星のひとかけ

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『吾輩は猫である』十一章 寒月のバイオリン夜話と庚申講、および「クブラ・カーン」

2017-07-26 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
 ー Twitter 星の破ka片ke からの転記 ー

最終章で寒月さんは、高校時代にバイオリンを買って庚申山に登り、そこで「水晶の御殿」にいるような神秘的な体験をした話をします。「庚申山」という名称の意味、水晶の御殿とコールリッジのゴシック詩「クブラ・カーン」との関連を考えました。

【ヴァイオリン】
寒月とヴァイオリンの出会いは地方の高等学校時代。これは寺田寅彦も同じですが、初めて音色を耳にしたのは、物理の田丸先生のお宅へ、試験に失敗した同郷学生の「点をもらいに」行った時とのこと

#寺田寅彦「田丸先生の追憶」

星の破ka片ke
@salli_neko
·
2017年7月14日
【ヴァイオリン】
寒月とヴァイオリンの出会いは地方の高等学校時代。これは寺田寅彦も同じですが、初めて音色を耳にしたのは、物理の田丸先生のお宅へ、試験に失敗した同郷学生の「点をもらいに」行った時とのこと🎻

#寺田寅彦「田丸先生の追憶」http://aozora.gr.jp/cards/000042/files/2473_9316.html

(承前)
寒月はヴァイオリンを買う覚悟として「国のものから譴責されても、他県のものから軽蔑されても―よし鉄拳制裁のために絶息しても」と話しますが、実際、寅彦の熊本時代にも「土佐会」なる大変バンカラな同郷学生会があったそうです。
 (寅彦の随筆については、山田一郎著『寺田寅彦覚書』(1981年 岩波書店)から情報を得ました。寅彦の生い立ちから、高知、熊本での生活、文学的交流、そして結婚のこと、大変参考になる詳しい評伝でした。)

(承前) 山田氏の本には、学業不良の者や風紀に背いた者への処分、制裁などについても書かれていました。禁を犯した者が「制裁」への恐怖のあまり、自殺をしようとしたことなどもあり、そういう土佐士族から継承された気風は、都会育ちの漱石の経験とはずいぶん異なるものだろうと思いました。

(承前)
実際に寅彦は、バンカラ派の耳に入らないように《龍田山》へ登ってバイオリンを夜な夜な弾いたそうですが、『猫』では《庚申山》に登ります。
この「庚申山」という命名に何か意味があるのか?と考えてみました。

(承前)
『猫』でのバイオリン夜話の《庚申山》には「庚申講」の意味があったりして…。庚申講の晩には「庚申待」といって「会食談義を行って徹宵する風習」があり、平安貴族は「碁・詩歌・管弦」の宴で夜を過ごしたと。#漱石
庚申信仰 Wiki

(承前)
べつに苦沙弥らが平安貴族を気取って、という訳ではありませんが、人間の寿命を縮めるという「三尸の虫」を封じ込める為の夜の集まりが「庚申講」だというので、もしかして漱石先生が寒月=寅彦や友人、弟子らの長寿願いも込めて《庚申》の夜会を十一章で設けたのかな、などと想像…

(承前)
漱石自身が、「庚申の日」に生まれた為、災いを避けようと名前に「金」という文字を入れた、とのことですから、庚申の日の意味や、庚申講についてはおそらく漱石はよく知っていたのでは? とも思っています。

「何かわるい事でもしたんですか」
「是からしやうと云ふ所さ」
「可哀相にヷイオリンを買ふのが悪い事ぢや、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」
「人が認めない事をすれば、どんないゝ事をしても罪人さ。だから世の中に罪人程あてにならないものはない。耶蘇もあんな世に生れゝば罪人さ。

(承前)
…好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」
可哀相に寒月さんが罪人、とされてしまいますが、《庚申講》の三尸の虫は人間の《罪》を天帝に言いつけることでその人の寿命を縮めるのでしたね。その点を考慮すれば、この集まりは寒月を罪から守るための講ともいえます。

(承前)
人間の寿命を縮める「三尸」についてはこちら↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8

単なる想像ですが、庚申待のように迷亭らが碁をやる傍で、寒月のバイオリン話を聞いて、故子規に聞かせるように句を詠んで、そうして皆の健康を願っているのだとしたらいいな…

【おぼえがき】
「根岸庵を訪う記」寺田寅彦 (生前未発表)

