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気が向いたら書く

映画「ルックバック」

2024-08-19 18:45:00 | 映画
久しぶりにログインしました。
書きたいと思った衝動は大事にしよう。

※※※


映画「ルックバック」を観ました。

休日の昼間に、テレビで「今、話題の作品!」的な紹介をされていて、人気のお笑い芸人の方が熱くレビューしていたのに興味を持ったのです。
原作は読み切りマンガらしいですが、読んだことはありません。

で、観た感想としては、映像表現などは本当に素晴らしいと思います。画の美しさが凄い。時には水墨画のような表現もあったり。
藤野の部屋に「アマデウス」のDVDパッケージがあったり、「バタフライ・エフェクト」のポスターが貼ってあったりという、作品の内容に関わる小ネタも面白かったです。

でも、正直そこまで感動はしなかったし、色々モヤる部分があるけど、クリエイターの方、何かに対して自分をすり減らして打ち込んで、挫折を経験したことがある方には刺さるだろうなと。
世間一般の楽しいことや、人生をうまく泳ぐのに役立つことを投げうって、自分のやりたい道をひたすら走る行為の尊さが表現されているから。


小学校6年生の藤野に、クラスメイトが「中学校でも絵なんか描いてたらオタクと思われるよ?」的なことを言うシーンがあります。これは小学生らしい、思慮の浅い表現ですが、実際に「いい歳して、いつまで夢を追いかけてんの?」というようなことを言われたことがある方にはかなり刺さってくると思います。


その後、京本には画力で勝てない、と分かってしまった藤野はマンガを描くのを「やーめた」と諦めるのですが、このシーンもいい。心が折れる瞬間が捉えられています。

しかしその後、藤野が小学校の卒業証書を届けた際に、京本から「藤野先生!」と呼ばれ、背中にサインをします。超えられない壁と思っていた相手が、自分をリスペクトしていたのだから、嬉しくないはずがない。ふたりはその後、いわゆる普通の世間に目をくれず、一緒に創作活動を続けていき、漫画賞に準入選して報われるわけです。


でもその一方で、ぼくが最もモヤモヤしたのが、藤野と京本の関係性です。というか、藤野にとって京本とは何なのか。京本は、漫画家・藤野にとって最大の理解者であったと思います。でも、これは友情なのか。


京本は連載が決まるまで、自分が美大に行きたいという希望を藤野には伝えられませんでした。そして、伝えられた藤野は「そんなの無理だ」「自分についてきた方がいい」と全否定してしまいます。「頑張って」とも「一緒にやって欲しい」とも言えない。この関係性。

基本的に藤野は常に京本を「引っぱる」存在です。街で遊ぶシーンなどでも何度も表現されますし、言い換えれば、藤野は京本に対して絵の才能は認めているものの、人間としては「上から」見ているのだと思います。


その後、藤野は京本と離れてマンガ家として成功していきますが、アシスタントに恵まれず、最終的にはたった一人で原稿に向かっています。恵まれないというより、藤野が選り好みをしているとおぼしき描写があり、ここでも彼女のエゴの強さがかいま見えます。


そして、事件後に藤野が京本の部屋を訪れるシーン。

藤野はドアを開けることが出来ず、スケッチブックが山積みにされた廊下で、手に取るのは自分のマンガの掲載誌です。そして、自分が描いたマンガをパラパラめくると、なぜか過去に自分が描いた4コママンガが出てきて、それを見て「自分のせいだ」と絶望します。


、、、おこがましくないですか?

他人の人生を、自分が左右したなんて考え方。
ここで正直、「何様だよ」と思ってしまいました。



その後、なぜか足元に落ちていた、京本が描いたとおぼしき4コママンガを見て、部屋に入ります。京本からの「背中を見て(Look Back)」のメッセージを受け取った藤野が見るのは、そこでも(京本は関わっていない)自分のマンガの単行本です。

普通なら、京本が何を描いたのか、何を残したのか、彼女自身の痕跡を見るのではないかと思います。そこらじゅうに、山のようにスケッチブックが転がっているのですから。でも、藤野はそれらを一切見ない。逆に、自分の創作物から京本の痕跡を探しているように見える。


ここもモヤったポイントですかね。


友だちを失ったのではないのか? 

一番の理解者(ファン)を失ったのか?

たったひとりの、本当の友だちじゃなかったのか?

どう生きたか、知りたくなかったのか?


