一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【98】

2011-03-24 07:30:27 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【98】
Kitazawa, Masakuni  

 ようやくウグイスが試し鳴きをはじめた。緋寒桜はもう葉桜で、コブシの白い花が満開だというのに、相変わらず寒い。被災地の方々の苦労が思いやられる。福島第1原発も、チェルノブイリ並みの最悪事態は避けられそうだ。 

 私の『感性としての日本思想;ひとつの丸山真男批判』(2002年、藤原書店)の、金容儀教授のご努力による韓国版が近く発行の予定だ。以下に「韓国版への序文」を転載する。最後に今回の大災害に対する韓国の支援への感謝の辞を付け加えたのだが、金教授からまだ返事のないところをみると、間に合わなかったのかも知れない。

韓国版『感性としての思想──ひとつの丸山真男批判』序文  

  この本の最初の外国語訳が韓国語であることは、私にとって、光栄であるとともにきわめて喜ばしいできごとである。

 

なぜなら韓国は、隣国であるだけではなく、世界でもっともすぐれた表音文字の体系ハングルを、みずから生みだした創意の国だからである。原シナイ文字からギリシア、ローマなどいくつもの文明を経由して完成されたアルファベットやキリル文字をはじめ、母音と子音が不可分という世界でも特異な音韻体系をもつ日本語の表音文字も、中国の漢字の部分的借用(片仮名)や草書体の流用(平仮名)によって創られたのであり、ハングルのようにみずからの創意で生みだされたものではない。こうした国で私の著書が評価されることの喜びは、おわかりいただけることと思う。

 

だが同時に、韓国版への序文を書くことに、私は複雑な感慨を覚えざるをえない。なぜなら、日本の帝国主義が朝鮮半島に対して過去に冒した大きな過ちは、いまなおわれわれ自身にさえも心の傷として残っているからである。そのうえいまもごく一部の知識人たち、不幸なことにメディアに影響力のあるごく一部の知識人たちは、歴史認識のレベルではあるが、その過ちを継承しつづけている。

 

しかし逆説的ではあるが、そのことには大きな理由がある。つまり日本の多くの知識人は、みずからの文化のもっとも奥深い本質にまったく無知だという事実である。みずからの文化の本質を理解できないものは、異文化を理解することはできない、というのは人類学の鉄則であるといっていい。

 

なぜこうした誤りやゆがみがもたらされたのか。それはいうまでもなく、明治近代化の誤りやゆがみが、そのまま知や学問の領域に反映してきたからである。たしかに帝国主義的な国家目標や戦略が破滅を招いたことは、戦後ひろく認識されてきた。だがその反省が逆に、明治期に福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」のいっそうの徹底化、いいかえれば内なる《日本人性》や《アジア性》の徹底した否定と、欧米の知や社会の規範としての《合理性》の全面的な受容をもたらしたのだ。

 

これが丸山真男に代表される「戦後民主主義」の思想的潮流にほかならない。たしかに戦後民主主義は、明治近代化に郷愁を抱く保守派やナショナリストたちの国家目標や戦略に異議を唱え、一九六〇年のいわゆる安保闘争によって、わが国の進路を近代的民主主義と経済的高度成長の方向に大きく転換させた。だが知の領域では、左翼的あるいはリベラルといった違いはあるにしても、明治近代化の一側面である「脱亜入欧」の促進に対して、異議申し立てはほとんど存在しなかった。世界での日本の特殊性──それも皮相な指摘にすぎなかったが──を主張する一時期の「日本人論」に代表されるような疑似ナショナリズムにしても、「脱亜入欧」の前提に反対するわけではなかった。

 

そのなかで、歴史認識のレベルで誤りを継承しつづけているひとびとのみが、日本の真の伝統ではなく、明治近代化によって徹底的にゆがめられた《伝統》なるものを「脱亜入欧」に対置し、明治ナショナリズムの復権を声高に叫んでいるにすぎない。だが公教育の場で依然として正しい歴史認識が徹底していない日本では、こうした明治ナショナリズムの一般的な復権の危険が大いにありうるといってよい。たとえば、一昨年より各年末に放映されている司馬遼太郎の原作によるNHKのいわゆる大河ドラマ『坂の上の雲』は、日清・日露両戦争という日本帝国主義の興隆期を、歴史観や歴史認識の問題を棚上げして描くことによって、明治ナショナリズム復権に加担する危険を冒している。

 

西欧合理性への信仰や「脱亜入欧」の徹底という戦後民主主義と、ゆがめられた伝統にもとづく明治ナショナリズム復権の主張との不毛な対立は、もはや終わらせなくてはならない。通信交通手段の急速な展開とIT革命に裏づけられたグローバリゼーションの進行は、もはや妨げることはできない。そのおかげで相互に「近くて遠い国」であった韓国と日本は、「近くて近い国」へと変貌しはじめたのだ。

 

だが他方、瞬時に世界をかけめぐる巨大流動資金によって経済的世界制覇を試みたグローバリズムの破局と終焉は、二十一世紀の世界を新しいリアリティに直面させている。それは、自然における生物多様性のたんなる保存というよりも復活が、人類の生物学的生き残りを保障するように、人間の文化の多様性の復活が、人類の知的で身体的な創造性の保障となるということである。そのためにはそれぞれの種族や国──国家ではない!──が、自己の文化や思考体系の本質を理解し、それによって異文化の真の理解にいたらなくてはならない。

 

この本が、韓国と日本相互の真の理解に少しでも貢献できれば、これにまさる幸いはないと考えている。最後に、この本を評価して全南大学のセミナーのテクストとして使用していただいただけではなく、翻訳と出版の労までとっていただいた金容儀教授に心からお礼を申しあげる。

 

     二〇一一年三月

                       北 沢 方 邦


北沢方邦の伊豆高原日記【97】

2011-03-17 17:06:44 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【97】
Kitazawa, Masakuni  

 三月も半ば過ぎだというのに、真冬並みの寒さである。被災者のみなさんにはほんとうにお気の毒だが、この冬型の気圧配置とその強い北西の季節風のお蔭で、壊滅的な福島第一原発から漏れている放射能の大半は太平洋に吹き散らされているはずだ。 

 伊豆も緋寒桜は散りかけ、駅前の大寒桜(オオカンザクラ)が淡い緋色の花をつけているが、それ以外は冬景色といっていい。二月の末か三月のはじめには聴けるウグイスの初鳴きが、こんなに遅れているのも経験したことがない。それに代わって今朝、きわめて美しい小鳥のさえずりで目が覚めた。鳥の名を知らないのが残念だ。

東北関東大震災について 

 東北地方がその上に乗る北米プレートが、その下へと太平洋プレートがもぐりこむ日本海溝に沿って5百キロも破断したM9.0の今回の巨大地震・巨大津波は、日本の歴史のうえでも空前の被害をもたらした。亡くなられた方には心から哀悼の意をあらわし、また被災者の方々が1日も早く人間的な生活を取り戻されることを祈りたい。 

 利便と快適さと、そのための経済合理性のみを追求してきた近代文明とその高度なテクノロジーが、いかに脆弱な基盤の上に築かれていたか、思い知らしてくれた大災害である。原発や石油化学プラントをはじめとするそのためのインフラストラクチャーが、この災害をさらに拡大しているのも歴史の皮肉というほかはない。1960年代末から近代文明の転換を訴えてきた私としては、わが国のみならず、世界のひとびとがこの大災害を教訓として、やがてもっと恐ろしい人工的な災厄に見舞われるかもしれないこうした文明の限界を肝に銘じ、みずからの生活を変えることを含め、文明の根本的転換へと動きはじめることを願いたい。 

