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ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

ベンチャー企業の“星”であるザインの飯塚社長にお話を伺いました

2010年12月17日 | 汗をかく実務者
 日本のベンチャー企業の代表的な成功例であるザインエレクトロニクスの飯塚哲哉代表取締役社長にお話を伺いました。東京駅の八重洲側に立つ高層ビル内のオフィスをお訪ねしました。最近引っ越したばかりのきれいなオフォスでした。

 同社は資本金が約11億7500万円、平成20年(1月~12月)の業績(連結)は売上高97億2000万円、経常利益7億6400万円の優れた中堅企業です。会社の規模はまだ小粒ですが、研究開発に特化した成長率が高いエクセレントカンパニーです。

 飯塚さんは、「日本でベンチャー企業がなかなか成功しない理由は、面白い仕事を求めて転職するという人材流動があまり起こっていないため」と分析します。


 日本人の多くは“就社”します。入社する会社そのものにこだわり、自分がどんな仕事をするかにはあまりこだわらないのが問題といいます。本当は「自分の能力を活かす“就職”を目指した方が、自分が好きな仕事ができるのに」と続けます。自分が好きな仕事に従事すれば「その仕事にのめり込み、成果を達成すれば、満足感や幸福感が味わえる」といいます。このことを、飯塚さんは「人資豊燃」という造語の四文字熟語で表現しています。

 1991年5月にベンチャー企業のザイン・マイクロシステム研究所を茨城県つくば市に設立しました。飯塚さんは東芝の半導体技術研究所でLSI開発部長の要職を担う優秀な技術者でした。部長職は、部を運営するマネジメントが主な仕事でした。自分でベンチャー企業を起こして経営者としてマネジメントに励むのと、大手電気メーカーの部長職のマネジメントはどこが違うのか迷った末に、創業資金をたまたま確保できたことから起業します。最初は半導体の設計業務を委託するコンサルティングを仕事にしたそうです。

 この時に、日本の大手企業の経営者や社員は「ベンチャー企業の重要性を理解していないことを痛感した」そうです。半導体の設計業務の委託の仕事を獲得するために、売り込みに行くと、小さな会社であるという理由で相手にしない方もいました。東芝の元同僚も、大手企業を飛び出してベンチャー企業を創業した飯塚さんに「何かあったのか」「何が不満だったのか」と心配してくれることに、逆に驚いたそうです。「自分で納得のいく好きな仕事をするだけの理由で、ベンチャー企業を創業しただけなのに」といいます。

 研究開発型のベンチャー企業だけに、優秀な技術者が必要です。創業直後は知名度がないため、人材確保に苦労したとのことでした。半導体を企画し、設計し、製造をマネジメントでき、販売計画も立てられるという優秀な技術者が必要だったからです。半導体製品のプロデュースできる人材はそう簡単には見つかりません。大手企業は工程ごとに分担し分業しているから、工程全体を見通せる人材はあまりいないのです。

 92年にザインエレクトロニクスを創業します。今度はオフィスを、東京都中央区八重洲という地の利のいい場所にしました。当初は韓国の三星電子(現在のサムソン電子)との合弁会社として設立しました。その後、合弁を解消し、独自のビジネスモデルを築いて成功します。90年代後半は日本の大手電気メーカーは液晶ディスプレー(LCD)の事業化を精力的に進めました。その画像データを高速伝送するIC(半導体の集積回路)を企画し、「各企業が別々に設計し、それぞれ製造するよりも、高性能で低価格な製品を供給する」と各社に提案し、受注します。個別に研究開発するよりは、ザインがまとめて設計した方が安上がりです。ザインは台湾や韓国の“ファウンドリー”と呼ばれる製造請負企業にその製品の製造を委託します。まとめてつくった方が安く済みます。問題は、品質保証です。優れた品質保証マネジメントを行い、クライアントの信頼を勝ち取ります。この製品はザインブランドの独自製品であり、世界の80%のシェアを勝ち取った製品も誕生しました。


 このビジネスモデルのカギは、各社が共通してほしがる半導体製品を提案し、優れた性能を持ちながら各社が自分でつくるよりは低コストで供給する製品企画力です。こうした製品の企画から販売までの一連の工程をマネジメントできる優秀な技術者はそんなに多くはいません。日本は分業制が発達しており、事業全体を見通す能力を持つ方は少数派です。

 日本の大手電気メーカーは最近は事業不振、事業収益の低下で悩んでいます。ザインのようなベンチャー企業と巧みにアライアンスを組み、韓国や台湾の“ファウンドリー”と呼ばれる製造請負企業(広義にはEMS=Electronics Manufacturing Serviceとも呼ばれ、電子機器の受託生産を行う)とも水平分業する仕組みを考えることも重要になっています。重要といわれて部分的には水平分業を始めていますが、まだあまり成功していないようです。

