突然の映画コーナー(笑)
先日、5さいの息子とトイストーリー4を観てきました。予備知識ゼロで観たので、非常に驚き、かつ感動しました。ちなみに、トイストーリーシリーズは1と2はDVDを何度か観て、だいぶ後に出た3は先日、テレビで子どもが観てるのを横から眺めていた程度です。なので、シリーズへの思い入れみたいなものは、ほとんどありません。とはいえ、キャラクターの性格や世界観はよく分かっています。
巷のレビューを見てみると、結構評価が割れる作品みたいです。3の「完璧なラスト」の続編を作る必要があったのか、とか言われてるようですね。個人のSNSではなく、Newsweekの記事でも「存在意義がない」とまで言われています。
なんだこの記者?
この作品、たぶん実体験としてそれなりの経験をしてないと、分からないと思います。子ども時代からシリーズを観続け、大人になった世代より更に上、その親の世代が真の(裏の?)ターゲットでしょう。
アンディの元では、(バズに脅かされたこともありますが)絶対的エースだったウッディですが、アンディが大人になり、幼いボニーに譲られてからは完全な脇役。いわば閑職に回されたロートルです。しかも、以前はみんなのまとめ役だった、との自負もあります。元管理職が転属して平社員と同列になったような感じでしょうか。
だけど「子どものために、おもちゃとしてどうあるべきか」は誰よりも分かっている、という矜持があります。それは、ウッディの行動原理になっています。それは第1作からブレずに共通している彼のキャラクターであり、魅力でもあるわけです。
嫌々ながら登園した初めての幼稚園で、ゴミからフォーキーを作り出し、笑顔を取り戻したボニーを目の当たりにしたウッディは、異常なほどフォーキーに執着します。
ウッディ曰くボニーのため、です。
しかし、それはフォーキーを守る(監視する?)ことに、自分自身の存在意義を見出している、という悲しさがあります。それだけでしか、ボニーの役に立つことはできない、感じているからです。
キャンピングカーでの旅行の最中も、ともすればゴミ箱へ逃げようとするフォーキー。それをウッディが見張っている時、バズが交代を申し出ます。しかしウッディは「俺の仕事だから」とやんわり断るのです。見ようによっては仕事を若手に渡さない、老害社員のようにも見えます。
なぜそこまで?と訊ねるバズ。
ウッディは「内なる声」に従っている、と答えます。それを聞いて、バズは自分の胸のボタンを押して(「銀河の彼方へ、さあ行こう!」とか言うボタン)「これが『内なる声』か!」と勘違いするのですが。そしてその後、フォーキーが逃げ出すと、ウッディは危険を顧みずに連れ戻しに行くのです。
その過程で、過去に離ればなれになった陶器人形のボーと再会するのですが、彼女は子どもの持ち主がいない、ウッディ曰く「迷子のおもちゃ」になっています。このボーが過去作と違い、魅力溢れるアクション女優に変貌していて(笑)、常にウッディをリードしていきます。
この辺の女性活躍推進的な設定は、まあ時代の流れですかね。数年前のインクレディブルファミリーでもママ(イラスティガール)が活躍する間、パパは子守してたし。ちょっとあざとさは感じますが。
それはともかく、そんな自由奔放なボーに惹かれつつも、ウッディの行動原理は「持ち主の子どものため」に変わりありません。そこに拘る余り、仲間を危険に晒そうとするウッディをなじるボーに、彼は言います。
「俺にはこれしか無いんだ」
アンディは去り、ボニーを喜ばすこともできない、みんなのリーダーでもない、全てを失った男の悲痛な叫びに聞こえます。そしてボーは「子どものためでなく、自分のための行動ではないか」とウッディに突きつけます。いやー、いい女だ(笑)
それでも単身、フォーキーの救出に再度赴くウッディに対して、バズは止めるべきか悩みます。そして胸のボタンを押して「内なる声」を聞くのですが、何度押しても逃げろとか撤退しろとか言うのです。ボタンを何度も押している時点で、バズの中にも「本当の内なる声」が聞こえているわけです。結局、この時はボタンの声に従ってしまうのですが。シリーズ通して最も成長したのがバズなんでしょうね。
そしてラスト。
全てを解決したウッディ。バズ達の活躍で、ボニーの乗る車がウッディを迎えに来ます。
ボーに別れを告げて、持ち主の乗る車に戻ろうとするウッディは逡巡します。
ボーとの再会で、自分が絶対と信じていた価値観が揺らいだのです。
持ち主の子どもを喜ばせるおもちゃ、ではなく、迷子のおもちゃ、の生き方もあるのではないか?
