一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【51】

2008-12-23 00:59:16 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【51】
Kitazawa, Masakuni  

 数日の強い風で、残っていた紅葉や黄葉もすっかり散り尽くした。そろそろ食べ物も少なくなってきたと思い、オウ・リング・テストに不合格だったミカンの実(無農薬を売り物のなかにも、ときおり混じっている)を輪切りにし、葉の落ちた枝に刺しておくと。4・5羽のメジロたちがむらがって、見る間に食べ尽くしてしまう。市販のものとちがい、これでも残留農薬はごく少ないから、鳥たちにも害はないだろう。

世界に冠たる農薬大国日本 

 暮になると、喪中のハガキが数多く舞いこんでくる。この数年、知人・友人やその配偶者などでガンで死去するひとが驚くほど多い。新聞によれば、わが国では二人に一人はガン患者であり、三人に一人はガンで死亡する「ガン大国」であるという。なぜそうなってしまったのか、メディアではだれもその原因を語らない。  

 1984年の夏、ホピに滞在しているとき、ホピ伝統派のスポークスパースンであるバンヤキヤ氏の邸で、環境運動家の白人女性に会ったことがある。バンヤキヤ邸といっても母系社会のホピのこと、実際はバンヤキヤ夫人の家なのだが、広い中庭にしつらえられた会議用テーブルで、バンヤキヤ氏を囲み、白人やメキシコ系などさまざまな運動家たちが昼夜を問わず語り合い、情報を交換し合っていた。 

 その輪のなかでの雑談のおり、私の隣にいた彼女に「日本では〔農地面積当り〕アメリカの七倍の農薬が撒かれているというが、ほんとうか」と問われたのだ。私が「ノー、テン・タイムズ(いや、十倍だ)」と答えると、驚いて目を大きく開き、「健康に被害はないのか」と再度訊ね、「いま農民のあいだに被害がひろがっているところだ」との答えに、「そうだろう」とうなずいた。 

 70年代から原子力や環境問題に深い関心をもち、70年代の末に開設したある政策集団の代表委員のひとりとして資料の収集にもあたっていたので、当時はその数字さえもよく覚えていた。 

 そのうえ私のつれあいが一時農薬中毒となり、甚大な被害に遭っていた。というのは、その頃東京の郊外にあったわが家のあたりは、水道は引かれていたが下水道はなく、雑排水はU字溝に流されていた。そのU字溝を清潔に保ち、害虫の発生を防ぐためと、区役所と町内会を通じてスミチオンという強力な殺虫剤の原液が配布されていた。約千倍に希釈しろという注意書きがあったにもかかわらず、多くの家では原液のまま散布したらしい。それがU字溝の裂け目から地下に浸透し井戸水を汚染したのだ。わが家では、水道水よりもはるかにおいしいので、長い間井戸水を飲用に使っていた。 

 中国の中日友好協会の招待で中国各地を旅してきた私が、その話を聴きたいという友人たちを招いて家で夕食会を開いたとき、ウィスキーを割るために出した井戸水が薄白く濁っているのに気づき、はじめてその汚染を知ったのだ。私の旅行中、つれあいはその水を飲みつづけ、挙句に胃腸の具合が悪くなったといって、その水で漢方薬を煎じて服用していたという。農薬中毒がはじまっていた。 

 こうしたおそるべき農薬を気軽に配布していた区役所や保健所にも怒りを感じ、ただちに配布を止めるよう町内会や区役所に陳情したが、まったく反応はなかった。そのうえいくつかの病院や診療所で彼女は診察をあおいだが、血液検査などの数値に異常はなく、「気のせいですよ」とか「そろそろ更年期ですからその症状ですよ」といった診断で、われわれの怒りは心頭に達した。 

 ヨーガや鍼灸や自然食のお蔭で、仕事をつづけながらも彼女の症状は改善し、健康も回復したが、それには約十年もかかってしまった。いま考えれば、その頃から体内でガン細胞が徐々に成長しはじめていたと思われる。 

 あの頃、農村では通常の噴霧だけではなく、水田では農薬の空中散布が大々的に行われ、それが「科学の進歩」であり、「先進国化」であると多くのひとびとが信じていた。ヘリコプターで撒かれた有機燐酸系の農薬は、もともと兵器としての毒ガスから開発されたものであり、農村では子供たちは、この「毒ガス」の日常的散布という環境で育てられていた。農村だけではない。大都市ではこの残留農薬を含んだ食料、さらに長距離輸送や流通の利便のための防腐剤、見た目の美しさのための人工着色料など、無数の食品添加物に汚染された食料を。これも日常的に摂取しつづけていたのだ。

