一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

ともいき(共生)の思想~ラコタ族の生き方と現代文明

2013-06-13 17:12:37 | セミナー関連

ともいき(共生)の思想~ラコタ族の生き方と現代文明

~第21回セミナーに参加して

   

フリーランスライター&エディター 近藤由美          

 

青木先生が生前、阿部珠理さんをフォーラムにぜひお呼びしたい、セミナーを開きたい旨をよくおっしゃっていたことが思い起こされます。今回、阿部先生に初めてお会いし、アメリカの大平原に生きる、狩猟系インディアン、ラコタ・スー族のありのままの姿をつぶさにうかがい、彼らの精神性や文化はもちろん、アメリカ先住民が直面している様々な諸問題から、部族再生への手がかりまで、写真やデータも豊富に、とても聴き応えのある内容でした。アメリカ先住民というと、彼らの精神世界や自然観ばかりがクローズアップされがちですが、阿部先生は、ラコタ族を中心としたアメリカ先住民の光と影、陽と陰を見事に語って下さり、それは、先生ご自身が20年もの歳月をかけてフィールドワークをされた賜物、集積であると感じにはいられません。

私が、アメリカ先住民の興味を持ったのは、学生時代、ドキュメンタリー映画「ホピの予言」(ランド・アンド・ライフ制作、宮田雪監督1986年作品)を見たことがきっかけです。ホピ族とは、アメリカ南西部のアリゾナの地に定住してきた一小部族でで、ホピとは、彼らの言葉で“平和”という意味です。聖なる石板に書かれた予言は、白人社会における、物質・科学万能主義に対する警告、近代文明への強いメッセージを伝えるものでした。その後、出版社に就職した私は、いつかホピ族の本を企画したいと思い、調べすすめるうちに、日本に初めてホピ族の世界を紹介したのが、北沢方邦先生、青木やよい先生ご夫妻と知り、青木先生の著書『ホピの国へ』(廣済堂文庫)を拝読後、青木先生にご連絡させていただき、直接お会いすることがかないました。

青木先生はちょうど、“ホピ居留地への2~3回目の訪問記をまとめたいと思っていたの、同出版社から頼まれているけど、あなたに決めるわ”とおっしゃって下さり、すぐに原稿依頼をさせていただいた私は、約3ヶ月というハイスピードの脱稿を経て、『ホピ・精霊たちの台地』青木やよひ著(PHP研究所)の発刊へと結実したのです。青木先生の著書は、朝日新聞や大阪読売等のメディアで書評に取り上げられ、私の人生、そして仕事においての一つの成果、メルクマールとなりました。

当時、20代半ばの駆け出しの編集者だった私は、宮田雪監督~北沢・青木先生との出会いによって、ホピ族の伝統や文化、神話や宇宙観等に触れる機会を得て以降、今なお、ホピ族のみならず、アメリカ先住民全般に対する尽きない興味と関心、深遠なる世界観を追い求めているといっても過言ではありません。

今回、阿部先生のお話によれば、サウス・ダコタ周辺の保留地に暮らすインディアンは、農耕型のホピ族とは大きく異なり、保留地における人口の規模、食文化、儀式や創世神話等々、何もかもが違うという印象でした。特に驚いたのが、ラコタ・スー族は、300超ものカジノを興し、なかには成功を収めた数部族がいて、あの有名なハードロックカフェを買収したとか。合衆国から、国内従属国として、半独立の形態をとるラコタ族は、部族警察もあるし、部族特有の教育をするための37の部族大学もあります。また、ラコターウォーターと呼ばれる、良質な水のビジネス。米軍の下請けとしてコンサルティング事業も手がけるし、カジノはもちろん、ガソリンスタンド、スーパーマーケットの経営にも乗り出す。そのため、お金持ちVS貧しい層という部族間における経済格差が生じているということです。

狩猟採集という生業を取り上げられて久しい彼らの専らの関心は、経済開発であり、自らの文化、アイディティを取り戻すためにも、経済的に自活していかなければならない。そうした状況が相次ぐカジノの建設、様々なビジネスに向かわせるのでしょう。

アメリカ先住民というと祈りや儀式に明け暮れ、現代人と隔絶したエコロジー的な暮らしを営んでいるというイメージがありますが、彼らが置かれている現実は、一転、アメリカ社会の縮図の様相です。白人同化政策等により、何もかもが歪められてしまたった結果、肥満等の健康問題、アルコール中毒、自殺や事故、犯罪の多発、慢性的な失業率、労働倫理の欠如、教育、精神の荒廃等が起きているということです。

また、セミナーの中で印象的だったのが、ラコタ族の有名なメディスンマン、“ブラック・エルク”についてです。『ブラック・エルクは語る』J.Gナイハルト著 阿部珠理監修 宮下嶺夫訳(めるくまーる)という彼の伝記があり、70年代、ニューエイジムーブメントのバイブルとして読まれ、“インディアンのスピリチュアリティのイコンとなった”と阿部先生は著書のなかでこう表現しています。

ブラック・エルクは、メディスンマンの草分けとして、多くの予言、ビジョンによる言葉を残していますが、メディスンマンになる若い頃は、興行師のバッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショー一座に加わり、ヨーロッパを巡業していたということです。最初の妻が敬虔なクリスチャンだったことから、1903年に洗礼を受け、カソリックのキリスト伝教者となりました(ウィキペディアより)。

面白いことに、彼はキリスト教の布教に専念する傍ら、メディスンマンとしての部族の精霊信仰とを両立させていたという点。むしろ、インディアン社会にとって、キリスト教の教えを取り入れることを歓迎するかのような発言をしていたということです。そうした事実を補完する形で、阿部先生は、壮年以降のブラック・エルクの写真をいくつか見せてくれました。キリスト伝教者として、スーツ姿の短髪のエルク、同時期に撮影されたというもう1枚の写真には、インディアン特有の黒々とした長い髪の毛を背中まで垂らし、頭に羽根冠をあしらったエルクの写真があります。

