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東京ナイト

旅行、食事、映画にお芝居、日々のささやかな幸せを記録します

「地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?」

2010-08-13 19:06:24 | 
本は「地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?」(ちくま新書)



好著です。
久繁 哲之介さんという現役の地域再生プランナーが書いた、誰もがうすうす気がついていながら言えなかった地域再生が失敗する根本的理由と新たな提言をまとめた一冊。

具体的な事例が多く紹介されていますが、本の前半は宇都宮市や岐阜市を例に挙げ、巨費を投じた「地域再生計画」がなぜ失敗してしまうのかを解説しています。
ひとことで言えば、「行政もコンサルも市民目線の欠けた、自分達に都合の良いプラン」を策定し実施しようとするから。

宇都宮市や岐阜市は地域再生の定番「大型商業施設」の建設と「流行のテナントの誘致」を行い、いずれも失敗してしまいます。
予算規模が100億円を超えるプロジェクトです。
その一方で岐阜市は路面電車を赤字を理由に廃止してしまいます。

街の中心部を活性化させるために商業施設を建設しておいて、その足となるべき交通手段は廃止してしまう。
なぜこんな相反する政策が同時に起こってしまうのか?

市民の声を聞かず、安易にコンサルの提案する他地域での「成功事例」を模倣するから、と著者は言います。
で、模倣したはずの「成功事例」もよくよく調べてみると「最初は良かったのに今は・・・」という「成功事例」のマガイモノだったりします。

読んでいると失敗の根っこは深そうです。
暗い気持ちになったところで、著者はいくつかの提言を行います。
そこで「成功事例」として取り上げられるのはいずれもささやかなもの。
しかも手間と時間、そして何より情熱や知恵がもとめられる「成功事例」です。
でも、たぶんそこにしか活路はないのでしょう。
数百億円もかけて「地域活性化の起爆剤」のハコモノを作っても発想の根っこが安易な模倣であればうまく行くはずもありません。

自分達の地域の資源をもう一度見直して自分達の力でささやかでも盛り上げていく。
「地域再生に王道は無い」といったところでしょうか。

たしょう論の甘いところや事例で「?」と感じさせるものがあって時々引っかかりましたが、新しい視点を提示できていると思います。
地域再生だけでなく、自分の仕事などいろいろなことに共通する「気づき」がある一冊でした。

「活字と自活」

2010-08-07 13:05:30 | 
本は「活字と自活」(本の雑誌社)。



この前、新潟に行った時、たまたま買った一冊。
著者は荻原魚雷というライターさん。
全く知らない人だったけれど、その人の書いた身辺雑記と書評といった内容。

中央線沿線に住んでいて古本屋と中古レコード屋を巡るのが日課で、あんまり仕事をしすぎると疲れちゃうので、気をつけながら生活している40歳。
半径数百メートル以内の引越しが大きなトピックで、ふだんは慎ましやかに自活して穏やかに暮らす。

大卒の就職率が60%しかいかないこの時代に、こういった本を読むと癒される。
よく銭湯で、いい表情のオヤジがのんびり湯船に浸かっているのをみて、「このオヤジはふだんどんな生活を送っているのかな」と想像して、束の間の現実逃避に浸るけど、なんだかそんな雰囲気を感じさせる本。

もちろん雑誌不況の今、ライターさんは大変だと思うし、この本の中でもフリーライターを続けることの苦労も書かれているけれど、なんだか違った人生が垣間見られて面白い一冊でした。

「喪なわれた岩壁―第2次RCCの青春群像」

2010-08-04 07:38:38 | 
本は「喪なわれた岩壁―第2次RCCの青春群像」。
剣の真砂沢ヒュッテの書棚にあったので、その日のうちに読んだ。



山の本を多く書いている佐瀬 稔による「第2次RCC」の物語。
第2次RCCとは、昭和33年に奥山章を中心とした若手の先鋭クライマーたちが結成したロッククライミングクラブ(RCC)。
古川純一(日本クライマーズクラブ)、吉尾弘(朝霧山岳会)、松本龍雄(雲表倶楽部)、芳野満彦(アルムクラブ)ら錚々たるメンバーが揃い、奥山が個性的な彼らをまとめ、数々の岩場の初登、さらには海外の山にも遠征した。

