北沢方邦の伊豆高原日記【51】
Kitazawa, Masakuni
数日の強い風で、残っていた紅葉や黄葉もすっかり散り尽くした。そろそろ食べ物も少なくなってきたと思い、オウ・リング・テストに不合格だったミカンの実(無農薬を売り物のなかにも、ときおり混じっている)を輪切りにし、葉の落ちた枝に刺しておくと。4・5羽のメジロたちがむらがって、見る間に食べ尽くしてしまう。市販のものとちがい、これでも残留農薬はごく少ないから、鳥たちにも害はないだろう。
世界に冠たる農薬大国日本
暮になると、喪中のハガキが数多く舞いこんでくる。この数年、知人・友人やその配偶者などでガンで死去するひとが驚くほど多い。新聞によれば、わが国では二人に一人はガン患者であり、三人に一人はガンで死亡する「ガン大国」であるという。なぜそうなってしまったのか、メディアではだれもその原因を語らない。
1984年の夏、ホピに滞在しているとき、ホピ伝統派のスポークスパースンであるバンヤキヤ氏の邸で、環境運動家の白人女性に会ったことがある。バンヤキヤ邸といっても母系社会のホピのこと、実際はバンヤキヤ夫人の家なのだが、広い中庭にしつらえられた会議用テーブルで、バンヤキヤ氏を囲み、白人やメキシコ系などさまざまな運動家たちが昼夜を問わず語り合い、情報を交換し合っていた。
その輪のなかでの雑談のおり、私の隣にいた彼女に「日本では〔農地面積当り〕アメリカの七倍の農薬が撒かれているというが、ほんとうか」と問われたのだ。私が「ノー、テン・タイムズ(いや、十倍だ)」と答えると、驚いて目を大きく開き、「健康に被害はないのか」と再度訊ね、「いま農民のあいだに被害がひろがっているところだ」との答えに、「そうだろう」とうなずいた。
70年代から原子力や環境問題に深い関心をもち、70年代の末に開設したある政策集団の代表委員のひとりとして資料の収集にもあたっていたので、当時はその数字さえもよく覚えていた。
そのうえ私のつれあいが一時農薬中毒となり、甚大な被害に遭っていた。というのは、その頃東京の郊外にあったわが家のあたりは、水道は引かれていたが下水道はなく、雑排水はU字溝に流されていた。そのU字溝を清潔に保ち、害虫の発生を防ぐためと、区役所と町内会を通じてスミチオンという強力な殺虫剤の原液が配布されていた。約千倍に希釈しろという注意書きがあったにもかかわらず、多くの家では原液のまま散布したらしい。それがU字溝の裂け目から地下に浸透し井戸水を汚染したのだ。わが家では、水道水よりもはるかにおいしいので、長い間井戸水を飲用に使っていた。
中国の中日友好協会の招待で中国各地を旅してきた私が、その話を聴きたいという友人たちを招いて家で夕食会を開いたとき、ウィスキーを割るために出した井戸水が薄白く濁っているのに気づき、はじめてその汚染を知ったのだ。私の旅行中、つれあいはその水を飲みつづけ、挙句に胃腸の具合が悪くなったといって、その水で漢方薬を煎じて服用していたという。農薬中毒がはじまっていた。
こうしたおそるべき農薬を気軽に配布していた区役所や保健所にも怒りを感じ、ただちに配布を止めるよう町内会や区役所に陳情したが、まったく反応はなかった。そのうえいくつかの病院や診療所で彼女は診察をあおいだが、血液検査などの数値に異常はなく、「気のせいですよ」とか「そろそろ更年期ですからその症状ですよ」といった診断で、われわれの怒りは心頭に達した。
ヨーガや鍼灸や自然食のお蔭で、仕事をつづけながらも彼女の症状は改善し、健康も回復したが、それには約十年もかかってしまった。いま考えれば、その頃から体内でガン細胞が徐々に成長しはじめていたと思われる。
あの頃、農村では通常の噴霧だけではなく、水田では農薬の空中散布が大々的に行われ、それが「科学の進歩」であり、「先進国化」であると多くのひとびとが信じていた。ヘリコプターで撒かれた有機燐酸系の農薬は、もともと兵器としての毒ガスから開発されたものであり、農村では子供たちは、この「毒ガス」の日常的散布という環境で育てられていた。農村だけではない。大都市ではこの残留農薬を含んだ食料、さらに長距離輸送や流通の利便のための防腐剤、見た目の美しさのための人工着色料など、無数の食品添加物に汚染された食料を。これも日常的に摂取しつづけていたのだ。
「世界に冠たる農薬大国日本」は、
なぜ「世界に冠たるガン大国日本」となるのか
残留農薬や食品添加物、あるいは抗生物質をはじめとする強い医薬品などの摂取が、身体にどのような影響をあたえるか、とりわけ最新の微生物科学の進展が明かにした。
つまりわれわれ人間は、体内に無数といってよい種類の天文学的な数のバクテリアやヴィールスを抱え、彼らと共生しているのだ。彼らはわれわれから栄養を摂取するが、同時にわれわれにさまざまな仕方で奉仕し、われわれの身体の生物学的均衡を保持し、健康を保証している。とりわけ腸内では、どこまでが腸壁でどこからがバクテリアの群れであるかがわからないほどで、彼らは食物を適度に発酵させたり、害となるものを分解したり、有益なはたらきをしている。
だが、残留農薬やソルビン酸(防腐剤)などの食品添加物、あるいは強い医薬品は、それらバクテリアを瞬時に殺し、胃腸の機能をいちじるしく低下させ、バクテリアの死で分解できなかった害となる老廃物で大腸や直腸壁を損傷する。また胃腸によって吸収された農薬など化学薬品は、体内の臓器を犯す。すべてはガン細胞にとって絶好の環境となるのだ。
ガン細胞が増殖し、腫瘍を形成するのに十数年あるいはそれ以上かかるとされるが、高度成長期に育った子供たちや青少年が、いままさにガン発症年齢に達している。「世界に冠たる農薬大国日本」が、いまや「世界に冠たるガン大国日本」となったのは必然的な帰結にほかならない。さらに、いわゆる先進諸国のなかで喫煙率のもっとも高かった「タバコ大国日本」が、「肺ガン大国日本」となるのも当然であろう。
経済的合理性を人間の生き方よりも優先させる「近代文明」が、このガンをめぐる悪循環を生みだしたのであり、ガンはこの意味で典型的な近代文明の病いなのだ。ガン死亡率を低下させようと最近成立した「がん対策基本法」は、たしかにガンをめぐる政府や社会の危機意識を示しているが、ガンを生みだすこの根本的なメカニズムを変革しないかぎり、「基本法」にもかかわらずガンは増えつづけ、死亡率も低下しないだろう。
メディアがこの点をまったく報道しないのは、おそるべき無知からか、製薬業界や農協をはじめとするバイオエスタブリッシュメントに対する遠慮か、あるいはそうしたスポンサーを恐れてか、知りたいものである。