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東京ナイト

旅行、食事、映画にお芝居、日々のささやかな幸せを記録します

「空白の5マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」

2010-12-09 22:40:13 | 
本は「空白の5マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」角幡 唯介。



今年の開高健ノンフィクション賞の受賞作品。

チベット奥地にツアンポー峡谷とよばれる世界最大の峡谷がある。
近づくことも困難なこの渓谷は、複雑な曲線を描いて流れており、下流がどの川に合流するのか確かめることが出来なかったため「謎の川」と呼ばれていた。

その為、19世紀から数々の探検家により、秘密のベールに挑む試みがなされてきた。
その過程で、「ツアンポー峡谷の奥深くには巨大な滝が隠されている」という伝説が生まれたりもして、ますます探検家の征服欲が駆り立てられることとなった。

結局、1924年、イギリスの探検家の手により、峡谷のほとんど部分が解明された。
ただ、どうしてもたどり着けなかった部分が5マイルあり、それが「空白の5マイル」として地図の空白部分として残され、幻の大滝もここにあるのではないかと推測された。
その後のチベットの政治的混乱によりこの「空白の5マイル」だけが手付かずの課題として残される事となった。
また昔からチベット仏教で「ベユル・ペマコ」と呼ばれる桃源郷のような場所がこの峡谷にあるのではないかともされていた。

と、ワクワクするようなこの地理的空白地帯は、1990年代に入り、中国政府の改革開放政策により再度、探険家の注目を集めることになった。
アメリカの著名登山家やNHKのテレビ取材チームなどに混じり、日本の大学探検部の部員もこの探検競争に加わった。
それがこの本の著者、角幡 唯介。

大学時代の探検に続き、大手新聞社を辞めて2度目の探検を行った記録がこの本にまとめられている。

読んでいてとても興奮した。
文章も簡潔で、状況がよく分かるし、なにより「21世紀の地球上にまだこんな空白が残されていたのか」という新鮮な驚きがある。
その空白に挑む過程は、一歩間違えれば命を落とすような危ういものだった。

著者は、「死の危険があるから冒険は意味があり、そのリスクの中にこそ、生きている意味を感じさせてくれる瞬間が存在する」と書く。
かっこいい・・・。

実は、著者は同じ探検部の後輩。
僕のほうが3コ上なので一緒の活動はあまりしていないが、当時から不思議な大きさのある後輩だった。

この本を読み終わって、やはり今の自分の生活を考えさせられた。
今の自分に、「生きている意味を感じさせてくれる瞬間」は存在するだろうか。

大学時代の僕も大きな遠征を計画して、すごく充実した「生きている意味を感じさせてくれる瞬間」を過ごしていたと思う。
でも今は・・・.
YouTubeでAKB48の映像を見ているだけじゃね・・・。

うーむ、本当に頑張らねば!!
という訳で、読む人、ひとりひとりに「生きる意味とは?」とナイフを突きつけるような渾身の一冊。
もちろん大オススメ!!

ありがとう角幡。
俺も頑張るぜ!

「芸術闘争論」

2010-12-02 22:18:22 | 
本は「芸術闘争論」。



この村上隆の本を本屋で見かけたときは、偽物っぽいこの表紙にうんざりして、そのまま立ち去ろうとしたけれど、帯に書いてあったコピーに目が行き購入。
帯には「闘いもしないで、闘う僕の事を嘲っていたい人は嘲っていればいい」と書いてある。
この中島みゆき的コピーに惹かれ購入。帯のコピーで買うなんて久し振りかも。

で、読んでみたら、なるほど面白かった。
著者は「世界で通用する現代芸術家になるための方法を、ラーメン屋の主人が秘伝のタレのレシピを明かすように公開する」と書いているけれど、かなり具体的実践的に書いている。

まず、世界のアートシーンにはルールがある、ということがポイント。
具体的には、「現代芸術は、英米の芸術である」というポイントをまず押さえ、ここに戦後のアートの文脈を押さえたコンテクストを挿入し、さらに自国の問題をトッピングする事がルール。
このルールを踏まえないと、そもそもゲームに参加できない。
世界で闘う芸術家になるには、まずその闘いのルールを理解して、そのルールに則り闘わなくてはいけないと言うこと。