日本のアルパイン史のうち最も太字で書かれる山岳会のひとつと言えるが、この評伝では違って描かれる。
もともと工員だった奥山章を初め、第2次RCCのメンバーの多くが大学山岳部に属さない「町のクライマー」。
大学山岳部を中心とする権威や伝統とは縁遠く、さらに、彼らの多くがその青春時代を戦争によって狂わされている。
そうした複雑なコンプレックスが、彼らを困難な岩に駆り立てた、というのがこの本の著者、佐瀬 稔の主張。

交通費や日数のかかる北アルプスではなく、夜行で行ける谷川岳の岩場がこうした「町のクライマー」たちの主戦場。
数多くの事故も起きているが、そこにしか青春の捌け口がなかったのかもしれない。

という訳で、暗い情念の篭った第2次RCCの軌跡が描かれたこの一冊。
ちょっとコンプレックスの部分ばかり強調されているので、「岩の楽しさ」はほとんど伝わってこないが、迫力のある一冊だった。
なんだか真砂沢というちょっとマイナーな山小屋で読むにふさわしい本という気もしました。

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」

2010-07-19 22:38:39 | 
本は「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」。



去年の夏、北海道トムラウシ山で起きた夏山史上最悪の遭難事故が起こりました。
ツアー登山の15人が、悪天の中、引き返すことなく登り続け、結果、ガイドも含む8人が死亡した事故でした。

この本は、その事故から生還した登山者と、公には初めて語られるガイドの証言を元に、事故に至る一部始終をドキュメント。
事故当時さまざまに報道されたことが実際はかなり事実と違っていた事も明らかになるなど、遭難の真相に迫っています。

本当に衝撃的な内容でした。
読む側は、遭難する事は分かっているのですが、時系列的に語られるドキュメントなので、普通のツアー登山の様子から始まっていきます。
しかし、最初のツアー設定から危うさを含んでいます。
そして、登山が始まると状況は悪い方悪い方に進んでしまいます。
それぞれの局面では、ガイド、登山者も頑張るのですが、一度狂ってしまった歯車は最後まで上手くかみ合うことができず、最悪の結末となってしまったのです。

問題はいくつかありました。
最大の問題はツアー側の体制。
客15人に対し、ガイドは3人の体制でしたが、ガイドたち3人は、実は現地で初めて会ってお互いの事はほとんど知らない状況でした。
しかもリーダー役のガイドはトムラウシを登るのは初めて。北海道在住のガイドは現地の状況を知ってはいましたが、このリーダーとの間で情報共有がどこまで出来ていたのか疑問です。
こうした大人数の登山で必要なリーダーシップをほとんど感じられませんでした。

また、大量遭難の原因となった低体温症についての理解が無かったため、悪天と強風の中、そのまま待機してしまい、体力を著しく低下させてしまう原因となってしまいました。

などなど、遭難の要因が次々と明らかになっていきます。
登山客側もお互いに助け合ったり懸命の努力をするのですが、60歳前後の人が多いので途中で力尽きてしまいます。
自分が生き残るためケアしていた他の登山者を残して下山してしまった人の証言は胸に迫ります。

読んでいて自分自身の経験を思い出しました。
数年前、友人達を奥多摩の沢登りに連れて行ったとき、ゲリラ豪雨に襲われて、けっこう危うい状況になりました。
この沢には10回くらい行ったことがあって、やばい状況になった時は「まさか」という驚きがありました。
結果的にはあの状況の中でベストな判断が出来たと思いますが、でももっと状況が悪化していれば冷静な判断が下せた分かりません。

トムラウシでも、意識不明で発見されたガイドの背負っていたリュックから未使用のテントが見つかりました。
暴風の中でこのテントを広げて避難できていれば・・・。
この本を読んだ誰もが思うことでしょうが、そんな事も思いつかないくらい切迫した現場の状況だったのかもしれません。

他にも、医療、気象、運動生理学の専門家による事故の分析も収録されています。
低体温症発症の要因として、雨や風のほか、朝食を十分取らなかった事によるエネルギー不足が挙げられていたり、事故の日の天候はトムラウシでは数十年に一度の悪天と言うことではなく、シーズン中、時々ある悪天に過ぎなかったとの指摘があったり、非常に読み応えがありました。

山に行く誰もが読んでおくべき一冊だと思います。

「神去なあなあ日常」

2010-07-14 08:04:05 | 
本は「神去なあなあ日常」。
三浦しをんの書いた小説です。



フィクションを読むのはほんと久しぶり。
「林業を背景にしている小説」ということで読んでみました。
けっこう売れているみたいで、宮崎駿も帯に「三度読みました」という推薦文を書いています。

内容は三重の山奥の神去村というところに、ひょんなきっかけで働きに来る事になった横浜出身の18歳の少年の手記、という体裁をとっています。
少年が村で得た仕事は「林業」。
個性的な周囲の人に振り回されながら、ちょっと気になる美人もいて、ちょっと不思議な村の時間と風習にだんだん馴染んでいくというもの。

農村が舞台の小説はたくさんあると思いますし、漁師がテーマのものもそれなりにありそうです。
でも、「林業」を小説の重要な背景に持ってきたものってそれ程は無いように思います。
まさに網野善彦が書いているように、「日本は農業社会だった」という「神話」から小説の世界も抜け出ていないのかもしれません。

でも、林業は意外に小説に合いそうです。
何より、数十年サイクルの産業なので、通常の時間感覚とはかけ離れたところがあります。この時間感覚は小説にいろいろ活用できる気がします。
で、作業としては、毎年の時期に応じて様々な種類があったりしてバリエーションも豊富。最後は「伐倒」というメインイベントもあります(この小説でも最後に伐倒のシーンを持ってきています)。

月に一度、木こりの真似事をしているので、この小説に出てきた作業を少しだけ身近に感じることが出来ました。
個人的にははじめて読んだ林業小説だったので、ちょっと嬉しかったです。

「歴史の中で語られてこなかったこと―おんな・子供・老人からの日本史」

2010-07-07 22:17:04 | 
本は「歴史の中で語られてこなかったこと―おんな・子供・老人からの日本史」(洋泉社y新書)。



歴史家・網野善彦と民俗学者・宮田登の何度かの対談を一冊にまとめたもの。
網野善彦の本を読む度に、歴史を見る視点が広がっていく気がする。
この本も、多少の繰り返し感があるもののいろいろ発見があった。

例えば、サブタイトルにもある「おんな・子供・老人からの日本史」という視点。
公式な文献ではなかなか分からないけれど、中世の日本で女性の経済的な役割は非常に大きなものがあったとの事。
養蚕、機織、金貸しなど、女性が主体となっていた経済活動は多く、一般的に考えられているよりはるかに大きな権限を持っていた。
江戸末期、流行した富士講も養蚕が盛んな地域で発展したそうで、富士講で祀られるコノハナサクヤヒメと養蚕の神様、蚕影(コカゲ)という女神がオーバーラップしていたと言う指摘ははじめて知った。

他にも、老人の地位、子どもの役割、あと「柿色」の衣装の意味など新鮮な指摘もあったが、網野先生が何度も指摘しているのが「農民=百姓」という勘違い。
明治政府による刷り込みは、「日本という国は昔からある」「日本は孤立した島国だ」「日本は農業社会」などがあるが、国をまとめるために作られた「神話」でもあり、それは国の進路を誤った方向に進めてしまい、今も様々な過ちを生んでいるとの指摘はなるほどと思った。そして、それを正すために網野先生は研究しているんだという思いが伝わってきた。

という訳でオススメの一冊です!