阿部先生は、それら2枚の写真を対比させながら、これはどういうことでしょうかと私たちに問いかけました。それはすなわち、エルク自身が、ステレオタイプのインディアン像、メディスンマンとしてのイメージを保つための戦略、演出として“カツラ”を着用していたということなのです!こうした事実やエピソードは恐らく、阿部先生の口を通してしか知ることはなかったでしょう。聖人・ブラック・エルクのあるがままを垣間見る瞬間…。私は彼のしたたかさや逞しさ、フレキシビリティさに好感を持ち、かえって嬉しくなりました。

先生はセミナーの冒頭で興味深いデータを紹介して下さいました。それは、1890~2010の120年間、アメリカ先住民の人口が増加傾向にあり、とりわけ60~70年の人口の伸びが大きいのです。これは、キング牧師による公民権運動の影響を受けて、自らがアメリカ先住民であることをカミングアウトする、申告する動きが顕著になったからという分析です。現在、アメリカ先住民は米国総人口の0.9%。最小のマイノリティであることには変わりありませんが、先住民たちが徐々に声を上げはじめ、自らのアイデンティティを取り戻したいという意識の現れとみてよいのでしょう。

近現代、西欧の植民地において、支配層と被支配者である先住民との争いが中南米やアジア等、世界各地で繰り返されてきました。彼の地では、民衆を代表する英雄が現れ、勇猛果敢に闘いながら、多くの戦士が散っていきました。アメリカ先住民も同様、ラコタ・スー族では、クレージー・ホース、シッティング・ブル、アパッチ族のジェロニモなどが有名です。彼らに敬意を表し、鎮魂をこめて、先住民=犠牲者というレッテルをはずして欲しい、ラコタ族であれば、聖なる輪の教えに基づいた彼らの大いなる力にもっとフォーカスしてほしいと願うのは私だけでしょうか。

阿部先生は、非常にジャーナリスティクな視点で、ラコタ族の“影”の部分をセミナー前半部に割かれました。彼らが抱える様々な問題に対し、どうしたら解決の手を差し伸べることができるのか。その手かがりは、教育にあるのではないか?とおっしゃっていたことが印象に残っています。“彼らに本当にお世話になってきたから、恩返しがしたい”と語る阿部先生。“地域のために何かできるか”という公共人類学と呼ばれるアプローチが先生ご自身のこれからテーマにつながっていくのではないかと推察いたしました。私も微力ではありますが、そのお手伝いができれば嬉しく思います。


第21回セミナー報告●「身体性」とはなにか?

2013-01-18 11:11:09 | セミナー関連

大自然・大宇宙との一体感を実感する


           「身体性の基礎としての《食》」について   橋本宙八氏

 

 年末も押し詰まった22日から23日にわたって、知と文明のフォーラムの21回目のセミナー〈「身体性」とはなにか?〉がヴィラ・マーヤにて行われた。日程のせいもあり集った人たちは11人と多くはなかったが、身体を動かすのに十分なスペースがとれたことなど、少人数の良さが発揮されたセミナーだったように思う。

 「身体性」の欠如こそ袋小路に陥った近代文明の根本的誤りである、とする北沢方邦先生の序論からセミナーは開始された。身体を通じて大自然や宇宙と交流し結びつくはずの人間の思考が、その身体をないがしろにしてきたがゆえに、真の認識から遠ざかってしまった、というのが先生の根本の考え方である。また、主観と客観の乖離をいかに克服するか、この哲学の永遠のテーマを解決する鍵も「身体性」という概念には込められているという。

  自然を人間の外に置き、収奪の対象としか見てこなかった近代主流の思想と、宇宙・自然と人間は一体であるとする、たとえば古代インドのヴェーダーンタ哲学や古代中国の道教哲学とは、なんと懸け隔たっていることだろう。後者の「身体性」に満ちた一元論は、スピノーザ、ルソー、カント、ゲーテ、ベートーヴェンの思想にもあり、われわれはここから出発して、新しい生き方を模索していく他はないようだ。

  今セミナーのメインの報告者は、日本におけるマクロビオティック実践の第一人者、橋本宙八氏である。「マクロビオス(偉大な生命)」という古代ギリシャ語を語源とするマクロビオティックは、一言でいうなら「食物による健康・長寿法」。しかしここでいう「食」とは環境も含めた広義の概念で、人間の身体の健康ばかりではなく、社会の健康までも含むらしい。そして「日本の伝統的食養法」と老子の世界観である「陰陽論」が実践の核になるという。

  「旬を食べる」というのは日本料理の基本である。それに「身土不二(しんどふじ)」、即ち身体と土(環境)の調和という仏教の教えを合わせて考えると、食が自然や宇宙と一体のものであることがよく分かる。それと「一物全体(いちもつぜんたい)」という考え方も感覚的に理解できる。ひとつの食物には自然の持つエネルギーがバランスよく含まれている。ゆえに食物は出来る限り全体を丸ごと食べるべしというわけだ。

 西欧の「粉食文化」に対して東洋を「粒食文化」と位置付けるなど話は文明論、さらには宗教論にまで及び聞きごたえがあった。マクロビオティックに基づく具体的な料理の話も聞きたかったという声もあったが、それはまたの機会にお願いすることにしよう。

 2日目は、伊豆高原で治療院を開業されている田中亮二氏による「東洋医学」、舞踊家の鈴木雅子氏による「ダンスの基本的姿勢」、北沢先生によるヨーガと、実際に身体に触れ、また動かすという、ワークショップ形式のセミナーであった。

  人間の身体は自然の一部であり、宇宙と一体となったものであるという「心身一如」の生命観こそが東洋医学の基本だという。このことは、人間の身体に張り巡らされた12の経路、またその各所に存在する360もの経穴(ツボ)の話を聞き、またツボに触れられることで、なんとなく実感できた。経路・経穴を通して人間の身体を循環する気のエネルギーは、宇宙空間をある摂理の下に行き交うエネルギーと等しいのではないかという実感である。 