なんかすべてが自分本位な目線に感じるんですよね。


「藤」野と京「本」という名前から、原作者藤本タツキの分身であり、右利きの藤野、左利きの京本は鏡合わせの存在なのかなと思います。だから、マンガ家にならず、美大に進んだ京本の姿も「もしかしたら、そうだったかもしれない自分」なのかもしれません。(経歴知らないけど)
表裏一体だから、藤野が京本の内面を知る必要はないのかな。


その後、輝かしい京本との過去を振り返った(Look Back)藤野が、京本の4コママンガをデスクの前の窓に貼り付け、再び創作に没頭していくシーンで映画は終わります。

それでも、全てを糧にして創作に身を捧げていく。

これは「クリエイターかくあるべし」って姿なのかな。


納得はできます。


できるけど、藤野には全面的に共感はできないかな。

そんな感じです。

“イエスタデイ”を観て思ったこと

2020-09-21 18:34:00 | 映画
知り合いに随分前から勧められていた、ダニー・ボイル監督の「イエスタデイ」を観ました。






ビートルズが存在しなかった世界、というパラレルワールドで、主人公の売れないミュージシャンが彼らの楽曲を演奏して成功していく様を描いています。映画としては非常に面白かったし、とても良かったです。おすすめです。
 
 ただ、これは映画の内容というよりも、SF的観点ですが、ビートルズが存在しなかったら、現在のポップミュージックシーンも全く違うものになっていたはずで、その辺の描き込みが全く無かった(oasisは存在しないようですがw)のがパラレルワールドものとしては消化不良でしたね。ストーンズがどういうバンドになってるのか、とか面白そうなんですけど。

まあ、設定に無理がありすぎですからね。そこを見せる映画ではないってのは分かってますし。

そこで、いつもの妄想なんですが、ビートルズが存在しない、は無理にしても、もう少し現実味?を帯びたパラレルワールドを設定できないかなあ、などと考えてみました。ズバリ「ジョージ・ハリスンが存在しなかった世界」なんてどうでしょう?
ジョンとポールのどちらかが居なかったら、ビートルズの存在そのものが危ぶまれるし、リンゴだったらまあ、他のドラマーでもハードデイズナイト辺りまでは解散せず行けたんじゃないかな?とも思うので、一番微妙なラインのジョージで。
 なんか色々失礼な感じですが、ぼくはビートルズ大好きです。四人とも。念のため(笑)

で、ジョージがいなかったら、ですよ。
“Here comes the sun”とかが存在しない、とかはさておき、ビートルズはそれなりに成功したんじゃないかなあと思います。ビートルズそのものの話はひとまず置いておいて、他の要素。

まず、ポップミュージックの歴史において決定的に変わってくるのは、ベーシストとしてのポール・マッカートニーが存在しなかったかもしれない、ということです。ポールは元々ギタリストで、映画「バックビート」で有名なスチュワート・サトクリフが夭折した後にベーシストとなっています。でももし、ジョージが居なかったら、ポールはギタリストのまま、他のベーシストを加入させたりしていたかもしれません。もしそうなったら、メロディックなベーシストや、ベースヴォーカルの系譜は全く違ったものになっていたでしょうね。ジョージが居なかったら”Something”も存在しないし、あのポールのベースラインも存在しないってことです。大変です。

それから、スライドギターの歴史も変わっていたかもしれません。ジョージでなくとも、メロディを奏でるためのスライドというアプローチをするギタリストは存在したでしょうが、彼ほどのメロディセンスと影響力を持ったミュージシャンは少ないかと思います。スライドはブルースの奏法、みたいな感じが強かったかもしれません。

あと、超重要項目がもう一つ。

「いとしのレイラ」が作られなかったかも知れないってことですよ(笑)

誰もがご存知の通り、ジョージの妻のパティ・ボイドに横恋慕したクラプトンが、その苦しみを託したのが「いとしのレイラ」です。まあクラプトンの女癖の悪さなら同じようなシチュエーションは幾らでもあったかもしれませんが、やはり偉大なビートルズのメンバーで親友、というのはデカいと思うんですよね、横恋慕感が(笑)。ある程度のミュージシャン相手だったら躊躇いなく奪いそうですもん、クラプトン。

まあそういう訳で、クラプトンの名盤も存在しなかったかも知れないし、パティがモデルの「ワンダフルトゥナイト」も作られなかったかも知れないし、デレク・トラックスもデレクって名前じゃなかったかも知れない。

いやー、こういう妄想は止まりませんね。

でも一応、改めて言っときますけど、ジョージ大好きですよ!(笑)

トイストーリー4を観た(ネタバレ)

2019-08-20 21:04:02 | 映画
突然の映画コーナー(笑)



先日、5さいの息子とトイストーリー4を観てきました。予備知識ゼロで観たので、非常に驚き、かつ感動しました。ちなみに、トイストーリーシリーズは1と2はDVDを何度か観て、だいぶ後に出た3は先日、テレビで子どもが観てるのを横から眺めていた程度です。なので、シリーズへの思い入れみたいなものは、ほとんどありません。とはいえ、キャラクターの性格や世界観はよく分かっています。

巷のレビューを見てみると、結構評価が割れる作品みたいです。3の「完璧なラスト」の続編を作る必要があったのか、とか言われてるようですね。個人のSNSではなく、Newsweekの記事でも「存在意義がない」とまで言われています。
なんだこの記者?

この作品、たぶん実体験としてそれなりの経験をしてないと、分からないと思います。子ども時代からシリーズを観続け、大人になった世代より更に上、その親の世代が真の(裏の?)ターゲットでしょう。

アンディの元では、(バズに脅かされたこともありますが)絶対的エースだったウッディですが、アンディが大人になり、幼いボニーに譲られてからは完全な脇役。いわば閑職に回されたロートルです。しかも、以前はみんなのまとめ役だった、との自負もあります。元管理職が転属して平社員と同列になったような感じでしょうか。

だけど「子どものために、おもちゃとしてどうあるべきか」は誰よりも分かっている、という矜持があります。それは、ウッディの行動原理になっています。それは第1作からブレずに共通している彼のキャラクターであり、魅力でもあるわけです。


嫌々ながら登園した初めての幼稚園で、ゴミからフォーキーを作り出し、笑顔を取り戻したボニーを目の当たりにしたウッディは、異常なほどフォーキーに執着します。

ウッディ曰くボニーのため、です。

しかし、それはフォーキーを守る(監視する?)ことに、自分自身の存在意義を見出している、という悲しさがあります。それだけでしか、ボニーの役に立つことはできない、感じているからです。

キャンピングカーでの旅行の最中も、ともすればゴミ箱へ逃げようとするフォーキー。それをウッディが見張っている時、バズが交代を申し出ます。しかしウッディは「俺の仕事だから」とやんわり断るのです。見ようによっては仕事を若手に渡さない、老害社員のようにも見えます。

なぜそこまで?と訊ねるバズ。
ウッディは「内なる声」に従っている、と答えます。それを聞いて、バズは自分の胸のボタンを押して(「銀河の彼方へ、さあ行こう!」とか言うボタン)「これが『内なる声』か!」と勘違いするのですが。そしてその後、フォーキーが逃げ出すと、ウッディは危険を顧みずに連れ戻しに行くのです。

その過程で、過去に離ればなれになった陶器人形のボーと再会するのですが、彼女は子どもの持ち主がいない、ウッディ曰く「迷子のおもちゃ」になっています。このボーが過去作と違い、魅力溢れるアクション女優に変貌していて(笑)、常にウッディをリードしていきます。

この辺の女性活躍推進的な設定は、まあ時代の流れですかね。数年前のインクレディブルファミリーでもママ(イラスティガール)が活躍する間、パパは子守してたし。ちょっとあざとさは感じますが。

それはともかく、そんな自由奔放なボーに惹かれつつも、ウッディの行動原理は「持ち主の子どものため」に変わりありません。そこに拘る余り、仲間を危険に晒そうとするウッディをなじるボーに、彼は言います。

「俺にはこれしか無いんだ」

アンディは去り、ボニーを喜ばすこともできない、みんなのリーダーでもない、全てを失った男の悲痛な叫びに聞こえます。そしてボーは「子どものためでなく、自分のための行動ではないか」とウッディに突きつけます。いやー、いい女だ(笑)

それでも単身、フォーキーの救出に再度赴くウッディに対して、バズは止めるべきか悩みます。そして胸のボタンを押して「内なる声」を聞くのですが、何度押しても逃げろとか撤退しろとか言うのです。ボタンを何度も押している時点で、バズの中にも「本当の内なる声」が聞こえているわけです。結局、この時はボタンの声に従ってしまうのですが。シリーズ通して最も成長したのがバズなんでしょうね。

そしてラスト。

全てを解決したウッディ。バズ達の活躍で、ボニーの乗る車がウッディを迎えに来ます。
ボーに別れを告げて、持ち主の乗る車に戻ろうとするウッディは逡巡します。
ボーとの再会で、自分が絶対と信じていた価値観が揺らいだのです。

持ち主の子どもを喜ばせるおもちゃ、ではなく、迷子のおもちゃ、の生き方もあるのではないか?