「ミーツへの道 「街的雑誌」の時代」

2010-07-03 07:56:12 | 
本は「ミーツへの道 「街的雑誌」の時代」(本の雑誌社)。
関西の街場情報誌「ミーツ・リージョナル」の立ち上げから関わった江 弘毅さんによる「ミーツ」周辺の回想記。



旅をするとその地方で発行されている雑誌をチェックすることが多いのですが、「ミーツ」はずば抜けた「濃さ」があって強く印象に残っていました。
京都、大阪、神戸などの街のいちばんビビッドなお店や人々の情報がぎゅっと詰まった「情報誌」。
編プロが流れ作業的に量産する「東京一週間」とか「なんとかウォーカー」とかとは載っているネタの新鮮さがまったく違って、すごい雑誌があるもんだと驚いた記憶があります。

で、その雑誌の創刊からのあれこれを描いたこの本。
「なるほど、こんな濃い人たちが作っていたから、あんなに良い雑誌だったんだ」ということが納得できました。
読んでみてすぐに思ったのが、雑誌に関わった編集、ライター、デザイナーなど、すごく多くの人たちが描かれること。
編集長なのに「オレがオレが」的な語り口ではなく、「こんなおもろいヤツがおってんで」という書き方なので、なんだか職場の忙しいけれど幸せな雰囲気が伝わってきます。

そんなスタッフ達がこだわっていたのが「街場」という言葉。
この本の中でも、内田樹さんが街場について「ただの消費空間ではなく、生活と歴史の厚みを持つリアルな現場だ」と説明した言葉が紹介されていますが、「ミーツ」が他の情報誌と大きく違っていたのは、この言葉を太い背骨として持っていたからなのでしょう。
単なる消費の情報ではなく、紹介する人、される人の「生き方」に担保されたリアルな「街場」情報。

そんな作り手にも読者にも幸せな媒体だった「ミーツ」ですが、親会社の神戸新聞社絡みの人事によってだんだん変質していきます。
「官僚的」な役員によって幸せな現場が壊れていく状況をこの本の後半では語っているのですが、読んでいて切なくなってきました。
著者も最後は退社してしまいます。
なんだかよく分からない「上の方」の動きでいろんな事が悪い方に変わってしまう・・・。なんだか他人事とも思えない感じで読みました。
という訳で、やっぱり面白い雑誌にはいろんなドラマが詰まっていたんだね、という一冊でした。

「ぼくらが夢見た未来都市」

2010-06-27 07:51:13 | 
ここしばらく更新をサボっていました。
理由は「ワールドカップ」。
開催前は全く興味もなかったのに、俄かサッカーファンとして連日、TVの前で夢中になっています。
かなり寝不足気味ですが、面白いですね、サッカー。
でも、4年前も同じ様なことをしていて、ワールドカップが終わると、全くサッカーに興味を失ったような気も・・・。

で、本は「ぼくらが夢見た未来都市」(PHP新書)。
建築史家・評論家の五十嵐太郎と、建築ジャーナリストの磯達雄が、万博、SF小説、建築家の都市計画案などを通じて、当時描かれた「未来都市」を語ります。



「未来都市」像は、描かれた時の時代状況によって大きく変わっていきます。
きらきら輝く未来もあれば、デストピアとしての悲惨な描かれ方もあります。
僕が小学生の頃、「21世紀」ってもっともっとすごい時代だろうと漠然と想像していました。上の絵のような「懐かしい未来」です。
でも、高校生の頃になると「AKIRA」や「ブレードランナー」、「メトロポリス」の様に無邪気な輝きを失っていきます。
なんだか終末観的傾向に流され、大地震が起こらないかと考えたりもしました。

そして現在。未来がどうなるのか、想像する事も出来ません。
まあ、そんなに輝いてはいなさそうです。

でも、こういう「未来像」ってどういう風に形成されるのでしょうか?
この「ぼくらが夢見た未来都市」でも、少しだけ触れられていますが、書き下ろし原稿ではない事もあり、断片的な事象の紹介に留まっています。
面白いテーマだと思うのですが。