著者は再三、日本の美術教育の弊害を語るが、一番の問題はこのルールを知らず、ただ「個性=自由=芸術」という信仰を教えてしまうことだと言う。
これはけっこうびっくり。
確かになかなか受け入れられないかも。

でも、著者が世界で闘っているのも事実。
小説にたとえるなら、ハリウッドで映画化されるようなメジャー小説家を目指しているのが村上隆で、彼が批判する日本のアートシーンの大部分は私小説をしこしこ書いている同人誌的小説家なのかもしれない。

でも、どっちが良いかというのは、当然の事ながら好みの問題なので難しいところ。
例えば、著者の教えるルールには、「作品は大きいほどいい」というものがある。
理由は、欧米のリッチなコレクターはみんな大きな家に住んでいて、その家の壁を埋めるには、大きな作品の方が喜ばれるから、だって。
うーむ・・・。

とは言え、同人誌にしか書かない小説家でも、メジャー小説は読んでおくべきだし、その手の内を晒した村上隆はちょっとすごいかも。
という訳で、現代芸術に縁遠くても、現代芸術の最前線の状況が少し分かって、意外に楽しめた一冊。



あ、そう言えば村上隆絡みでエピソードがひとつ。
毎年、あるギャラリーで日本の骨董を集めた展覧会が開催されていて、いつも僕は行くようにしていたんだけど、その展覧会の優良顧客の一人が村上隆で、そこに出品している美術品の多くを買い占めていた。
ある年、僕のほうが早くその展覧会に行ってある神像を買ったんだけど、その後に来た村上隆が、会場に入るなりその神像の前に立ち、真っ先に「これが欲しい」と言ったものの、既に僕に買われてしまっていたので彼はかなり悔しがった、という話。
いや、単なる自慢話ですが・・・。

「ミニヤコンカ奇跡の生還」

2010-11-07 07:16:05 | 
本は「ミニヤコンカ奇跡の生還」



この前、読んだ「処女峰アンナプルナ」は1950年の話だったけれど、こちらは1982年の物語。
どちらも同じヒマラヤ登山で、それぞれ登頂に成功し、下山中に遭難するという話だけど、だいぶ印象が違う。
「アンナプルナ」は下山後すぐに仲間やシェルパたちに助けられ、凍傷に罹った指を切断しながらという究極の脱出行だったものの、とにかくサポートはあった。

でもこの「ミニヤコンカ」は7556メートルの頂上付近で天候悪化のため何日もアタック隊員ふたりだけで閉じ込められ、ようやくサポートが待っているはずのキャンプにたどり着くと、そのキャンプは既に撤収され、ただ「アタック隊員二人の冥福を祈ります」という手紙だけが残されていた。
サポート隊は、アタック隊が遭難したと早合点し、撤収してしまっていたのだ!

ここから飢えと凍傷に苦しみながら、19日間に及ぶ戦いが始まる。
それは手足の指を全て失い、重度の内臓疾患に罹り、62キロあった体重が32キロにまで減ってしまうという本当に過酷なものだった。
たまたま薬草採りに来ていた現地の人に見つかるのが、あと一日遅かったら、間違いなく死んでいたそうだ。

最後は死力を尽くして這って下山するような壮絶な記録だけれど、読後は不思議と明るい印象がある。
それは著者の松田宏也さんがとても楽天的で明るい性格だからかもしれない。
頂上直下で閉じ込められている時も、演歌の替え歌でその時の状況を歌ってみたり、極限状況の中でも、著者のひょうきんな性格が出てしまう。
でも、だからこそ下山できたんだろうと思う。
楽天的な性格じゃなければ、サポート隊が撤収してしまったと分かった時点で、気持ちがめげてしまったはず。

という訳で、「奇跡の生還」を描いた迫真のドキュメントなんだけれど、なんだか明るい印象の不思議な本。
ちなみに著者はその後、社会復帰し、登山も再開し、今は大企業の役員にまでなっているそうだ。

「処女峰アンナプルナ」

2010-11-02 21:09:59 | 
本は「処女峰アンナプルナ」。



1950年、人類史上初となる8000メートルの高峰への登頂が成功しました。
ネパールにあるアンナプルナ8078mにフランスの登山隊が登頂。
この本は、その登山隊の隊長で、自身、登頂にも成功したモーリス・エルゾーグが書いた迫真のドキュメントです。