 背筋を伸ばし、肛門を締め、ふくらはぎを合わせて脚を少し開く、というダンスの基本姿勢も、宇宙と一体のものではないか。頭は天から引っ張り上げられ、足は地に引きずり込まれる。この姿勢から一歩踏み出せばそのままダンスになる。運動神経の乏しい私でも踊れるかも! こんな錯覚を抱いたものだ。

  締めはいつもの北沢先生指導のヨーガである。先生の驚異的な健康を支えているものは、間違いなく毎日1時間実践されるヨーガであろう。ポーズの一つひとつが、自然そして宇宙との一体感を表している。身体を通しての実践は、頭からだけの知識を遥かに超える。不器用にヨーガを実践しながら、こんな感慨に浸ったのだった。

 2012年12月22・23日 第21回セミナー
「身体性」とはなにか?――近代文明が忘れてきたもの
講師:橋本宙八、北沢方邦、田中亮二、鈴木雅子

2013年1月14日 J-MOSA


ホピで生まれてホピで死ぬ。

2012-04-27 21:40:57 | セミナー関連

Simple and Humble way

今井哲昭さんに伺ったホピの話は本当に刺激的でした。
今井さんは、「ホピから見ると、ここがヘン」、「日本はこれでいいんですか?」
と、何度もおっしゃいました。


                               写真は江ノ島の夕陽

●ホピの村では、仰角10度で全方位星空が広がる。
空を見上げることで、宇宙とつながっていることが実感できる。
今井さんは、「星が見えないところで暮らせない」とおっしゃる。

●西洋文明に触らないよう生きている。
祭りと儀式の毎日。精霊たちと生きる。神話を生きる。
村から離れず、皆と暮らす。


●皆で集まって同じものを食べることが大事。
掲示板や回覧板があるわけでなく、会食があることは口コミで伝わる。
最近は、フードスタンプで、ジャンクフードを食べる人もいる。
支給された生活補助や年金で、(本来禁止されている)お酒を飲む人もいる。

●女性は、結婚しないと死後に精神世界へいけないとされている。
結婚が決まると、婚礼に先立ち、女性は婿の実家で2週間暮らし、
その間に婿の親族の男たちが織った白い綿でローブを作ってもらう。
死んだら、魔法の絨毯みたいにそのローブにくるまって、あの世へ行く。

●結婚と出産は別。結婚までに1人や2人子どもがいることが多い。
拡大家族で大所帯、子どもは村の皆で育てる。
女子は大勢子どもを産む。10人、多い人は20人も産む。
子どもは大勢いる。
男の子たちは早く一人前になってカチナ・ダンスを踊りたいと思っている。

●男は畑、女は家

働かなくて愛想をつかされた夫は、実家へ帰っていいことになっている。
出戻り男子は大勢いる。

●文字を持たず、記録を残さない。
徹底してオラルな(口承・伝承の)文化。
ホピは記録を残さない。神話や言い伝えや秘儀も、口で伝えていく。
※今井さんのお話を伺う数日前のテレビ番組で、
「自らのあらゆる記録を残す人が増えている」傾向を報道していて、真逆だと思った。
自分の瑣末な記録を世界中からアクセス可能にしておくことで、
立ち位置を確認している人の孤立した姿と、
過去を参照せず、将来に不安をもたず、たった今を皆で生きているホピの人びと。


●簡素に慎ましく生きる。

「私には、この約束を交わす神も長老もいない。
不安と不満渦巻く社会で greedy に生きるのは辛い」と言ったところ、
今井さんは、「勇気をもって田舎へ行くのです。空を見て農業をするのです。
こんなに水と緑が豊かな日本で、都会にいるのはもったいない」と、強調されました。

●ヒト・モノ・カネが動かない。

畑で作るのは、儀式で使うトウモロコシや豆。
換金作物は作らず、余剰産物も(儀式目的以外に)貯蔵しない。

民芸品として人気のあるコチナ(精霊)人形や銀の宝飾品作家もいるが、
たくさんは作らない。
周囲150キロは誰も住んでいない。

●お祈りで一日が始まる。

父なる太陽が母なる大地から現われる瞬間が、神聖な時。
皆、夜明け前に起きて、祈りで一日が始まる。

以上、印象に残ったフレーズを日ごろの反省とともに箇条書きにしてみました。
                                                カタオカ★М


幸せを生きるホピの人たち

2012-04-23 12:00:08 | セミナー関連

幸せを生きるホピの人たち




               ホピのお茶【ホホイシ】  煎じて飲む

 

 4月15日から16日にかけて、ホピ在住の今井哲昭さんと時間を共にした。伊豆高原のヴィラ・マーヤでのひとときは、時間が停止したかのような、まことに不思議な体験であった。今井さんの話の内容もさることながら、その存在そのものが日本人を超越していて、彼と空間を共有していること自体がホピ体験であったような気がする。

 「そこが面白いんですよー」と会話がはずむごとに、今井さんは古くて大きな鞄からホピの証を取り出して見せてくれる。色とりどりのトウモロコシであったり、畑から発掘された化石であったり、カチナ(精霊)の絵であったり。私たちは紫色に煎じられたホピのお茶、ホホイシを飲みながら彼の話に耳を傾ける。爽やかな、どこか懐かしい味がする。

 ホピには、過去もなければ未来もないという。あるのは現在だけ。過去に縛られていては生きていけないし、未来のことは神のみぞ知る、ただ、「今」を生きなさい、ということだろうか。文字を持たないホピ族には、当然のことながら書かれた歴史書は存在しない。しかし、そうだからといって、歴史が存在しないことにはならない。人間が生きるということは、歴史を積み重ねていくことである。私たちは歴史から学ぶ一方、それに束縛され、押しつぶされそうでもある。ホピに於ける歴史とは何であるのか。