 会社規模は小さくても自分の好きな仕事をするために、ベンチャー企業に就職することも重要な選択肢になっています。あるいは、自分でベンチャー企業を創業することも大切な選択肢です。自分の人生を自分で設計することが大切です。

鉄系超伝導材料を発見した細野教授のお話を伺いました

2010年12月09日 | 汗をかく実務者
 東京工業大学の細野秀雄教授は鉄系超伝導材料を発見した方です。これまでは鉄系の超伝導材料はあり得ないという定説を覆した方です。
 超伝導とは、ある温度以下では電気抵抗がゼロになる現象です。このため、超伝導状態の電線に電気を流すと、原理的には永久に電気が流れ続けます。超伝導現象はJR東海がリニアモーターカー新幹線に応用する計画を進めています。実現すると、東京から大阪までを時速500キロメートルを実現し、移動時間は約1時間となる見通しです。ただし、このリニアモーターカー新幹線には金属系超伝導材料が用いられる予定です。

 この鉄系超伝導材料を発見したという論文は、アメリカ科学振興協会が発行する権威ある学術誌「サイエンス」(Science)誌に掲載されました。この結果、サイエンス誌の「ブレークスルー・オブ・ザ・イヤー2008」の一つに選ばれました。学術論文の価値評価などを事業化している米国トムソン・ロイター社(ニューヨーク市)は、この細野さんの論文を「2008年に最も引用された論文」と発表しました。 これまで発見されている金属系の超伝導材料とも、超伝導フィーバーを起こした銅酸化物系とも違う、第三の超伝導材料として注目を集めています。

 実は、細野さんを有名にしたのは、ありふれた物質から透明半導体材料を発見した研究成果です。


 細野さんは「セメント成分であるアルミニウム酸化物とカルシウム酸化物の化合物が透明酸化物半導体になることを見出した」のです。小難しい話を飛ばすと、この透明酸化物半導体は大型液晶テレビを実現する透明TFT(薄膜トランジスタ)を実現すると予想されています。韓国のサムソン電子は透明酸化物半導体のTFTを採用した70型3D液晶パネルの試作品を今年10月に公表しました。


 台湾の大手液晶パネルメーカーのAOUも透明酸化物半導体のTFTを実用化しつつあります。

 細野さんは独特の過激な言い方をする方です。「最近のレアメタル騒動は好機である」といいます。




 「日本の物質・材料の研究開発は現時点では世界一のレベルにまだある。中国がかなり背後に迫っているが」といいます。「日本が物質・材料の研究開発でトップを維持し続けるには強力なエンジンが必要になる」とし、「最近のレアメタル危機による危機感は強力な材料研究開発のエンジンにすることに意味がある」といいます。細野さんはレアメタルのような希土類元素ではなく、酸素や炭素、鉄やアルミニウムなどのありふれた“ユビキタス元素”を用いて、高性能な機能を発揮させたいとの夢を語り続けています。この考え方から産まれたのが、文部科学省系の「元素戦略」プロジェクトです。

 日本の物質・材料系の研究開発者の方々にいい研究成果を上げていただき、それを活かした独創的な製品を実用化することが、日本のモノづくり立国を強化します。
 この日は細野さんと昼食をご一緒させていただき、最近の研究開発成果などを伺いました。大変興味深い内容でした。 

京都大学の山中教授の講演を拝聴した続きの話です

2010年12月08日 | 汗をかく実務者
 12月6日夕方に、京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸哉教授の講演を拝聴しました。山中さんのiPS細胞の応用研究開発が成功すると、再生治療(細胞移植治療)では例えば心臓などを新しく再生し、移植することができるかもしれません。自分の細胞から新たに心臓を育てて、心臓として動くもを移植するので、拒絶反応がないと考えられています。この点が、他人の心臓を移植する現在のやり方との相違点です。現在は、マウスの細胞から心臓の原型をつくりだすことにメドを立てています。心臓の原型として動く、動画を見ました。

 山中さんが所長を務めるiPS細胞研究所(CiRA)は、パーキンソン病や糖尿病の原因を解明し、その治療法を確立したり、患者自身の細胞からその人がかかっている難病の治療法を解明するなど、現時点では“夢物語”に近い目標を、iPS細胞研究所(CiRA)は10年間で達成したいと宣言しています。山中さんは、iPS細胞を基に、この夢物語をどうやって実現するか戦略を立てて実行中です。成功すれば、人類にとって大きな変換点になります。