自分が知らなかっただけで、そんな生き方も素晴らしいのでは?
生まれ変わったかのようなバイタリティを放つ、ボーへの憧れもあるでしょう。
そんなウッディの背中を、バズが押します。
「ボニーは大丈夫だ」と。
そして、ウッディはついに意を決してボーの下へ戻るのです。ウッディにとってのパラダイムシフトが訪れたのでした。
特にウッディのような「古いタイプ」には自分を変えることは難しいはずです。でもウッディは、ボーという導き手に影響されつつ、最後は自分の判断で飛び越えた。
誰しも、人生で自分を変える瞬間があるはずです。変えられなかった自分を認識する瞬間だってあるはずです。
大切なのは、自分自身が判断し、生き方を決めることなんでしょう。
ウッディは生き方を変えたからといって、今までの自分の信念に間違いはなかったと思っているはずです。ただ、他の生き方を受け入れたということです。
そして、なんといってもバズとの最後のやりとり。
一作目で、子供部屋を惑星だかなんかと思い込んでいたバズが。想像もできないくらいに未知の世界へ踏み出した親友ウッディに「内なる声」を投げかけるわけですよ。
「…銀河の彼方へ」
そして、離れていく、バズ達の乗る車を見つめながらウッディは呟きます。
「さあ、行こう」
素晴らしい。最高じゃないですか。
このフレーズに、ここまでの意味を持たせるなんて。やってくれます。ひとりで観てたら間違いなく泣いてましたよ(笑)
完璧なラストって何だ。
映画は終わっても人生は続くんだ。
そんなメッセージも含んでいると、ぼくは思います。ウッディのセカンドライフは良いものになるでしょう。
この先の続編があったら、さすがに蛇足だと思うけどね(笑)
先日、5さいの息子とトイストーリー4を観てきました。予備知識ゼロで観たので、非常に驚き、かつ感動しました。ちなみに、トイストーリーシリーズは1と2はDVDを何度か観て、だいぶ後に出た3は先日、テレビで子どもが観てるのを横から眺めていた程度です。なので、シリーズへの思い入れみたいなものは、ほとんどありません。とはいえ、キャラクターの性格や世界観はよく分かっています。
巷のレビューを見てみると、結構評価が割れる作品みたいです。3の「完璧なラスト」の続編を作る必要があったのか、とか言われてるようですね。個人のSNSではなく、Newsweekの記事でも「存在意義がない」とまで言われています。
なんだこの記者?
この作品、たぶん実体験としてそれなりの経験をしてないと、分からないと思います。子ども時代からシリーズを観続け、大人になった世代より更に上、その親の世代が真の(裏の?)ターゲットでしょう。
アンディの元では、(バズに脅かされたこともありますが)絶対的エースだったウッディですが、アンディが大人になり、幼いボニーに譲られてからは完全な脇役。いわば閑職に回されたロートルです。しかも、以前はみんなのまとめ役だった、との自負もあります。元管理職が転属して平社員と同列になったような感じでしょうか。
だけど「子どものために、おもちゃとしてどうあるべきか」は誰よりも分かっている、という矜持があります。それは、ウッディの行動原理になっています。それは第1作からブレずに共通している彼のキャラクターであり、魅力でもあるわけです。
嫌々ながら登園した初めての幼稚園で、ゴミからフォーキーを作り出し、笑顔を取り戻したボニーを目の当たりにしたウッディは、異常なほどフォーキーに執着します。
ウッディ曰くボニーのため、です。
しかし、それはフォーキーを守る(監視する?)ことに、自分自身の存在意義を見出している、という悲しさがあります。それだけでしか、ボニーの役に立つことはできない、感じているからです。
キャンピングカーでの旅行の最中も、ともすればゴミ箱へ逃げようとするフォーキー。それをウッディが見張っている時、バズが交代を申し出ます。しかしウッディは「俺の仕事だから」とやんわり断るのです。見ようによっては仕事を若手に渡さない、老害社員のようにも見えます。