 「ただ生きていけばいいんだよ」。今井さんは、母上が亡くなられる直前に言われたこの言葉を大切にしている。ホピの人たちは、この母上が到達された境地を、日々生きているのだ。生まれてから死ぬまで、人々の役割はほぼ決まっている。家族と村(今井さんの村は700人位、全人口は約1万2千人)が生活の中心であり、農作業と祭りに明け暮れる毎日である。人と人の絆が固く、自らの立ち位置が明確な社会では、人は不幸を感じることはないだろう。自殺者がほとんどないのはもっともなことだ。

 ホピの人たちは西欧文明を意識的に遠ざけている。しかし学校は存在するし、テレビも家庭に入りつつある。ホピの人たちの今の暮らしのあり方は、はたして存続しうるのだろうか。この私の質問に、今井さんは明確に「イエス」と答えた。それは祭り(祭儀)があるからだと言う。ほぼ月に一度催される祭りにこそ、宗教を中心とするホピ社会維持の秘密がありそうである。それは、私たちには容易に知ることができない、しかしおそらく、高度に洗練された社会的システムであるような気がする。腰を落ち着けて、ホピの知恵を学ぶ必要がありそうだ。

2012年4月19日 j.mosa


第十六回伊豆高原セミナーに参加して

2010-11-10 00:03:20 | セミナー関連

第十六回伊豆高原セミナーに参加して  
                                    

                                           片桐 祐

 さる9月11・12日の二日間にわたり、伊豆高原ヴィラ・マーヤにて「知と文明のフォーラム」によるセミナーが催されました。「日本の安全保障と今後の世界」をテーマとした今セミナーは、講師に斯界の碩学、坂本義和先生をお迎えしました。  

 第一日目は、日本の安全保障をめぐるいくつかの問題について、坂本先生から話していただきました。その具体的内容の大略を記しますと、第一に、1960年の改定安保にはじまり普天間移設議論にいたるまでの「安保」関係史が展望され、第二に、「国際貢献」や「抑止」といった、「安保」をめぐるコトバのもつ盲点あるいは陥穽について指摘されました。 第三には、今後の紛争例として軍拡競争、資源・環境紛争などが俎上に上りましたが、その中で、食糧問題をかかえる中国の海外進出は欧米の植民地主義の再来にほかならないとの分析が注目されました。そして最後の第四として、意見交換を求める形で、日本の国家と市民の課題をめぐる疑問文が提示されました。すなわち、国家とは? 市民(社会)とは? 東アジア共同体とは? 憲法9条とは? この四つです。  

 第二日目午前は、前日の議論を踏まえ、北沢方邦先生から問題提起する形で、日米安全保障条約の歴史と現状、憲法第9条と自衛権・集団自衛権、日本の安全保障と東アジアの集団安全保障、今後の世界、これら諸点をめぐって、坂本先生との対談というひとまずの形をとりつつ議論がなされました。そして午後は、参加者同士の話し合いが持たれました。  

 さて、二日間にわたって提示された安全保障の諸問題は、どれもみな、わたしにとってたち馴染みがありながら、正面切って考えることを避けてきたようなものばかりです。そして、答えはこうだと簡単に言えそうにないものばかりです。

 セミナーが終わってからもその思いは基本的に変わりません。とりわけ坂本先生から提起された疑問には、参加者の間からも多くの意見が出され、各人のよってたつ視点によってまるで違うとらえ方が可能であることを知らされました(一例をあげれば、国家とは?の疑問のところで、‘国家があってはじめて国民がある‘、‘国民が存在してこそ、国家が ある‘というような対照的なとらえ方です)。  

 しかし、これこそがセミナーの効用というものでしょうが、こうして多様な意見を聞くうちに、この問題を考えるには少なくともこれだけの立場があり、それらを条件をクリアしないと正解には到達しないという、解法へのひとつの道筋が見えてきたことです。いうまでもありませんが、このような意見がだされる背景には、学生から旧政党関係の方々まで、参会された方々の多様性があったあればこそです。そして、もうひとつ、坂本先生の令夫人による、絶妙なるタイミングのご発言が、参会者の積極性を引き出したことは間違いありません。                             


第12回セミナー●「生殖革命」と人間の未来

2009-11-30 20:08:31 | セミナー関連


 知と文明のフォーラム  第12回セミナー 
「生殖革命」
と人間の未来

 
 10月24、25日に標記セミナーが開かれた。私は今回初めて参加させていただいたいわばセミナー新入生だが、参加者は30名ほどで、ヴィラ・マーヤ・セミナーはじまって以来の盛況だったそうである。

 
初日はセミナーの企画者、青木やよひさんのごあいさつで始まった。最初の報告者は首都大学東京の江原由美子さん。テーマは「フェミニズムと生殖革命—−その問題点と展望」で、女性の自己決定権と生殖技術の進展をめぐる全体的な見取り図が次のように提示された。

 
近代の出発点である「人権宣言」は、人(=男)と市民(=男市民)の権利宣言であり、自由権(人身の自由)はその基本にあった。しかし、「女性の人権」は初めから排除されていた。フェミニズムのたたかいは、「女性の人権」の獲得の歴史であった。女性参政権獲得後、「女性の人権」の課題として残ったものの一つに、女性にとって最も重大な性と生殖をめぐる権利、つまり女性の身体の自己決定権があった。

 
体外受精(=胚移植技術)が出現するまでは、この女性の自己決定権と生殖技術の進歩の間に矛盾を見出すフェミニストは少数だった。生殖技術が国家によって利用されることを危惧していた女性たちである。しかし1978年の体外受精児誕生を境に、フェミニズムと新しい生殖技術との間には齟齬が生じ始める。不妊治療として開発されたはずの体外受精は、生殖機能の市場化、代理母や卵の提供といった女性の身体の道具化を促進させる一方で、成功率の低さゆえに、必ずしも不妊カップルへの救いとはならず、むしろ不妊に苦しむ多くの女性へのさらなるプレッシャーとなっているからである。さらに、生殖補助医療の進歩は生命操作や遺伝子操作を可能にし、その結果、優生思想の強化を危惧させるからである。それ以来、女性たちはこれまでの自己決定の主張を問い直し始めた、と江原さんは言う。