「世界に冠たる農薬大国日本」は、
       
なぜ「世界に冠たるガン大国日本」となるのか 

 残留農薬や食品添加物、あるいは抗生物質をはじめとする強い医薬品などの摂取が、身体にどのような影響をあたえるか、とりわけ最新の微生物科学の進展が明かにした。 

 つまりわれわれ人間は、体内に無数といってよい種類の天文学的な数のバクテリアやヴィールスを抱え、彼らと共生しているのだ。彼らはわれわれから栄養を摂取するが、同時にわれわれにさまざまな仕方で奉仕し、われわれの身体の生物学的均衡を保持し、健康を保証している。とりわけ腸内では、どこまでが腸壁でどこからがバクテリアの群れであるかがわからないほどで、彼らは食物を適度に発酵させたり、害となるものを分解したり、有益なはたらきをしている。 

 だが、残留農薬やソルビン酸(防腐剤)などの食品添加物、あるいは強い医薬品は、それらバクテリアを瞬時に殺し、胃腸の機能をいちじるしく低下させ、バクテリアの死で分解できなかった害となる老廃物で大腸や直腸壁を損傷する。また胃腸によって吸収された農薬など化学薬品は、体内の臓器を犯す。すべてはガン細胞にとって絶好の環境となるのだ。 

 ガン細胞が増殖し、腫瘍を形成するのに十数年あるいはそれ以上かかるとされるが、高度成長期に育った子供たちや青少年が、いままさにガン発症年齢に達している。「世界に冠たる農薬大国日本」が、いまや「世界に冠たるガン大国日本」となったのは必然的な帰結にほかならない。さらに、いわゆる先進諸国のなかで喫煙率のもっとも高かった「タバコ大国日本」が、「肺ガン大国日本」となるのも当然であろう。 

 経済的合理性を人間の生き方よりも優先させる「近代文明」が、このガンをめぐる悪循環を生みだしたのであり、ガンはこの意味で典型的な近代文明の病いなのだ。ガン死亡率を低下させようと最近成立した「がん対策基本法」は、たしかにガンをめぐる政府や社会の危機意識を示しているが、ガンを生みだすこの根本的なメカニズムを変革しないかぎり、「基本法」にもかかわらずガンは増えつづけ、死亡率も低下しないだろう。 

 メディアがこの点をまったく報道しないのは、おそるべき無知からか、製薬業界や農協をはじめとするバイオエスタブリッシュメントに対する遠慮か、あるいはそうしたスポンサーを恐れてか、知りたいものである。


北沢方邦の伊豆高原日記【50】

2008-12-09 23:57:43 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【50】
Kitazawa, Masakuni  

 夕景色がきわめて美しい季節となった。ほとんど葉を落したわが家の雑木の枝々が、朱鷺色に染まった空に、レース細工に似た繊細な影を刻み、まだ葉を残した遠くの樹々の、残照に輝く葉叢の赤黄色と鮮やかな対照をつくりだす。急速に日が沈みはじめると、蒼く霞む島影に街の灯火がつらなってまたたき、灯台の閃光が走り、海には烏賊釣り船の漁り火が、あちらこちらに灯る。

戦後民主主義の終焉 

 加藤周一氏が亡くなった。かなり昔からの知り合いであったし、8年前に死去したあるチェンバロ奏者が主宰していたサロンの常連客として、たびたび顔をあわせたり、さりげない会話を交わしたりした。小田実氏もすでに亡くなり、これも60年代末から70年代のヴェトナム反戦デモなどでたびたび会い、当時、お互いにそれぞれの思想や言説を微妙に意識していた間柄であった。また私にとって師ともいうべき丸山真男が亡くなってすでに久しい。 

 知識人のレベルではあるが、戦後民主主義の終焉に立ち会っている、という感慨が深い。 

 もちろんすでにたびたび述べてきたように、戦後民主主義には歴史的役割があった。明治近代化の負の遺産である軍国主義や皇国史観を徹底的に批判し、二度と戦前の体制に戻らないために、わが国に言論の自由や個人の人権、近代民主主義を根付かせ、欧米流の「市民社会」を実現することであった。第九条を含む「日本国憲法」や前「教育基本法」の基本理念はこれに基づいている。 

 1960年の安保闘争はその頂点であり、それによる岸内閣の退陣とともに戦前型ナショナリズムを信奉する政治勢力は退潮し、経済的高度成長は戦後民主主義を実質的にわが国の国家理念にまで高めるにいたった。たしかに米ソ冷戦は、ソヴェト型社会主義を目指す左翼勢力を台頭させ、それは保守勢力と対峙するだけではなく、原爆反対運動の分裂に象徴されるように、戦後民主主義勢力の内部に亀裂をもたらしたが、やがてそれも高度成長のいわゆるパイの分け前に異義を申し立てるだけの勢力と化していった。 

