かなり前に読んで、コメントしようと思いつつ、放置してあった本。
二重の意味で感心させられた。
ひとつは、その主張。「言いにくいこと」をよくぞ言った。
そして、もうひとつは、「書き方」。独特のバランス感覚で、全体の目配りをしつつ、自説をきっちり展開するという離れ業を成し遂げている。前半の「目配り型」の文章と、後半自説を展開する時の粘着力あふれる文章のコントラストときたら!
言いにくいことというのは、「少子化問題」と「男女共同参画社会」はかならずしもセットではない、ということ。
つまり、「男女共同参画社会」を推進しても、「少子化問題」は解決しないのだそうだ。それを「少子化対策のために男女共同参画社会を推進」派研究者たちが使っているデータを読み直して、示してしまう。
実はこれは、とても直観的にも納得できる。
単に、「少子化問題」を解決したいなら、男女「非」共同参画社会の方が、ずっと効きそうだ。「女は家庭で家事と子育て」というのが社会的に認められた唯一無二の価値であるような社会に誘導した方が、ずっと効果的だろう。
「少子化問題」を解決するために「男女共同参画社会」を推進せよという論調には、昔からちょっと違和感を感じていたから、この本を読んでやっとその違和感の正体を自覚できた気がする。
その上で、ぼくは「男女共同参画社会」に強い魅力を感じていて、それは決して少子化対策なのではなく、単にそういう社会に住みたいからだ。とすると、やはり保育園は充実してほしいし、学童保育もがんばってほしい。とういうことを、再確認。
世の研究者たちは、そのあたり、ちょっと恣意的なデータの読み方などで、ちょちょいとごまかして「大きな正しい目的のためには、ちょっとくらい恣意的にデータを使ってもいいでしょ」みたいなことをやっているらしい。
もちろん、男女共同参画社会を推進するコンセンサスのもとでなら、たとえば、保育園や学童保育の充実は、その限定条件の中での少子化対策たりえるかもしれないのだが、それ以前の問題として、「共同参画」のためには、これらは必要なわけで、そこに「少子化のため!」と叫ぶのはどうか。目的のすり替えが起こっている。
そのあたりリサーチリテラシーについての本でもあるので、興味のある人は本書の前半を熟読のこと。
で、本書の真骨頂は、そのような「言いにくいこと」を言った上での著者の立場をどう説明し、展開していくという部分。その書き方が素晴らしいのだ。
なにしろ、上段の「言いにくいこと」を言ってしまうと、自動的に「おまえは男女共同参画を否定するのか」というようなことにもなりかねない。そのような雰囲気が研究者共同体にはあるらしい。
そこで、そうではないのだ、と言うためにいかに筆を捌くかというのは一大問題であって、著者はその困難に立ち向かい、ぼくには成功しているように思える。
著者は男女共同参画社会を否定すべきとは考えていないし、それどころか、「望まない性別や性役割を拒否したからといって、いかなる不利益も被るべきではない」し、「自ら望む性別や性役割を生きる自由も尊重されなければならない」と主張しており、つまり、世に言う男女共同参画社会のさらに延長にあるようなことすら視野に入っているわけだ。
たしかに、少子化問題のために、男女共同参画社会が実現されるべきだとすると、「子どもを持ちたくない」人たちがアウトサイダーになってしまう。産みたくない人が、「産め」と言われているような気分にさせられる。それって、どこか変だ。
というわけで、内容と、書き方の、二つの面で、大いに感心させられ、参考になった本だった。