 
生殖を身体から引き離し外部化し、他者の身体の支配をもたらす「生殖革命」は、女性の自己決定権を困難にする。なぜなら、自己決定権は、他者の身体をコントロールしないようにするわれわれの義務としての「自己決定権の尊重」に基づくべきものだからだ。生殖技術の革新は女性に自由をもたらしたのか。私でもあり他者でもある胎児を自己決定に包摂できるのか。生殖の領域はすぐれて、自立した個々人を前提とするリベラリズムの虚構性をあぶり出す。近代の人権思想が生み出した自己決定権は、「生殖革命」に直面した女性の自己決定権の困難を通して再考され、他者の身体を支配するものとはなってはならない。
 
 
続いて日仏女性研究学会代表の中嶋公子さんが、江原さんの問題提起を引き継ぐかたちで「女性の身体の自己決定権とその困難——フランスを中心に」をテーマに報告した。その内容は、フランスや欧州の具体的事例、データを挙げながら、「身体の自己決定権=自己の身体の処分権」を青木やよひさんが提唱する「生殖倫理」にどうつなげることができるのかという問いを軸に組み立てられたものだった

 
人工妊娠中絶の権利の現状を例にとっても、女性の身体の自己決定権は、先進地域のように思われがちな欧州でも、実は、基本的人権として確立してはいない。一方では、生殖技術の進展によってもたらされた「産む自由」、「産まない自由」の拡大は、いくつもの倫理上の重大な問題を引き起こし、この権利の確立をさらに困難な状況においている。

 
生殖倫理の視点からとくに注目すべきは、着床前診断、出生前診断による選択的中絶と代理懐胎の問題だ。前者は、自己決定権を通して、直接、優生思想に結びつく可能性をもつ。国家の優生学は個人の優生学を通して行われるようになったのだ。後者は、自己の身体の処分権を越えて、他者の身体の処分の領域(他者にとって−—この場合、代理懐胎を引き受ける女性―—、それが自らの身体の自己決定であるとする立場をとるフェミニストがいるとしても)に踏み込む、つまり他者の身体の支配だけでなく、生まれる子どもや代理母の家族までも巻き込み、母体の細分化や親子関係の複雑化をもたらすからである。さらに、代理懐胎は、同性親の問題をも提起する。

 
生殖技術に関する日仏の違いは、フランスの場合、生殖技術の拡大を前にして、国家倫理諮問委員会を設置し、国や市民のレベルで倫理的な視点からの議論があり、それが生殖関係の法律に活かされているのに対し、日本では倫理が不在のまま法がつくられていることにある。生殖は、産むという行為は女性の身体という場で展開する。生殖の倫理を考えるときに、女性がこの経験を自らの言葉で言語化していく必要がある。なぜなら、自己決定権を生み出した近代の人権思想は、男性の身体を普遍的なものとし、女性の身体の経験はそこから排除されているからであると、中嶋さんは強調した。

 
二日目は、まず慶応義塾大学の長沖暁子さんが「生殖技術とは何か……当時者の視点が与えるもの」と題して報告した。長沖さんの自己紹介にも「学生時代に出会った優性保護法と専攻した発生学が「生殖技術と女のからだへの自己決定権」というその後のテーマを決めた」とあったが、生物学者と運動家としての視点が交差するきわめて固有な立場からの報告だった。

 
1953年のDNA発見以来の生命工学の歩みの中に体外受精の技術を位置づけると、それが開く「地平」は生命全体に及ぶことが分かる。長沖さんは、だから倫理を問うのであれば、生殖に限らず生命全体の倫理への問いが必要だ、とまず主張した。続いて、女の身体を実験台にした自己決定権を狭めるものとしての生殖技術、その背景にある機会論的自然観や遺伝子還元主義や父権主義や優性思想を根源から問い直した1985年のフィンレージ会議の決議文が紹介された。その後あきらかになっていく生殖技術の問題点のほぼすべてがこの決議文ですでに指摘されていたことが分かる。さらに、日本における運動として、クラインの『不妊』翻訳をきっかけにできた自助グループ・フィンレージの会、さらに05年にできた非配偶者間人工授精で生まれた人たちの自助グループDOGの取組が紹介された。

 当時者の語りがこの二つのグループの活動の基本である。生殖は私的行為であると同時に、社会的規範や価値観にも規定された、社会が介入してくる行為でもある。だが不妊は個人の問題でしかないかのように、個人による解決が、自己決定が求められる。そもそもアプリオリに自己決定などは存在しない。これまでの女たちの自己決定の主張は、それができるように社会を変革するためのものでもあった。だからこそ、当時者が出会い語り合い個々の体験を整理し、当時者以外の人々と共有できる経験や知識にしていくことが不可欠で、そのための当時者へのサポートが必要である。それをもとに自然・家族・生殖・生命等に係る多様な価値観を創造することが重要で、そのことを通してしか科学の枠組みの転換、社会の変革はできないとのではないか、と長沖さんは報告を締めくくった。

 
続いてセミナーに参加していた前述のDOGのメンバーの一人がグループの活動やAIDから生まれた子どもとしての経験を非常に整理されたかたちで語ってくれた。午後の自由討論でも、このグループのもう一人のメンバーが勇気ある発言をしてくれた。彼女たちの言葉が私たちの胸に重く響いた。これが長沖さんの言う経験の共有化だと思った。子どもが係る技術はけっして自己決定の枠には入らないことを私たちは実感できた。

