本は「ヤンキー文化論序説」。
五十嵐太郎が中心となって宮台真司、都築響一、酒井順子などがこれまでほとんど注目されてこなかった「ヤンキー文化」を論じている。
社会学の立場から「暴走族」を見ていく文章が興味深かった。(大山昌彦)
暴走族は、地域社会から一見、浮いているようだが、先輩後輩の強固なつながりを通じて実は地域社会ともつながっており、大人になるとやんちゃはやめて、地域社会の担い手となっていく。しかし、近年、雇用の流動化や、ガテン系職種の非熟練化、また、学校文化の変質もあり、暴走族という存在自体、風前の灯とのこと。
他に、特攻服やヤンキー漫画論、ヤンキー音楽(もちろんYAZAWA!)など、「ヤンキー文化」を自分とまったく違う世界として興味深く読み進めていたが、最後のほうに収録されていた斉藤環の、「ヤンキー性」は僕たち自身にも内在化されている、という指摘にはびっくりしたけれど、なるほどとうなずいた。
古くは日光東照宮や歌舞伎から連綿と続く「ヤンキー性」。つまり過剰性と様式性は、僕たちの日常で普通に見られるもの。その視座で見渡せば、いろいろな発見がありそう。
特別掲載で「ヤンキー」をテーマにしたナンシー関のコラムも収録されているけど、ホントに鋭い指摘で笑いつつ感心した。
という訳で、いろいろ発見に満ちた意欲的な本でした。
五十嵐太郎が中心となって宮台真司、都築響一、酒井順子などがこれまでほとんど注目されてこなかった「ヤンキー文化」を論じている。
社会学の立場から「暴走族」を見ていく文章が興味深かった。(大山昌彦)
暴走族は、地域社会から一見、浮いているようだが、先輩後輩の強固なつながりを通じて実は地域社会ともつながっており、大人になるとやんちゃはやめて、地域社会の担い手となっていく。しかし、近年、雇用の流動化や、ガテン系職種の非熟練化、また、学校文化の変質もあり、暴走族という存在自体、風前の灯とのこと。
他に、特攻服やヤンキー漫画論、ヤンキー音楽(もちろんYAZAWA!)など、「ヤンキー文化」を自分とまったく違う世界として興味深く読み進めていたが、最後のほうに収録されていた斉藤環の、「ヤンキー性」は僕たち自身にも内在化されている、という指摘にはびっくりしたけれど、なるほどとうなずいた。
古くは日光東照宮や歌舞伎から連綿と続く「ヤンキー性」。つまり過剰性と様式性は、僕たちの日常で普通に見られるもの。その視座で見渡せば、いろいろな発見がありそう。
特別掲載で「ヤンキー」をテーマにしたナンシー関のコラムも収録されているけど、ホントに鋭い指摘で笑いつつ感心した。
という訳で、いろいろ発見に満ちた意欲的な本でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます