Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

怒れる牡牛の物語

2014-01-22 00:30:00 | コラム
第17部「フランシス・フォード・コッポラの物語」~第4章~

前回のあらすじ

「映画を撮る喜びはどこにある?」
「喜びはどこかって? 美しいメディアだし、そこで働けることは特権であり、学ぶことがたくさんある。喜びは、ごくたまに、自分がいいと思えること、美しいと思うことが達成できた時だね」(インタビューに答えるコッポラ)

「『地獄の黙示録』から帰ってきたとき、わたしはほんとうに落ち込んでいた。自分が天才と思いこむより、むしろまずいことになったと考えていた。映画は失敗作だと思ってたし、どうやったら立て直せるのかわからなかった」(『地獄の黙示録』撮影中の「錯乱状態」から解放された当時の心境を、コッポラが語る)

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「好きではないが、すごいとは思った」
「映画として優れているかどうかは分からないけれど、どえらいものを観たという感覚がある」

・・・みたいな感想を抱かせる映画が、稀に、ほんとうにごく稀に出現する。

『悪魔のいけにえ』(74)、『ゆきゆきて、神軍』(87)、そして『地獄の黙示録』(79)のように。

『悪魔のいけにえ』がすごいのはホラー映画としての完成度というより、ひとが襲われる/殺されるさまの迫真性だろう。
こんな映像体験は滅多に出来るものではない。

『ゆきゆきて、神軍』は、ドキュメンタリーとか、そういうジャンル性とはべつのところで評価されている特異な作品。
リバイバルされる度に観に行っているが、不思議とワカゾーが多い。
戦争や天皇制というものに興味がないのに、「なんかすげージジイが主人公らしい」という興味から劇場にまでやってくるのだ。

『地獄の黙示録』もまた、戦争映画というジャンル性で括られることを拒否するような「意思を持った」作品である。
ベトナムを扱っていながら、『ディア・ハンター』(78)や『プラトーン』(86)と同一線上では語れない―という主張に異を唱える識者は居ないのではないか。

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狂乱。

(1)常軌を逸した状態になること
(2)比喩的に、物事が異常な状態であること
(3)演劇で、物狂いの所作


『地獄の黙示録』には「狂乱」という評価が似合う―2001年に公開されたディレクターズ・カット版に触れ、そう思った。

キルゴア中佐(ロバート・デュバル)の台詞「朝のナパーム弾の臭いは格別だ」や、ヘリからの攻撃。
プレイメイトたちのダンスと、兵隊たちの興奮。
カーツ大佐(マーロン・ブランド)の殺害シーン。

どれを取っても狂乱、
『戦場にかける橋』(57)のラストもたしかに「狂ってる!」が、『地獄の黙示録』の狂乱度? は次元がちがう。

ビートたけしだったか、「『ゴッドファーザー』の3作目のコッポラは、ドラッグが切れた感じの演出でキレがない」と評していた。
それに倣えば、このころのコッポラはキレキレで描写のひとつひとつが完全に「あっち側」に到達している。
選曲にドアーズというのが「いかにも」であるし、冒頭のウィラード大尉(マーティン・シーン)もラリっていると捉えられなくもない。

ふつうのひと、居ないじゃん。

いや戦争とは、そういうものなんだとコッポラは「ラリりつつ?」いってのけている。

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『地獄の黙示録』は150分の大作(ディレクターズ・カットは200分超)だが、あらすじは2行程度にまとめられる。
カーツ大佐が軍の命令を無視して暴走、ジャングルで王国「のようなもの」を作っている彼をウィラード大尉が暗殺にしにいく―という物語。

オーソン・ウェルズも映画化を狙っていた『闇の奥』(ジョゼフ・コンラッド著)を下敷きにしているというので読んでみたが、さっぱり分からなかった。
分からなかったが、コッポラに影響を与えたことだけは「なんとなく」分かった。

著名な学者たちは、散見される文芸的な引用からこの映画を読み取ろうとしているが、筆者には発表出来るほどの文芸的素養がないし、そのあたりは立花隆に任せておけばいいのだと思う。
だからいえるのは、日本版の予告編がいうように「これは生きた映画」であると。
未だ呼吸をし続けていると。
観ていないとしたら、学校や会社をサボってすぐにでも観なさいよと。
いいと思えるかどうかは分からないけれど、きっと「すごいものを観た!」という感覚に襲われるはずだと。


少し前に「(コッポラの才能は)枯れた、、、という意見がある」と書いた。
それを否定したい筆者だが、もし枯れたのだとしても「枯れた」ではなく「(『地獄の黙示録』の撮影で)抜け殻になった」と評するほうが適切なのではないか―そんな風に思う。(ついでにいえば、マイケル・チミノも「抜け殻」になったのだ。両者には、マイペースで映画を撮れない「非」職業監督という共通点がある)

『地獄の黙示録』という映画、その制作過程は、それほどに厄介なものだったのだから。

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つづく。

次回は、2月中旬を予定。




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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。

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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

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明日のコラムは・・・

『白菜と大根はかわいそう』

コメント (1)
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