 
3つの報告を受けて、最後に青木やよひさんが「私の問題提起―生命倫理から生殖倫理へ」と題する文明そのものを根源から問う問題提起を行なった。今日、生殖の人工操作が可能になった段階、とりわけ女性の卵子が体外に取り出され人工授精されるという段階から、生殖という生物的・社会的行為が人類史上始めての重大な転換の局面に到達したが、このクリティカルな転換が一般に認識されにくいのは「幸福追求の権利」のもとにどのような手段を使っても子を得るのは当然とする社会通念があるからだとし、それが「公共の福祉」の根底をゆるがしている。この状況を変えるためには従来の生命倫理の枠を大きく超える「生殖倫理」が必要であり、それによって人間とはなにか、生命とはなにか、大自然や宇宙と人間との関係はなにかを問いなおし、文明とその思考体系のあり方を変えなくてはならないと論じた。

 
さらに北沢方邦さんからは、私権、肥大化した欲望の正当化にもつながり得る「自己決定権」に代わる概念としての「個人の主権」が提案された。

 
昼食後の参加者全員による自由討論では、自己決定と「社会」、生殖技術と家父長制、生殖と「自然」、生殖倫理の観点からの生殖医療の実施のされ方や子どもの「福祉」等の様々な問題について活発な意見交換が行なわれた。私自身も、大変刺激を受けた二日間だった。今回の議論がさらに深まるような新たな企画の実現を期待したい。       (石田久仁子)

追記●この報告を書き終えた直後に、青木やよひさんの訃報に接した。青木さんのご冥福を心からお祈りするとともに、セミナーを通して青木さんから私たちへ伝えられたことをしっかりと引き継いで行きたいと思う。


第11回セミナーに参加して

2009-02-19 23:51:59 | セミナー関連


         第11回セミナーに参加して

 
 
この2月7日、東京都美術館で開催されている「アーツ&クラフト展」を見に行った。ウィリアム・モリスの壁紙やタペストリーなどの工芸品は美しいには違いないが、私とは別世界のものだという印象をそれまで持っていた。しかし、この展覧会の2週間前に、マルクス経済学者の大内秀明先生を講師にお迎えして、モリスに関するお話を伺った後でもあり、私のモリス観はかなり変化していた。彼の壁紙作品などに描かれている植物や動物たちの背景に、モリスの豊かな自然観や労働観を感じとることができ、実りあるひとときを過ごしたのだった。

 大内先生のセミナーのタイトルは「人間にとって労働とは何か――ウィリアム・モリスから宮沢賢治へ」であった。モリスと賢治の思想と生き方がお話の中心であったのだが、二人の作品が生み出された背景もよく理解できた。コッツウォルズの豊かな自然とモリス、イーハトーヴの、厳しいけれど懐かしい風景と賢治。風土を抜きにして二人の芸術を理解することはできないようだ。

 
モリスは、イギリスの産業革命による機械制工業化の時代に生まれている。彼は後期マルクスの『資本論』から、コミュニティの再建、共同体を中心としたギルド的社会主義を学び、「アーツ&クラフト運動」として実践したとのこと。モリスの美術作品の制作過程は、それこそ彼の思想の実践だったのだと納得できた。彼にとっての労働とは、 Art is Man’s Expression of his joy in labor(労働の芸術化、芸術の労働化)であり、joy and pleasure であったのだ。

 
これは、A・スミスによる古典的な労働価値説にいう、労働とは toil and trouble という考え方とは大きく異なっている。また、ロシア革命に疑問を持っていた宮澤賢治は、「農民芸術概論綱要」の中で、労働についてこう言及している。「芸術をもて、あの灰色の労働を燃やせ」と。これは、ウィリアム・モリスの  Art is Man’s Expression of his joy in labor を引用、継承したものであるとのお話だった。

 
大内先生のセミナーが行われたのは、アメリカのサブプライム問題に端を発した金融経済恐慌で世界が揺れている最中だった。日本では、従業員の大量解雇、内定取り消しが相次いでおり、日比谷公園で寝泊まりする若者のニュースがマスコミを賑わせていた。この出来事についての大内先生の次の言葉は納得のいくものだった。「昔なら、都市で過剰労働力となった者は、農村に帰っていった。しかし現在では、家族や共同体の崩壊により、すでにそのような仕組みは働かず、農村はセイフティネットの役割を果たさなくなってしまっている。

 
国家社会主義が崩壊し、資本主義社会も先が見えない現在、モリスと賢治の思想は見直されなければならないとのこと。新しい形の共同体、コミュニティからこそ、未来を展望できるということだろう

知と文明のフォーラム第11回セミナー
「人間にとって労働とはなにか?
        
―ウィリアム・モリスから宮沢賢治へ」
日時:2009124日(土)~25(日)
場所:伊豆高原ヴィラ・マーヤ
セミナー内容:
序論 北沢方邦「経済グローバリズムの行方」
講義 大内秀明「世界で一番美しい村・コッツウォルズとW・モリス」
「モリスから賢治へ、そして〈賢治とモリスの館〉」

あんず
 


第10回セミナーに参加して

2008-11-30 10:38:18 | セミナー関連


   第10回セミナー『21世紀の市民と市民的公共性
               ―小さなユートピアをめざして』に参加して


今回のセミナーでは、主に、篠原一先生を講師にお招きし、『シティズンシップと市民的公共性―小さなユートピアをめざして』についてご講話いただいた後、21世紀の市民や市民運動はどうあるべきか、むしろそれをどう築くべきか議論しました。

篠原先生によると、議会制民主主義はそれだけで民意を反映しえるものではなく、それを補完したり、また異議申し立てをするために、「市民としての資格や要件(citizenship)」を持った市民一人一人が活動し、行動し、コミュニケーションし、討議する上でできる「公共空間(public sphere)」が中核となってできる、市民的公共性の強い成熟した「市民社会(civil society)」を作っていく必要がある、とのこと。その公共空間を作るために有効な討議デモクラシーという制度の紹介と、グローバリゼーションの中でどのように公共空間を作っていくか、NGOの活躍などの説明をいただきました。

