そうだ、高野山、行こう。
高野山にはまだ桜が残っていました。
京都や奈良に足が向くことはあっても、なかなか高野山の方へは、と思うのですが、
子どもたちが歴史に興味を持つようになったことだし、満中陰を終えたこの機会に、
世界遺産 高野山の秘境 奥の院をゆっくり歩くことに。
極楽橋から高野山まではケーブルで。母と行った比叡山を思い出します。(紀貫之に会いにいく)
奥の院は歴史上の有名人が、宗派を問わず供養されており、浄土真宗の親鸞聖人のお墓もあります。
これはもう、史上最大のお墓参り、と言っていいでしょう。
かつて女人禁制だったこの地、高野山奥の院にあって、最大の6mを超える墓は、
大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」 の主人公、徳川400年の礎を築いた影の立役者とも言われる「江」の墓。
江戸の戸びらを開いたのは「江(ごう)」だったのかもしれません。
長男信康が織田信長の命によって切腹させられ、
家康の後継者となってもおかしくない立場(家康の次男)でありながら、側室の子として生まれ、不遇をかこった秀康。
家康は、秀吉に人質として秀康を差し出した。
永い風雪を経た石廟は、登壇するための石段を踏むことさえ禁止されている。
そのような人間模様を考えるにつけ、
戦国の世の面々が一堂に供養されている高野山 奥の院の懐の深さにおどろく。
比叡山を焼き払った信長、そして高野山にゆかりのある根来寺の焼き討ちを行なった秀吉。
奥の院に祀られているのには何か訳があるとしか思えない。
平成の大修復後、訪れたことのなかった大阪城の天守閣に翌日行ってきましたが、
天守閣の大きさはもちろん、空掘と呼ばれる一帯まで城郭が続いていたのかと思うと、
そのスケールたるや壮絶なものだったのだと感嘆いたしました。
( ↓ ) 明智光秀の字が読み取れます。
" 戦国武将らしく簡素な墓石は豪華を誇る上杉家の霊廟に比べ、却って人の心に迫るものがある。"
との解説が付されている武田信玄・勝頼の墓。
” 性格直情のなかにも文を学び、神仏に帰依した信玄公は、墓石を奥の院の一隅に求めた。"
信玄公は1573年4月12日逝去、勝頼公は1582年の3月11日逝去と記されている。
430年前の同じ日だ。(左が信玄、右が勝頼の墓。)
水向地蔵を過ぎ、御廟の橋を渡ると、即身成仏された弘法大師が今もなお生きていると信じられている聖域。
手前には片手で石を持ち上げることができれば善人、持ち上げられなければ悪人、という、
ためし石があって、一行7名全滅のなか、ひとり持ち上げることに成功したのですが、
その持ち上げようとする執着心が善人らしくない、とたしなめられました。
橋を渡る前に一礼し、身を正します。(ここからは撮影もできません。)
奥にみえるのは燈籠堂。
弘法大師御廟は、御堂の向こう側にひっそりと祀られています。
加持祈祷なのでしょうか、一心不乱にマントラのような言葉を唱えている熱心な信者の方もおられます。
線香とロウソクをあげて参りました。
高野山内を巡る=奥の院
沙於里さん、悪ガキ・ゴルフィーにお気をつけあそばせ♪
横着者のゴルフィーが説明なんてつけるとも思えないしね。
お客様あってナンボ、とちがいますか。
でも、進化を止めるのも心苦しいので、いけてないお姉さまたちのために、せめて説明書なぞつけて頂ければ、なんとかなるかなぁ
ひかる姐さん、どないでっしゃろ
だがしかし、ここしばらくは大切な客人の方々に御配慮申し上げることに致しまする。
いけてるお姉さま方に進化されんことを。
あのFB対応のテンプレートは読みにくいわよね
これならだいじょうぶ♪どうもです(笑)
恋焦がれている高野山、行った気分にさせていただきました。
けど、いつか必ず行くぞ~と決意もさせていただけた記事でした
書道をされる沙於里さんなぞは、手先や末端神経の鍛錬は言うに及ばず、空間認識力などなど、秀でたものを必ずお持ちなので、新しいものも線引きせず取り入れていけるはずだと思います。
歴史は苦手でしてね、、
実家で旧い成績表みて、もうちょっとマジメに歴史勉強してればなぁと思いました。
これならだいじょうぶ♪ どうもです
高野山の座禅会、厳しそうだけど、一度行ってみたいって思ってます。
それにしても、歴史も詳しいゴルフィーさん、絶対自慢のお父さんですね!