(承前)
「西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないから…」

寺田さん、根岸庵でバイオリン弾いて聴かせて差し上げたら…と思うけれども、謙虚な寺田さんゆえそんな事もないままだったのかな…

ところで、有隣堂さんの情報誌「有鄰」過去記事のweb版に、「『吾輩は猫である』と漱石の俳句」というのを見つけました。#漱石 #子規
 かい巻に長き夜守るやヷイオリン
  秋淋しつゞらにかくすヷイオリン
この句について… https://t.co/fjCrc6HWLT

(承前)
ここに復本一郎先生が書かれているように、やはり十一章の皆が勢揃いして、寒月さんのバイオリン逸話に茶々を入れたりしているこの場面は、故子規の思い出を意識して書かれているのでしょうね。

(承前)
迷亭が「(故子規子とは)始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」とわざわざ子規との霊の交感を持ち出すのも、この集まりには子規も一緒(だった)という意味を感じますし、畳の上の日が消えて寅彦が帰って行った事を考えれば、秋の日が暮れなければそれだけ話していられる意味に。

【庚申山】つづき
寒月の遅々としたバイオリン話に業を煮やして洋書を読む苦沙弥…突然「こりゃ何と読むのだい…Quid aliud est mulier nisi amiticiae」と迷亭に聞く。(意味は、女は友情の敵)
無関係のようだが《庚申講》が男性だけの講と考えれば…

(承前)
べつに苦沙弥らが平安貴族を気取って、という訳ではありませんが、人間の寿命を縮めるという「三尸の虫」を封じ込める為の夜の集まりが「庚申講」だというので、もしかして漱石先生が寒月=寅彦や友人、弟子らの長寿願いも込めて《庚申》の夜会を十一章で設けたのかな、などと想像…

(承前)
苦沙弥の突飛なラテン語は、あとの文明論中の「女の悪口」につながっていくのですが、ここではまだ寒月の結婚のことも知らないはずなのに。
こうした男仲間だけの《講》(無礼講の講もそういう集まりの意味でしょう?)それをとても漱石が楽しんでいた事の暗示として感じられます。

【水晶の御殿】
「二十分ほど茫然として居るうちに何だか水晶で造つた御殿のなかに、たつた一人住んでる様な気になつた…心も魂も悉く寒天か何かで製造された如く不思議に透き徹つて仕舞つて、自分が水晶の御殿の中に居るのだか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのだかわからなくなつて来た」

(承前)
寒月さんがバイオリンを弾くため登った、八畳ほどの一枚岩の上での《神秘体験》。水晶の御殿の中で自他の区別がなくなる感覚…
この《水晶御殿》の体験には、英詩人コールリッジのゴシック詩「クブラ・カーン」の影響がみられると思います。コールリッジは漱石が多々言及した詩人。

(承前)
寒月さんの《水晶の御殿》と⇒クブラ・カーンの《氷の洞をもつ歓楽宮 A sunny pleasure-dome with caves of ice》
その場所は《百坪ほどの大平》⇒《5マイル平方の沃地 twice five miles of fertile ground》

(承前)
周りには《樟脳をとる楠》と、《香料の実をつける樹 incense-bearing tree》
そして《鵜の沼という池》と、《うね曲る細流 sinuous rills》
…いかがでしょう? 考慮してもよい共通項と思われませんか?

(承前)
寒月さんはこの岩の上へバイオリン(提琴)を弾くために登りましたが、クブラ・カーンの詩の最終連では氷の洞で、かつて見た、ダルシマーを弾く乙女の幻影を思い起こすのです。#漱石
 A damsel with a dulcimer
 In a vision once I saw

(承前)
In a vision once I saw=かつて見た、という点が要…
もし寒月の《水晶の御殿》がクブラ・カーンを想起するものならば、漱石が暗示しているのも「かつて見た乙女の幻影」のはず。そこで思い出すのが三章の「天女が羽衣を着て琵琶を弾いている」寒月からの絵葉書です

(承前)
「昔しある所に一人の天文学者がありました。ある夜いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁む寒さも忘れて聞き惚れてしまいました」
三章のここへ繋がるのですね。

…朝見るとその天文学者の死骸に霜が真白に降っていました」
絵葉書では、天女の琴の音に聞き入ると死んでしまいます。
「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、茫やり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです…」
…だからギャーと脅かれるのですね。

【琴と乙女の幻影】
寒月さんの庚申山でのバイオリン話…先週はコールリッジの詩「クブラ・カーン」との共通項を考えましたが、クブラ・カーンを抜きにしても、寒月がこの山で乙女の幻影を見るだろう、という想像は、続く迷亭の《サンドラ・ベロニと竪琴》の発言からも裏付けられますね。