そのお話の中で特に心に残ったのは、いま、市民としての資格や要件(citizenship)において最も大事とされているのは、他者への尊重だということ。個々の市民が互いに他者を尊重し合って、交流していって、討議して合意を目指すことが大事であり、その互いに尊重し合う関係の中には“give and take” だけでなく、“give and give”の関係もあるということでした。権利と義務という関係概念は産業社会、生産社会の論理であり、環境問題や福祉、介護の問題などは、それだけでおさまるものではない、というお話は、考えてみれば当たり前のことなのですが、でも、生まれたときから産業社会、生産社会の論理の中で生きて来た私は、無意識のうちに、権利と義務は一体だと思っていたのでしょう。give and give が義務とまでは考えられていなかったし、逆に、take and takeの立場になった場合、対等に議論に参加できないような気がしていたように思います。それだけ、近代の効率主義に汚染されていたのだろうと思いますが、自分がどちらの立場に立っても、他者を尊重し、権力者に対しても批判的能力を持って、行動しながら生きていきたいと思いました。

講演後半には、日本人が政治的に淡泊であり、政治的なことに対して自分の意見を公にすることを嫌う国民であることが話題になりました。日本のように運動のない社会もめずらしいのだとか。黙っていることそれ自体が、いまの政治を肯定し、支えていることになるのですが、しかも、最近では、それを超えて、アナルゲシアといって、痛みを与えられている人が痛みを与えている本人に投票しにいったりするのだそうです。この状況をいかに打開していくか、こどもたちへのシティズンシップ教育が重要だ、いや、それ以前に親への教育が重要だと、講演後の座談でも大きな話題となりました。

セミナーが終わって1月近くが経ちました。主婦として、家事と育児の日々に戻った私は、子育てを中心とする今の私の時間軸と近代社会の時間軸とのあまりの隔たりに疲れ、当初の高揚した気持ちがかげり、時に、もの言わぬ市民の感覚にもどりつつある自分を感じます。でも、一人一人が日常生活で感じる違和感を見つめ、自らの怒りを公にすること、エモーションを大事にし、パッションに高め、よりよい社会を作るために市民として努力していくこと、それが必要であること、そして、討議デモクラシーやNGOなどそれらを可能にする手段があること、そういった手段を模索していくことが大切であることを、今回のセミナーで学びました。(そして時を同じくして、違う形ではありますが、アメリカの大統領選挙が一人一人のNoが社会を変えていく力となることを、示してくれました。)私もこれからの人生、自分なりのユートピアをかかげて、努力していきたいと思います。

katakata 


第7回セミナーに参加して

2007-11-13 06:45:44 | セミナー関連

第7回セミナー「性差とジェンダーⅡ」に参加して     

ジェンダー・バランスとテクスト  

 太古の時代から息づいてきた《ジェンダー・バランス》という人類に普遍的な「大きな物語」、そして、北アメリカ先住民によるジェンダーをめぐる現代の「小さな物語」。ふたつの物語はどんなふうにつながっているのか? 東アジアに生活する自分は、どんな「わたしの物語」を語ることができるのか? 二日間のセミナーはこんな難問を突きつけてきた気がする。

 北アメリカ先住民の文学を知らぬわたしにとって、第一の問いはまさしくこれからの課題である。だから、しばらくは未知の領域の作品を読むという楽しい作業に手をつけることになりそうだが、その際に念頭において置きたい視点はこうなる。すなわち、先人の物語を口承によって伝えてきた北アメリカ先住民の子孫が、文字という表現手段を使って、しかも簒奪した側の言語によって、ヨーロッパ的近代化がもっとも進んだ国のなかで、みずからの物語を紡ぐ困難さに身を寄せること。   

 おそらく、マルチニックの作家パトリック・シャモワゾーがフランス語に風穴をあけたように、先住民文学も英語の部分的解体を宿命的に目論むだろう。そのとき生まれる文体はどうなるだろうか。  

 じつは、この文体という点に、わたし自身にむけられた第二の問いがかかわってくる。というのも、「明晰ならざるものはフランス語にあらず」といったデカルト至上主義が幅を利かす職場に身をおいていて、なにか男性原理一辺倒のようでいかにも息苦しく、もっと柔軟な言語観をもとめていた折に、ツヴェタン・トドロフがひとつのヒントを与えてくれたのだった。彼は『他者の記号学』のエピローグにおいて、科学とそれと同系統のすべてのものが属する体系的言説、文学とその変種が属する語りの言説、この二種のうち後者の領域が縮小しているとしたうえで、こんな決意を述べる。

 私が<征服者>のヴィジョンと訣別できたのは、彼ら征服者がわがものとした言説の形式を私自身が捨て去ったときであった。私は、押しつけるのではなく提示 する物語に同意し、またひとつのテクストの内部で語りの言説と体系的言説とが補い合う、そのようなテクストをもう一度見出さなければならないと感じている。  

 トドロフのめざす「テクスト」にはジェンダー・バランスに近い考えが横たわっているのではないか。かつてこの一節を読んで、自分もまたそんなテクストを、文体を、作り出したいと願った。その願いは、わたしのなかで希薄になり失われつつあるバランス回復にむけた自然な欲求にほかならなかったのだ。今回のセミナーが教えてくれたのはこのことである。    

 だから、「わたしの物語」は、なにを書くかでなく、どのように書くか、を出発点にしなければならない。                                                                                          

むさしまる


第3回セミナーに参加して

2006-08-29 10:36:55 | セミナー関連


身体と心が変革される予感


 今回の「知と文明フォーラム」第3回セミナー『ヨーガ――インド哲学とその実践』の目的は、身体と心の関係を学ぶことにあった。ヨーガの実践を通して、身体を動かすことで学ぶ、そして、ヨーガの思想的背景、つまりインド哲学の講義を受けることによって、その学びをさらに深くする。

