、つまりわれわれにとって隠された世界あるいはリアリティが存在しなくてはならないと考える。  

 さらにストリング理論は、われわれの世界を含めたそれぞれの世界がブレーンを形作っているとする。たとえばもしわれわれが2次元の空間、つまり平面に住んでいるとすると、われわれはその世界に閉じ込められ、3次元の空間がどのようなものであるか想像さえできないが、3次元空間の世界から見ると、2次元空間はまさにブレーン(膜[メンブレーン]からのテクニカルな造語)そのものなのだ。だがもしわれわれが4次元空間に住んでいるとすれば、いまわれわれの見ている3次元空間そのものが全体としてブレーンとなり、そこからいかなる物質やエネルギーも4次元空間に脱出することはできない。  

 ただ重力だけは別である。重力だけは2次元から3次元、あるいは3次元から4次元へとそれぞれの空間のブレーンを貫くことができるとされる。  

 ランドールはストリング理論のこの多次元とブレーン概念を借りて自説を構築する。つまり彼女によれば、宇宙はストリング理論の主流が主張するように10次元や11次元あるいは無限次元の多重世界ではなく、この目にみえる3次元空間にたわんで(Warped)接続している唯一の4次元があるのみだという。その議論の詳細は省略するが、それによって標準理論のかなりが修正されながらも成立し、さらにLHC(ジュネーヴにある大ハドロン衝突機[ハドロンとは標準理論で軽い粒子レプトンに対して原子核のプロトンなど重い粒子をいう、レプトンよりもハドロンの破壊には大きなエネルギーが必要であり、LHCは現在そこまで出てはいないが14テラ(兆)電子ヴォルトという目下世界最大の出力をもつ])によって4次元に流出する重力が測定可能だとする。それが検出されれば彼女の理論が正しいことになる。  

 この主張自体はきわめて興味深いし、もしLHCがそれを証明したら科学上の一大ニュースとなるが、われわれとしてはその成功を見守るしかない。  

 ただこの400頁を越す本のかなりの部分が、LHCのきわめて技術的な説明に費やされていて彼女の主張への強い関心をそらしているし、また宗教と科学との関係を長々と論じているのも興を削ぐ。後者は明らかにダーウィンの進化論さえ拒絶する宗教保守派が一部君臨する現在のアメリカの知的風土を如実に示しているが、この問題を含めて、物理学の最先端を走っているこの秀才をもってしても、いまだに近代を超える視点をもてないでいることへの失望が読み終えたひとつの感想であった。  

 すなわち彼女は、もちろん信仰の自由は保証しながらも、合理性につらぬかれた科学的思考のみが、たんに技術的進歩によって社会を発展させるだけではなく、その安定や秩序をもたらすのであり、それが人間の根本的な原理を形成するという。  

 だがこの科学が「合理性」にもとづき「唯物論的」であるという考え(結論で述べられている)そのものが、明かに近代固有の先入観である。デカルト的二元論は感性や身体性に対して近代理性を優位に置き、そこからすべての領域での「合理性」の追求がはじまった。だが経済合理性ひとつをみても、その暴走が世界を破滅の淵に導いている。必要なのはこうした「合理性」ではなく、身体性をも統合する弁証法的理性なのだ。それはすでに古代アジアの諸思想が主張してきたことであり、西欧でもプラトンやスピノーザをはじめ多くの異端の思想家たちが主張してきたことである。またこの弁証法的理性によってのみ、隠されたリアリティまたは世界を含む宇宙の全体像が明らかとなるのだ。  

 そろそろわれわれは、中世末期以来西欧の知的世界を支配し、デカルト的二元論を生みだしたアリストテレス主義、つまりこの目にみえる世界のみをリアリティとする思考体系に決別を告げなくてはならない。