なぜそこまで?と訊ねるバズ。
ウッディは「内なる声」に従っている、と答えます。それを聞いて、バズは自分の胸のボタンを押して(「銀河の彼方へ、さあ行こう!」とか言うボタン)「これが『内なる声』か!」と勘違いするのですが。そしてその後、フォーキーが逃げ出すと、ウッディは危険を顧みずに連れ戻しに行くのです。
その過程で、過去に離ればなれになった陶器人形のボーと再会するのですが、彼女は子どもの持ち主がいない、ウッディ曰く「迷子のおもちゃ」になっています。このボーが過去作と違い、魅力溢れるアクション女優に変貌していて(笑)、常にウッディをリードしていきます。
この辺の女性活躍推進的な設定は、まあ時代の流れですかね。数年前のインクレディブルファミリーでもママ(イラスティガール)が活躍する間、パパは子守してたし。ちょっとあざとさは感じますが。
それはともかく、そんな自由奔放なボーに惹かれつつも、ウッディの行動原理は「持ち主の子どものため」に変わりありません。そこに拘る余り、仲間を危険に晒そうとするウッディをなじるボーに、彼は言います。
「俺にはこれしか無いんだ」
アンディは去り、ボニーを喜ばすこともできない、みんなのリーダーでもない、全てを失った男の悲痛な叫びに聞こえます。そしてボーは「子どものためでなく、自分のための行動ではないか」とウッディに突きつけます。いやー、いい女だ(笑)
それでも単身、フォーキーの救出に再度赴くウッディに対して、バズは止めるべきか悩みます。そして胸のボタンを押して「内なる声」を聞くのですが、何度押しても逃げろとか撤退しろとか言うのです。ボタンを何度も押している時点で、バズの中にも「本当の内なる声」が聞こえているわけです。結局、この時はボタンの声に従ってしまうのですが。シリーズ通して最も成長したのがバズなんでしょうね。
そしてラスト。
全てを解決したウッディ。バズ達の活躍で、ボニーの乗る車がウッディを迎えに来ます。
ボーに別れを告げて、持ち主の乗る車に戻ろうとするウッディは逡巡します。
ボーとの再会で、自分が絶対と信じていた価値観が揺らいだのです。
持ち主の子どもを喜ばせるおもちゃ、ではなく、迷子のおもちゃ、の生き方もあるのではないか?
自分が知らなかっただけで、そんな生き方も素晴らしいのでは?
生まれ変わったかのようなバイタリティを放つ、ボーへの憧れもあるでしょう。
そんなウッディの背中を、バズが押します。
「ボニーは大丈夫だ」と。
そして、ウッディはついに意を決してボーの下へ戻るのです。ウッディにとってのパラダイムシフトが訪れたのでした。
特にウッディのような「古いタイプ」には自分を変えることは難しいはずです。でもウッディは、ボーという導き手に影響されつつ、最後は自分の判断で飛び越えた。
誰しも、人生で自分を変える瞬間があるはずです。変えられなかった自分を認識する瞬間だってあるはずです。
大切なのは、自分自身が判断し、生き方を決めることなんでしょう。
ウッディは生き方を変えたからといって、今までの自分の信念に間違いはなかったと思っているはずです。ただ、他の生き方を受け入れたということです。
そして、なんといってもバズとの最後のやりとり。
一作目で、子供部屋を惑星だかなんかと思い込んでいたバズが。想像もできないくらいに未知の世界へ踏み出した親友ウッディに「内なる声」を投げかけるわけですよ。
「…銀河の彼方へ」
そして、離れていく、バズ達の乗る車を見つめながらウッディは呟きます。
「さあ、行こう」
素晴らしい。最高じゃないですか。
このフレーズに、ここまでの意味を持たせるなんて。やってくれます。ひとりで観てたら間違いなく泣いてましたよ(笑)
完璧なラストって何だ。
映画は終わっても人生は続くんだ。
そんなメッセージも含んでいると、ぼくは思います。ウッディのセカンドライフは良いものになるでしょう。
この先の続編があったら、さすがに蛇足だと思うけどね(笑)