「サンドラ・ベロニが月下に竪琴を弾いて、以太利亜風の歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山へヴァイオリンをかかえて上るところと同曲にして異巧なるものだね。惜しい事に向うは月中の嫦娥を驚ろかし、君は古沼の怪狸におどろかされたので、際どいところで滑稽と崇高の大差を来たした」

(承前)
サンドラ・ベロニは森の中で竪琴(ハープ)を弾くのですが、寒月さんのように、山に登ってそこでバイオリンに似た琴を奏で、すると《乙女の幻影》が現れる、そういう話を漱石はメレディスのサンドラ・ベロニよりも先に、熊本時代に読んだ『エイルウィン』からも記憶しているはずです。

(承前)
エイルウィンは、結婚を誓った幼馴染みの少女ウィニフレッドと生き別れになってしまうのですが、ウィニーをよく知るジプシーの女と共にスノードンの山に登り、そこでバイオリンに似た〈crwth〉という楽器を弾いてもらい、生き別れになったウィニーの幻影を見るのです。

(承前)
同書より、戸川秋骨先生が「小琴(おごと)」と訳した〈crwth〉を説明している部分と、スノードンの山でウィニーの幻影(生霊と書かれています)を呼び出す部分。とてもファンタジックでスピリチュアルな物語なので、漱石先生の幻想性を知るにはとても興味深い物語だと思います。

【乙女の幻影】
『エイルヰン』で音楽が生霊〈the spirits〉を呼び出す科学的原理について《磁力的波浪 the magnetic waves》を活発化させるから、などとあります(昨日の写真左)。この辺りも迷亭の言う《無線の電信》《霊の交換》を考えるとき、面白いですね

(承前)
「音楽の節奏的顫動は、磁力的波浪を活動せしむるものなるが、この波浪の活動に依りてのみ、心霊、物質、両界の交通は保持せらるゝなり」
中でも、線弦楽器によって起る「顫動が、他の楽器のそれよりも微妙」で、バイオリン類の楽器が「最も微妙なるものなり」とあります(#戸川秋骨 訳)

(承前)
原文の一部を引用すると
the rhythmic vibrations of music set in active motion the magnetic waves… spiritual and material, can hold communication.

(承前)
漱石の執筆は7月27日。この7月寺田寅彦は熊本五高を卒業、一旦故郷高知へ戻り、8月26日東京へ旅出ちます
寅彦は小説『エイルヰン』を読んだでしょうか。もしか「エイルヰンの批評」はホトトギスで読んだ? バイオリンの磁力的波浪で心霊を呼び出す事、寅彦がどう思うか知りたいです

今日は #幽霊の日 だというので、もう少しだけ「クブラ・カーン」と寒月のバイオリン話を続けましょう
寒月さんが庚申山に登り「生きているか死んでいるか方角のつかない」状態
そのままでいたら「乙女の幻影」に囚われて死んでしまっただろうという暗示は、クブラ・カーンにも共通します。

(承前)
In a vision once I saw=かつて見た、という点が要…
もし寒月の《水晶の御殿》がクブラ・カーンを想起するものならば、漱石が暗示しているのも「かつて見た乙女の幻影」のはず。そこで思い出すのが三章の「天女が羽衣を着て琵琶を弾いている」寒月からの絵葉書です

(承前)
「かつて見た乙女の幻影」を想起した詩人は、
Could I revive within me
Her symphony and song
その音楽を再び蘇らせることを願いますが…

(承前)
And all who heard should see them there,
And all should cry, Beware! Beware!
その音楽を耳にした者は皆、気をつけろ!気をつけろ!と叫ぶ…

囚われたら何が待ち受けているかを警告します。

(承前)
漱石は「クブラ・カーン」の Beware! の警告の意味も、この詩がコールリッジが阿片夢で見たもので、途中で起きてしまった為この詩は未完である、という逸話も知っていたはずです。
寒月さんが「ギャー」という何かに脅かされて山を下りた理由も、ここにあるのだと思います。

「それから」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンは弾かないのかい」
「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」
「何だか君の話は物足りないような気がする」#漱石

さんざん話を引っ張って、ここでお仕舞😅 クブラ・カーン同様未完なんです

【おぼえがき】
📖青空文庫 寺田寅彦 「団栗 どんぐり」

(承前)
団栗のスタビリチー(安定性)…寒月さんの結婚で、団栗の安定性は達せられたわけです。そして文章上には表れてはいませんが、寅彦の亡き妻夏子さんへの思いは、水晶の御殿にいるはずの琴を奏でる天女の幻として暗示し、庚申講の集まりで寒月の幸いを漱石が願っていると私は読みます。