 山中さんは生真面目なので、写真を撮影すると、笑顔のシーンが少なかったです。本人は淡々と話をするため、それほど笑顔が少ないとは感じなかったのですが。

 1999年12月に、 山中さんは奈良先端科学技術大学院大学の遺伝子教育研究センターの助教授に採用され、翌年4月に3人の修士1年生を山中研究室に迎え入れました。研究成果があまりなかったために、日本学術振興会の科学研究費補助金をなかなか獲得できなかったそうです。助教授になって2年度目には、山中研究室に新入生が数人加わります。この結果、10数人規模となった研究室の運営には1人当たり約100万円の研究費が必要と見積もると、研究室の運営費には約1500万円は入手しなければ、成り立たなくなります。このため、研究室を主宰する山中さんは、個人で応募できる科学研究費補助金の申請書類を出し続けます。

 ある時、山中さんは科学技術振興機構の戦略的創造推進事業の一つであるCREST事業の中の「免疫難病・感染症等の先進医療技術」(2003年度から2008年度)の公募研究テーマに応募します。このプロジェクトの責任者である研究統括は大阪大学の岸本忠三教授です。この分野の有名な大家です。岸本さんの諮問に緊張して応え、「若い時にラクビーをしていたので、体力には自信があります」と苦し紛れに答えたそうです。この結果「予想を覆して、なぜか選ばれました」といいます。岸本名誉教授は「山中さんの研究提案のES細胞に必要な重要な遺伝子の探索は、広い意味で研究範囲に入る挑戦的な研究テーマ」と感じたそうです。岸本名誉教授は現在、山中さんのiPS細胞研究に着目した“目利き”“伯楽”として有名になっています。

 そのCREST事業「免疫難病・感染症等の先進医療技術」の研究成果報告会で、平成15年度(2007年度)採択研究者として山中さん(教授に昇進しています)は「真に臨床応用できる多能性幹細胞の樹立」を発表します。今振り返って考えれば、iPS細胞の研究成果の先駆けです。山中さんは5年間で研究費として3000万から4000万円が安定的に配られるので、「長期的な研究計画を立てることができ、安心して研究に専念できた」といいます。
 
 iPS細胞の開発成功は、2006年8月25日発行の米学術誌「セル」に京都大学再生医科学研究所教授の山中さんと特任助手の高橋和利さんのグループが発表した論文が第一報といわれています。「マウスの胚性繊維芽細胞に4つの因子(Oct3/4、Sox2、c-Myc、Klf4)を導入することでES細胞のように分化多能性を持つマウス人工多能性幹細胞(iPS細胞)を確立した」といわれています。しかし、この時は、ヒトの細胞ではなく、マウスの細胞だった点で、注目度はある程度だったようです。

 2007年11月に、山中さんの研究チームはさらに研究開発を進め、人間の大人の皮膚に4種類の遺伝子を導入するだけで、ES細胞に似たヒト人工多能性幹(iPS)細胞を生成する技術を開発したとの発表は脚光を浴びます。日本発の新技術として高く評価されます。その後は、2008年1月に京都大学の物質-細胞統合システム拠点iPS細胞研究センター長に、2010年4月に京都大学のiPS細胞研究所長と、日本の研究開発拠点として注目を集め続けます。現在は、本人の皮膚の細胞ではなく、血液を採取し、この中からその人の細胞を入手するやり方をとっています。

今回の講演の最後に、山中さんは文部科学省系から与えられる大型研究開発費は、技能局員や事務職員を雇用したりするなどの人件費には使うにくく、「実務を担当する方が不足気味で困っている」と説明しました。このため、「iPS細胞研究所に寄付金をお寄せください」と締めくくりました。


 日本独自の研究環境の問題点です。何とかしたいものです。

iPS細胞を研究開発中の山中教授の話を拝聴しました

2010年12月07日 | 汗をかく実務者
 京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸哉教授の講演を拝聴しました。若手研究者だった時代に、研究者の職を得るのにかなり苦労し、日本の大学に戻ってからは少ない研究資金で研究を続けることに苦しんだとの経験談を淡々と語りました。


 山中さんは、日本人の中でノーベル賞の有力な候補者と考えられています。そして、再生治療(細胞移植治療)などの近未来の医学の実現を目指している点でも、多くの期待を受けている方です。山中さんは淡々と話しながら、真顔のままで意外と冗談を挟む人柄に親しみを覚えました。講演終了後に、名刺交換を希望する聴講者が列をつくっても、にこやかにいやがらずに名刺交換を続けている姿勢に、苦労人の横顔をみました。