 7月15日の午後から翌16日の15時まで、したたる緑に囲まれた伊豆高原のセミナーハウスは、30代から70代までのヨギの熱気でむせかえるようであった。

 と、書いたけれども、この私は、ただでも身体が硬い上に、日ごろの不摂生もたたり、身体が思うように動いてくれない。講師の北沢方邦先生と、パートナーである青木やよひ先生は、長年の実践の成果か、その身体は驚異的に柔軟である。180度脚は開き、開いたままで上半身が床につく。呆然とその動作を見守るばかりであった私は、少なくともこのセミナーでは、身体を通しての心身一如の実感にはほど遠いものであった。精進すれば、いつの日にか、両先生のような柔軟な身体になれるのだろうか。「私もかつては身体が硬かったのよ」と言われる青木先生の言葉も、虚ろに響くばかりであった。

 しかし、ヨーガの基本だという呼吸法は、身体の硬さとは無縁のもの故、それなりに体得できたように思う。ヨーガの呼吸法とは「気(サンスクリット語でプラーナ)」を制御することである。それでは気とは何か。どうやら、気こそ、心と身体を結びつける重要な存在であるらしい。というよりも、気は、身体的であると同時に精神的な存在であるようなのだ。

 息を吸い、止め、そして吐く、これを1:4:2で行うのが呼吸法(プラーナーヤーマ)の基本であると教わる。そして大事なのは呼吸を止めること――これをクムバカというようだが――であると。クムバカによって酸素が赤血球に吸収され身体中に酸素エネルギーがいきわたる。これこそ気の源泉であり、この気をコントロールすることで、おそらく心身一如の境地に達することができるのであろう。そんな日を遠くに夢見て、私は、毎朝満員電車の中で、このプラーナーヤーマを実践している。鞴の呼吸法(バストリカ)も教わったが、これは騒々しくて電車の中では実践はできない。

 2日目は、最新の物理学理論が紹介される。衝撃的なのは「多重世界理論」で、それが描く世界のありようは、インド哲学の描くそれと近いものであるようなのだ。

 数学や物理学の話は私には理解の外だが、多重世界理論によると、過去と未来が等しく、この世界は無限次元の空間から成っているという。過去と未来が等しい? 無限次元の空間? 「異界」や「他界」という言葉が思い浮かぶ。「輪廻転生」という言葉も。浄土真宗の篤い信者である91歳の義母は、輪廻転生を信じて疑わない。義母の世界と最新物理学の描く世界にどこか通じるものがあるのだろうか。「シュタイナー教育」で有名なルドルフ・シュタイナーは、教育のほかに、農学、医学、芸術、宗教など幅の広い分野で活躍した人だが、彼も輪廻転生を信じていて、私はこの部分だけはどうにもついていけないものを感じていた。あれほど理性的な人がどうして、という気持ちである。それが少し変わった。

 今回のセミナーは、私の近代的合理主義的思考法を、かなりの程度に修正してくれたようだ。身体も心も、未知なる宇宙に向けて、扉を広く開けていこうという気持ちになっている。北沢先生、有難うございました。                                   

2006年8月27日 j-mosa


第2回セミナーに参加して

2006-06-25 06:38:38 | セミナー関連

雌雄同体のカタツムリに学べ

石井ゆたか

 男も女もない世界に生きる「カタツムリ」。たまに食べられてしまうこともあるけれど、たまに人間から「駆除」されることもあるけれど、自然の縁の中で命を繋ぎ、平和に暮らしている印象のある生き物。もっとも、実際には熾烈な生存競争が繰り広げられているのかもしれませんが、男と女が支配する側、される側に分かれて争うこととは無縁であるはず。ですから、私はカタツムリを見ていると落ち着きます。   
 
 「女性がみずからの女性性を無視して、単に男性との平等だけを追求するようなフェミニズムは、近代社会が作り上げた、支配する側の都合によるジェンダーシステムを肯定することになる。だから雌雄の雌である女性性を自ら認めよう。脳の基質的な違いも認めよう」という青木先生。私は、先生のお話を男の立場に置き換えて考えてみました。

 「男性が自らの男性性を無視して、単に押し付けられた「男らしさ」だけを追求するように仕向けられる社会システムは、暴力と搾取と支配を好み、いずれ世界を破滅に追いやる。だから、自然の中に存在する雌雄の雄である男性性を自ら認めよう」。すると私自身が「男性性」についての概念を持っていないことに気付きました。

 「女を守り、家族を養う義務を命がけで果たしてこそ男」という、「男らしさのスタイル」だけが残る自分。この義務感というものの正体は何でしょう。ある男性は「愛情そのものだ」と言い、ある男性は「考えたこともない」と言います。また、ある女性は「当たり前のことだ」と言い、ある女性は「そんな男性って素敵」と言います。女性も、誰かが刷り込んだ「男らしさ」という評価基準で男性の優劣を判断している人が多いようです。どうやら、男性自身が目を覚まして、男性性の本質を深く考察しなくてはならないようです。

 誰が何のために、「らしさ」を押し付けてきたかは何となく理解できます。戦で人殺しをさせるため。会社は、比較的丈夫な体を酷使させ、カネを稼がせるため。そして、「らしさ」を演出するためのモノを売りつけるため。理解できないのは、男性がそうした「社会構造から押し付けられた役割」に疑問も不満も持たずに漫然としていて、私もそうであったこと…。

 そもそも、「義務」や「責任」という社会的基準で生き方の枠をはめられて生きるのは、甚だ窮屈な話しです。とはいえ、一方では、家族の役に立っていることに深いよろこびを感じているのも事実ではあるのですが。

 人間が、「雌雄同体」のカタツムリのように命を繋ぎ、自然がもたらす「縁」の世界で平和に暮らすには、女と男が自然を介して「同体」であることを再認識することが必要なのでしょう。しかし、心でそう思い、頭では混乱しています。カタツムリによって癒される私は、「男らしくあれ」という観念に従って生きることに疲れているのかも知れません。

 次回は「男の何が、男の生き方や価値観を縛り続けているのか」について、もう少し掘り下げてみたいと勝手に想いました。