あと、この写真は藤森照信の『東京計画2101』。2006年、ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展に出品した模型作品で、地球温暖化が進んで水没してしまった未来の東京の姿。この白い建物は木造(!)の高層ビルです。
こんな未来イメージがなんだかしっくりきました。



なんだか本の紹介になりませんでした。寝不足なのです・・・。

「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」

2010-06-18 07:45:48 | 
本は「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」。
もう20万部突破だそうです。



著者は、スタンフォード大学で起業家精神とイノベーションの講座を担当している女性教授。自身も、科学者であり、起業家、著者など様々な経験を積んでいます。

本書は著者がそうした経験を積む中で出会った人や大学の授業で行った授業について語っています。
内容は「人が成長するためには、今いる場所から飛び出すことが大切。視点を変えて周りを見渡せばイノベーションの余地はそこらじゅうにある。リスクを取ってでもトライすることで世界は広がり、次のステップにいけるはず。そしてチャレンジする許可を与えるのは自分自身。レッツトライ!」、と言った感じです。
具体的な事例がたくさん出てくるので「自分も出来るかも、やらなきゃ」という気になってきます。

読んでいて、ここ数年、ロフトで行ってきた「東京ナイト」イベントの事を考えました。ひょんなきっかけで始めたイベントでしたが、実際にトライしてみると、これまでと大きく違う世界がありました。何より、舞台を見る側から立つ側になったという経験は大きな発見と自信になりました。
これからも、こうした新鮮な発見が出来るようにイノベーションの種を探さなきゃという思いを強くした一冊でした。
読んだ人は何かしらヒントになることが見つかると思います。オススメ!

「ペヨトル興亡史」

2010-06-04 23:20:15 | 
本は「ペヨトル興亡史」。



かつて、ペヨトル工房という出版社があって、高校生の頃、この出版社が出す雑誌「夜想」を耽読していた。

「夜想」は異端的、耽美的なテーマを特集する雑誌で、今から考えてもかなり先鋭的な内容だったと思う。
「オペラ」ではクラウス・ノミを知り、「テロ」では都市で孤独な戦いを繰り広げる革命戦士を想像し、「畸形」では禁書を読んでいるかのような静かな興奮を覚えた。

もう20年以上前に読んだ雑誌なのに、いくつかの特集の内容ははっきり思い出すことが出来る。

で、この本は、2000年に解散したペヨトル工房主催者、今野裕一さんが書いた創業から解散にいたる20年の記録。
懐かしい特集の思い出話だけでなく、解散に至る生々しい取次とのやり取りなども記録され、出版業界の裏話としても読めた。

高校生の頃あれほど読んだ「夜想」もある時期からまったく読まなくなっていて、ペヨトルが解散したことも知らなかった。
読まなくなったのは、僕が大人になったと言うこともあると思うけれど、「雑誌」という媒体の持つパワーが落ちてきたからかもしれない。
解散の頃は、ちょうどインターネット黎明期で、この本にもテレホーダイとか懐かしい言葉が出てくるけど、そうした情報やメディアの変革期を迎えたこの時代と「夜想」の様な、ある意味「指導的」な雑誌が合わなくなってきたのかもしれない。

情報の量は今のほうが圧倒的に多くて、例えば「夜想」の誌面から想像するしかなかったクラウス・ノミの歌う姿もネットであっという間に検索できる。
でも、僕は、細かい級数で書かれた「夜想」で、ノミの事を想像していたあの時間を持てたことを幸せに思う。
情報はあればいいってもんじゃないよね。
iPadやその先の電子書籍が普及した次の時代、紙の本を後生大事に溜め込んでいた今の事をたぶん懐かしく思うんだろう。


で、「夜想」。
当時のスタッフ達が集まって復活してたみたい。
イベントとかも頑張っているみたいですごいです。
http://www.2minus.com/index.html