一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その41

2012-07-23 10:38:18 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ―その41

笠智衆と7月の花菖蒲
         
―渋谷実監督『好人好日』




 私は『好人好日』のテレビ放映を観ながら、人間の「格」ということを考えていた。主人公の、数学以外にはほとんど関心のない、おそらく生活能力も覚束ない老教授に、品格の高さを感じとったからである。

 笠智衆は例によって、朴訥とした演技で、老教授を演じる。いや、彼は演じるのではなく、ただ存在する。映画俳優にとって何よりも大切なものは、存在感である。演技力ではない。新劇の俳優が映画に向かないのは、演技をしすぎるからだ。その過程で存在感が失われる。演技をしなければ存在感が滲み出るかというと、もちろんそうはいかない。それでは存在感とは何か、そして品格とは何だろうか。

 夏の初め、私は何度も菖蒲園に足を運んだ。自転車の散歩道の途上に小岩菖蒲園があり、花の盛りはもちろんのこと、数輪の開花しか見られない5月の末から訪問を始めた。そして今日、7月の18日は、咲き競った残がいが見られるだけである。しかし所々に、最後の生命力を吹き込まれたように、白い花が咲いている。盛期の華美は求めるべくもないが、しぼんだ花々の中に飄々と立つその姿に、言うにいわれぬ品位を感じたのだった。

 この7月の花菖蒲は笠智衆ではないか、ふとそう思った。そうであるならば、彼の存在感もまた、この花のなかにあるはずである。それは、「自然」そのものが持つ生命力なのかもしれない。力強く、かつ移ろいゆくもの。そしてそのはかなさを感受しうる人間にのみ、品位というものが備わるような気がする。

 この老教授は、生まれたままの無邪気さを持っている。近所の子どもとTVのプロ野球を楽しむかと思えば、ボクシングに興じることもある。子どもは友達のように老教授を扱い、偉い先生だとはつゆほども思わない。この事実は、老教授が、他者と思いを共有できる能力を持っていることの現れである。

 文化勲章を授与された夜、教授夫妻は本郷の安宿で泥棒に押し入られる。面白いことに教授は、泥棒のことまで気に掛る。暗闇で物色する泥棒に灯を向けてやるのだ。三木のり平がいかにも気のいい泥棒を演じて、ここは日本の喜劇映画のなかでも出色の場面であろう。他者に共感できる能力、これも人間の品位と大いに関係がある。

 老教授の潔い合理精神も、現代人が失って久しいものではないか。娘の結婚にあたって、結婚式などしなくていい、と妻に言う。豪華な式を挙げて、数カ月で離婚した者もいる、と。そんな教授が文化勲章をもらう気になったのは、何よりもお金のためだった。月末にはコーヒーを飲む金にも不自由していたのである。

 奈良に住む、貧乏だが世界的な数学者、しかも文化勲章の受章者となると、誰しも岡潔を想定する。枠組は岡潔から借用したとしても、この映画の老教授は、岡を遥かに超えた、爽やかな存在である。

1961年 日本映画
(2012年7月10日 NHKBSプレミアム放映)
監督:渋谷実
原作:中野実
脚本:松山善三・渋谷実
撮影:長岡博之
音楽:黛敏郎
出演:笠智衆、淡島千景、岩下志麻、川津祐介、乙羽信子、北林谷栄、三木のり平

2012年7月18日 j-mosa



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