 1975年、はじめてのホピの長期滞在の前に、メキシコの国際婦人年に参加する青木やよひと別れて私は、ニューヨークとワシントンDCで、原発の危険性についての資料を収集するとともに、シエラ・クラブをはじめいくつかの環境運動団体の幹部たちにインターヴューを行い、原発の危険性とあるべきエネルギー政策について多くを学んだ。帰国後ホピについての本を書くとともに、原発反対の主張を展開したが、そのころすでに政府や自民党をはじめ多くのメディアが原発推進に大きく舵を切っていた。 

 ただ当時、原発反対の公明党やその支持団体創価学会のみが、公明新聞や雑誌「公明」、「潮」や「第三文明」といったメディアに書く場をあたえてくれた。「原発推進は朝日新聞の社是です。この方針にしたがって記事を書くように」という趣旨の論説主幹岸田純之助の通達が社内に配布されていた朝日をはじめ、各新聞やその系列雑誌などすべてから書く場を拒否された。84年のホピ紀行の折、ナバホのウラニウム鉱山で働いていたナバホ鉱夫たちが、低線量長期被曝によって多くの死者をだし、ガンに苦しんでいるのを目の当たりにした私にとって、村上陽一郎氏が読売新聞に書いた「原発はクリーンなエネルギー」という趣旨の記事に我慢ができず、読書欄担当の記者(私は読書委員をしていた)を通じて、ようやくナバホ鉱夫たちの悲惨を伝える反論を掲載させるにいたった(それでも原発反対の部分は削除された)。 

 それ以後、奇妙なことに(おそらく読者拡大のために)創価学会・公明党アレルギーのもっとも少なかった読売からも排除されるにいたった。 

 こうしたことを長々と書いたのは自己満足のためではない。すでに60年代から70年代にかけて、世界の心あるひとびとや知識人たちが、致命的な危険を内包する原発推進はエネルギー政策として最悪の選択であることを訴えていたにもかかわらず、またその後スリーマイル炉心溶融事故や恐るべきチェルノブイリ原発大事故を経験したにもかかわらず、日本を含めた世界の多くの政府が、この最悪の選択をさらに進めようとしている、この迷妄に警告を発したいためである。 

 しかし、この大災害で心に残ったことがある。それは日本人のモラルの高さである。東京などむしろ安全な各地で食料品の買いだめなど醜いパニックが存在するが、被災地では恐るべき状況であるにもかかわらず、人々は礼儀正しく、感情も抑制し、互いに助け合い、慰めあい、自分たちでできることを黙々とやっている。比較的治安が良いといわれていたニュージーランドでさえ、クライストチャーチの震災では、商店の略奪などが起きていたし、その他の国々でも災害時、略奪や暴行、食料や飲料の奪い合いなどはあたりまえと思われているのに、このすばらしい光景である。世界各国のメディアがこの光景に驚き、称賛しているのも当然である。 

 私が『感性としての日本思想』(2002年藤原書店)で訴えたかったことも、このすばらしい「日本人性(ジャパニーズネス)」が、『古事記』以来の文化の基本にあったことを示したかったからにほかならない(韓国版への序文は次回に掲載します。訳者の金容儀教授からも震災のお見舞いメールが届いています)。皆さん、日本人であることを心から誇りに思い、自信をもってください。

量子のもつれ 

 これで終了しようと思っていたが、地震前から読みはじめ、読み終わったルイーザ・ギルダーの『量子のもつれ;量子物理学が生れ変ったとき』(Gilder, Luisa. Quantum Entanglement; When Quantum Physics was Reborn,2008)があまりにも面白く、前回紹介したマンジット・クマールの本とまさに対称となる内容であるので、ここに紹介を兼ねた「覚書」を記しておく(昨夜は興奮して寝られなく、明け方の3時までベッドでメモを取っていた)。 

