楽しい映画と美しいオペラ―その6
男がいなくても生きていけるか?――成瀬巳喜男『流れる』
小津安二郎、溝口健ニ、成瀬巳喜男といった、いわゆる曰本映画の巨匠たちの映画は、リアル・タイムでは観ることができなかった。しかし私は、そのなかの名作といわれるものの多くを、銀座の並木座で観ることができた。会社が目黒区の東急線沿線にあった1994年から2000年の6年の間に、通勤途上にあった銀座で途中下車して、あるいは休日に出掛けて、集中的に日本映画を観たものだった。
並木座が姿を消してもう何年にもなるが、その存在がなくなったことは、日本映画にとって大きな損失だと思わざるを得ない。巨匠たちの映画の多くはDVDで観ることはできるにしても、映画はやはり映画館で観るのがー番であろう。何本かの予告編が終わって、さあ本番が始まるぞというときの心のときめき、エンディングの音楽とともに味わう終演時の静かな余韻、これらも含めて、映画を観るということなのだから。
しかしながら、これから書こうとする成瀬巳喜男の『流れる』は、並木座でも観逃がした映画で、NHKのBSで放映したものの録画を観たのだった。成瀬の生誕100年を記念して2005年に集中的に放映が行われたが、それから2年も経ってからのことである。
成瀬巳喜男は、女性映画の名匠、とよくいわれる。確かに彼の映画では、主演女優がとりわけ際立つ。『浮雲』の高峰秀子をはじめ、『めし』の原節子、『晩菊』の杉村春子などがすぐに思い浮かぶが、この『流れる』では、山田五十鈴の存在感が圧巻である。しかも例えようもなく美しい。
彼女の若いときの映画、『浪花悲歌(エレジー)』や『祇園の姉妹』(ともに監督は溝口健二)も観たことはあるのだが、それほどきれいだとは思わなかった。むしろ黒澤明の『蜘蛛巣城』(シェイクスピア『マクベス』の翻案)での「マクベス夫人」が、演技派女優として印象に残っている。ところが、この『流れる』の山田五十鈴の美しさはどうだろう。私は何よりも、その眼差しに魅了されてしまった。映画が作られたのは1956年。彼女は39歳の、まさに女ざかりであったのだ。
山田五十鈴の役柄は落ちぶれかかった芸者置屋の女将。しっかりものの娘が高峰秀子、芸者2人に杉村春子・岡田茉莉子、お手伝いに田中絹代という豪華キャストである。そして彼女たちが実に生きいきとスクリーンを動き回る。それぞれの人物造型が的確で、それぞれの生活のありようが明確に観る者に伝わってくる。これは成功した成瀬映画に特有のもので、終映後には充実感と、同時にそのあまりの濃密さ故に、いささか疲労感を覚えることにもなる。
山田五十鈴演じる女将は、芸事は一流だが、人の好さに問題がある。経営者としての成り立ちは覚束なく、大金をどうしようもない男に貢いでしまう。借金で首が回らない彼女の日常を、田中絹代演じるお手伝いが支える。この映画の観どころのひとつは、山田五十鈴と田中絹代、この2人の大女優の見事な対照である。化粧鏡に己を映して、山田が玄人と素人の違いを述べるくだりがある。近頃はその差がなくなりつつあると嘆くのだが、化粧する山田は息を呑む艶やかさ、その姿を後ろから見守る田中は穏やかな微笑をたたえている。そしてその2人の姿が鏡に映る。秀逸な場面である。
「男がいなくても生きていける女がいるなんて信じられない!」。若い燕に逃げられた杉村春子演じる芸者の愁嘆場での言葉であるが、実はこの映画、男は登場しない。仲谷昇、宮口精二、加東大介などは登場するものの端役で、恋を語るような役柄ではない。男が登場しないにもかかわらず、この映画は、極めて濃厚な男と女の物語になっている。なぜか。それは、登場する女優たち一人ひとりが、その背後に、男の重い影を背負っているからである。姿のない男たちとの葛藤が、観客の胸を打つ。女優たちの演技力であり、それを引き出した成瀬の力量は並ではない。
山田五十鈴と杉村春子の、真剣な三味線の稽古の場面で映画は終わる。家を借金のかたに取られた山田は川向こうに落ちゆくのだろうし、田中は里に帰り亡き夫と子どもの弔いをするのだろう。先は見えないにしても、杉村も高峰も、何とか生き延びていくはずだ。三味線の音は、寂しく、しかし力強い。隅田川はまた、何ごともなかったかのように流れてゆく。
1956年●日本映画
監督:成瀬巳喜男
出演:山田五十鈴、田中絹代、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子、栗島すみ子
2007年7月21日 j-mosa