本当にすごい本です。
本は2部構成で、登頂に至るドキュメントと、登頂後、ひどい凍傷に罹り手足を少しずつ切断しながら撤退する壮絶な下山部分に分かれています。

著者のエルゾーグは、結局、手足のほとんどを失うのですが、その入院中に書かれたこの本は不思議と陰惨な印象はありません。
近藤等の爽やかな翻訳もあるのでしょうが、31歳と若くもあった彼自身の性格に寄るものかも知れません。
この遠征自体、典型的な極地法登山でありながら日本の登山記録の様なややこしい上下関係をあまり感じさせず、9人の登山メンバーがそれぞれ考え、ベストを尽くした末に勝ち取った「登頂成功」だったと思います。

1950年当時、アンナプルナ周辺の地理はほとんど知られておらず、唯一あったインド測量部の地図も重大な過ちがありました。
登山隊は、当初、登頂の目標をアンナプルナだけでなく、隣のダウラギリにも置き、それぞれの麓にまで至るルートの探索から始めています。
そのルートを探るために、いくつもの偵察隊を出して、麓までのコースを探り、さらにその山で登山が出来そうなルートも選ばなければいけません。

まさに「登山」だけでなく「探検」的要素も濃厚な遠征だったのです。
遠征には、ガストン・レビュファら当時最高の登山家が参加しています。
つまり、上意下達的な登山ではなく、より柔軟に、参加した登山家それぞれの能力をフルに発揮できるような組織が必要だったのでしょう。

登頂成功後の壮絶な記録も興味深かったですが、やはりフロンティアスピリット溢れるヒマラヤ探検部分が一番印象に残りました。

実はアンナプルナのベースキャンプに10年以上前に行ったことがあるのですが、もうすっかり登山道が整備され多くのトレッカーが各国から集まっていて探検的要素はまったくありませんでした(ものすごく美しく素晴らしかったですが)。

著者は最後に「アンナプルナは、自分の生涯の残りを生きる宝なのだ」と書いていますが、ヒマラヤ黄金時代の幕開けとなったこの登山が出来たこの時代は、まさに良い時代だったのでしょう。

「残された山靴」

2010-10-28 01:35:58 | 
本は「残された山靴」。



著者はスポーツライターの佐瀬稔。
植村直己、小西政継、加藤保男、森田勝、長谷川恒男など8人のクライマーたちの姿を描いたノンフィクション。
8人に共通するのは皆、山で遭難死してしまったこと。

もともと著者は、思い入れたっぷりに人物を描くことが多い気がする。
同じ著者の「喪われた岩壁 第二次RCCの青春群像」を読んだとき、山の楽しさよりは、山を通じた自己表現が、彼ら登山家のモチベーションの源だと決めてかかっているようなところがあって、少し違和感を感じていた。

この本も少しそんなところがあるが、それでも登場する登山家たちはやはり魅力的。
本の中で超人ラインホルト・メスナーが「登山はスポーツというより芸術に近い。自分を表現する、自分の意識下をより深く見つめる、という意味で、偉大な登山家というものはたくさん登頂したことではなく、人間としていかに自分を表現したかにかかっている」と語っているが、登場する8人の登山家は、それぞれが、その登山において自分を雄弁に語っている。

パキスタンのウルタル2峰。
そこで雪崩にあった長谷川恒男は、難しくはあるが直線的で「美しい」ルートをあえて選び、遭難してしまった。
豊富な経験と高度な技術、そしてアルプス3大北壁の冬季単独登攀という輝かしい経歴を持つ彼も、命を燃やす対象を山に選んだ芸術家なのかもしれない。

僕のへなちょこ登山とはまったく次元の違う世界。
著者の描く8人それぞれの「最後の一枚」はとても印象的だった。
おすすめ!