自分が知らなかっただけで、そんな生き方も素晴らしいのでは?

生まれ変わったかのようなバイタリティを放つ、ボーへの憧れもあるでしょう。
そんなウッディの背中を、バズが押します。
「ボニーは大丈夫だ」と。
そして、ウッディはついに意を決してボーの下へ戻るのです。ウッディにとってのパラダイムシフトが訪れたのでした。
特にウッディのような「古いタイプ」には自分を変えることは難しいはずです。でもウッディは、ボーという導き手に影響されつつ、最後は自分の判断で飛び越えた。

誰しも、人生で自分を変える瞬間があるはずです。変えられなかった自分を認識する瞬間だってあるはずです。
大切なのは、自分自身が判断し、生き方を決めることなんでしょう。
ウッディは生き方を変えたからといって、今までの自分の信念に間違いはなかったと思っているはずです。ただ、他の生き方を受け入れたということです。

そして、なんといってもバズとの最後のやりとり。

一作目で、子供部屋を惑星だかなんかと思い込んでいたバズが。想像もできないくらいに未知の世界へ踏み出した親友ウッディに「内なる声」を投げかけるわけですよ。


「…銀河の彼方へ」


そして、離れていく、バズ達の乗る車を見つめながらウッディは呟きます。


「さあ、行こう」


素晴らしい。最高じゃないですか。
このフレーズに、ここまでの意味を持たせるなんて。やってくれます。ひとりで観てたら間違いなく泣いてましたよ(笑)

完璧なラストって何だ。
映画は終わっても人生は続くんだ。

そんなメッセージも含んでいると、ぼくは思います。ウッディのセカンドライフは良いものになるでしょう。

この先の続編があったら、さすがに蛇足だと思うけどね(笑)

Dear ダニー 君へのうた

2017-12-05 18:45:02 | 映画
アル・パチーノが老いたロックスターを演じた映画です。原題は主人公の名前そのものの"Danny Collins"。

映画は若き日のダニーがインタビューを受けるシーンから始まります。これからの創作活動への不安を漏らすダニー。曲がヒットして、富と名声を得たら、自分はミュージシャンとして変わってしまうのではないか、と。

時代は飛んで43年後。初々しいシンガーソングライターだったダニーは、大スターになっています。ショーは長年のファンで超満員。テレビにも出る人気者です。そして、ライフスタイルはSex,Drug & Rock'n' Rollを地で行くもの。自分のショーを「素人芸」とうそぶき、30年も作曲をせず、過去のヒット曲を歌い続けるだけの自分に虚しさを感じているダニー。


(こんなラッピングされた、超豪華なツアーバスでツアーを回るほどのスターです。)

そんな折、誕生日のサプライズに、長年の友人でありマネージャーのフランクから、ある手紙を受け取ります。コレクターからなんとか手に入れたというその手紙は、なんと、若き日のダニーに宛てたジョン・レノンからのものでした。冒頭のインタビューを読んで、インタビュアーにジョンが手紙を出していたと言うのです。


「富や名声を得ても、君の音楽は堕落しない。それは君次第だ。君はどう思う?」


そして、ジョンは番号を書いておくから、電話して直接話をしよう、と締めくくっています。

これは、スティーヴ・ティルストンという英国のシンガーソングライターの実話に基づいています。映画の冒頭にも「少しだけ実話に基づいた物語」というテロップが出ます。手紙を手に入れたコレクターがティルストンのもとに、実物かどうか鑑定してほしいと訪れたそうです。ティルストンにとっては青天の霹靂だったでしょうね。

ダニー・コリンズにとってもそうで、まさに人生に訪れた最大級の転機となります。その手紙を読んでから婚約者と別れ、ドラッグを断ち、作曲を再開し、一度も会ったことがなかった(一夜の過ちでできた)息子に会いに行くのです。

音楽は全編、ソロ時代のジョン・レノンの曲が、非常に効果的に使われています。曲の意味や成り立ちをある程度知っていれば、この場面で流すならこの曲だよね、と思える選曲がなされています。例えば、ただショーをこなすたけの日々に虚しさを感じているシーンでは"Working Class Hero"、ドラッグに溺れるシーンには"Cold Turkey"、我が子を想うシーンには""Beautiful Boy"、といった具合に。ジョンへのリスペクトを感じ取れます。

