ピッタリはまるカタカナ語:
これは本3月4日の産経新聞の「談話室」欄に載っていた投稿の題名である。正直に言って「やれやれ」と思った。投稿された方(62歳とあった)は日本語で言い尽くせない意味をカタカナ語にしたら「ぴったりとはまった」と言っておられるのだった。
このご指摘は私が永年指摘し続けてきた「我々日本人の思考体系だと含蓄に富んだ漢字の熟語があるので、英語ならば長い文章かclause(主語と動詞で構成される文節)にしないと表現しきれないような内容を2文字で表してしまう事に馴れてきたので、英語の単語にもそういう含蓄があると錯覚を起こしている」との問題点の典型的な例なのである。言い換えれば、「なるほど、多くの方はこのような錯覚(誤解でも良いが)を起こされて、カタカナ語の多用に走られるのか」と非常に残念且つ恐ろしい事だと、あらためて認識出来た。
投稿には「ベネフィットとリスク」を適切な日本語に直せずに、お孫さんに上手く説明出来なかったと嘆いておられたのだ。ベネフィットは確かにジーニアス英和には「・・・にとっての利益、たすけ、有利さ、利点、《商》利得(advantage)」と出ている。これを簡単に言えば「有利性と危険性の両方がある」とでもなるのだと思うが、それではお孫さんに通じないかと思われたと言われたいようだった。要するに「漢字を使った一個の熟語にならない」と指摘されたいようなのだ。
さらに「マンパワーで対応」もそのカタカナ語の儘の方が理解されやすいと言われたいようだった。投稿者は「人手だと弱い、人海戦術では物々しい云々」としておられた。私はそもそもmanpowerとは「人手」とは思っていなかったので、Oxfordを見ると“the number of workers needed or available to do particular job”とあった。ジーニアス英和には真っ先に「(産業・軍隊などで)動員可能な人手[兵力]、有効総人員」と出ていた。これらの解釈から考えれば、投稿者のカタカナ語の認識が誤っていたのが明らかではないか。
私が指摘したい問題点は二つある。第一は単語偏重の我が国の英語教育で育ってこられたにも拘わらず、単語の解釈が誤っていた事。第二は漢字の熟語の含蓄と同じ意味を英語の単語に求めてしまった事である。私の持論は「英語の単語には漢字の熟語のような含蓄はない」という点だ。それを知らずに漢字の熟語が表す意味をカタカナ語で置き換えるのは、困った現象なのだ。だが、今や当たり前のようにまかり通ってしまっている。
英語という言語は理屈っぽくてしつこいのである。だから、上記のmanpowerのような意味を2文字の漢字の熟語では表現しきれないのだ。即ち「ある特定の仕事に必要なだけの人数の働き手を揃えない事には」というような文章にする必要があるのだ。この肝腎な相違点を知らないで英語で話すから「通じなかった」という嘆きになるのだ。だから、[世の英語教師よ、その至らなさを反省せよ]と言うのだ。
念の為に「含蓄」を英語にすれば、“full of implications and or meanings”のようになると思う。「彼の発言には常に含蓄がある」というのを英語にしようとして、英語の単語を探そうと等しない事だ。結論だが、「思考体系の何もまるで異なる言語の単語か熟語を、そのまま異なる言語に当て嵌めて使っては通じない」と、学校で教えておくべきなのだ。等と言えば、結局は「単語重視と偏重の英語教育を止めなさい」と言っている事になる。恐らく、残念ながら私の主張をお解り頂ける方は少ないと思っている。
これは本3月4日の産経新聞の「談話室」欄に載っていた投稿の題名である。正直に言って「やれやれ」と思った。投稿された方(62歳とあった)は日本語で言い尽くせない意味をカタカナ語にしたら「ぴったりとはまった」と言っておられるのだった。
このご指摘は私が永年指摘し続けてきた「我々日本人の思考体系だと含蓄に富んだ漢字の熟語があるので、英語ならば長い文章かclause(主語と動詞で構成される文節)にしないと表現しきれないような内容を2文字で表してしまう事に馴れてきたので、英語の単語にもそういう含蓄があると錯覚を起こしている」との問題点の典型的な例なのである。言い換えれば、「なるほど、多くの方はこのような錯覚(誤解でも良いが)を起こされて、カタカナ語の多用に走られるのか」と非常に残念且つ恐ろしい事だと、あらためて認識出来た。
投稿には「ベネフィットとリスク」を適切な日本語に直せずに、お孫さんに上手く説明出来なかったと嘆いておられたのだ。ベネフィットは確かにジーニアス英和には「・・・にとっての利益、たすけ、有利さ、利点、《商》利得(advantage)」と出ている。これを簡単に言えば「有利性と危険性の両方がある」とでもなるのだと思うが、それではお孫さんに通じないかと思われたと言われたいようだった。要するに「漢字を使った一個の熟語にならない」と指摘されたいようなのだ。
さらに「マンパワーで対応」もそのカタカナ語の儘の方が理解されやすいと言われたいようだった。投稿者は「人手だと弱い、人海戦術では物々しい云々」としておられた。私はそもそもmanpowerとは「人手」とは思っていなかったので、Oxfordを見ると“the number of workers needed or available to do particular job”とあった。ジーニアス英和には真っ先に「(産業・軍隊などで)動員可能な人手[兵力]、有効総人員」と出ていた。これらの解釈から考えれば、投稿者のカタカナ語の認識が誤っていたのが明らかではないか。
私が指摘したい問題点は二つある。第一は単語偏重の我が国の英語教育で育ってこられたにも拘わらず、単語の解釈が誤っていた事。第二は漢字の熟語の含蓄と同じ意味を英語の単語に求めてしまった事である。私の持論は「英語の単語には漢字の熟語のような含蓄はない」という点だ。それを知らずに漢字の熟語が表す意味をカタカナ語で置き換えるのは、困った現象なのだ。だが、今や当たり前のようにまかり通ってしまっている。
英語という言語は理屈っぽくてしつこいのである。だから、上記のmanpowerのような意味を2文字の漢字の熟語では表現しきれないのだ。即ち「ある特定の仕事に必要なだけの人数の働き手を揃えない事には」というような文章にする必要があるのだ。この肝腎な相違点を知らないで英語で話すから「通じなかった」という嘆きになるのだ。だから、[世の英語教師よ、その至らなさを反省せよ]と言うのだ。
念の為に「含蓄」を英語にすれば、“full of implications and or meanings”のようになると思う。「彼の発言には常に含蓄がある」というのを英語にしようとして、英語の単語を探そうと等しない事だ。結論だが、「思考体系の何もまるで異なる言語の単語か熟語を、そのまま異なる言語に当て嵌めて使っては通じない」と、学校で教えておくべきなのだ。等と言えば、結局は「単語重視と偏重の英語教育を止めなさい」と言っている事になる。恐らく、残念ながら私の主張をお解り頂ける方は少ないと思っている。
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