 量子力学とそのコペンハーゲン解釈が、一時期絶対的な権威となったことは前回記した。だが、この解釈に反対し、古典力学の支配する巨視的世界と確率論的な微視的世界とを統合的に認識しようとする努力は、シュレーディンガーをはじめ、かなり長期間つづいていた。その統一理論の探究者たちを、コペンハーゲン解釈派は半ば軽蔑をこめて「隠された変数派」と呼んだ(微視的世界に隠されている変数を把握できれば統一理論は可能だと考えているとして)。 

 だが徹底した論理実証主義者といっていい高名な数学者フォン・ノイマンが、量子力学においては「隠された変数」は存在しない、という数学的証明をして以来、コペンハーゲン解釈は疑いようのない真理として物理学界を支配した。 

 1935年、アインシュタインはそこに一石を投じた。プリンストンでの若い弟子ポドルスキーとローゼンとの3人の討議を、英語に堪能なポドルスキーがまとめた論文「量子力学による物理学的リアリティの記述は完全と考えうるか?」である。もちろん当初は黙殺に近い扱いであったが、それはのちに彼らの頭文字を連ねたEPR効果またはEPR逆理としてコペンハーゲン解釈の虚をつく巨大な影響力をもつにいたる。 

 シュレーディンガーはもちろん賛同したが、この論文に心を奪われたひとりは若きデーヴィッド・ボームであった。オッペンハイマーの弟子としてマンハッタン・プロジェクト(原爆製造計画)に携わった彼は、学生時代一時アメリカ共産党にかかわったがゆえに、戦後悪名高い議会の非米活動委員会に召喚されたことに加え、コペンハーゲン解釈に異議を唱える異端として各大学や学界からも排除され、ブラジルのサンパウロ大学にかろうじて職をえるにいたった。 

 ボームが異議を唱えたのは、コペンハーゲン解釈が自明の前提としていた素粒子の独立性と局所性であった。つまりすべての粒子は相互作用をするが独立した点(ゼロ次元)であり、その活動は局所的、つまり大域にはひろがらない、というものであった。だがすでにシュレーディンガーが指摘し、EPR論文でも取りあげられたように、相互作用をする粒子は「もつれ(インタングルメント)」という現象を示すことが知られていた。ボームはこの問題を追求し、量子(粒子のエネルギーの束)は独立的ではなく、非局所性をもつことを証明した。つまりコペンハーゲン解釈のよって立つ「事実」に痛烈な一撃をあたえたのだ。 

 理論的にそれを決定的にしたのは、アイルランド生まれの物理学者ジョン・ベルである。ベルの定理またはベルの不等式とよばれる数式を確立した彼は、それによって量子のもつれを完全に定義しただけではなく、粒子の非独立性・非局所性を証明し、あまつさえフォン・ノイマンの「隠された変数の不可能性」の証明が誤っていることさえ証明してしまった。これは画期的な業績である。ベルはコペンハーゲン解釈派の牙城であり、当時最大の加速器を備えたジュネーヴのCERN(ヨーロッパ核探求施設)の研究者であったが、所内では腫れものに触るようなあつかいであったという。 

 EPRとボームとベルの諸論文に魅せられる若い研究者や実験物理学者たちが、80年代続々と登場する。その多くはボームと同じように「学界難民」で苦労していたが、実験施設をもつ大学につとめる友人たちとひそかに共同し、手製の実験器具でEPR=ボーム=ベル理論の実験をはじめる。たとえば長い左右の光子管(フォトテュ-ブ)の中央に高温でカルシウムなどの原子を光に相転移させる装置を置き、それによって光子管内に出現した光線に、たとえば左端でレーザー・ビームを当てると、全く何もしない右端で同時に光の色彩変化が出現する。仮に光子管の両端を宇宙の果てにまで伸ばしても結果はおなじである。つまり距離のいかんにかかわらず、量子のもつれは現れるのだ。それだけではない、もつれた量子aは別のもつれた量子bと相互反応によって量子系のもつれを起こし、そうやって世界は量子のもつれから生成しつつあることさえ判明してきた 