 ベルリンの壁崩壊後の世界は、70年代後半から台頭した政治的新保守主義と経済的新自由主義イデオロギーの支配にともない、ITをはじめとするテクノロジーの飛躍的展開とともに、超大国アメリカの主導するグローバリズムに席巻されるにいたった。だが今年、金融危機に端を発するグローバルな経済危機は、われわれの面前でグローバリズムが音を立てて崩壊するという劇的な場面を演じはじめている。 

 だが戦後民主主義、あるいは合衆国の戦後リベラリズムは、新保守主義や新自由主義、あるいはそれらがもたらしたグローバリズムそのものへの根底的な批判を提示することができなかったし、ましていま、グローバリズム崩壊後の世界像を示すこともできないでいる。それはなぜか。 

 一時、新保守主義者(ネオコンズ)を代表する知識人であったフランシス・フクヤマは、自由と民主主義および自由市場というグローバル・スタンダードがやがて世界を制覇し、その結果世界から個別の歴史は失われ、『歴史の終焉』がもたらされると主張した。イラク戦争がその主張の政治的帰結であったことはいうまでもない。だがこのグローバリズムによってもたらされたのは、むしろ『文明の衝突』であった(私はサミュエル・ハンティントンの主張には反対だが、合理主義の強制は非合理主義をもたらし、力の行使はつねにこうした結果を生む)。 

 つまり、これもたびたび述べたように、政治的・経済的グローバリズムは合理主義のもっともラディカルな形態であり、超近代主義(ハイパーモダニズム)にほかならない。近代合理主義のいわば穏健派ともいうべき戦後民主主義や戦後リベラリズムが、それを根底から批判できないのは当然である。 

 私が師である丸山真男を批判したのは、その「歴史意識の古層」が典型であるように、近代の歴史意識とその知的・思想的概念体系によって『古事記』を切り捨て、それが明治ナショナリズムの源泉となっているというまったく誤った論理を展開したからである。つまり彼は皇国史観と同じ土俵でイデオロギー闘争を行っているにすぎない(拙著『感性としての日本思想』2002年藤原書店、および『古事記の宇宙論』2004年平凡社新書を参照していただきたい)。 

 丸山も『日本の思想』(「図書」岩波新書特集によれば、アンケートに答えた知識人のあいだでもっとも評価の高い本だという)で加藤の『雑種文化』を高く評価しているが、これも戦後民主主義者のなかに誤った先入観をひろめた岩波新書のひとつといっていい。 

 つまり加藤によれば、西欧の文化は純粋種であり、日本の文化は雑種だという。もっとも彼は日本では、この文化の雑種性にいわば居直るべきだとはいっているが、そもそも西欧文化こそが雑種中の雑種であることにまったく無知な言説であるというほかはない。すなわち西欧は、ケルトやゲルマンなど多様な種族の混交から出発し、ローマ文化やギリシア化されたキリスト教、さらにはアラブやトルコまたペルシア文化やイスラームなどの巨大な影響のもとに、日本以上の雑種文化として成長してきたのだ。 

 戦後民主主義の功罪のうちもっとも大きな罪は、西欧文化とその合理主義の崇拝、そしてその裏腹として自国の文化を貶め、真の伝統とその背後にある感性的ではあるが精密な思想や世界観を排除した点にある。それは明治以後の保守的な政治勢力やナショナリストたちが、急激な近代化によって歪められた「伝統」を称揚し、軍国主義や皇国史観の土壌を養ってきたことのたんなる裏返しにすぎない。 

 ポスト・グローバリズムの世界像を提起するためにも、われわれは戦後民主主義を克服し、世界の自然の多様性とともに文化の多様性を回復し(この二つの多様性は不可分の関係にある)、自然との、そして異文化との共生にもとづく統合的な思考を創造しなくてはならない。それはおのずから、精神と身体、主観性と客観性などの二元論によって世界や宇宙をいわば分裂させてきた近代の基底的思考を、創造的に乗り越えることである。自然科学の最先端では、すでにこうした認識論の革命的な転換がはじまっている(拙著『近代科学の終焉』1998年藤原書店を参照していただきたい)。
 


北沢方邦の伊豆高原日記【49】

2008-12-04 10:14:00 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【49】
Kitazawa, Masakuni  