 山中さんは、12月6日夕方に科学技術振興機構(JST)の「世界を魅せる日本の課題解決型基礎研究」シンポジウムの招待講演「iPS細胞研究の進展」として講演されました。このシンポジウムの中心テーマは1年当たりに数億円という潤沢な研究開発費を得た有名な教授・研究者の研究開発実践論です。才気あふれる恵まれた方々の話で、大変面白かったです。これに対して、山中さんはiPS細胞を発見するまでは、かなり恵まれない境遇にいたことを淡々と語りました。山中さんの研究者としての苦労談を今回の講演で初めて知りました。

 神戸大学医学部を卒業後に、国立大阪病院で臨床研修医を務めた際に「不器用なので手術の腕に自信が無くなり、研究者の道を選んだ」と語ります。大阪市立大学大学院の医学研究科博士課程を修了し、薬理学に魅せられて研究者として職探しをします。応募書類を送っても、臨床研修医から転身した分だけ研究者歴が短いために、断られ続けます。ある医学系学術誌に載っていたカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の グラッドストーン心血管研究所(Gladstone Institute)の研究員募集のお知らせに眼が留まり、駄目もとで応募します。1993年4月にグラッドストーン心血管研究所にポストドクトラルフェロー(いわゆる、ポスドク)として雇用され、プロの研究者としての第一歩を踏み出します。同研究所の米国人の“ボス”が多くの志願者の中から山中さんをなぜ選んだかは「今でも分からないが、研究戦略をしっかりと話したことが効いたと想像している」そうです。

 グラッドストーン心血管研究所では「APOBEC1」遺伝子の作用効果を調べる研究テーマが与えられます。その実験には、遺伝子を改変した“トランスジェニュクマウス”を使いました。その後、日本に戻りたいと、研究者としての職探しを続け、1996年1月に 文部科学省系の日本学術振興会の特別研究員に採用され、月給約30万円の身分が与えられます。同年10月に大阪市立大学医学部助手に採用され、研究を続けます。この時に、年間100万円ぐらいの研究費しか獲得できず、「少ない研究費に苦労した」といいます。この時も、研究用にグラッドストーン心血管研究所が持ち帰ることを許可したトランスジェニュクマウスを利用します。お金が無いので100匹のマウスを自分で世話したそうです。これは大変苦労する作業です。

 また、山中さんは「PAD」という病気にかかります。米国の恵まれた研究環境に比べて、日本の研究環境はあまりよくありません。PAD=Post American Depression 「米国帰りの憂鬱(ゆううつ)」というストレスに悩まされたそうです。「マウスを利用した研究内容は人間の病気を治す研究にはつながらない」と忠告してくれる研究者もいたそうです。1981年に英国でES(ヒト胚性幹細胞)細胞がつくり出され、1998年にES細胞が再生医療に使えるとの研究成果が発表され、山中さんはマウス利用の研究テーマを変えずに、「医学応用につながる研究テーマを考えて、研究上の悩みが解消した」といいます。

 いろいろな大学の教員ポストに応募した結果、1999年12月に 奈良先端科学技術大学院大学の遺伝子教育研究センター助教授の職を獲得します。同大学院大学は、大学を持たないために、4月には他大学を卒業し入試に合格した大学院の修士1年生が入学してきます。入学した学生に自分の研究室に入ってもらうことが、教員としては重要なことになります。山中さんは、12月に移ってきたばかりで、学生に特にアピールする研究成果は特にありませんでした。

 そこで、「ES細胞に必要な重要な遺伝子を見つける」という魅力ある研究テーマを考え、入学した大学院生に自分の研究テーマの面白さを訴えたそうです。


 この結果、自分の研究室を持って初めての新学期に、3人の学生が山中研究室を志願してくれました。山中さんは「学生が来てくれて、正直ホッとした」そうです。その3人の中の一人だった高橋和利さんは、その後に山中研究室の助手になり、京大に一緒に移籍します。

 その後、2007年11月に「ヒトの皮膚細胞からES細胞(胚性幹細胞)と遜色のない能力をもった人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発に成功しました」と発表します。

 この画像は、多数のiPS細胞が集まってコロニーを形成しているものです。

 「ヒトiPS細胞は患者自身の皮膚細胞から樹立できることから、脊髄損傷や若年型糖尿病など多くの疾患に対する細胞移植療法につながるものと期待されます」と、京大が発表し、山中さんはiPS細胞の研究開発に没頭します。