 コペンハーゲン宗からの改宗者が続々と現れ、さまざまな実験を試みたが、すべてが同じ結果をもたらし、「量子のもつれ」とそれによる粒子の非独立性・非局所性が実証されるにいたった。 

 多重世界解釈が世界および宇宙の「解釈」によってコペンハーゲン解釈とそれによる標準理論をくつがえす「革命」を起こしたとすれば、量子のもつれはコペンハーゲン解釈と標準理論を、理論の前提とする「事実」においてくつがえすことで「革命」となったのである。いまや「相補性」(二元論を正当化するニールス・ボーア法王[ギルダーの言]とその信者たちの唱える念仏!)を隠れ蓑としてきたコペンハーゲン解釈の鉄壁と思われた牙城は、音をたてて崩壊しつつある。 

 青木やよひがベートーヴェン研究で、作曲家の人格や世界観がその作品に決定的な影響をもたらしていることを証明し、作品と作曲家自体はなにも関係ないとする「絶対音楽」の神話(これも音楽的論理実証主義である)をくつがえしたが、理論物理学や数学というもっとも抽象的な学問分野でさえも、研究者の人格の内奥や世界観がその理論に決定的な影響をおよぼすことが、この本を読むと明かとなる。 

 アインシュタインのガーンディやスピノーザ哲学、シュレーディンガーとボームのインド哲学(苦難の果てにボームは、クリシュナムルティを媒介としてインド思想と出会い、救われる)など、彼らの物理学的一元論とその世界観または思想としての一元論とのこの絶妙なハーモニーは深く考えさせられる。 

 近くストリング理論の最先端にいるブライアン・グリーンの『隠されたリアリティ』という本が手に入る予定だが、いまそれを心待ちしている。これは私が現在探求している主題そのものをタイトルとしている。いよいよこれらをもとに世界像の大転換について本を書く意欲が、ふつふつと沸いてきた。


楽しい映画と美しいオペラ―その36

2011-03-06 12:19:58 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ ― その36

               

                  劇的迫力に満ちた4時間
                                    ― ベルリオーズ『トロイアの人々』  

 

 1月から2月にかけて立て続けに珍しいオペラを観た。マスカーニの『イリス』(1月30日、東京芸術劇場)、シューマンの『ゲノフェーファ』(2月4日、新国立劇場中ホール)、そしてベルリオーズの『トロイアの人々』である。『ゲノフェーファ』は舞台での日本初演、『トロイアの人々』は演奏会形式ながら紛れもなく日本初演である。『イリス』はジャポニズムのなかで創られた作品で台本が劣悪(オオサカ、キョウトという悪人が登場し、舞台のひとつが吉原)、『ゲノフェーファ』はシューマンらしく悩める登場人物が特徴的だが、いかんせん劇としての面白みに欠け、印象的なアリアも聴くことができない。いずれも上演機会が少ないのももっともだと思われた。しかしゲルギエフの指揮した『トロイアの人々』は圧倒的な迫力で、オペラの醍醐味を伝えてくれた。なぜこれほど面白いオペラがいままで上演されなかったのかと不思議に思ったものだ。  

 『トロイアの人々』はヴェルギリウス(BC.70~BC.19)の叙事詩『アエネーイス(アエネアスの歌)』をもとにしている。第一部(第1・2幕)は〈トロイアの陥落〉と名付けられてトロイア戦争の終末を描き、〈カルタゴのトロイア人たち〉と題する第二部(第3・4・5幕)は、陥落するトロイアを逃れたエネ(アエネアス)の、カルタゴの女王ディドン(ディド)との恋を中心とする。ベルリオーズにとってヴェルギリウスは、シェークスピアと並ぶ憧憬の対象であったらしい。『アエネーイス』は幼い頃から父親に読み聞かされてきた物語であったのだ。  