もちろん、ジョンの曲を知らなかったとしても、良い映画ですよ。おすすめ。

ドランクモンキー酔拳(ゴールデン洋画劇場版)

2016-06-18 19:09:23 | 映画
今さら言うまでもないことだが、ジャッキーチェンの酔拳は吹替版に限る。
それも、飛鴻はフェイフォンではなくヒコウで、蘇化子はソウハッイーではなくソカシで小松方正で、鉄心はティッサムではなくテッシンで津嘉山正種のやつだ。

この辺で数少ない読者の99%は意味不明になって読むのを止めるだろうが、気にしないで続ける。文体がいつもと違うのも気にしないのだ。



ここまで読み進んでくれた方にとっては釈迦に説法、先刻ご承知かと思うが、念のためちょっと説明すると、ジャッキーチェンの出世作「ドランクモンキー酔拳」は79年の作品だ。80年代には何度もテレビの「ゴールデン洋画劇場」などで放映された。ついでに言えばナビゲーターは高島忠夫だ。そしてその翌日は、全国の小学校の教室や校庭でクンフー対決が繰り広げられたものである。

さらに、ぼくの場合はそれをビデオに録画して観ていた。しかもソニーが誇るベータだ。それこそテープが延びるまで何度も観たものだ。余談だが「水曜ロードショー」(後に金曜ロードショーになる。ナビゲーターは我らが水野晴郎だ)で放映された「ルパン三世カリオストロの城」もベータに録画して何度も観た。これも1979年の映画だ。すごいぞ79年。

閑話休題。酔拳の話だ。

映画そのものは、それまで硬派な復讐劇などだったカンフー映画に、全く新しい風を巻き起こした楽しいものである。ストーリーは単純で、ほとんど半分が格闘シーン、残りは特訓シーンとギャグシーンで構成されている。ギャグシーンも身体を張ってるので時代遅れな感じは少なく、ジャッキーの食事シーンとかもむやみに憧れたものだ(笑)

しかし。ここで問題となるのは、それがテレビ放映の吹替版であったことと、さらには日本公開版は四人囃子による独自の主題歌「拳法混乱(カンフージョン)」が挿入される編集が為されていたことだ。

まずオープニングでジャッキーの演舞に合わせてカンフージョンが流れるのだ。シネスコサイズを当時のテレビ画面サイズに縮めた、異様に細長い映像で、クレジットタイトルは広東語?とにかく漢字のみ。通常流通しているソフトはこれが無いのだ。いやもう、ど頭から観る気なくなるよ。カンフージョンじゃねえじゃんと。

そして吹替。
これも後年、蘇を青野武がアテた別バージョンがあり、ソフト化されてる吹替版はこちらだった。観てみたら「フェイフォン」とか言ってるし、全然ダメだった。まあ好みの問題もあろうが、やはり最初の吹替のほうがテンポがいい。これはジャッキー役の石丸博也が若く、役の年齢に近いことも大きいと思われる。これはもう兜甲児とマクガイバーくらい違う。←わかりづらい

まあそんなこんなで、ゴールデン洋画劇場版には並々ならぬ思い入れがあったのだが、ほぼ放映される可能性も、ソフト化も諦めていた。ただ、10年くらい前にMXテレビで一度放映されたことがあり、途中で気づいて観ることができたことがあった。ビデオは残っていたらしい。でも、もう観れないんだろうなあと思っていたら、なんと!酔拳・蛇拳35周年記念バージョンのボーナスディスクにこのゴールデン洋画劇場版が収録されたというのだ。全然知らなかった。



そして、そのバージョンがムービープラスで放映され、何十年振りかでフル視聴したのである(というか、これを観て上記のボーナスディスクのことを知ったのだが)。

最初からいきなりカンフージョン!ジャッキーの演舞!アガる。クレジットタイトルは残念ながら英語になっているが、それを除けば記憶のまま、いや記憶より大幅に高画質で(ぼくにとって)本来の酔拳を観ることができた。感無量である。

ボーナスディスクとはいえ、このバージョンがソフト化されたということは、同好の士が多数いるのだろうな。いや、同好の士が作り手側にいるのかも知れぬ(笑)
この35周年版、蛇拳の吹替版も収録されてるらしく、勢いで購入しようかと思ったのだが、欲しいのはボーナスディスクだけなんだよなあ。本編は絶対見ないと断言できる。ボーナスディスクだけで売って欲しい。無理か。