「捕食者なき世界」

2010-10-20 00:41:40 | 
すみません、さいきん更新をサボっていました。
この間も、京都に行ったりたくさん本を読んだりしていたのですが、いまさらアップするのも何なので一番面白かった本の紹介だけします。

「捕食者なき世界」ウィリアム・ソウルゼンバーグ著



生物多様性は、なぜ崩壊しているのか?
ちょうど名古屋でCOP10が始まっていますが、この本は、科学ジャーナリストがとても分かりやすく、最近の生態学で分かってきた成果をまとめてくれています。
福岡伸一さんの本を読むような感じで、僕の様な生物音痴にも「なるほど」と驚きを与えてくれました。

まず紹介されるのがアメリカ北部の岩だらけの海岸で行われた実験。
同じような規模のふたつの海岸を舞台に、ある科学者が1年間に渡り行った実験です。
それは、ひとつの海岸では、毎回、その海岸に住むヒトデを岩からはがし捨て続け、もうひとつの海岸には全く手をつけないというもの。
結果、それまで多様な生物が競い合いながらも豊かに暮らしていた海岸が、ヒトデという「捕食者」を駆除することによって、生き物のバランスが大きく崩れ、最終的にイガイという二枚貝ばかりが生息するある意味、不毛な海岸に変わってしまったというもの。

この実験は、とても限られた狭い範囲で行われたものですが、この結果は他の様々な環境でも同じように見ることが出来ます。
キーストーン種と呼ばれる要となる重要な種が失われることで、それまでの環境がガラッと変わってしまうということです。
キーストーン種は他に、ラッコ、狼、ピューマなどさまざまです。

例えばすごく単純に図式化すると、狼がいなくなると、鹿が増え、森の若木を食べつくします。
その結果、森の環境が荒廃し、そこに暮らしていた多くの生き物たちが減ってしまったり絶滅してしまいます。
鹿の被害はここ数年、日本でも大きな問題になっていますね。

こうした荒廃を防ぐため、アメリカ最大の国立公園であるイエローストーン国立公園では、一度は絶滅させた狼を、再び森に返す活動を始めたそうです。

しかし長い人類の歴史を振り返ってみると、それはこうした捕食者たちとの戦いの歴史でもありました。
そもそも捕食者に食べられる側であった人類が、その後、家畜を飼うようになり狼などの捕食者と対峙します。
次第に捕食者たちは追い詰められ、その生息範囲を減らしていきます。
特にここ100年間で決定的に大型の捕食者たちは駆除され、結果的に自然の多様性が失われてしまったというのがこの本のポイントです。

いやー、本当に面白い本でした。
本の構成も良いし、翻訳も読みやすかったです。
オススメです!

「競争の作法 いかに働き、投資するか」

2010-09-29 07:10:53 | 
本は「競争の作法 いかに働き、投資するか」齋藤誠・著(ちくま新書)。



一橋大学の先生が、徹底的に統計資料を読み込み、バブル後の日本経済を分析しています。
すると、「リーマンショック」の実態、「雇用調整」の実態などが僕らが漠然と考えていたイメージとかなり乖離していることが分かります。

例えば雇用調整。
統計資料によれば1997年から2002年にかけて失業者数は230万人から359万人に激増しています。
非正規雇用への大きな流れが加速したのもこの時期でした。
今に至るさまざまな不安や不安定化が顕在化してしまった重要な時期だったと思います。
しかし、そうした「痛み」とは裏腹に、実質雇用者報酬を見てみると、同じ時期、273兆円から270兆円へと1.1%の低下にとどまっています。
これはデフレによる労働コストの上昇によるところが大きいのですが、あれほど社会に大きな影響を及ぼした雇用調整も、生産コストの削減と言う観点から見れば、1%の削減に過ぎません。
つまり、この時期にクローズアップされた「貧困」は、少数の人の不幸であって、実際の大多数はそれを眺めていた、という事になります。

他にも「失われた10年」、「トヨタの拡大路線」、「地方の地価」など、目を開かれるような指摘が随所にある好著です。
惜しむらくは「タイトル」。
なんだか自己啓発本のような安い印象で、内容の誠実さとかみ合っていません。
でも、経済学者が社会に向けて発信した実のある本です。
すごくオススメです!