 『トロイアの人々』の背景をなすトロイア戦争は古代ギリシアの伝説のひとつだが、じつに不可思議な始まり方をする。増えすぎた人間を減らすために戦争を起こすというゼウスの策略だったのである。人口が幾何級数的に増え続けている現代世界においては、その悪魔的な合理主義は現実味を帯びて見えてくる。また戦いの引き金となる事件も人間臭く、戦争の愚かしさを伝えている。

 「もっとも美しき女神に」と宴席に投げ入れられた黄金のリンゴをめぐって3人の女神が争い、裁定を委ねられたトロイアの王子パリスはアフロディテにリンゴを渡す。ヘラは世界の支配権を約束し、アテナは戦いの勝利を提供しようとするが、世界一の美女を与えようというアフロディテの提案の魅力はそれらに勝るものであった。しかし当世随一の美女ヘレナはすでにスパルタ王メネラオスの妃だった。パリスはヘレナを奪い、これを原因としてトロイア戦争が勃発する。

 さて『トロイアの人々』の第1部は、10年間続いたそのトロイア戦争の終末が舞台となる。壮烈な戦死をとげた英雄ヘクトールの妹、カサンドル(カサンドラ)が主役である。勝利の美酒に酔いしれるトロイアの人々のなかにあって、予知能力を有する彼女は破滅を確信する。群衆はもちろん、許嫁ですら彼女の言動を信じない。崩れゆく現実が見えていながら為すすべを持たないカサンドルの苦しみを、ムラーダ・フドレイは劇的に表現した。また、トロイアの女たちの集団自決の場面は第一部最大の聴きどころであるが、合唱団の迫力は凄まじいばかりである。  

 ヘクトールと並び称される勇将エネは、神々の加護もあり、多くのトロイア人を率いて戦いを生き延びる。イタリアを目指して航海するものの、北アフリカのカルタゴに漂着し、そこの支配者ディドンと恋に落ちる。その顛末が第2部の主要部分を占めるのだが、ここの主役はまたしても女性である。恋と政治との狭間で苦悩するディドンを歌って素晴らしいのは、メゾソプラノのエカテリーナ・セメンチュク。その強靭な声は当夜の白眉であった。第一部のフドレイといい、ロシアにはいったいどれだけの優秀な女性歌手が存在するのだろうか。エネとの長大な愛の二重唱はトリスタンとイゾルデのそれを彷彿とさせ、心に染みた。  

 ローマの建国を宿命づけられているエネは、後ろ髪を引かれる思いでカルタゴをあとにする。それを知ったときのディドンの怒りと悲しみ。その激しい感情の表出は、『魔笛』の夜の女王、また『ローエングリン』のオルトルート、『マクベス』のマクベス夫人を思い起こさせる。自害の場面もまことに劇的である。1000年後に出現するカルタゴの英雄ハンニバルの名を叫びつつトロイア人を呪い、ローマの繁栄を幻視するなかで絶望の淵に落ちる。セメンチュクの独壇場である。  

 しかしながら、14日の上演の立役者は、なんといってもゲルギエフだろう。途中20分間の休憩をはさんだだけの約4時間の長丁場を、少しの緩みも見せず演奏しきった。指揮棒を持たず、いくぶんギクシャクした腕の動きで音楽を伝えるのだが、舞台側面の向かって右上段の席からはその指揮ぶりがよく見える。開かれた両手の指が痙攣するように小刻みにふるえる。その動きにわずかな変化が認められると、直後に音楽は微妙な変化を遂げる。そしてその姿勢に極端な動き生じると、ベルリオーズの壮大な音楽が鳴り響く。精妙かつ力強いオーケストラが素晴らしい。『トロイアの人々』の劇的で勇壮な音楽は、ゲルギエフにこそふさわしい。

《トロイアの人々》 
2011年2月14日 サントリーホール

エネ:セルゲイ・セミシュクール
カサンドル:ムラーダ・フドレイ
ディドン:エカテリーナ・セメンチュク
アンナ:ズラータ・ブリチョーワ
コレープ:アレクセイ・マールコフ
アスカーニュ:オクサナ・シローワ
ヒュラス:ディミトリー・ヴォロパエフ
パンテ:ニコライ・カメンスキー
ナルバル、プリアムス他:ユーリー・ヴォロビエフ 
マリインスキー劇場管弦楽団・合唱団
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ

作曲:エクトール・ベルリオーズ
原作:ヴェルギリウス『アエネイス』
台本:エクトール・ベルリオーズ

2011年2月28日 j-mosa


おいしい本が読みたい●第十九話

2011-03-02 22:39:08 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第十九話 

                            
                                   
                  セリーヌ VS 隆慶一郎

 

 昨夜遅く、“学生さん”が逝った。享年六十一。ゆえあって本名は明かしかねる。といって、著名人だからというわけではない。ほぼ九分九厘、わたしたちと同じように、彼は無名だろう。三十年くらい前は、多少知名度はあったかもしれない。十数年間にわたり、ある音楽雑誌の記事を書いていたという話は誰かの口から聞いたことがあったから。                   

 “学生さん”は生きることを、じつに淡々とこなした。社会的地位という意味でいえばりっぱな落ちこぼれでありながら(雑誌編集者をアルコールのせいで首になってからの半生はアルバイトで生活した)、おのが悲運をかこつわけでもなく、過去は語らず、発掘の手伝いにそれなりに充足しつつ、集めた土器のかけらのことを、ポソポソと、話した。  

 さぞや、家庭的には円満だったろうと思ったら、まるで違う。そもそも根っこは身勝手な男。まわりの迷惑なぞ歯牙にもかけない。電車の中だろうと、喫茶店の中だろうと、スティック片手に、所かまわず叩きまわっては一人で悦に入る。一緒にいると気が気じゃない。                                                           

 そういう、いびつといったら実にいびつな人間だが、これは見事だと思えるのは、自分の美学に合わない権威は一顧だにしない反骨が根底にあったことだ。その彼独特の美学が語られるとき、思わず爽快感を覚えるほど、古典的権威を無視したことはいうまでもない。実物の権威者の目の前で、ケッ!という言葉を吐くことも一再ならずあった。ただ、見てると気持ちがいいが、少し離れているほうが無難だった。

 さて、この変人 “学生さん”に、あるときお勧めの本はないか、と尋ねたことがあった。誤解のないよういっとくと、彼は相当な読書家だったはずだが、傍目にはそうは見えなかった。読んでるが読んでいる顔をしない、という人はそこそこいるが、それともちょっと違って、読んでいる匂いがしないのだ。ほかの匂いが強烈で…ということかもしれない。  

 ともかく、そのとき彼が口にしたのは、「セリーヌの 『夜の果ての旅』 と隆慶一郎」 だった。                             

 セリーヌのほうはこちらもお気に入りだったから、偏屈な彼と共通点が見つかって、正直うれしかった。ところが、もう一方の隆慶一郎はまるっきり知らなかった。あとで、こっそり 『鬼麿斬人剣』 というのを読んで、時代小説の世界にひたるきっかけになった。 セリーヌと隆慶一郎という組み合わせは、異色の組み合わせと映るだろうが、まったく無縁というわけでもない。これも後で知ったことだが、隆は仏文出身なのである。小林秀雄に私淑していて、小林の目の黒いうちは大衆小説を書けずにいたという話は聞いたことがある。      

 セリーヌはともかく、それからのわたしは、隆から、杉本、司馬、山本、吉村、藤沢、北原、乙川と、ありきたりな時代小説好きの道をたどってここまできた。しかつめらしい純文学をある意味でささえる大衆文学の豊かさを教えてくれた一人が、本人はそんな気は微塵もなかったろうが、あの“学生さん”だったのだ。畏友というのは少し気が引けるし、彼には似合わない。だが、恩人といっても許してもらえるだろう。誰からも振りかえられない人生をあれだけ何気なく生きる爽快さ、それをわたしに見せてくれた恩人だからである。

 合掌                                           
                                   むさしまる