 澄み切った空に木枯らしが吹く日は、伊豆高原名物の落ち葉吹雪が舞う。しかしこうした日は、あくまでも蒼い海に大島が浮かび、波打ち際に白く、波頭が寄せるのが肉眼でさえも見ることができる。わが家の雑木の枝々のあわいから、遠く霞む神津島も見えるようになった。裸となった柿の梢を越えて、庭の隅の山茶花の濃い緑の葉叢に、真紅の花々が着きはじめた。

紅衛兵世代の宇宙論 

 11月24日、NHK・FMで放送されたNHK交響楽団演奏会で、タン・ドゥン自身の指揮によって自作が演奏された。ベルリン・フィルハーモニー管絃楽団の委嘱による『マルコ・ポーロの四つの秘密の道(シークレット・ローズ)』と、ニューヨーク・フィルハーモニーの委嘱による『ピアノ協奏曲「火(ファイア)」』(ピアノ・小菅優)で、いずれも日本初演である。 

 タン・ドゥンは1957年生まれの中国を代表する作曲家であり、その前衛的でありながら説得力のある諸作品に、かなりまえから私も惹かれていた。 

 この数十年来の世界の作曲界の動向は、大げさな道具立てと精密な技法で大オーケストラを咆哮させるが、その饒舌によってなにを表現したいのか、まったく不明といった作品で占められていた。知の世界同様といっていい。とりわけフランスの知識人に多いのだが、同じく大げさな道具立てと緻密な概念操作で書き上げられた膨大な本が、じつは数十頁の平凡な言語で書きあらわせる、あるいは最悪の場合、ほとんどなにもいっていないにひとしい、という事態に似ている。 

 それに対して近年、人間にとって音楽は、基本的に、それぞれの種族の宇宙論の表現であるという原点に返り、それを新しい音楽言語で語ろうという、きわめて好ましい傾向が台頭してきた。「知と文明のフォーラム」でも、「世界音楽入門」と題するレクチャー・コンサートで西村朗氏の作品を取りあげ、また2009年にも新実徳英氏の作品を演奏する予定(4月25日セシオン杉並)であるが、彼らはわが国でこうした新しい動向を代表する実力者たちである。 

 タン・ドゥンの今回の作品も同様であるといってよい。事実『マルコ・ポーロ』は、中国や中東の輝かしい諸文明の姿を、西欧にはじめて紹介した13世紀の著名な旅行者の足跡をたどりながら、むしろ彼があじわったにちがいないその内面の衝撃を表現したものといえる。  

 東方への壮大な門が開かれるヴェネツィアからの出発、多様な楽器のヘテロフォニックな応答で掻きたてられる中東のバザールの繁栄と栄光、12人のチェロ奏者それぞれの自由なラーガ風の旋律のうねりがかもしだすインド的な瞑想、世界の都北京の家々の甍のうえに燦然ときらめく紫禁城の幻想的な出現……それはこの四楽章からなる雄大な作品であり、12人のチェロ奏者とオーケストラの協奏曲という手の込んだ編成を、縦横に駆使して聴衆を飽きさせることはない。 

 たしかにそれは、ある点で「描写的」である。だが増2度のアラブ風の旋律を使うといった通俗性に陥ることはまったくなく、あくまでも内面の風景と文明の香りを追いつづける。『展覧会の絵』のムソルグスキーや『ローマ』三部作のレスピーギを想起させるが、根本的な発想と様式は「中国的」としかいいようのないものである。 

 いつか、わが国にもなじみのある中国現代画家の王子江が、大作を描く様子を捉えたドキュメンタリーを見て驚嘆したことがある。下絵もなにもなく、いきなりカンヴァスに細い筆で線を描きはじめたが、それはやがてひとりの老人となり、そうやって次々と人物が増殖し、ついには大河に面する酒家の、百人にもわたる客たちの楽しげな饗宴となっていく。墨を主体に若干の色彩をまじえた伝統的な様式を踏まえてはいるが、全体のおもむきは現代的な細密画といえる。 

 タン・ドゥンの曲は逆であるかもしれない。つまり現代的な音の技法を駆使しているが、全体はきわめて中国的な様式となっているのだ。 

 『ピアノ協奏曲「火」』も同じである。ピアノという近代合理主義の極致である楽器を使いながら(彼がこの委嘱を最初断わろうとしたのも、ピアノの近代性に違和感をもったからだろう)、火と水、または陽と陰、西洋風にいえば男性と女性、という2極の宇宙論的な戯れが、はげしくリズム的な音塊とたおやかな旋律、という対照で表現される。それらが織り成す音の弁証法が、この曲の奥深い魅力といえよう。 

 とにかく、彼が指揮したバルトークの『舞踏組曲』とともに、堪能した2時間であった。