(やはり長くなったので、これ以降は明日にします)。

cuocaはブッシュ・ド・ノエルの作り方を伝授します

2010年11月30日 | 汗をかく実務者
 ケーキなどのお菓子やパンの材料と器具を販売する事業を展開するクオカプランニング(徳島市)は地方発ベンチャー企業のお手本です。
 愛称「cuoca」(クオカ)のブランド名で、お菓子やパンの材料や料理器具などを、Webサイトによる通信販売、東京都の自由が丘などでの直販、ロフト(LOFT) や東急ハンズなどへの委託販売の3形態で事業展開しています。一見平凡な通販主体の小売業にみえますが、よく練り上げた事業計画を実践し、急成長しているベンチャー企業です。


 cuocaとはイタリア語で“料理上手のお母さん”という意味だそうです。お母さんが手作りするお菓子やパンは美味しく、子供は愛情を感じ、幸せを感じます。この幸せを支援するのが、創業時のコンセプトのようです。斉藤賢治代表取締役社長は体格がいいため、お菓子屋の親父(おやじ)にはあまりみえません。斉藤さんは、プロがつくるケーキやパンがなぜ美味しいかを真剣に考えました。普通の方がケーキをつくる時に、入手できる小麦粉は、薄力粉か中力粉、強力粉の3種類程度です。これに対して、お菓子職人(パティシュエ)はそのケーキに適した小麦粉などの材料取りそろえて使います。その上で、職人としてのいろいろな業(わざ)を用いるため、当然美味しいわけです。

 斉藤さんは「美味しいケーキをつくるには、それに適した小麦粉などの材料を入手することが美味しいケーキをつくるコツ」と気が付きました。このため、ビジネスモデルは、小麦などを提供する真面目な生産者と、手づくりケーキやパンを子供に食べさせたい願う消費者をつなぐ橋渡し事業としました。各ケーキやパンに適した小麦粉などの材料を提供する事業は、例えばパン向け粉を154種類、製菓用の粉を28種類、バターを22種類、チーズを22種類などと品ぞろえしています。有名なのは、チョコレートの品ぞろえです。パティシエが愛用する9社・48種類の製菓用チョコレートを取りそろえてあり、垂涎(すいぜん)の的になっています。

 しかし、豊富な品ぞろえだけでは、一部のマニア向けで終わってしまいます。そこで、いろいろなケーキやパンをつくるレシピとつくり方をWebサイトや小冊子で公開しました。見本にいただいた小冊子「Chismas Book」はブッシュ・ド・ノエルのつくり方を丁寧に教えてくれます。




 ロールケーキをうまく巻くためにシートスポンジの用意の仕方、クリームの塗り方などと、プロの業・コツを教えてくれます。そして、シートスポンジのココア味に、デザートソース、トッピング用のココアなど必要な材料は、すべて用意され、入手できる仕組みです。これならは私にもできそうと思えるほど、しっかりと用意されています。

 各レシピは、cuocaのWebサイトや直営店などに用意された小冊子などが教えてくれます。さらに、cuoca公認のツィッターからも伝えられます。この仕掛けが、徳島発ベンチャー企業が急成長している秘密です。もちろん、東京都内の自由が丘と新宿の直営店に、福岡市、高松市の店舗での消費者の生の声も大事にしているようです。cuocaのWebサイトには、社長宛てに直接伝える仕掛けもあります。「社長は必ず読みます。ただし、返事はしません」と表記してあります。

 クオカプランニングの設立は2000年(平成12年)7月です。斉藤さんは大学を卒業後に、まずCM制作プロダクションに入社し、アサヒビールを経て、「これからは地方の時代だ」という声を信じて実家に戻りましたった。ご実家は創業132年の老舗の食品卸売り会社です。業者向けに砂糖や小麦粉を卸している卸売りでした。古い革袋に、新しい何を入れれば、老舗を基にした新規事業として何が展開できるか考え抜きました。その答えは、Webサイトによる通信販売であり、消費者に最適なお菓子などの材料を品ぞろえして販売する事業でした。この販売事業をレシピを提供するというサービスによって差異化させ、ヒットさせました。

 クオカプランニングが成長した理由は、徳島市の実家を基に、地方で地道に事業を成長させ、直営店も第一号は高松市で開店するなどと、最初は事業基盤を慎重に築きました。そして、競争力がついたと判断すると、東京都内の自由が丘に直営店の旗艦店を開店し、勝負に打って出ます。同社は現在、年間売上げが29億円と、成長中です。

 レシピといえば、急成長しているクックパッド(COOKPAD、東京都港区)が有名です。同社のWebサイトは89万種を超える日本最大の料理レシピサイトで成長中です。実は創業時のビジネスモデルはまったく異なっていました。レシピを求める消費者が多いことに気が付き、ビジネスモデルを転換し、大成功しました。身近なところに事業の成否を決める“差異化ツール”がある典型例です。