クレイジー・ハート

2013-10-24 22:08:33 | 映画
映画「クレイジー・ハート」を観ました。
ジェフ・ブリッジスが、かつて人気のあったものの、今は落ちぶれたカントリー歌手、バッド・ブレイクを演じています。



ストーリーとしては、あるシングルマザーとの出会いをきっかけに、アル中のバッドが人生をやり直していく、という、言ってみればありきたりなものですが、年齢を重ねないと出せないジェフ・ブリッジスの演技のリアリティと、歌がかなり良いです。もう初老といえる年齢なのに、グレッチのセミアコとフェンダーアンプ、ギブソンのアコギを車に積んで、たった一人で地方巡業に出向くバッド。ウイスキーを買う金にも困ったり、年相応のグルーピーと寝たり。諦めや、居直りのような感情の中に生きている男の姿は、ミッキー・ロークの「レスラー」(これも大好きな映画です)を思い出しました。

愛弟子と言えるミュージシャン、トミー・スウィートの前座としてスタジアム級のライブに臨む際のリハで、メインアクトを良く聞かせようとわざとバランスを崩すPAに文句をつけて補正させるシーンなど、リアリティ十分。プロデュースにTボーン・バーネットが名を連ねているというだけあります。とはいえ、音楽面を掘り下げるような映画でもないので、カントリー好きでなくても楽しめます。

また、バーボン好きとしては気になったのがバッドが愛飲する「マクルーア」というウイスキー。こんな酒あるんかいな、と調べてみたらやはり架空のブランドだそうです。

アル中の原因、という描写になるわけですから、イメージダウンことで、実在のウイスキーメーカーの協力は得られなかったんでしょうね(笑)

ソラニン

2013-09-10 19:01:15 | 映画
以前から観ようと思っていながら観ていなかった映画「ソラニン」を観ました。舞台となっているのが、以前住んでいたところのすぐ近くでビックリ。

内容はというと、なんというか、モラトリアムな感じなんだけど、この感覚わからないでもないと言いますか。フリーターしながらバンド活動はしてるけど、ライブはやらないって普通ならあり得ないんだけど、種田は「本気出して音楽やること」にさえ猶予期間を設けてしまってるということなんだろう。自分の本気の音楽が、何も変えられないと知ってしまうのが怖いから。

しかし、その期間を過ぎて本気でレコーディングしても、引っ掛かるのはグラビアアイドルのバックバンドとしてのオファーだけ。しかも、オファーしてきたのは、かつて種田が夢中になり、ギターを手にするきっかけとなったバンドのメンバーの成れの果て。オファーを受けるか逡巡するも、芽衣子が即座に断る。

そんな自分の音楽は、何も変えられないのではないか。誰にも聴かれないのではないか。

音楽を諦めて田舎に帰ろうと、芽衣子に別れを切り出すも、愛を感じて、考えなおす。バイトをしながら、バンドを続けていこうと決心する。愛する人と、愛すべき仲間たちと、生きていけばいいじゃないかと。

自分は幸せだ、とつぶやいても、

ホントに?

という自問が頭を駆け巡る。

それが一番いい方法だ。誰も傷つかない。何も失わない。それは分かってる。アタマでは。

でも、自分の中で、自分の中だけで、損なわれてしまうものの大きさは計り知れない。この先、ゆるい幸せの中で、自分を誤魔化しながら生きていくことが出来るのか?

その覚悟は出来てるのか?

どんなに困難な道でも、たったひとりでも歩んで行こうと決めていた過去の自分を裏切って、生きていく覚悟は?

だから、号泣しながらノーブレーキで走るしかなかったんだろう。

本当に、甘いんだよ。種田も芽衣子も。傷つかないで生きていけるほど、人生は甘くない。

芽衣子は種田が残したギターと渾身の曲「ソラニン」を受け継いで、バンドを復活させる。そこには、どんな感情があったのか。何か証を残したかったのか。区切りを付けたかったのか。

ライブの最後の曲として、芽衣子と加藤、ビリーの三人は全身全霊をかけて「ソラニン」を演奏する。

ソラニン

このライブシーンは良かった。それぞれ、どこか甘さを残しながら、精一杯の輝き。感動しました。拍手はまばらなんだけど、芽衣子にとっては最高のライブだったろう。

そのうち原作漫画も読んでみます。