「街場のメディア論」

2010-09-11 08:13:57 | 
本は「街場のメディア論」(光文社新書)。



著者の内田樹さんは「日本辺境論」などベストセラーを連発していますが、著書を読むのは今回が初めて。
この本は「危機に瀕するメディア」をテーマにしつつも、日本の不調の原因について語っています。

元は彼が教授を勤める女子大の授業がベースになっているとの事。
そのためなのか、手で触ることの出来る自分の身の回りの出来事から、もっと大きなテーマについて話を広げることがこの本の特徴で、「メディア論」という良く分からないものを上手く「じぶん達の問題」として語っています。
こうした工夫された分かりやすさが広く支持される理由でしょうか。

でも内容は新たな発見がたくさんあり、なかなかスリリングでした。
「テレビの存在理由」「クレイマー化するメディア」「メディアのマニュアル化」「電子書籍」、、、などいろいろなテーマについて語られていますが、ポイントは「現場の心理」。
なぜメディアが存在して、人はメディアに何を期待しているのか、なぜ自分はメディアの現場にいるのか、という本質を考えないまま、仕事としてビジネスとして関わっているために、メディアの根本が揺らいでいる、というのが著者の主張。

変化を常に求めるメディアの本質やそのことがもたらす、社会の劣化についての知見は非常に新鮮で腑に落ちるものでした。

最後に話題の電子書籍についても、「書棚を空間的に形成できない」点が電子書籍の弱点だ、という言及があり、なるほどと思いました。

という訳でオススメです!

「建築がみる夢」

2010-09-10 07:40:39 | 
本は「建築がみる夢」。



この前、鳴子温泉に行ったとき不思議な温泉施設がありました。
その「早稲田桟敷湯」という変わった建物の設計が石山修武だと知って、彼の本を読んでみました。
建築の本は面白い本が多いのですが、この本にもかなり興奮させられました。

石山修武は「前衛」です。
設計した建物のスタイルだけじゃなくて、発想の大本のところから前衛なのだと思います。

この本は、ふたつのパートに分かれています。
ひとつは、数年前、世田谷美術館で開催された彼の個展の内容をまとめたもの。
そしてもうひとつが、彼が構想する12のプロジェクトについてまとめた「物語」。
これがすこぶる面白い。
12の物語は、手紙だったり日記だったりいろんな形式で書かれていますが、どれも建築家が、人と出会い、その出会いが発火点になって、ひとつの建物が生まれる過程や発想法がよく分かります。

登場する人たちのスケールが大きいので、彼らとの共鳴によって生まれる建築も、すごいことになっています。





建築家はブログも書いているようです。
時々チェックしようと思います。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/top.html

『ぼくは都会のロビンソン―ある「ビンボー主義者」の生活術』

2010-08-18 07:25:18 | 
本は『ぼくは都会のロビンソン―ある「ビンボー主義者」の生活術』(東海教育研究所)。



著者の久島 弘さんは僕の木こり仲間です。
彼の紹介で「くうねるのぐそ」を書いた糞土師・伊沢正名さんと出会い、「東京うんこナイト」につながったりもしました。
久島さんはいつも飄々としていて、気負うところがなく、少し不思議な人。
で、極め付きのビンボーで、そのビンボー生活を満喫しているライターさんです。

そのビンボー生活の達人が書いた「生活術」がこの本。
例えば、無農薬の野菜を、圧力鍋できちんと時間を計りながら蒸すと、野菜の旨味が最大限に発揮されてすごく美味しくなる方法が書いてあります。
読んでいるだけで素材を生かした料理が食べたくなるような方法です。
これは、ビンボー生活初期の頃、偏った食生活を続けていて栄養失調になりかけた事から、料理を徹底的に研究し、何個も鍋を試し、料理本も無数に読んだ末にたどり着いた料理法。

料理に限らず、久島さんのやり方は、ひとつの事にこだわると、それを徹底するまでこだわりぬいて、ひとつのスタイルを確立する事。
別に消費することに喜びは感じなくて、材料や道具を自分で工夫して細工してこだわりの生活道具を自作したりする事を楽しんでいます。

「シンプルライフ」。
久島さんの本を読みながらそんな言葉が浮かんできました。
ストレスをを抱えてながら雇われ生活をするより、お金がなくても工夫を楽しむことで生み出される自由で快適な生活。
都会のロビンソンクルーソーは意外に楽しそうです。
あ、こんど野菜料理を食べさせてもらわなくちゃ。

久島さんのHP「実験貧困主義貧民共和国新世紀通信」はこちら
http://www2.ocn.ne.jp/~asagao/binbo/b_index.html